rose of silver

春野いちご

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プロローグ

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 香りに誘われて庭に出ると、見事な薔薇が咲き誇っていた。
 月明かりで見ると、一層美しさが際立って見える。
 白い薔薇はキラキラと輝いて、まるで銀食器のように不思議な色をしている。
 銀色に輝く薔薇。
 その香りも手伝って、僕の記憶が呼び起こされる。



* * *

「んっしょ」
 僕は見つけた小枝を拾って、反対側の手で抱えた小枝の上に乗せた。
 そう思って、僕は父の元へと戻ることにした。
 いっぱい集めたな――と、褒められることを想像すると、自然と顔が緩む。
 森で野宿なんて怖いけれど、父が一緒だと安心だ。
 父は交易商人で色んな土地を旅しているから、野宿だって星の数ほどこなしている。
 これから少しづつ父と同行する機会を増やして、僕も父のような商人になれたらと思う。
 まだまだ子供で、それが叶うのはずっと先かもしれないけれど……
 両手いっぱいに抱えた薪にする小枝を落とさないようにしながらも、僕は父の元へと急いだ。
 途中、何かが駆けてくる音が聞こえた。
 蹄の音からして、馬だろうか。
 灌木の陰から身を乗り出して、顔を覗かせると、すぐ側まできていた馬に驚いた。

「わ――――っ!!」

 思わず大きな声を上げてしまう。
 バラバラと集めた小枝が散らばって派手な音を立てる。
 でも、それ以上に大きく馬の嘶く声と地面に何かが叩きつけられるような音が響いた。
 咄嗟に閉じた瞼を恐る恐る開く。
 暴れる馬の下に薔薇の花が散らばっている。
 そして、僕より年下だろうか。
 男の子が血を流して倒れていた。

「あ……あぁ……お父さんっ! お父さんっ!」

 怖くて、どうしていいかわからなくて父を呼んだ。
 泣きながら父を呼び、僕は倒れた男の子の傍に膝をつく。
 降れるとびくっと身体が震えた。
 生きている。
 安堵するも、見たこともない出血に恐怖感が募る。
 甘い薔薇の香りが血の匂いと混ざって、鼻を刺激した。
 これが現実なんだと嫌でも認めさせられる。
 僕のせいだ。
 馬を驚かせたのは僕なんだ。

「お父さんっ、助けてっ」

 必死に父を呼ぶと、安心できる声が聞こえてきた。

「アレクッ! アレクッ!」

 長い、とても長い時間に思えた。
 実際にはもっと短かったのかもしれないけど……
「父さんっ、ここだよっ!」
 大声で居場所を知らせると、父が姿を見せた。
「アレクッ、どうした?」
 父が僕の元までやってきて、膝を折る。
「どうしようっ。父さん、どうしようっ」
「アレク、落ち着きなさい。何があった?」
 問われて、僕は口をパクパクさせた。
 ショックで上手く説明できないんだ。
 後から後から溢れてくる涙も邪魔してる。
「アレク、大丈夫だ。この子は死んではいないから」
 大きな手が僕の頭を撫でてくれた。
 父の温もりに触れて、少しだけ恐怖感が薄れる。
「あぁ……僕、馬を驚かせてしまって……」
 それだけの説明で父は全部をわかってくれたようで、自分の外套を破って男の子の腕や足を縛っていった。
 僕は何をしていいのかもわからず、ただ父のすることを眺めているしかなかった。
「アレク、この子を治療のできる場所まで連れて行く。支度をしなさい」
 言われて、僕はピンとこずオロオロしてしまう。
 そんな僕に父は怒らず、優しく指示してくれた。
 なかなか動いてくれない身体をなんとか前に進ませて、僕は荷馬車を運んできた。
 父が男の子を荷台にそっと乗せる。
 僕はその子の隣に付き添った。
 服の裾を破いて、男の子の汚れてしまった顔を拭いてあげる。
 荷馬車が動くと、振動が伝わるのか、男の子の顔が歪んだ。
「大丈夫?」
 声を掛けるけど、その瞳は開かれない。
 恐怖のあまり、ろくろく顔も見ていなかったことに気づく。
 元々白い肌は今は蒼白で血色を失っている。
 唇の色も青ざめて、まるで死人のようだ。
 けれど、銀色に輝く髪はとても綺麗だった。
 やけに大人びた顔つきをしていると思うのは、整った目鼻立ちをしているからだろうか。
「ねえ、大丈夫?」
 もう一度声を掛けてみるけど、やっぱりその瞳は開かれなかった。
 どんどん色を失っていく顔を見ていると、胸騒ぎがする。
「ねえ、眼を開けてよー」
 手を掛けようとして、父の声に止められた。
「揺すってはいけないよ。なるべく静かに走らせるから、アレクはその子の手を握ってあげなさい」
 言われて、母が熱を出した時に手を握ってくれたことを思い出す。
 陶器のように滑らかな手をそっと握った。
 冷たい感触に手を引っ込めそうになったけれど、ぎゅっと握り直す。
 段々と熱が伝わっていくと、冷たい手はほんの少し温かく血が通ってきた。
「ねえ、眼を開けてよ」
 けれど、その願いは聞き届けられなかった。それでも、僕は何度も何度も名前も知らない男の子に呼びかけ続けた。
 途中、父は灯りを見つけて方向を変えた。
 見えてきたのは教会だった。
 それは、地元の村にあるのよりはずっと立派で大きな教会だった。
「アレク、街は遠い。そこの教会に話をつけてみよう」
 父がそう言って、教会の前に荷馬車を止めた。
 待っていなさいという言葉通り、男の子と一緒に待っていると、すぐに中から司祭が出てきた。
 ヒョロッと背の高い気弱そうな司祭と一緒に利発そうな男の子がついてきた。
 父が銀の髪の男の子を抱きかかえて、司祭と一緒に中へと入っていこうとした。
 慌てて僕も追いかける。
「待て、荷馬車が邪魔だ。片付けろ」
 腕を掴まれて、僕は立ち止まる。
 振り向くと、司祭と一緒にきた男の子が僕を見下ろしていた。
 ずっとお兄ちゃんなのかもしれない。
 銀縁の眼鏡をかけているせいで、うんと大人びて見える。
「…………」
 チラと父の方を見ると、もう姿が見えなかった。
「返事もできないのか?」
 怒られてるみたいで萎縮する。
「……片付けって……」
 やっと声が出せた。
 でも、そんな僕に眼鏡の男の子は背を向けた。
 戸惑っていると、声が掛かった。
「ついて来い」
 言われて、僕は馬の手綱を引いて、少年の後を着いて行った。
 裏門から入ると、広い庭が広がっていた。
 庭と言っても、何もないような場所だ。
 壁に沿ってポツンポツンと大木が植えられている。
 実でもなるんだろうかと見上げていると、また怒られた。
 教会の人は皆、親切で優しいのだというのは間違った見解だったのだろうか。
 そう思うほど、眼鏡の彼は厳しかった。
 馬を休ませて、荷車を庭の隅に置かせてもらってホッと一息吐いてから、僕は眼鏡の彼に躊躇いながらも自己紹介した。
「僕はアレク。お兄ちゃんは?」
 明らかに年上だろうから、そう訊いたら、冷たい眼を向けられた。
「……名前は神聖なものだ。軽々しくは口にできない」
 そういうものなんだろうか。
 僕が育った村にも近くの大きな町でも、そんな話を聞いたことはない。尤も、こんなに王都に近い場所に来たのは初めてで、都会ではそういう仕来りがあるのかもしれない。
「じゃあ……お兄ちゃん、あの子のところへ連れてって」
 そう言ったら、何故か彼は口角を上げて笑った。
 なんだか馬鹿にされているように思うのは、気のせいだろうか。
「お兄ちゃん……か」
 虐められてるような気がして、ツンと鼻の奥が痛くなってくる。
「いいよ。お兄ちゃんが案内してやろう」
 そう言って、彼は僕の手を握ってきた。
 何かされるんじゃないかと身構えたけど、彼は思いのほか優しく僕の手を引いた。
 安心して、僕は眼鏡の彼についていく。
 暗い渡り廊下を歩いて教会の中へと入ると、ひんやりと冷たい感じがした。
 石壁には均等に灯りが点されている。
 けれど、どうしてだか冷たい感じが纏いつく。
 誰もいない長い廊下を歩いていると、嫌でも不安が生じてくる。
「ねえ、お兄ちゃん、どこまで行くの?」
「怖いのか?」
 問われて、僕はこくんと頷いた。
 陰鬱とした雰囲気の石畳を延々と歩かされては、怖くもなる。
「安心しろ。すぐそこの部屋だ」
 指差す方に、古びた木戸が見えた。
 彼は僕を連れて、その部屋へと足を踏み入れた。
 部屋の中はとても暖かった。
 パチパチと弾ける音に目をやると、暖炉で薪が燃えていた。
 暖かいはずだ。
「アレク、こっちに来なさい」
 呼ばれて、僕は父の元に歩を進めた。
 ベッドの上には、怪我した男の子が寝ていた。
 苦しそうに眉間に皺を寄せているのが、見ていて辛い。
「私は街へ行ってくる。お前はここで、この子を看ていてあげなさい。いいね」
「はい……父さん」
 心細かったけど、元はと言えば僕が蒔いた種だ。自分にできることがそれしかないなら、この子の傍についていよう。
 父が去った後、僕は眼鏡のお兄ちゃんの目を気にしながら、ベッド脇の椅子に腰かけた。
「お前の知り合いか?」
 後ろから声を掛けられて、僕は「違うよ」と答えた。
「じゃあ、どうして貴族なんかと関わり合っている?」
 問われてハッとした。
「貴族って」
「着ている服を見ればわかるだろう。ほら、襟のところに紋章がある。そうでなくとも、この地を所有しているローランド卿の子息であることは司祭の付き添いで屋敷に出向いたことがあるから、知っている」
 説明されて、僕は苦しそうに呻く男の子の顔を見る。
 どこか品の良さを感じた。
 服も僕が着るような麻布ではなく、絹のようだ。
 そんな身分の高い人を怪我させてしまった。
「顔色が悪いな。まさか、ご領主の子息に怪我を負わせたのは、お前じゃないだろうな」
「ごめんなさい」
 咄嗟に口をついて出たのは謝罪の言葉。
 けど、そんな僕を眼鏡のお兄ちゃんは笑った。
「素直だな。だが、俺に謝ったところでどうにもならない。貴族に怪我を負わせたなら、極刑は免れない。精々、そいつが死なないように祈ってるんだな」
 怖いことを言われて、ブルブル震える。
 スンと鼻を啜るも、止まったと思った涙がまた溢れてきた。
「脅かしすぎたか。いいことを教えてやろうか」
 眼鏡のお兄ちゃんは僕の肩に手をかけて、そっと耳元に囁く。
「黙っていればいい。都合の悪いことは話さず、怪我をした彼を助けたことにすればいいんだ。もし、助かれば相応に礼も頂ける。いい話だとは思わないか」
 神に仕える者が口にする言葉とは思えなかった。
 ひょっとして悪魔?
 恐る恐る視線を移す。
 彼はちょっと意地悪そうに笑っていた。
「うっ、嘘を吐くのは悪いことだもん」
「嘘じゃない。ただ、黙っていればいい」
 そんな悪魔の囁きに、僕は首を振った。
「随分と善い子ちゃんなんだな。まあ、子供にはわからないか」
 お兄ちゃんだって、まだ大人じゃない。
 そう思ったけど、怖くて何も言えなかった。
 眼鏡のお兄ちゃんは僕のことを揶揄うように笑って、部屋を後にした。

「……嘘なんか吐かないもん」

 そっと僕は銀の髪の男の子の手を握った。

「ごめんね。……僕、ちゃんと謝るから……」

 固く閉ざされた瞼が開くのを願いながら、僕はぎゅっと手を握った。


  * * *

 
 彼の瞳は何色だったのだろう?
 結局、その瞳を見ることは叶わなかった。
 漸く、その色を確かめることができる。
 高鳴る胸を押さえながら、僕は深呼吸した。
 息を吸い込むと甘い香りが身体の中へと入ってくる。
 更に深い部分まで記憶を呼び覚まされて、ぶるりと震える。
 夜気が冷たく感じたこともあって、僕は部屋へと戻ることにした。
 と、何かが動くのを眼が捕らえた。
 一体、何だろう?
 身構えていると、いきなり目の前に白いものが現れた。
「わわっ!」
 白いものの正体は、どうやら翻ったマントだったらしい。
 月明かりの下、白いマントを羽織った男が、僕の前に立っていた。
 まるで薔薇の化身のように錯覚する。
 いや、そんなはずはない。
「どっ、泥棒っ!」
 そうだ、こんな時間に人の屋敷に侵入してくる奴は泥棒に決まっている。
 だって、男はその顔を隠すかのように、蝶のような形の仮面をつけていたから。
 男は口許を緩ませて、僕のすぐ側にひらりと近づいてくる。
 正面から唇を指で押さえられて、びっくりする。
「静かに」
 仮面で隠れていて、その輪郭はわからないけれど、見たこともないような紫の瞳に魅せられる。
 綺麗な色だ。
 ジッと見つめられると、落ち着かない気持ちにさせられる。
「君は……薔薇の妖精かな?」
 問われて、我に返る。
 弾けるように後ろに下がって、もう一度「泥棒っ!」と言ってやる。
 でも、彼は口許の笑みを崩さなかった。
 優雅にお辞儀をすると、僕の手を取って貴婦人にするみたいな挨拶をした。
 温かな感触を手の甲に感じて、カアッと身体が熱くなる。
「やっ、何するんですかっ。僕は男です」
 そう主張したのに、彼は笑っていた。
 上流階級では男も情人にされるって聞いたことはあるけど、この人もそういう趣向の持ち主なんだろうか。
 マントからチラリと覗く長めの丈の上着は見事な銀糸の刺繍がしてある。そんなの庶民の着る服じゃない。
 だからって、正面から入ってこない客なんてろくなもんじゃない。
「あなたは誰なんですか?」
「君は知っているでしょう」
「ええっ?」
 どこかで会っただろうかとマジマジと男の顔を見る。
 すっと通った鼻梁も、優し気な口許も、引き締まった顎も、この男がどれだけの美男子かは計り知れる。
 仮面のせいではっきりとはわからないけれど、端麗な顔立ちだということはわかった。
 だから、会っていれば忘れるわけないんだ。
「君が私に言ったでしょう」
「僕が……」
 首を傾げると、彼はクスクスと笑った。
「泥棒ですよ」
「ええっ!」
 堂々と自分は泥棒だと名乗るなんてと驚いていると、彼はいきなり僕の腰を抱き寄せた。
 至近距離まで顔を近づけられて、狼狽する。
「君のハートを盗みにきました」
「はあぁ?」
 訳がわからないことを言われて、ぽかんと口を開ける。
「どうやら君は純粋な人のようですね」
 またくすっと笑って、男は僕の無防備な唇に自身の唇を重ねてきた。
「んっ……んんんんっ」
 こうまでされたら、僕だって彼の意図することがわかる。
 必死で抵抗すると、唇が離れた。
「ぼっ、僕は男ですっ」
「君がとても愛らしいことに変わりはないでしょう」
 カーッと顔が熱くなる。
 男から口説かれるなんて前代未聞な状況に、恋愛に疎い僕はどう対処していいか焦る。
「僕は男で……あなたも男で……大体、いきなりこんなことをするなんて」
「言ったでしょう。私は君のハートを盗みに来た……と」
 僕のハート。
 思わず胸の辺りを押さえた。
 そんなに簡単に奪われたりしない。
 だって……僕は……
「駄目です」
 強く言ったら、男は肩を竦めた。
「つれないですね」
 と、ちっとも残念でない物言いをする。
 揶揄われているんだろうか。
 だとしてもキスするなんて、やりすぎだ。
「だっ、誰かっ」
 叫ぼうとしたら、また指で唇を押さえられる。
「愛しい君。どうか、その唇で他の男の名を呼ばないで」
 まるで恋人に囁くような甘い声に騙されそうになる。
 けど、僕はその手を振り払った。
「何言ってるんですか。僕はあなたの名前も知らないのに」
「私は……銀の薔薇」
 開いた口がふさがらない。
 冗談にも程がある。
「私の花を咲かせるのも、枯らせるのも、君次第ですよ」
 駄目だ。
 僕の常識はどうやら彼には通用しないようだ。
 女じゃないって言ってるのに、口説かれても困る。
「会ったばかりの僕に、そんなこと」
「一目惚れです。薔薇の花のような愛らしい君にね」
 とてもじゃないけど、僕が薔薇の花のようだとは思えない。
 やや童顔ではあるものの、茶色の癖っ毛はどう梳かしても直らないひどいもので、愛らしいなんて言葉には当てはまらない。
 それに、一目惚れなんてあるんだろうか。
 僕にはよくわからない。
 そういうことがあるのだとしたら、僕は――
「僕には大事な人がいます」
「なら、二番目でも構いませんよ」
 さらりと返されて、益々、訳がわからなくなる。
「今は二番目でも、すぐに君を虜にしてあげます」
 いつの間にか取られた手に、またキスされた。
 慌てて手を引っ込めると、クスクスと笑われた。
「どうやら君は手強そうですね。今宵は諦めることにします」
 銀の薔薇と名乗った男は、現れた時と同じように白いマントを翻し薔薇を散らす。
 銀色に輝く花弁がふわりと空に舞う。
 花弁が舞う幻想的な光景に眼を奪われていると、まるで夢のように銀の薔薇は消えてしまった。
 びっくりしてキョロキョロと見回すも、銀の薔薇はいなかった。
 逃げられた?
 ひょっとして、最初から僕のことを狼狽えさせて逃げるつもりだったんだろうか。
 きっとそうだ。
 だって、僕が薔薇みたいに可愛いとか、僕に一目惚れだとか、あり得ないことばかり口にしていた。
 それも、とても軽い口調でだ。
 今度、もし会うことがあったら捕まえてやる。
 でも……あの紫の瞳はとても綺麗だった。
 月明かりで見たせいか、神秘的で魅せられそうになった。
 僕が初心な女の子なら、フラフラと流されてしまったかもしれない。
 まあ、そんなことはあり得ないのだけど……
 だって、僕には……僕には大切な人がいる。
 ずっと想い続けてきたんだ。
 僕の全てはあの人のものだ。
 他の誰にも渡したりなんかしない。
 それが唯一、僕にできることなのだから……
 
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