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忘却編
第1話 記憶なき巫女
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目を覚ますと、私は見知らぬ部屋に横たわっていた。
ぼんやりとした意識のまま、天井を見つめる。木の梁が走り、落ち着いた雰囲気を醸し出している。畳の感触が背中に心地よい。
だが、体を動かそうとした瞬間——
「っ……!」
全身に激しい痛みが走り、思わず息を詰まらせた。まるで、体の芯まで軋んでいるような感覚。無理に動こうとすれば、悲鳴を上げてしまいそうだった。
呼吸を整えながら、視線だけを動かし周囲を見渡す。六畳ほどの和室。中央には畳の上に灯籠が置かれ、薄暗い光を放っている。襖には美しい絵が描かれ、障子の丸窓からは柔らかな光が差し込んでいた。
壁には筆で書かれた掛け軸が掛けられている。部屋全体は簡素ながらも清潔で、どこか温かみがあった。客間のような雰囲気——けれど、ここがどこなのか、なぜ自分がここにいるのか、何も思い出せない。
「ここは……」
かすれた声が喉を震わせる。自分の声だというのに、どこか他人のもののような気がした。
そのとき、襖の向こうから足音が近づいてくるのが聞こえた。ゆったりとした足取り。やがて、襖が静かに開き、一人の女性が姿を現す。
茶色の長い髪を腰まで垂らし、気品ある美しい着物を纏っている。穏やかな微笑みとともに、優しい眼差しを向けてくる彼女の姿を見ていると、不思議と心が安らぐ気がした。
「お目覚めかしら、巫女さん?」
巫女さん?
彼女の言葉に、思わず自分の身なりを確認する。確かに、白い装束をまとっている。しかし、これが何の服なのか、私自身がなぜこの服を着ているのか、何も思い出せなかった。
「……あなたは?」
彼女は優雅な所作で部屋に入り、私の傍らに膝をついた。そして、柔らかく微笑む。
「カミコよ。あなたが倒れているのを見つけて、ここに運んできたの」
「……私を?」
「ええ。雨の中、随分とひどい状態だったわ。体は冷え切っていて、服も濡れたまま。それに、随分と疲れていたみたいね」
彼女の言葉を聞きながら、自分の手を握る。細く、柔らかい指先がそこにあった。まるで、自分のものではないように感じる。
「……ありがとうございます」
「いいのよ。困ったときはお互い様だから」
カミコさんは手に持っていた手拭いを桶の水に浸し、軽く絞ってから私の額にそっと置いた。ひんやりとした感触が心地よく、思わず目を閉じる。
「熱はだいぶ下がったみたいね。よかったわ」
「……」
「それよりも、あなたの名前を教えてくれる?」
「……」
名前…。
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥に霧がかかったような感覚に襲われた。
必死に思い出そうとする。しかし、どんなに考えても、真っ白な霧の向こうにあるはずの記憶に手が届かない。
「……わかりません」
「名前が、わからない?」
「はい……何も……」
胸の奥が冷たくなる。この感覚は何だろう。大切なものを、すべて失ってしまったような——そんな虚無感が広がっていく。
「そう……」
カミコさんはそっと私の頭に手を添え、優しく撫でてくれた。その手の温もりが、ひどく心に染みる。
「じゃあ、思い出せるまでの間、新しい名前をつけましょうか」
「えっ……?」
「大丈夫、大丈夫。名付けには自信があるの」
彼女はそう言うと、腕を組み、何かを考え始める。時折「うーん」と唸りながら、真剣な表情をしている。
私は戸惑いながらも、彼女の様子を見守ることしかできなかった。
しばらくして、ぱんっと手を打ち鳴らし、カミコさんは満足げに頷く。
「決まったわ。あなたの名前は白雪舞花よ」
「……白雪舞花?」
「そう。白雪のように清らかで、花が舞うように美しく、しなやかであってほしいという願いを込めたの」
口に出してみると、しっくりとくる感覚があった。本来の名前ではないはずなのに、この名前を与えられたことで、不思議と安心感を覚える。
「それじゃあ、あなたは今日から舞花ね」
「……はい。ありがとうございます、カミコさん」
「よかった。それじゃあ、舞花ちゃんにはまず、しっかり休んでもらわないとね。体の回復が優先よ」
優しく布団をかけ直される。心地よい温もりが、疲れた体を包み込む。
名前をもらった安心感と、カミコさんの優しさに包まれながら、私は静かに目を閉じた。
◇
翌朝、小鳥のさえずりと障子の隙間から差し込む朝日で目を覚ました。
ぼんやりとした意識のまま、ゆっくりとまぶたを開く。
屋敷の天井は変わらず、穏やかな朝の光が部屋を照らしていた。
寝返りを打とうとすると、まだ少し体が重い。それでも昨日よりも随分と楽になっていることに気がついた。
ゆっくりと布団の中で手足を動かし、動作を確かめる。無理をしなければ問題なさそうだ。
「おはよう、舞花。起きていたのね」
ふと顔を上げると、襖が開かれ、カミコさんが静かに部屋へと入ってきた。
「あっ、おはようございます、カミコさん」
「昨日はよく眠れたかしら?」
「はいっ! おかげさまで、身体の痛みも和らぎました!」
布団を押し上げるようにして上体を起こし、笑顔を返す。
「良かった。薬が効いたのかしら」
そう言って、カミコさんは私の額にそっと手を添え、熱が下がっているか確認する。
「平熱ね。これなら今日は少し動いても大丈夫そうね」
「ありがとうございます」
「いいえ、私が勝手にやったことだから気にしないで。でも、治っている途中だから無理は禁物よ?」
「えへへ、ありがとうございます」
優しく微笑むカミコさんに、私は素直に礼を言った。
「薬の効き目も出ているし、朝餉にしましょう。うんと食べて、栄養をつけないとね」
その言葉に、私の意識がようやく自分の空腹へと向く。
確かに何も食べていないせいか、すごくお腹が減っている。
「えっ、良いんですか、こんな私に…?」
「もちろんよ。身体にいいものを作ったから、ちゃんと食べなさい」
その時——
ぐぅぅぅ……
時を見計ったかのように、お腹が鳴った。
“うう…こんな時に鳴るなんて……”
恥ずかしさで頬が熱くなる。
「さてと、冷めないうちに食べに行きましょう」
「はっ、はい!」
どうやら、カミコさんは私のお腹の音に気づいていないみたいだった。
ほっと胸をなでおろしつつ、カミコさんの後ろをついていく。
◇
こうして歩いていると、この屋敷の大きさに改めて驚かされる。
廊下は広く、整然とした造りになっている。障子や襖に施された装飾も品があり、家全体が手入れの行き届いた立派なものだった。
カミコさんはこの屋敷に一人で住んでいるのだろうか。
だとすれば、よほどの資産家か、あるいは身分のある人なのかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていると、ふと目に留まるものがあった。
「あっ、桜の木……」
中庭に一本の桜の木が生えている。
まだ花を咲かせる季節ではないため、枝には青々とした葉が生い茂っていた。
「綺麗……」
知らず知らずのうちに足を止め、桜の木を見上げる。
なぜか懐かしい気がした。
この景色を、どこかで見たことがあるような気がする。
「……舞花?」
「えっ!? あっ、ごめんなさい!」
カミコさんに声をかけられ、慌てて歩き出す。
考えても仕方がない。今は食事を優先しよう。
◇
居間の座卓には、すでに朝餉が並べられていた。
湯気が立ち上り、どれも出来立てのようだ。
「大した料理じゃないから、お口に合えばいいけど……」
「いえ、そんな気を遣わないでください! では、いただきます!」
座布団に座り、焼き魚の身に箸を入れる。
香ばしい匂いとともに、ぱりぱりと皮が破ける音が鳴る。
口に運ぶと、じんわりとした旨味が広がり、自然と顔がほころぶ。
漬物、汁物、ご飯——すべてが優しい味わいで、不思議と自分の好みにぴったりだった。
「どれもすごく美味しいです!」
「それは良かったわ。遠慮せずに、食べたいだけ食べてね」
「はいっ!」
夢中で箸を動かす。
これほど美味しい食事を取るのは、もしかすると初めてかもしれない。
記憶にはないが、私の感覚がそう訴えてくる。
◇
朝餉を食べ終える頃には、すっかり心も体も満たされていた。
「お粗末様でした」
「ご馳走様でした」
食器を片付けようとするカミコさんの手を止める。
「あのっ、カミコさん。私がやります」
宿を借り、食事までもらって、何もしないわけにはいかない。
「いいのいいの。舞花は怪我人なんだから、ゆっくりしていて大丈夫よ」
「で、ですが……」
「いいからいいから」
そう言ってカミコさんは私を座らせ、流しへと食器を持っていった。
しばらくして、洗い物を終えたカミコさんが居間へと戻って来る。
「さてと、今日は天気もいいし、村の人たちに舞花を紹介しに行こうかしら」
「村の人たち……ですか?」
「えぇ、ここは葦原村っていう小さな村なの。新しい仲間のことを、皆や村長に説明しなくちゃいけないし」
「新しい仲間……私のことですか?」
思わず問い返す。
すると、カミコさんはふふっと笑った。
「舞花以外、他に誰がいるのよ?」
「ですが、素性も分からない私なんかを……」
私は記憶を失い、どこから来たのかもわからない人間だ。
そんな自分を、簡単に仲間だと言ってくれることが信じられなかった。
「何を今更、どこか行く宛でもあるの?」
「……ありません」
「なら、しばらくの間ウチにいなさい。あなたのような子が一緒にいてくれるだけで、とても嬉しいわ」
私は、ただ頷いた。
「分かりました。しばらくの間、ここに居させてもらうことにします」
「決まりね。それじゃあ、早速出かけましょうかしら」
「分かりました!」
こうして、私はカミコさんに連れられ、葦原村の村人たちと出会うことになる。
◇
屋敷を出ると、眼下には水田の広がるのどかな風景が広がっていた。
青い空と白い雲。その下には、一面に広がる青々とした稲の苗。朝日を受けてキラキラと輝く水面が、とても美しく映る。
坂の上にあるカミコさんの屋敷から村までは、長い石段を降りて向かう形になるらしい。
遠くでは、すでに農作業に精を出す村人たちの姿が見えた。
「おはようございます、カミコ様」
「カミコ様、おはようございます」
「おはようございます!」
村の入り口へ近づくと、農作業をしていた村人たちが一斉に顔を上げ、カミコさんへ挨拶をする。
皆、親しみを込めた笑顔を向け、手を止めてこちらを見ていた。
「みんなおはよう」
カミコさんも自然な笑顔で挨拶を返す。
その光景を眺めながら、私は不思議に思った。
カミコさんはこの村で、よほど慕われているらしい。
「カミコ様、その子が昨日言っていた……」
一人の村人が、私を見て尋ねる。
「えぇ、そうよ」
「へぇ、可愛い巫女さんですね」
穏やかに微笑んだ村の女性が、私の頭を優しく撫でた。
「は、初めまして。わ、私、しっ、白雪舞花と言います……!」
緊張しながらも、ぎこちなく頭を下げる。
「カミコさんのお屋敷で、しばらくの間お世話になることになりました。よ、よろしくお願いします!」
すると、村人たちは皆、笑顔で返事を返してくれた。
「あぁ、よろしくね、舞花ちゃん!」
「こちらこそ、よろしくね!」
「いやぁ、若い子が増えて、村が賑やかになりますなぁ」
「ははっ、本当じゃ本当じゃ」
温かく迎え入れられたことに、胸がじんわりと温かくなる。
この村の人たちは、みんな優しいのだと改めて実感した。
◇
そんな中、ひときわゆっくりとした足取りで、一人の老婆が近づいてくるのが見えた。
「ほぅ……この子があの……」
「あっ、村長、おはようございます」
「おはようございます、村長様」
「村長様……?」
私は驚いた。
この方が、この村の村長なのだろうか。
見るからに品格があり、穏やかでありながら、どこか凛とした雰囲気を纏っている。
「これは村長様、お世話になっています」
「カミコ様こそ、常日頃からよくしていただき、村人一同お世話になっております」
村人たちが口々に敬意を示す。
やはり、カミコさんはこの村にとって特別な存在なのだろう。
「その子が、昨日の雨の中倒れていたという……?」
「この子は白雪舞花と言います。名前と過去が思い出せないようでしたので、私が新しい名を名付けました」
「左様でございましたか。カミコ様に名付けしていただけるなんて、羨ましいことでございますね」
村長様は私の前に立つと、優しい笑みを浮かべ、手を差し出してきた。
私は少し戸惑いながらも、その手を握り返す。
「葦原の村長、紫(ゆかり)。よろしくね、舞花ちゃん」
「よっ、よろしくお願いします!」
思わず背筋が伸びる。
だが、紫様は穏やかに微笑み、ゆっくりと頷いた。
「良い子ですね。また、何かお困りのことがありましたら、出来る限りのお手伝いをいたしましょう」
「ありがとうございます。その時はまた、よろしくお願いします」
「えぇ。それでは私はこれにて失礼させていただきます。皆も、仕事に励むように!」
「「「ういっす!」」」
村長様が歩み去ると、村人たちはそれぞれの作業へと戻っていった。
◇
「さてと、次はどこに行こうかしら」
村の中を歩きながら、カミコさんが私に尋ねる。
「舞花はどうしたい?」
「時間の許す限り、この村の全体を見てみたいです」
しばらくの間、この村に滞在することになるのだろう。
であれば、どこに何があるのかを把握しておいた方がいい。
そう考えて、カミコさんに頼む。
「分かったわ。じゃあ、まずは私の友人のところへ行こうかしら」
「カミコ様のご友人様ですか?」
「えぇ、昔からの付き合いでね。まぁ、少しばかり堅物だけど……ふふっ」
どこか懐かしそうに笑うカミコさんを見て、私は少し興味をそそられた。
カミコさんが語る“ご友人”とは、一体どんな人物なのだろうか——。
ぼんやりとした意識のまま、天井を見つめる。木の梁が走り、落ち着いた雰囲気を醸し出している。畳の感触が背中に心地よい。
だが、体を動かそうとした瞬間——
「っ……!」
全身に激しい痛みが走り、思わず息を詰まらせた。まるで、体の芯まで軋んでいるような感覚。無理に動こうとすれば、悲鳴を上げてしまいそうだった。
呼吸を整えながら、視線だけを動かし周囲を見渡す。六畳ほどの和室。中央には畳の上に灯籠が置かれ、薄暗い光を放っている。襖には美しい絵が描かれ、障子の丸窓からは柔らかな光が差し込んでいた。
壁には筆で書かれた掛け軸が掛けられている。部屋全体は簡素ながらも清潔で、どこか温かみがあった。客間のような雰囲気——けれど、ここがどこなのか、なぜ自分がここにいるのか、何も思い出せない。
「ここは……」
かすれた声が喉を震わせる。自分の声だというのに、どこか他人のもののような気がした。
そのとき、襖の向こうから足音が近づいてくるのが聞こえた。ゆったりとした足取り。やがて、襖が静かに開き、一人の女性が姿を現す。
茶色の長い髪を腰まで垂らし、気品ある美しい着物を纏っている。穏やかな微笑みとともに、優しい眼差しを向けてくる彼女の姿を見ていると、不思議と心が安らぐ気がした。
「お目覚めかしら、巫女さん?」
巫女さん?
彼女の言葉に、思わず自分の身なりを確認する。確かに、白い装束をまとっている。しかし、これが何の服なのか、私自身がなぜこの服を着ているのか、何も思い出せなかった。
「……あなたは?」
彼女は優雅な所作で部屋に入り、私の傍らに膝をついた。そして、柔らかく微笑む。
「カミコよ。あなたが倒れているのを見つけて、ここに運んできたの」
「……私を?」
「ええ。雨の中、随分とひどい状態だったわ。体は冷え切っていて、服も濡れたまま。それに、随分と疲れていたみたいね」
彼女の言葉を聞きながら、自分の手を握る。細く、柔らかい指先がそこにあった。まるで、自分のものではないように感じる。
「……ありがとうございます」
「いいのよ。困ったときはお互い様だから」
カミコさんは手に持っていた手拭いを桶の水に浸し、軽く絞ってから私の額にそっと置いた。ひんやりとした感触が心地よく、思わず目を閉じる。
「熱はだいぶ下がったみたいね。よかったわ」
「……」
「それよりも、あなたの名前を教えてくれる?」
「……」
名前…。
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥に霧がかかったような感覚に襲われた。
必死に思い出そうとする。しかし、どんなに考えても、真っ白な霧の向こうにあるはずの記憶に手が届かない。
「……わかりません」
「名前が、わからない?」
「はい……何も……」
胸の奥が冷たくなる。この感覚は何だろう。大切なものを、すべて失ってしまったような——そんな虚無感が広がっていく。
「そう……」
カミコさんはそっと私の頭に手を添え、優しく撫でてくれた。その手の温もりが、ひどく心に染みる。
「じゃあ、思い出せるまでの間、新しい名前をつけましょうか」
「えっ……?」
「大丈夫、大丈夫。名付けには自信があるの」
彼女はそう言うと、腕を組み、何かを考え始める。時折「うーん」と唸りながら、真剣な表情をしている。
私は戸惑いながらも、彼女の様子を見守ることしかできなかった。
しばらくして、ぱんっと手を打ち鳴らし、カミコさんは満足げに頷く。
「決まったわ。あなたの名前は白雪舞花よ」
「……白雪舞花?」
「そう。白雪のように清らかで、花が舞うように美しく、しなやかであってほしいという願いを込めたの」
口に出してみると、しっくりとくる感覚があった。本来の名前ではないはずなのに、この名前を与えられたことで、不思議と安心感を覚える。
「それじゃあ、あなたは今日から舞花ね」
「……はい。ありがとうございます、カミコさん」
「よかった。それじゃあ、舞花ちゃんにはまず、しっかり休んでもらわないとね。体の回復が優先よ」
優しく布団をかけ直される。心地よい温もりが、疲れた体を包み込む。
名前をもらった安心感と、カミコさんの優しさに包まれながら、私は静かに目を閉じた。
◇
翌朝、小鳥のさえずりと障子の隙間から差し込む朝日で目を覚ました。
ぼんやりとした意識のまま、ゆっくりとまぶたを開く。
屋敷の天井は変わらず、穏やかな朝の光が部屋を照らしていた。
寝返りを打とうとすると、まだ少し体が重い。それでも昨日よりも随分と楽になっていることに気がついた。
ゆっくりと布団の中で手足を動かし、動作を確かめる。無理をしなければ問題なさそうだ。
「おはよう、舞花。起きていたのね」
ふと顔を上げると、襖が開かれ、カミコさんが静かに部屋へと入ってきた。
「あっ、おはようございます、カミコさん」
「昨日はよく眠れたかしら?」
「はいっ! おかげさまで、身体の痛みも和らぎました!」
布団を押し上げるようにして上体を起こし、笑顔を返す。
「良かった。薬が効いたのかしら」
そう言って、カミコさんは私の額にそっと手を添え、熱が下がっているか確認する。
「平熱ね。これなら今日は少し動いても大丈夫そうね」
「ありがとうございます」
「いいえ、私が勝手にやったことだから気にしないで。でも、治っている途中だから無理は禁物よ?」
「えへへ、ありがとうございます」
優しく微笑むカミコさんに、私は素直に礼を言った。
「薬の効き目も出ているし、朝餉にしましょう。うんと食べて、栄養をつけないとね」
その言葉に、私の意識がようやく自分の空腹へと向く。
確かに何も食べていないせいか、すごくお腹が減っている。
「えっ、良いんですか、こんな私に…?」
「もちろんよ。身体にいいものを作ったから、ちゃんと食べなさい」
その時——
ぐぅぅぅ……
時を見計ったかのように、お腹が鳴った。
“うう…こんな時に鳴るなんて……”
恥ずかしさで頬が熱くなる。
「さてと、冷めないうちに食べに行きましょう」
「はっ、はい!」
どうやら、カミコさんは私のお腹の音に気づいていないみたいだった。
ほっと胸をなでおろしつつ、カミコさんの後ろをついていく。
◇
こうして歩いていると、この屋敷の大きさに改めて驚かされる。
廊下は広く、整然とした造りになっている。障子や襖に施された装飾も品があり、家全体が手入れの行き届いた立派なものだった。
カミコさんはこの屋敷に一人で住んでいるのだろうか。
だとすれば、よほどの資産家か、あるいは身分のある人なのかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていると、ふと目に留まるものがあった。
「あっ、桜の木……」
中庭に一本の桜の木が生えている。
まだ花を咲かせる季節ではないため、枝には青々とした葉が生い茂っていた。
「綺麗……」
知らず知らずのうちに足を止め、桜の木を見上げる。
なぜか懐かしい気がした。
この景色を、どこかで見たことがあるような気がする。
「……舞花?」
「えっ!? あっ、ごめんなさい!」
カミコさんに声をかけられ、慌てて歩き出す。
考えても仕方がない。今は食事を優先しよう。
◇
居間の座卓には、すでに朝餉が並べられていた。
湯気が立ち上り、どれも出来立てのようだ。
「大した料理じゃないから、お口に合えばいいけど……」
「いえ、そんな気を遣わないでください! では、いただきます!」
座布団に座り、焼き魚の身に箸を入れる。
香ばしい匂いとともに、ぱりぱりと皮が破ける音が鳴る。
口に運ぶと、じんわりとした旨味が広がり、自然と顔がほころぶ。
漬物、汁物、ご飯——すべてが優しい味わいで、不思議と自分の好みにぴったりだった。
「どれもすごく美味しいです!」
「それは良かったわ。遠慮せずに、食べたいだけ食べてね」
「はいっ!」
夢中で箸を動かす。
これほど美味しい食事を取るのは、もしかすると初めてかもしれない。
記憶にはないが、私の感覚がそう訴えてくる。
◇
朝餉を食べ終える頃には、すっかり心も体も満たされていた。
「お粗末様でした」
「ご馳走様でした」
食器を片付けようとするカミコさんの手を止める。
「あのっ、カミコさん。私がやります」
宿を借り、食事までもらって、何もしないわけにはいかない。
「いいのいいの。舞花は怪我人なんだから、ゆっくりしていて大丈夫よ」
「で、ですが……」
「いいからいいから」
そう言ってカミコさんは私を座らせ、流しへと食器を持っていった。
しばらくして、洗い物を終えたカミコさんが居間へと戻って来る。
「さてと、今日は天気もいいし、村の人たちに舞花を紹介しに行こうかしら」
「村の人たち……ですか?」
「えぇ、ここは葦原村っていう小さな村なの。新しい仲間のことを、皆や村長に説明しなくちゃいけないし」
「新しい仲間……私のことですか?」
思わず問い返す。
すると、カミコさんはふふっと笑った。
「舞花以外、他に誰がいるのよ?」
「ですが、素性も分からない私なんかを……」
私は記憶を失い、どこから来たのかもわからない人間だ。
そんな自分を、簡単に仲間だと言ってくれることが信じられなかった。
「何を今更、どこか行く宛でもあるの?」
「……ありません」
「なら、しばらくの間ウチにいなさい。あなたのような子が一緒にいてくれるだけで、とても嬉しいわ」
私は、ただ頷いた。
「分かりました。しばらくの間、ここに居させてもらうことにします」
「決まりね。それじゃあ、早速出かけましょうかしら」
「分かりました!」
こうして、私はカミコさんに連れられ、葦原村の村人たちと出会うことになる。
◇
屋敷を出ると、眼下には水田の広がるのどかな風景が広がっていた。
青い空と白い雲。その下には、一面に広がる青々とした稲の苗。朝日を受けてキラキラと輝く水面が、とても美しく映る。
坂の上にあるカミコさんの屋敷から村までは、長い石段を降りて向かう形になるらしい。
遠くでは、すでに農作業に精を出す村人たちの姿が見えた。
「おはようございます、カミコ様」
「カミコ様、おはようございます」
「おはようございます!」
村の入り口へ近づくと、農作業をしていた村人たちが一斉に顔を上げ、カミコさんへ挨拶をする。
皆、親しみを込めた笑顔を向け、手を止めてこちらを見ていた。
「みんなおはよう」
カミコさんも自然な笑顔で挨拶を返す。
その光景を眺めながら、私は不思議に思った。
カミコさんはこの村で、よほど慕われているらしい。
「カミコ様、その子が昨日言っていた……」
一人の村人が、私を見て尋ねる。
「えぇ、そうよ」
「へぇ、可愛い巫女さんですね」
穏やかに微笑んだ村の女性が、私の頭を優しく撫でた。
「は、初めまして。わ、私、しっ、白雪舞花と言います……!」
緊張しながらも、ぎこちなく頭を下げる。
「カミコさんのお屋敷で、しばらくの間お世話になることになりました。よ、よろしくお願いします!」
すると、村人たちは皆、笑顔で返事を返してくれた。
「あぁ、よろしくね、舞花ちゃん!」
「こちらこそ、よろしくね!」
「いやぁ、若い子が増えて、村が賑やかになりますなぁ」
「ははっ、本当じゃ本当じゃ」
温かく迎え入れられたことに、胸がじんわりと温かくなる。
この村の人たちは、みんな優しいのだと改めて実感した。
◇
そんな中、ひときわゆっくりとした足取りで、一人の老婆が近づいてくるのが見えた。
「ほぅ……この子があの……」
「あっ、村長、おはようございます」
「おはようございます、村長様」
「村長様……?」
私は驚いた。
この方が、この村の村長なのだろうか。
見るからに品格があり、穏やかでありながら、どこか凛とした雰囲気を纏っている。
「これは村長様、お世話になっています」
「カミコ様こそ、常日頃からよくしていただき、村人一同お世話になっております」
村人たちが口々に敬意を示す。
やはり、カミコさんはこの村にとって特別な存在なのだろう。
「その子が、昨日の雨の中倒れていたという……?」
「この子は白雪舞花と言います。名前と過去が思い出せないようでしたので、私が新しい名を名付けました」
「左様でございましたか。カミコ様に名付けしていただけるなんて、羨ましいことでございますね」
村長様は私の前に立つと、優しい笑みを浮かべ、手を差し出してきた。
私は少し戸惑いながらも、その手を握り返す。
「葦原の村長、紫(ゆかり)。よろしくね、舞花ちゃん」
「よっ、よろしくお願いします!」
思わず背筋が伸びる。
だが、紫様は穏やかに微笑み、ゆっくりと頷いた。
「良い子ですね。また、何かお困りのことがありましたら、出来る限りのお手伝いをいたしましょう」
「ありがとうございます。その時はまた、よろしくお願いします」
「えぇ。それでは私はこれにて失礼させていただきます。皆も、仕事に励むように!」
「「「ういっす!」」」
村長様が歩み去ると、村人たちはそれぞれの作業へと戻っていった。
◇
「さてと、次はどこに行こうかしら」
村の中を歩きながら、カミコさんが私に尋ねる。
「舞花はどうしたい?」
「時間の許す限り、この村の全体を見てみたいです」
しばらくの間、この村に滞在することになるのだろう。
であれば、どこに何があるのかを把握しておいた方がいい。
そう考えて、カミコさんに頼む。
「分かったわ。じゃあ、まずは私の友人のところへ行こうかしら」
「カミコ様のご友人様ですか?」
「えぇ、昔からの付き合いでね。まぁ、少しばかり堅物だけど……ふふっ」
どこか懐かしそうに笑うカミコさんを見て、私は少し興味をそそられた。
カミコさんが語る“ご友人”とは、一体どんな人物なのだろうか——。
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