アイドル⇔スパイ

AQUA☆STAR

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第一章

第2話 名付けてチェンジリング作戦

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 一方、翌日からチェンジリング作戦を開始したカリンは、櫻間凛花として私立清華学園の制服に身を包み、完璧な変装で学園へ登校していた。
『あ、あ、聞こえる?こちらジョーカー』
「聞こえてる」
『えっ、すごっ!これ本当に会話できるの⁉︎』
「先に言っとくけど、壊さないでよ?それ、一個100万円するんだから」
『ひゃ!100万⁉︎100万あったら、いちごパフェが千個、いや、二千五百個くらい…』
「いちごパフェで換算しないの。てか、何でジョーカー?」
『えっと、トランプに例えるとジョーカーってさ、ほら、悪役感とか最強感あるじゃん。だから、カッコいいと思って。ほら、スパイのコードネームってかっこいいのばかりでしょ?』
 通信機で会話する2人であるが、実際、2人の距離は10メートルほど。本来の性能では1キロ以上離れていても会話可能である。
 カリンが振り返ると、見た目からして、怪しさと胡散臭さが漂う凛花スパイが、電柱の背後に隠れてそれっぽく尾行している。さすがにこの時期で昨日の衣装は厚着で暑いため、サングラスにマスク、キャップ帽を目深に被っていた。
「不審者…」
『ふ、不審者…だって、これしかなかったし、仕方なかったもん…』
「はぁ、まず尾行しているのに、対象に丸見えってどうことなの、それ」
『そ、それもそうだね…じゃあ、ちょっと離れるね!あっ、そんな事よりカリン、最初のミッションだよ!』
 チェンジリング作戦第一関門、それは凛花の親友との登校から始まるのだった。
『もうすぐ、同じクラスメートの奈菜ちゃんが待つ合流地点に着くからね!一応、奈菜ちゃんは小学校の頃から幼馴染で、私の一番の親友だから、バレないように…』
「私は彼女を何と呼べばいい?」
『ナナちって呼んでる』
「ナナち…ね」
 数多くの場所に潜入するスパイにとって、一番の難関が対象が親密にしている人との会話であった。
 特に、ターゲットが親密な関係にあれば、その一挙手一投足を見られ、少しでも普段と違うことに気付かれれば、簡単に正体がバレることになる。
「あっ、おはようりっちゃん!」
 しかし、ゼロことカリンにとって、同じ年頃の少女に成り代わるのは造作ないことであった。藤田奈菜にまつわる情報は、概ね把握していた。
 今回の変装も、お手の物である。
「おはナナち!」
「おはリン!」
 そして、親友同士の挨拶も完璧にマスターしていた。
「りっちゃん、今日はテストの日だけど、大丈夫かなぁ…」
「そういえば、中間テストだったね。今回、数学を頑張って勉強したの。ナナちは英語どう?」
「うーん、文法とか筆記はいけそうだけど、リスニングが微妙かなぁ」
"良し、滑り出しはまずまず。英語が苦手なのは知っている。その話題を振って親友にバレなければ、それ以外の人にバレる事はないか…"
「そう言えばりっちゃん、一昨日の歌番見たよ!あのアニメの主題歌、凄い良い曲だよね!作った私ですら鳥肌立っちゃった!」
「うん、流石はNANANの曲。歌いやすいし、何より頭の中に残ったなぁ」
「えへへ…実は上手く出来てたか不安だったけどね。それにしても、本当にりっちゃんカッコ良かったなぁ。私も、あんな感じでテレビに出てみたい」
 カリンにとって、潜入対象者周囲の情報収集は当たり前のこと。凛花がどういった番組でどういった話し方をしているのか、全て昨日のうちに頭の中へと叩き込んでいる。
 ちなみにNANANとは、カリンの目の前にいる凛花の親友、藤田菜奈のハンドルネームである。菜奈は作詞作曲家でもあり、主にネットで活躍している。そして、幼馴染である凛花に、楽曲の提供も行っている。
 さて、話を戻す。
 カリンの徹底ぶりは、凛花の幼馴染みでもある藤田奈菜との過去の話を洗いざらい凛花に吐かせたくらいだ。もちろん、恥ずかしい話も然り。

『ぜ、絶対、私が寝ぼけてお泊まり会の時に、ナナちにチューした話だけはしないで!』
『(百合ぃ)まぁ…しないけど』

 カリンはとりあえず菜奈との会話を終え、学園に向けて歩みを進める。
「バレていない様だけど、次はどうすればいい、ジョーカー…ジョーカー?」
「にゃーん、にゃにゃ」
 返事がないことを不審に思ったカリンが振り向くと、尾行していたはずのジョーカーこと凛花が、塀の上で寝転ぶ猫と戯れていた。スパイのスの字すら感じさせない凛花を見て、カリンは思わずため息をついてしまう。
「どうしたの、りっちゃん?」
「いや、何でもないよ…行こっか」
 猫に逃げられ、我に戻った凛花は自分が置いてけぼりにされたことに気づき、慌てて学校へと向かう羽目になった。
『ちょ、ちょっと、カリン。行くなら行くって言ってよぉ…置いてけぼりなんて酷いよぉ』
「はぁ…世界を股に掛ける超一流のスパイさんが、女子高校生に尾行を撒かれるなんて滑稽ね」
『うぅ、だって猫ちゃん可愛かったんだもん…。どう、りっちゃんにはバレてなさそう?』
「恐らくは。ボロが出ない様にサポートしてくれる?」
『うん!任せといて!』
 2階の教室から外を見ると、ちょうど教室の中を見ることができるグラウンドの木の上に、凛花がいた。
「丸見えじゃん」
『し、仕方ないよ。ここくらいしか見えないんだし…そろそろ授業が始まるよ、カリン』
「了解した」
「あら、凛花さんじゃありませんか。ご機嫌いかがでございますか?」
 カリンが顔を上げると、そこには扇子を口元に当て不敵な笑みを浮かべる女子生徒の姿があった。周囲には、取り巻きと思われる女子生徒が2人いる。
"絵に描いたような悪役令嬢ね…"
 彼女の名前は、小山亜里沙。清華学園の理事長である小山修作の孫、この学園の生徒会長であり、いわゆる絶対的な権力を持つお嬢様でもあった。
 亜里沙は、自分の気に入らないものに対して度を超えた嫌がらせをしており、理事長の孫と言うこともあって誰も彼女に反抗することは出来なかった。
 そして亜里沙は、アイドル活動をする凛花を妬んでいた。この日も、同じクラスメートである凛花に嫌味を言い、嫌がらせをしようとして近づいてきたのだった。
「何でしょうか、小山さん?用がないのであれば声をかけないで下さい」
 カリンはわざとらしく、そしてあざとい笑顔を向ける。その表情に機嫌を損ねる亜里沙。
 もちろん、カリンは事前にこの人物については把握していた。しかし、まさかチェンジリング作戦の初日から絡んでくるとは予想してはいなかった。
 いつものように笑って誤魔化すはずの凛花が、あからさまに反抗的な態度をとったため、亜里沙は少し戸惑いを見せるが、畳み掛けるように嫌味を口にする。
「まっ、こちらがご機嫌を伺っているのに、何ですかその態度は。これだからテレビでちやほやされるアイドルは、社交辞令がなってなくて困りますわ」
 実のところ、カリンが最も嫌うのはこの手のタイプの人間だった。自分は絡もうとしていないのに、不必要にそれもしつこく絡んでくるからだ。
 この手の人間は、無視するか興味がないことを相手に感じさせれば良いが、カリンのこの態度は亜里沙には寧ろ逆効果となってしまった。
「もうすぐテストが始まりますよ。席についてはどうですか?」
「私はテストなんて受ける必要ないわ。それよりも、普段からテレビ出演に忙しいあなたの事が心配なの。勉強できてるのかしら。まぁ、私は生徒会長ですし、あなたが誠意を見せれば点数を上げることを考えてあげてもいいですわ」
「余計なお世話です」
 その間も、カリンは表情を一切崩さない。
 クラスメートたちも、いつもと違う凛花の強気の物言いに教室内の空気が張り詰めていくのを感じる。授業を担当する教師も、この状況下にある教室に入ることができず廊下から見守っていた。
「あの、こ、小山さん。りっちゃん、今日体調が悪くて…」
「あなたは黙っていなさい!」
 助け舟を出そうとした菜々は、亜里沙にきつく言われて萎縮してしまう。しかし、当の本人であるカリンは、その威圧に全く動じずこれから始まる授業の予習を始めていた。
 彼女にとって、目の前の亜里沙は過去に受けた麻薬カルテルの拷問に比べれば、子どもが騒いでいる程度にしか感じなかった。
 亜里沙も、まさか自分が噛み付いている相手が天然アイドルの凛花ではなく、世界中の諜報機関から目を付けられている凄腕スパイとは思わないだろう。そんな彼女を見て、亜里沙はニヤリと笑う。
「あら、凛花さん。髪の毛がハネておいでですわよ」
「あっ⁉︎」
 この世において、無知ほど恐ろしいものはないだろう。亜里沙は自分の持っていた水筒のお茶を、あろうことかカリンの頭に注いだのだ。
 教室の空気が一気に張り詰める。
 これには、さすがの菜々も立ち上がって亜里沙に詰め寄ろうとする。しかし、そんな奈々をこれまで微動だにしなかったカリンが手で制した。
「り、りっちゃん?」
「おほほ、湿らせてあげたのですから、みっともない髪を整えてはいかがですか?」
 高笑いをする亜里沙を気にする事なく、カリンはお茶で濡れた教科書を静かに机に置く。そして、鞄の中からタオルを取り出し髪と教科書を拭き、席を立つと、目の前の亜里沙に顔を近づけた。
「な、何ですの?」
「わざわざ濡らしていただいたのですね。流石は理事長の孫、他の生徒とは見る視点が違いますね」
 軽い口調とは裏腹に、亜里沙にだけ見えるカリンの顔は、獰猛な目つきだった。
「ひっ⁉︎」
 その目を見てたじろぐ亜里沙の横を通り過ぎ、トイレへ向かうカリン。すれ違いざま、カリンは亜里沙の耳元で呟く。
「次やったら殺すぞ」
 その呟きは、幸いにも亜里沙にしか聞こえないくらい小声だった。


 ◇


「カリン、ごめん、本当にごめん!」
 トイレに向かったカリンは、そのまま校庭に出て凛花と合流する。物陰に隠れたカリンに、凛花は首が千切れるかと言わんばかりに何度も頭を下げた。
"ヴィジュアル系のヘッドバンギングみたい…"
「謝るくらいなら、あんな奴がいるのを早く教えてほしかった」
「ごめん。実は、あの人に対して普段の私、何にも言い返せなかったの。それをカリンに言えば、たぶん何をされても反抗しないと思って」
「なら逆効果、言ってくれた方が対処の仕方を何通りか考える準備ができていた」
 それは、凛花がカリンに対して気遣った結果だった。それを聞いたカリンはふっと笑い、同時にため息をついた。
「でも、ありがとうカリン」
「え?」
「私、今まで何を言われてもずっと我慢してたの。でも、私じゃないけど。私の代わりにカリンが言い返してくれて、すごく嬉しかったの」
「言い返したって、何のこと?」
「へっ?大きなお世話とか」
 最後に呟いたカリンの脅し文句は、どうやら通信機の集音には拾われていなかったみたいだった。
 すると、カリンのスマートフォンにメッセージが届く。そのメッセージを見たカリンは、目つきを仕事モードへと変える。
「ごめん、少しだけ仕事に行ってくる」
「お仕事?」
「うん。どうも緊急の用件みたいだし。一応、出来るだけ早く片付けてくる。夕方までには家に戻る」
「分かった。気をつけてね、カリン」
「ありがと」
 急遽仕事の入ったカリンから、制服を受け取った凛花。カリンは凛花に制服を手渡すと、あらかじめ中に着込んでいた服のまま、学校の外へと消えていった。
「制服の下に着てたんだ…」
 そして、受け取った制服が水浸しならぬお茶浸しになっていることに気がつく。
「ふぇっ!制服、お茶でべちょべちょだよぉカリン!!」
 お茶で濡れた制服を着た凛花は、涙目で教室へと戻った。
 その日は、それ以上亜里沙が凛花へ嫌がらせをすることはなかった。


 ◇


 カリンの属する組織では、任務が言い渡される際に幾つかの手順が踏まれる。
 まずは、各々が持つスマートフォンに、ショートメッセージが届く。
 メッセージと言っても、それは三種類の絵文字であり、絵文字は『蟻・蝙蝠・猫』である。それらはアルファベットに直すと蟻は『ant』、蝙蝠は『bat』、猫は『cat』となる。絵文字は頭文字が『A・B・C』となり、Aは非常事態、Bは緊急任務、Cは通常任務とランク付けがされている。
 今回、カリンに送られてきた絵文字は蝙蝠、即ち非常事態ではないが急を要する任務となっており、絵文字が送られた者はいち早く任務に従事しなければならない。
 ちなみに、非常事態を意味する蟻の絵文字が送られた場合は、自分の任務を中止しても従事しなければならない。
 次に、絵文字が送られた場合は各スパイに割り当てられた任務通達員と接触する。 
 任務通達員は文字通り、スパイに任務内容を伝えるだけの存在であり、彼らもそれが何の任務であるかは知らされていない。
「隣、空いてますか?」
「よろしければ、どうぞ」
 公園のベンチに座る会社員風の男、正体が任務通達員に接触したゼロは、男の隣に座ると新聞を手渡される。新聞は外見上は普通の新聞であるが、内容は巧妙に細工が施された命令書となっていた。
「今日は良い天気ね」
「あいにく曇りですけどね。お腹は空きましたね。お昼ご飯は食べましたか?」
「メニューは何かしら?」
「今日は妻の手作りサンドイッチです」
 今日は任務遂行日を意味し、天気は任務内容を意味する。曇り。この場合、本日で任務は情報の奪取。サンドイッチは汚職情報である。
 任務通達員はそれだけを伝え、缶コーヒーを飲みながら立ち去る。
 新聞の文面には、要所要所に彼女の所属する組織のボス直々の命令文が仕込まれていた。
『ゼロ。遥々故郷の地で羽を伸ばしているところ申し訳ない。実は、日本にいる君にしか頼めない任務がある。日本の大物政治家の志賀寿太郎と名乗る男が、ジャパニーズマフィアと裏で繋がっている情報が入った。志賀は元々無名の地方議員だったが、最近新党を設立し急速に支持を伸ばしていている。今回の選挙で総裁として立候補するが、彼の政党が勝利し、今後、日本の政党の長がマフィアと繋がりのある人間になるのはまずい話だ。志賀は今日の昼ごろ、ホテルで会食をすることになっている。そこへ向かい、側近が持つ汚職の情報を掴むんだ』
「少しは休めると思ったけど、やっぱり仕事は無くならない、か…」
 そう言ったカリンは、新聞をゴミ箱へと投げ捨てた。
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