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第一章
第3話 サンドイッチはワインと共に
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カリンは組織が予め用意していたセーフハウスに立ち寄り、事前に用意させていた服装へと着替える。次期政党党首として支持率の高い志賀は、おそらく大勢の警護によって周りを固められているはずだ。
無論、ホテルも同じだろう。
会食にしても、不埒な輩が踏み入れないよう、ホテル自体を貸し切っているはずだ。そうであれば、まずはホテルに潜入することが何よりも重要だった。
「装備、準備よし…」
銃をはじめ、装備を整えたカリンは右耳にピアスを着ける。このピアスには毒薬が仕込まれており、万が一敵に捕まった場合、ピアスを歯で潰すことで仕込んでいた毒薬が体に侵入、自決できるというものだった。
ゼロがこれを使うことはないが、スパイとしてある種のリスクを背負うことは、緊張感を保持することに繋がるため、任務の際にはいつも身に付けている。
偽の身分証明書を首から下げ、組織が手配したタクシーで目的地であるホテルまで向かう。ホテルの前にはすでに私服の護衛が立ち、物々しい警備となっていた。
改めてホテルを見て、侵入経路を策定する。
まずは正面入口、ここは目立つ上に護衛も多い。カリンには正面突破も容易であるが、リスクが高い。
対して裏口も、同じく護衛がいる。ということは、ホテル内へと通じる通常の出入口は侵入経路の候補から外される。
中にはホテルの従業員と関係者のみがおり、外から誰も入ることができない。一般客はもちろん、貸切のためいない。
しかし、それはつまり、厳重に警備されているホテルの中にさえ入れば、かえって怪しまれる心配がないという事でもあった。
"プランCね…"
カリンはホテルの対面に立つオフィスビルへと入ると、用意していた身分証明書を受付に見せる。
「お疲れ様でーす」
受付に怪しまれることなくオフィスへと侵入したカリンは、エレベーターへと乗り込む。
そう、彼女の身分証はホテルではなく、ホテルに侵入するために確保した対面のオフィスに入るためのものだった。
非常階段を上がり、着いたのは最上階。それもこのオフィスビルで使われていない資料室となっている。
そこに入ったカリンは、ホテルを望むことができる窓へと近づく。
「距離、約60メートル。俯角20度…」
カリンは窓を開けると、ポーチの中からロープランチャーを取り出す。照準を向かいのホテルの屋上にある柵へと向け、引き金を引く。
ランチャーから発射されたロープの先に付いたフックが付いており、カリンの狙い通り対面にあるホテルの屋上の柵へと絡みついた。反対のロープもオフィスのロッカーに固定し、ロープにカラビナを取り付けて右手だけそれを掴んだ。
俯角20度、高さ約70メートル。
常人なら足が竦むような外へ、カリンは飛び出す。地上200メートルから身一つで飛び降りたことのあるゼロにとって、この程度は造作もないことだ。
カラビナがロープを滑り、ホテルに向けてカリンを移動させる。
「到着」
ホテルの屋上へ到着したカリンはロープを巻き取ると、給水塔の影に置かれていたグッドマークのキーホルダーが付いた鞄を開ける。そこにはホテルの従業員の制服が入っていた。
"こういうところだけは、信頼できる"
物陰で制服へと着替えたカリンは屋上からホテルの中へと入った。
「そこのあなた、ちょっと手伝ってもらえないかしら?」
ホテルの廊下を歩いていたカリンは、早速清掃作業中の中年従業員の1人に声をかけられる。彼女たちは、いわゆるパートのおばちゃん達だ。
「何をすればよろしいでしょうか?」
「人手が足りないの。今日、志賀さんがうちのレストランでお昼食べた後、ジャグジーに入るそうよ。床を掃除をしておいてくれないかしら」
「構いませんが」
「ほんと、使うなら事前に言えってね。困っちゃうわ、政治家さんにも。それじゃあ、私たちは廊下の掃除をしてるから、よろしくね」
「はい」
「それにしても、うちにあんな若い子いたかしら?」
「あれよ、系列からの応援さんでしょう?」
後ろでそんな会話が聞こえてきたが、指示を受けたカリンは、ホテルの5階にあるジャグジーへと向かう。すでに綺麗に清掃されているが、それでも掃除をしなくてはいけないのは、やはり利用する志賀に気持ちよく利用してもらいたいと言う従業員の気持ちの表れ…ではなく、今後もホテルを贔屓にしてほしいおべっかだろう。
清掃中の看板を立て、道具箱から取り出したモップで床を擦り始める。
こうした地道な工作が潜入作戦を成功へと導く。ちなみに、パートのおばちゃん連中に応援が来ることを吹き込んだのは、GJのおかげでもあった。
「おいっ、ここはまだ清掃中なのか?」
床を掃除していると、黒服の男がジャグジーの中へと入ってくる。どうやら、男は志賀の私設護衛の一人だろう。これから志賀がジャグジーを利用するのに、清掃中の看板が立っていることが気に食わなかったのか、高圧的な態度でカリンに話しかけてきた。
「常に綺麗にしておりますが、上からもっと綺麗にしておけと言われましたので」
「早くしろ。もうすぐ先生がここを利用される」
「承知いたしました」
どうやら、志賀は会食を終えてすぐにでもこのジャグジーを利用するようだった。護衛が見ている中、テキパキ(すると見せかけて)掃除を終わらせたカリンは、道具を元に戻して看板を用具入れに直した。
「おい、ジャグジーを調べるぞ。何も仕掛けられていないか確認するんだ」
「先生も困った人だ。ジャグジーに何を仕掛けられるってんだか…」
「爆弾でもあったりしてな」
「まっさかぁ、映画じゃねぇんだから」
「適当に探しとけ、適当に」
護衛たちがジャグジーを調べている中、カリンは外に出て一階へと向かう。レストランは一階にあり、入り口はすでに護衛たちが立って封鎖されており、誰も入られないようになっていた。その中に今回のターゲットである志賀の姿があった。
汚職情報を得るには本人か側近の携帯電話から情報を抜き取るのが手取り早い。しかし、志賀本人はマフィアとの繋がりを示すようなリスクを私用の携帯電話に残しておくのは考えづらい。
「なら…」
花瓶を整えるフリをしながら、カリンはある人物をマークしていた。
「七原くん、これから私は汗を流してくる。少し部屋で書類整理をして待っていてくれ」
「わっ、わかりました!あわっ」
オドオドとして落ち着きがない女性、志賀の隣に座るのは恐らく秘書。大物政治家が落ち着きのない彼女を秘書に置くのなら、鈍臭い行動を抜きにしてその他の面に優れているとカリンは推測していた。
会食を終えた志賀は、秘書たちを引き連れてレストランを出ていく。向かう先は先ほどのジャグジー、カリンは廊下で志賀たちとすれ違う際、最後尾でオドオドとする彼女に偶然を装ってぶつかった。
「きゃっ!」
カリンは持っていたシーツの山を廊下へとぶちまける。これには流石の志賀も、自らの秘書の駄目っぷりに頭を抱えてため息をつく。
「七原くん、君は本当に仕事以外は駄目駄目だな」
「も、申し訳ございません。あ、あの、大丈夫ですか」
「平気です。あなたこそ、お怪我はありませんでしたか?」
「はぁ、私は先に行ってくる。全く、仕事以外は本当に役に立たん子だよ…」
志賀に馬鹿にされた上、置いてけぼりを食らった七原は、何も言わずにシーツをかき集める。カリンは七原が、涙を浮かべていることに気づいた。
「酷い人ですね。こんなに頑張っている人を役立たずなんて…」
「ま、まぁ、何も間違っていませんから…」
「それより、申し訳ございません。私のせいでこんな事になったのに。なんとお詫びすれば…」
「いえ、私が前を見ていなかったからです…」
カリンはその時、七原の持っていたビジネスバッグから携帯電話が飛び出していることに気づく。七原に気づかれないようにシーツを携帯電話へと被せ、その中で持っていた端末のチップを七原の携帯電話へと差し込む。
「私、仕事以外は本当に鈍臭くて。いつも怒られてばっかりで、先生に迷惑ばかりかけていて…」
「鈍臭いのは私も同じです。床に落ちてしまったので、また最初から綺麗なシーツを運び直しですね。でも、私はすごいと思いますよ。七原さんでしたっけ。あの有名な志賀先生の秘書さんでしょう?」
「まだまだ見習いですけどね」
全てのシーツが片付けられる前に、カリンは七原の携帯からチップを抜き取る。そして、カリンは七原の違和感に気づく。
"男物の香水?"
「手伝っていただき、ありがとうございます。お仕事頑張ってくださいね、七原さん」
「こちらこそ、すみませんでした。では、私はこれで」
去り際に何度も頭を下げた七原と別れ、カリンは衣類を倉庫へと運び、トイレへと入る。万が一を考慮し、個室ではなく用具庫の中へと入ると、先ほど七原の携帯電話から抜き取ったチップを端末へと差し込む。
「カモフラージュするなら、秘書の携帯電話と思ったけど。あてが外れたかな…」
記録を見るも、怪しい情報は見つからない。しかし、ふと着信履歴を見ると、電話帳に登録されていない同一番号だけの履歴が多数あることに気づく。
"ッ?"
トイレに誰かが入ってくる気配をカリンは感じた。用具庫の中で息を潜め、気配の主の動きを感じとる。
「はぁ、疲れるなぁ…」
声の主は、先ほどカリンが情報を抜き取った秘書の七原だった。七原は用具庫の隣の個室へと入り、鍵を閉める。が、一向に用を足そうとしない。
それどころか、個室内で電話をかけ始めた。それも、先ほどのか弱い声とは違い、ドスの効いた声だった。
「私よ。良い加減あの野郎の秘書なんて仕事、やめさせてもらえないかしら」
『連絡するなとあれほど言っただろう』
先ほどの七原とは全く違う、人が変わったかのような口調だった。
「そろそろ私も我慢の限界よ。組織ナンバー2の私が、何でおっちょこちょいの秘書を演じなくちゃならないの」
『言っただろう。奴を裏から操れば、国を裏から操れる。お前の仕事は、それほど重要なのだ』
「分かったわよ。もう少し我慢するわ」
電話を切った七原は、そのままトイレを出ていく。
"まさか、秘書自体が工作員だったとは…盲点だった"
危うく、七原の演技に騙されるとこであった。カリンは抜き取ったデータの中で、七原が電話をしていた相手の連絡先を確認する。
おそらくは組織のボスの番号と思われるものを導き出した。
『サンドイッチはワインと共に』
ワイン、それは全ての任務が無事に成功したことを意味する。カリンはボスにショートメッセージを送ると、地下の電気施設を経由してホテルから脱出した。
政治家を操るために、出来損ないを演じた七原。しかし、実力者ゆえ出来損ないを演じ過ぎた結果、スパイとして命と天秤にかけられる組織の情報を、いとも簡単に抜き取られてしまう結果となってしまった。
カリンが組織に送ったデータは、その道のプロである公安機関に提供され、盗聴や録音を含めて、じっくりと精査されるのであった。
◇
テストが終わり、菜々と共に満身創痍で学食へと向かう凛花。そもそも、チェンジリング作戦で、今日のこのテストをカリンに代わりにやってもらおうといった下心があった。
しかし、肝心なテストを前にカリンは任務のため離脱。結局凛花はテストを自分で受ける羽目になった。
結果は惨敗、特に日本史は年号が全く覚えられておらず、関ヶ原の戦いが2022年に行われるという珍回答までしてしまった。
「完全に、終わった…」
「大丈夫だよりっちゃん、今回のテストはそこまで成績に響かないんだし…」
食券を購入し、サンドイッチとカフェラテを持った凛花は、菜々と共にテーブルで昼休みを過ごす。
食堂に置かれていたテレビが、お昼のニュースを流していた。
どうやら、志賀の秘書であった七原が危ない組織の人間であり、密かに〇〇党との繋がりを持っていた事が世間に知れ渡ったらしい。
ワイドショーのコメンテーターが、あたかも知っていたかのようにこの話題について議論していた。
もちろん、凛花たち学生は全く興味を示していなかった。
「ふぁぁ、補習やだぁ…」
「がんばろぉ、りっちゃん」
2人の様子を離れた席から、学園の生徒に変装して微笑ましく見つめるカリン。例え自分たちが人のために活躍しても、スパイの功績は、個人としてテレビにも新聞にも取り上げられない。
しかし、カリン達スパイの活躍によって、平凡な女子高校生たちが笑顔に日常を過ごすことができる。
"これだから、スパイはやめられない"
カリカリのベーコンと卵が挟まったサンドイッチを頬張る凛花を見て、カリンはクスリと笑った。
無論、ホテルも同じだろう。
会食にしても、不埒な輩が踏み入れないよう、ホテル自体を貸し切っているはずだ。そうであれば、まずはホテルに潜入することが何よりも重要だった。
「装備、準備よし…」
銃をはじめ、装備を整えたカリンは右耳にピアスを着ける。このピアスには毒薬が仕込まれており、万が一敵に捕まった場合、ピアスを歯で潰すことで仕込んでいた毒薬が体に侵入、自決できるというものだった。
ゼロがこれを使うことはないが、スパイとしてある種のリスクを背負うことは、緊張感を保持することに繋がるため、任務の際にはいつも身に付けている。
偽の身分証明書を首から下げ、組織が手配したタクシーで目的地であるホテルまで向かう。ホテルの前にはすでに私服の護衛が立ち、物々しい警備となっていた。
改めてホテルを見て、侵入経路を策定する。
まずは正面入口、ここは目立つ上に護衛も多い。カリンには正面突破も容易であるが、リスクが高い。
対して裏口も、同じく護衛がいる。ということは、ホテル内へと通じる通常の出入口は侵入経路の候補から外される。
中にはホテルの従業員と関係者のみがおり、外から誰も入ることができない。一般客はもちろん、貸切のためいない。
しかし、それはつまり、厳重に警備されているホテルの中にさえ入れば、かえって怪しまれる心配がないという事でもあった。
"プランCね…"
カリンはホテルの対面に立つオフィスビルへと入ると、用意していた身分証明書を受付に見せる。
「お疲れ様でーす」
受付に怪しまれることなくオフィスへと侵入したカリンは、エレベーターへと乗り込む。
そう、彼女の身分証はホテルではなく、ホテルに侵入するために確保した対面のオフィスに入るためのものだった。
非常階段を上がり、着いたのは最上階。それもこのオフィスビルで使われていない資料室となっている。
そこに入ったカリンは、ホテルを望むことができる窓へと近づく。
「距離、約60メートル。俯角20度…」
カリンは窓を開けると、ポーチの中からロープランチャーを取り出す。照準を向かいのホテルの屋上にある柵へと向け、引き金を引く。
ランチャーから発射されたロープの先に付いたフックが付いており、カリンの狙い通り対面にあるホテルの屋上の柵へと絡みついた。反対のロープもオフィスのロッカーに固定し、ロープにカラビナを取り付けて右手だけそれを掴んだ。
俯角20度、高さ約70メートル。
常人なら足が竦むような外へ、カリンは飛び出す。地上200メートルから身一つで飛び降りたことのあるゼロにとって、この程度は造作もないことだ。
カラビナがロープを滑り、ホテルに向けてカリンを移動させる。
「到着」
ホテルの屋上へ到着したカリンはロープを巻き取ると、給水塔の影に置かれていたグッドマークのキーホルダーが付いた鞄を開ける。そこにはホテルの従業員の制服が入っていた。
"こういうところだけは、信頼できる"
物陰で制服へと着替えたカリンは屋上からホテルの中へと入った。
「そこのあなた、ちょっと手伝ってもらえないかしら?」
ホテルの廊下を歩いていたカリンは、早速清掃作業中の中年従業員の1人に声をかけられる。彼女たちは、いわゆるパートのおばちゃん達だ。
「何をすればよろしいでしょうか?」
「人手が足りないの。今日、志賀さんがうちのレストランでお昼食べた後、ジャグジーに入るそうよ。床を掃除をしておいてくれないかしら」
「構いませんが」
「ほんと、使うなら事前に言えってね。困っちゃうわ、政治家さんにも。それじゃあ、私たちは廊下の掃除をしてるから、よろしくね」
「はい」
「それにしても、うちにあんな若い子いたかしら?」
「あれよ、系列からの応援さんでしょう?」
後ろでそんな会話が聞こえてきたが、指示を受けたカリンは、ホテルの5階にあるジャグジーへと向かう。すでに綺麗に清掃されているが、それでも掃除をしなくてはいけないのは、やはり利用する志賀に気持ちよく利用してもらいたいと言う従業員の気持ちの表れ…ではなく、今後もホテルを贔屓にしてほしいおべっかだろう。
清掃中の看板を立て、道具箱から取り出したモップで床を擦り始める。
こうした地道な工作が潜入作戦を成功へと導く。ちなみに、パートのおばちゃん連中に応援が来ることを吹き込んだのは、GJのおかげでもあった。
「おいっ、ここはまだ清掃中なのか?」
床を掃除していると、黒服の男がジャグジーの中へと入ってくる。どうやら、男は志賀の私設護衛の一人だろう。これから志賀がジャグジーを利用するのに、清掃中の看板が立っていることが気に食わなかったのか、高圧的な態度でカリンに話しかけてきた。
「常に綺麗にしておりますが、上からもっと綺麗にしておけと言われましたので」
「早くしろ。もうすぐ先生がここを利用される」
「承知いたしました」
どうやら、志賀は会食を終えてすぐにでもこのジャグジーを利用するようだった。護衛が見ている中、テキパキ(すると見せかけて)掃除を終わらせたカリンは、道具を元に戻して看板を用具入れに直した。
「おい、ジャグジーを調べるぞ。何も仕掛けられていないか確認するんだ」
「先生も困った人だ。ジャグジーに何を仕掛けられるってんだか…」
「爆弾でもあったりしてな」
「まっさかぁ、映画じゃねぇんだから」
「適当に探しとけ、適当に」
護衛たちがジャグジーを調べている中、カリンは外に出て一階へと向かう。レストランは一階にあり、入り口はすでに護衛たちが立って封鎖されており、誰も入られないようになっていた。その中に今回のターゲットである志賀の姿があった。
汚職情報を得るには本人か側近の携帯電話から情報を抜き取るのが手取り早い。しかし、志賀本人はマフィアとの繋がりを示すようなリスクを私用の携帯電話に残しておくのは考えづらい。
「なら…」
花瓶を整えるフリをしながら、カリンはある人物をマークしていた。
「七原くん、これから私は汗を流してくる。少し部屋で書類整理をして待っていてくれ」
「わっ、わかりました!あわっ」
オドオドとして落ち着きがない女性、志賀の隣に座るのは恐らく秘書。大物政治家が落ち着きのない彼女を秘書に置くのなら、鈍臭い行動を抜きにしてその他の面に優れているとカリンは推測していた。
会食を終えた志賀は、秘書たちを引き連れてレストランを出ていく。向かう先は先ほどのジャグジー、カリンは廊下で志賀たちとすれ違う際、最後尾でオドオドとする彼女に偶然を装ってぶつかった。
「きゃっ!」
カリンは持っていたシーツの山を廊下へとぶちまける。これには流石の志賀も、自らの秘書の駄目っぷりに頭を抱えてため息をつく。
「七原くん、君は本当に仕事以外は駄目駄目だな」
「も、申し訳ございません。あ、あの、大丈夫ですか」
「平気です。あなたこそ、お怪我はありませんでしたか?」
「はぁ、私は先に行ってくる。全く、仕事以外は本当に役に立たん子だよ…」
志賀に馬鹿にされた上、置いてけぼりを食らった七原は、何も言わずにシーツをかき集める。カリンは七原が、涙を浮かべていることに気づいた。
「酷い人ですね。こんなに頑張っている人を役立たずなんて…」
「ま、まぁ、何も間違っていませんから…」
「それより、申し訳ございません。私のせいでこんな事になったのに。なんとお詫びすれば…」
「いえ、私が前を見ていなかったからです…」
カリンはその時、七原の持っていたビジネスバッグから携帯電話が飛び出していることに気づく。七原に気づかれないようにシーツを携帯電話へと被せ、その中で持っていた端末のチップを七原の携帯電話へと差し込む。
「私、仕事以外は本当に鈍臭くて。いつも怒られてばっかりで、先生に迷惑ばかりかけていて…」
「鈍臭いのは私も同じです。床に落ちてしまったので、また最初から綺麗なシーツを運び直しですね。でも、私はすごいと思いますよ。七原さんでしたっけ。あの有名な志賀先生の秘書さんでしょう?」
「まだまだ見習いですけどね」
全てのシーツが片付けられる前に、カリンは七原の携帯からチップを抜き取る。そして、カリンは七原の違和感に気づく。
"男物の香水?"
「手伝っていただき、ありがとうございます。お仕事頑張ってくださいね、七原さん」
「こちらこそ、すみませんでした。では、私はこれで」
去り際に何度も頭を下げた七原と別れ、カリンは衣類を倉庫へと運び、トイレへと入る。万が一を考慮し、個室ではなく用具庫の中へと入ると、先ほど七原の携帯電話から抜き取ったチップを端末へと差し込む。
「カモフラージュするなら、秘書の携帯電話と思ったけど。あてが外れたかな…」
記録を見るも、怪しい情報は見つからない。しかし、ふと着信履歴を見ると、電話帳に登録されていない同一番号だけの履歴が多数あることに気づく。
"ッ?"
トイレに誰かが入ってくる気配をカリンは感じた。用具庫の中で息を潜め、気配の主の動きを感じとる。
「はぁ、疲れるなぁ…」
声の主は、先ほどカリンが情報を抜き取った秘書の七原だった。七原は用具庫の隣の個室へと入り、鍵を閉める。が、一向に用を足そうとしない。
それどころか、個室内で電話をかけ始めた。それも、先ほどのか弱い声とは違い、ドスの効いた声だった。
「私よ。良い加減あの野郎の秘書なんて仕事、やめさせてもらえないかしら」
『連絡するなとあれほど言っただろう』
先ほどの七原とは全く違う、人が変わったかのような口調だった。
「そろそろ私も我慢の限界よ。組織ナンバー2の私が、何でおっちょこちょいの秘書を演じなくちゃならないの」
『言っただろう。奴を裏から操れば、国を裏から操れる。お前の仕事は、それほど重要なのだ』
「分かったわよ。もう少し我慢するわ」
電話を切った七原は、そのままトイレを出ていく。
"まさか、秘書自体が工作員だったとは…盲点だった"
危うく、七原の演技に騙されるとこであった。カリンは抜き取ったデータの中で、七原が電話をしていた相手の連絡先を確認する。
おそらくは組織のボスの番号と思われるものを導き出した。
『サンドイッチはワインと共に』
ワイン、それは全ての任務が無事に成功したことを意味する。カリンはボスにショートメッセージを送ると、地下の電気施設を経由してホテルから脱出した。
政治家を操るために、出来損ないを演じた七原。しかし、実力者ゆえ出来損ないを演じ過ぎた結果、スパイとして命と天秤にかけられる組織の情報を、いとも簡単に抜き取られてしまう結果となってしまった。
カリンが組織に送ったデータは、その道のプロである公安機関に提供され、盗聴や録音を含めて、じっくりと精査されるのであった。
◇
テストが終わり、菜々と共に満身創痍で学食へと向かう凛花。そもそも、チェンジリング作戦で、今日のこのテストをカリンに代わりにやってもらおうといった下心があった。
しかし、肝心なテストを前にカリンは任務のため離脱。結局凛花はテストを自分で受ける羽目になった。
結果は惨敗、特に日本史は年号が全く覚えられておらず、関ヶ原の戦いが2022年に行われるという珍回答までしてしまった。
「完全に、終わった…」
「大丈夫だよりっちゃん、今回のテストはそこまで成績に響かないんだし…」
食券を購入し、サンドイッチとカフェラテを持った凛花は、菜々と共にテーブルで昼休みを過ごす。
食堂に置かれていたテレビが、お昼のニュースを流していた。
どうやら、志賀の秘書であった七原が危ない組織の人間であり、密かに〇〇党との繋がりを持っていた事が世間に知れ渡ったらしい。
ワイドショーのコメンテーターが、あたかも知っていたかのようにこの話題について議論していた。
もちろん、凛花たち学生は全く興味を示していなかった。
「ふぁぁ、補習やだぁ…」
「がんばろぉ、りっちゃん」
2人の様子を離れた席から、学園の生徒に変装して微笑ましく見つめるカリン。例え自分たちが人のために活躍しても、スパイの功績は、個人としてテレビにも新聞にも取り上げられない。
しかし、カリン達スパイの活躍によって、平凡な女子高校生たちが笑顔に日常を過ごすことができる。
"これだから、スパイはやめられない"
カリカリのベーコンと卵が挟まったサンドイッチを頬張る凛花を見て、カリンはクスリと笑った。
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