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第4話:保険医・高井昴
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部屋に帰ると酷くのどが渇いている事に気がついた。
腹も減っている。昨日から一日飲み食いしていないから当たり前なのだが、それすら気がつかないほど今日一日はめまぐるしかった。
何か漁ろうと冷蔵庫を開けた。
中身に驚いた。
400L級の冷蔵庫の一番下の野菜室にはワインだけが入っていた。
ワインは飲むが銘柄など全く気にしたことがない俺ですら分かるほど、高そうなボトル。
冷蔵庫の真ん中のドアを開けると、棚が3つ付いていて、上段には高そうなチーズやキャビア、中段にはホールケーキ、下段にはローストビーフとシャケのマリネが入っている。
しばらく呆然と眺めていたが、突然得体の知れない恐怖に襲われ、頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。
おかしいだろう。入っているものがおかしい。
高校生の冷蔵庫の中身としてあまりにリアリティが無い。
手をつけた気配のあるものが無く、全てが封を切っていないのもおかしい。
今更だがこの部屋の豪華さだっておかしい。
高校生で、たかが風紀委員長であるだけで、こんな部屋があてがわれることがおかしい。
頭がずきずき痛む。
おかしい、この世界は現実味に欠けすぎている。
しばらく頭を抱えしゃがみ込んでいたが、ふっと脱力して足を投げ出して壁に頭を預けた。
俺は死んだのでは無いだろうか、という考えが頭に浮かんだためだ。
開け放したままの扉から冷蔵庫の中身を再度見た。
その生活感の無い中身を見て、うなずいた。
他人になったというより、はるかに納得がいった。
そう、俺はきっと死んだのだ。
急性アルコール中毒で。
だから、こんな場所にいるのだ。
しかし、それにしては…とふとまた別の考えが浮かぶ。
死後の世界と聞いてまず最初に浮かぶのは、とにかく延々とどこかに向かって歩かされるイメージだ。
……夏になると延々とやってるテレビの怪談をビールを飲みながら見るのが趣味の一つなのだが、その中の『臨死体験特集』なんかでよく見るパターンとして、死んですぐの人間は大抵ひたすら歩かされ続ける。長い通路やら花畑やらをひたすら歩き続け、川を渡ったりする。
こんな風にその場にとどまり続けるような『あの世』の話はあまり聞いた事が無い。
天国やら地獄やら、目的地に辿り着いた後ならならともかく、死んだ直後に同じ場所に留まり続けるというパターンはあまり見ない。
そういう「同じ場所にとどまり続けるタイプのあの世」というのは、大抵…「まだ死んでいない人間」が居る世界であることが多いようだ。
……もしかすると、ここがそうで、そして俺もまだ死んでいないのかもしれない。
馬鹿な考えだ、そうも思うが「異世界に来ました」「別人になりました」よりまだ納得がいく。
死ねば誰しも異界に行くのだから。
顔を挙げ、冷蔵庫の食物を見る。
「……『食べてはならない』のでは?」
一人ごちた。
「……もしかして、食べてはならないんじゃないか……。
あれだ、……昔話では、よくあるあれだ。
誰も居ない館、沢山のご馳走……」
食べてしまったらもうこの世には帰れない。
ぞわ、と全身が総毛立つ。
立ち上がって冷蔵庫の扉を渾身の力で閉めて外へ飛び出した。
跳ね返って扉がもう一度開いた音が後ろで聞こえたが、構うもんか。
一人で部屋に居たらおかしくなりそうだと感じ、校舎を目指して夜の林道を競歩のような早足で歩いた。
入り口で警備員に咎められたが風紀委員長であり見回りの仕事があると告げるとあっさり中に通された。
もう夕闇の残照も消えた校舎には人影が無かった。
常夜灯が廊下を照らしているが、どの教室も真っ暗だ。
部屋に明りが点っているのは校庭の脇の部活棟くらいのものだった。
誰も居ない学校は不気味だが、体を動かしていなければ気分がおかしくなりそうだった。
あえて抑えていた今日一日の混乱と不安と恐怖が消化不良の腹の中で暴れているようだ。
夜の山などうろついたら遭難してしまうのだから学校中をうろつくしか無い。
早足でただ不安を振り払うためだけに歩き続けた。
図書館、家庭科室、木工室、生徒指導室、生物室、科学室、体育館、音楽室。
普通は夜見れば不気味だろう生物室の人体標本や音楽室の肖像を見ても、何も感じない。
ただ、とどまって考えるのが嫌で、夜の中をあてども無く徘徊した。
しかし感じないようにしている不安は、取り合わないようにしてもただ腹の中で大きくなるばかりだ。
不安が大きくなると走り出し、少し気が治まると歩きだす、それを繰り返し、どうしていいかも分からず夜の中をただ歩き続けた。
その内に疲れ果て、まだ入っていなかった保健室の扉が目の前にあったので侵入してそこにある硬いソファにそのままどうと倒れた。
保健室には誰も居ないようだった。
無人の保健室は票を募れば「夜の校内不気味スポット」1、2位に挙がる場所だと思うが、やはり気味の良くない様子だった。
閉め忘れたカーテンから差し込む月の光が仕切りの向こうのベッドを青く浮び上がらせている。
枕の端だけ仕切りから見えるのが、また不気味なのだ。
見えない部分に誰かの頭が乗っていそうだ。
しかしもう、どうでもいい。死人は自分かもしれないじゃないか。
枕の方向に頭を向けたまま目を瞑った。
自分の心音と脈拍の音をしばらく聞き続けていた。
眠りに入りかけた頃、誰かの足音が聞こえた。
驚いてすくみ上がった。
普通の学校ならただ部活に残った生徒か見回りの先生の足音なのだろうが、あの世かも知れないと思っている今、真夜中の徘徊者になど会いたくない。
どうにでもなれなどといったが、本能がけたたましく警鐘を鳴らしている。
足音はだんだん大きくなりそして……
力任せにドアを開ける音が暗闇に響いた。
思わず「ひっ」と声にならない声を上げた。
幽霊話を酒の肴にする趣味がある程度には怪談ばなしに耐性があるが、これはテレビの向こうの人ごとでは無い。自分に実際降りかかるとなれば全く別の話だ。
「あー、なんて幸せなんだ! 夢みたい、夢みたい!
はあぁああああああああぁぁぁぇぁああああああ」
闖入者は突如ドア閉め以上の大きな声でわめき始めた。
外れた調子の闇の中の大声に体の毛が逆立ち、身動きが取れなくなった。
狂った不審者か、悪意ある妖怪か、考える事も出来ずただ気配を消し、息を潜めて闇の向こうを伺う。
しばらくたってターンをふむような足音と共に、またわめき声が続いた。
「ああ、こんな王道学園に迷いこむなんて!
どこにいんだよっていう美形だらけの生徒会!
生徒会と対立する風紀委員会!
ホスト風教師に美形の不良!
学び舎になぜか存在する抱きたい抱かれたいランキング!
三ツ星レベルの料理が提供される食堂!
その辺の会社の課長よりあるんじゃないかってレベルの委員会の権限!
そこで見られる美形たちと親衛隊!
ああ、こんな異世界に来られたなんて! もう死んでもいい!」
闖入者はわめき立てた後、ダンダンとその場で足音を響かせ始めた。
しばらく経って、はっと息を呑む。
――やつは今何と言った?
意味不明の呪文の最後に聞き捨てならない事を言った!
『もう死んでもいい』? いや、それよりもっと前。
『こんな異世界に来られたなんて』
異世界? 確かに異世界と言った!
誰かが、別の世界に来たのだと認識している誰かが、ソファの背もたれの向こうにいるのだ!
すぐさま身を乗り出し暗闇に声を掛けた。
「異世界とは、何の事だ?」
「うわっ、うわああ! 誰?」
ガチャガチャと音がした後に、ぱっと明かりがついた。
白衣を着た男が電気のスイッチをつけた姿勢のまま口を開けてこちらを見ている。
「恐川君!?」
騒ぎの主はどうやら保険医らしかった。(白衣を着ていて、20歳以上なのでそう思った)
明らかな相手の動揺には取り合わず単刀直入に踏み込む。
「今異世界って言いましたけど、何の事ですか」
「今の…うん、聞こえたよね…。聞いてたんだよね…」
目線を落としてこちらを伺うような調子で保険医が答える。
「とても大きい声だったので聞こえました」
「だ、黙っててくれるかな、本当の僕の性格の事…」
本当の性格?元の性格を知らないから何とも言えないのだが。
「黙るって、何を?」
「…意地が悪いなあ、僕が本当は腐男子ってことだよ!」
「…なんですか、フダンシって」
「え、…ああ、そうか黙ってれば良かった…。
いや、同性愛嗜好は無いけど、同性愛フィクションを見るのが好きな男って事…」
「ふうん、ご説明どうも。世の中色んな嗜好がありますよね。それは別にいいのですが」
「なんてSな返し…!やっぱり風紀委員長は鉄壁の『攻め』だ…!」
内容は不明だが突然早口になり専門用語らしい言葉を喚き出した。
それに割り込むように身を乗り出す。
「黙っててもいいのですが、交換条件があります」
「僕の体かな?」
「えっ何でですか」
突拍子が無さ過ぎてトーンを思い切り外した調子で返事してしまった。
「決まってる。風紀委員長といえば、極めつけの攻めなんだ! 交換条件と言って要求するものは男の操を置いて無い!」
話が通じないし言っている事がまるで分からない。しかしこいつを逃すわけには行かない。
「そんなものは要りません。交換条件は先生が仰っていた『異世界に来た』という事がどういうことか説明して頂くことです」
「……」
打って変わり戸惑ったような表情と沈黙の後にゆっくり口を開く。
「話すけど…多分信じないと思うよ。まあ好奇心で聞いてるんだろうけどさ」
そういった後に、自分についての話を始めた。
曰く、彼は昨夜以前は別人の姿をして別人の人生を送っていたこと。
もともとは南千住在中の大学生であったこと。
起きたらこの場所に今の姿でいたこと。
「ま、与太話だと思うでしょ? おかしくなっちゃったって思うでしょ?
そう、僕はおかしいのさ。だから今日の事は全部春の陽気のせいだと思って、
忘れて帰ってくれるかな?」
そう結ぶと保険医は話を畳んで立ち去る動作を見せようとした。
「いや、待ってくれ、俺も」
「俺も昨夜まで別の人間だったんだ」焦るように早口で告げた。
ようやく話が通じる人間が現れた。
安堵に包まれ、我知らず強張っていた体がほぐれるのを感じた。
そのまま自分が本来は商社の営業部に所属していること、同じく今朝起きたらこの場所に来ていたことを告げる。
保険医の目が驚きで見開く。
「そうか! 君もそうなのか!」
「ああ、だから……」
「君もBL小説を読んで眠ったらこの世界に来たのかな!?」
「?」
BL小説?なんだそれは。汽車マニアか?
頭の中に場違いな汽笛が鳴り響く。
「じゃあ一緒にこの素晴らしい世界を探検しようよ!
僕のここでの名前は高井昴!
君の名前はもう知っているよ!
よろしくね!」
考えているとつらつらと話が先に進められている。
「BL小説? 何だそれは…?」
「えっ、だってここはどう見てもBL小説の世界だよ。君はそれを読んでこの世界に紛れ込んじゃった腐男子じゃないの?」
話がまた見えないが、どうやらこいつ、かなり色々な情報を持っているらしい。
「ちょっと待ってくれ、全然意味がわからない。BL小説とはなんだ?この世界が小説の世界だなんてあり得ないと思うが、どうしてそう思ったんだ?何か知っているのなら全部教えてくれ」
腹も減っている。昨日から一日飲み食いしていないから当たり前なのだが、それすら気がつかないほど今日一日はめまぐるしかった。
何か漁ろうと冷蔵庫を開けた。
中身に驚いた。
400L級の冷蔵庫の一番下の野菜室にはワインだけが入っていた。
ワインは飲むが銘柄など全く気にしたことがない俺ですら分かるほど、高そうなボトル。
冷蔵庫の真ん中のドアを開けると、棚が3つ付いていて、上段には高そうなチーズやキャビア、中段にはホールケーキ、下段にはローストビーフとシャケのマリネが入っている。
しばらく呆然と眺めていたが、突然得体の知れない恐怖に襲われ、頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。
おかしいだろう。入っているものがおかしい。
高校生の冷蔵庫の中身としてあまりにリアリティが無い。
手をつけた気配のあるものが無く、全てが封を切っていないのもおかしい。
今更だがこの部屋の豪華さだっておかしい。
高校生で、たかが風紀委員長であるだけで、こんな部屋があてがわれることがおかしい。
頭がずきずき痛む。
おかしい、この世界は現実味に欠けすぎている。
しばらく頭を抱えしゃがみ込んでいたが、ふっと脱力して足を投げ出して壁に頭を預けた。
俺は死んだのでは無いだろうか、という考えが頭に浮かんだためだ。
開け放したままの扉から冷蔵庫の中身を再度見た。
その生活感の無い中身を見て、うなずいた。
他人になったというより、はるかに納得がいった。
そう、俺はきっと死んだのだ。
急性アルコール中毒で。
だから、こんな場所にいるのだ。
しかし、それにしては…とふとまた別の考えが浮かぶ。
死後の世界と聞いてまず最初に浮かぶのは、とにかく延々とどこかに向かって歩かされるイメージだ。
……夏になると延々とやってるテレビの怪談をビールを飲みながら見るのが趣味の一つなのだが、その中の『臨死体験特集』なんかでよく見るパターンとして、死んですぐの人間は大抵ひたすら歩かされ続ける。長い通路やら花畑やらをひたすら歩き続け、川を渡ったりする。
こんな風にその場にとどまり続けるような『あの世』の話はあまり聞いた事が無い。
天国やら地獄やら、目的地に辿り着いた後ならならともかく、死んだ直後に同じ場所に留まり続けるというパターンはあまり見ない。
そういう「同じ場所にとどまり続けるタイプのあの世」というのは、大抵…「まだ死んでいない人間」が居る世界であることが多いようだ。
……もしかすると、ここがそうで、そして俺もまだ死んでいないのかもしれない。
馬鹿な考えだ、そうも思うが「異世界に来ました」「別人になりました」よりまだ納得がいく。
死ねば誰しも異界に行くのだから。
顔を挙げ、冷蔵庫の食物を見る。
「……『食べてはならない』のでは?」
一人ごちた。
「……もしかして、食べてはならないんじゃないか……。
あれだ、……昔話では、よくあるあれだ。
誰も居ない館、沢山のご馳走……」
食べてしまったらもうこの世には帰れない。
ぞわ、と全身が総毛立つ。
立ち上がって冷蔵庫の扉を渾身の力で閉めて外へ飛び出した。
跳ね返って扉がもう一度開いた音が後ろで聞こえたが、構うもんか。
一人で部屋に居たらおかしくなりそうだと感じ、校舎を目指して夜の林道を競歩のような早足で歩いた。
入り口で警備員に咎められたが風紀委員長であり見回りの仕事があると告げるとあっさり中に通された。
もう夕闇の残照も消えた校舎には人影が無かった。
常夜灯が廊下を照らしているが、どの教室も真っ暗だ。
部屋に明りが点っているのは校庭の脇の部活棟くらいのものだった。
誰も居ない学校は不気味だが、体を動かしていなければ気分がおかしくなりそうだった。
あえて抑えていた今日一日の混乱と不安と恐怖が消化不良の腹の中で暴れているようだ。
夜の山などうろついたら遭難してしまうのだから学校中をうろつくしか無い。
早足でただ不安を振り払うためだけに歩き続けた。
図書館、家庭科室、木工室、生徒指導室、生物室、科学室、体育館、音楽室。
普通は夜見れば不気味だろう生物室の人体標本や音楽室の肖像を見ても、何も感じない。
ただ、とどまって考えるのが嫌で、夜の中をあてども無く徘徊した。
しかし感じないようにしている不安は、取り合わないようにしてもただ腹の中で大きくなるばかりだ。
不安が大きくなると走り出し、少し気が治まると歩きだす、それを繰り返し、どうしていいかも分からず夜の中をただ歩き続けた。
その内に疲れ果て、まだ入っていなかった保健室の扉が目の前にあったので侵入してそこにある硬いソファにそのままどうと倒れた。
保健室には誰も居ないようだった。
無人の保健室は票を募れば「夜の校内不気味スポット」1、2位に挙がる場所だと思うが、やはり気味の良くない様子だった。
閉め忘れたカーテンから差し込む月の光が仕切りの向こうのベッドを青く浮び上がらせている。
枕の端だけ仕切りから見えるのが、また不気味なのだ。
見えない部分に誰かの頭が乗っていそうだ。
しかしもう、どうでもいい。死人は自分かもしれないじゃないか。
枕の方向に頭を向けたまま目を瞑った。
自分の心音と脈拍の音をしばらく聞き続けていた。
眠りに入りかけた頃、誰かの足音が聞こえた。
驚いてすくみ上がった。
普通の学校ならただ部活に残った生徒か見回りの先生の足音なのだろうが、あの世かも知れないと思っている今、真夜中の徘徊者になど会いたくない。
どうにでもなれなどといったが、本能がけたたましく警鐘を鳴らしている。
足音はだんだん大きくなりそして……
力任せにドアを開ける音が暗闇に響いた。
思わず「ひっ」と声にならない声を上げた。
幽霊話を酒の肴にする趣味がある程度には怪談ばなしに耐性があるが、これはテレビの向こうの人ごとでは無い。自分に実際降りかかるとなれば全く別の話だ。
「あー、なんて幸せなんだ! 夢みたい、夢みたい!
はあぁああああああああぁぁぁぇぁああああああ」
闖入者は突如ドア閉め以上の大きな声でわめき始めた。
外れた調子の闇の中の大声に体の毛が逆立ち、身動きが取れなくなった。
狂った不審者か、悪意ある妖怪か、考える事も出来ずただ気配を消し、息を潜めて闇の向こうを伺う。
しばらくたってターンをふむような足音と共に、またわめき声が続いた。
「ああ、こんな王道学園に迷いこむなんて!
どこにいんだよっていう美形だらけの生徒会!
生徒会と対立する風紀委員会!
ホスト風教師に美形の不良!
学び舎になぜか存在する抱きたい抱かれたいランキング!
三ツ星レベルの料理が提供される食堂!
その辺の会社の課長よりあるんじゃないかってレベルの委員会の権限!
そこで見られる美形たちと親衛隊!
ああ、こんな異世界に来られたなんて! もう死んでもいい!」
闖入者はわめき立てた後、ダンダンとその場で足音を響かせ始めた。
しばらく経って、はっと息を呑む。
――やつは今何と言った?
意味不明の呪文の最後に聞き捨てならない事を言った!
『もう死んでもいい』? いや、それよりもっと前。
『こんな異世界に来られたなんて』
異世界? 確かに異世界と言った!
誰かが、別の世界に来たのだと認識している誰かが、ソファの背もたれの向こうにいるのだ!
すぐさま身を乗り出し暗闇に声を掛けた。
「異世界とは、何の事だ?」
「うわっ、うわああ! 誰?」
ガチャガチャと音がした後に、ぱっと明かりがついた。
白衣を着た男が電気のスイッチをつけた姿勢のまま口を開けてこちらを見ている。
「恐川君!?」
騒ぎの主はどうやら保険医らしかった。(白衣を着ていて、20歳以上なのでそう思った)
明らかな相手の動揺には取り合わず単刀直入に踏み込む。
「今異世界って言いましたけど、何の事ですか」
「今の…うん、聞こえたよね…。聞いてたんだよね…」
目線を落としてこちらを伺うような調子で保険医が答える。
「とても大きい声だったので聞こえました」
「だ、黙っててくれるかな、本当の僕の性格の事…」
本当の性格?元の性格を知らないから何とも言えないのだが。
「黙るって、何を?」
「…意地が悪いなあ、僕が本当は腐男子ってことだよ!」
「…なんですか、フダンシって」
「え、…ああ、そうか黙ってれば良かった…。
いや、同性愛嗜好は無いけど、同性愛フィクションを見るのが好きな男って事…」
「ふうん、ご説明どうも。世の中色んな嗜好がありますよね。それは別にいいのですが」
「なんてSな返し…!やっぱり風紀委員長は鉄壁の『攻め』だ…!」
内容は不明だが突然早口になり専門用語らしい言葉を喚き出した。
それに割り込むように身を乗り出す。
「黙っててもいいのですが、交換条件があります」
「僕の体かな?」
「えっ何でですか」
突拍子が無さ過ぎてトーンを思い切り外した調子で返事してしまった。
「決まってる。風紀委員長といえば、極めつけの攻めなんだ! 交換条件と言って要求するものは男の操を置いて無い!」
話が通じないし言っている事がまるで分からない。しかしこいつを逃すわけには行かない。
「そんなものは要りません。交換条件は先生が仰っていた『異世界に来た』という事がどういうことか説明して頂くことです」
「……」
打って変わり戸惑ったような表情と沈黙の後にゆっくり口を開く。
「話すけど…多分信じないと思うよ。まあ好奇心で聞いてるんだろうけどさ」
そういった後に、自分についての話を始めた。
曰く、彼は昨夜以前は別人の姿をして別人の人生を送っていたこと。
もともとは南千住在中の大学生であったこと。
起きたらこの場所に今の姿でいたこと。
「ま、与太話だと思うでしょ? おかしくなっちゃったって思うでしょ?
そう、僕はおかしいのさ。だから今日の事は全部春の陽気のせいだと思って、
忘れて帰ってくれるかな?」
そう結ぶと保険医は話を畳んで立ち去る動作を見せようとした。
「いや、待ってくれ、俺も」
「俺も昨夜まで別の人間だったんだ」焦るように早口で告げた。
ようやく話が通じる人間が現れた。
安堵に包まれ、我知らず強張っていた体がほぐれるのを感じた。
そのまま自分が本来は商社の営業部に所属していること、同じく今朝起きたらこの場所に来ていたことを告げる。
保険医の目が驚きで見開く。
「そうか! 君もそうなのか!」
「ああ、だから……」
「君もBL小説を読んで眠ったらこの世界に来たのかな!?」
「?」
BL小説?なんだそれは。汽車マニアか?
頭の中に場違いな汽笛が鳴り響く。
「じゃあ一緒にこの素晴らしい世界を探検しようよ!
僕のここでの名前は高井昴!
君の名前はもう知っているよ!
よろしくね!」
考えているとつらつらと話が先に進められている。
「BL小説? 何だそれは…?」
「えっ、だってここはどう見てもBL小説の世界だよ。君はそれを読んでこの世界に紛れ込んじゃった腐男子じゃないの?」
話がまた見えないが、どうやらこいつ、かなり色々な情報を持っているらしい。
「ちょっと待ってくれ、全然意味がわからない。BL小説とはなんだ?この世界が小説の世界だなんてあり得ないと思うが、どうしてそう思ったんだ?何か知っているのなら全部教えてくれ」
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