おもらしの想い出

吉野のりこ

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鹿狩純子のおもらしと夏原志澄実のオムツ

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  受験中、純子の目前で志澄実はおしっこおもらしをしていた。 
「……」 
「……」 
 あ~……完全に、おもらしだ…………肩も、お尻も震わせてるのが可愛いけど……すぐに泣き出すだろうなぁ……泣かないように口を押さえてる……もう涙とか零してそう……どんな顔してるのかな……おしっこも出続けてる……止まらないよなぁ……おしっこの匂い、ちょっとしてきた……、と純子は他人のおもらしを観察し続ける。純子自身の答案は完成しているので、志澄実のおもらしを観察するくらいしかやることはなかった。 
 ショォォ…ショォォォ… 
 少し勢いが弱くなってきたものの、おもらしは続いている。志澄実の小麦色した肌のふくらはぎから靴下も濡れて上履きの中に貯まっている。 
「………」 
「……」 
 可愛い足首……おしっこはギリギリで上靴に貯まって、水たまりにならないかな……それなら誤魔化しようもある……あ、無理か、溢れてきた……水たまりができてく……、と純子は冷静に床へ拡がる志澄実のおしっこを見つめる。 
「………」 
「……」 
 茫然自失って感じだな……これから、どうする? やっぱり泣くかな、助けてやれないかな……けどテスト中だし、動けないし、動くと逆に目立つし……、純子は色々と考えている。 
「………」 
「……」 
 おしっこ出し切った? ………まだ出る? どうせ、ここまで漏らしたら全部出す方がスッキリするし、限界まで我慢した後は膀胱が騒ぐと我慢できないよな、と純子が思っていると、志澄実はおもらしを再開する。 
 ショォォォ…シュゥゥゥ… 
 もう、おしっこが流れる道筋が決まったようで、志澄実の右ふくらはぎを流れ、左足首の後ろに流れ込み、左の上靴から床へ拡がる。また、水たまりが大きくなった。薄黄色の水たまりはおしっこおもらし独特の水たまりだった。 
「………」 
「……」 
 あ…泣きそう? もう泣く? 泣いたら、すぐ助けてあげよう、まずは周囲に顔を見られないように私の上着で隠してあげて、と純子は助ける段取りを考え始めた。 
「………」 
「……」 
 この子、どんな声で泣くのかな……シクシク? それとも子供みたいにワアンワアンとかな、泣き声を聴いてみたいなぁ、と純子は妙な期待をする。 
「………」 
「……」 
「………」 
「……」 
 この子、けっこうスカート短いなぁ……そういう系なのに頭はいいタイプの子かな、と純子は余計なことも考える。 
「………」 
「……」 
 根はまじめな子なんだろうな、おしっこおもらしするまでテスト頑張るとか、この受験に賭けてるなぁ、ってことは合格ラインすれすれ? 星丘も底辺層はしれてるから、こういうスカート短い子も来るか、まあ、見てる分には可愛いから好きだよ、そういう短さ、パンツはどんなの穿いてきたのかな、今日は勝負パンツ? と純子は志澄実のスカートの奥を想像している。 
「………」 
「……」 
 けっこう我慢したけど、もう泣きそう……肩を震わせて、もう泣くね……あ、荒宮先生が来た、と純子は静かに歩み寄ってきた試験官を勤めている荒宮希美子に気づいた。希美子は中学と高校の両方で美術科を担当している教師なので純子はよく知っている。美人なのに男っぽい喋り方をする人で純子は自分に共通するものを感じていたし、おかげで仲はいい。希美子は泣きそうになっている志澄実の肩を軽く叩いて言う。 
「大丈夫、まだ誰も気づいてないよ。そのまま口を押さえてなさい」 
「……」 
 志澄実が見上げている。その涙を湛えた目が試験官の名札を見て、ほんの少し安心した様子だった。希美子は続けて小声で言う。 
「あと3問、頑張って。途中退席しなければ、水筒の水を零しても、鉛筆を落としても10点はもらえる。諦めたら、そこで試験終了だよ」 
 そう言った希美子は志澄実が落とした鉛筆を拾うついでに椅子の下を見ている。志澄実がおしっこおもらしでつくった水たまりは直径20センチほど、あとはスカートや靴下と上靴が吸収している。他の受験生たちは自分自身の受験に集中していて気づいていないし、純子も答案を見直すフリをして気づいていない顔をつくった。 
「落ち着いて。あと9分、頑張るの」 
「……」 
 志澄実がコクっと頷いている。希美子は机の右隅に置かれている志澄実の顔写真と氏名と受験番号が表示されている受験票を裏返しにし、そこへボールペンで水藤静香(すいとうしずか)という仮名を書き、仮の受験票として効力をもつようにボールペンの頭についているシャチハタで荒宮の印を押して、何事もなかったように教壇へ戻っていく。 
「…………」 
「……ぐすっ…」 
 小さく鼻を啜った志澄実は試験問題を見つめ、数秒後には解き始めている。その姿に純子は好意を抱いた。 
「…………」 
 えらい! 頑張れ! と純子は内心でエールを贈った。 
 カリカリ…ピチャ……ピチャ… 
 ときどき志澄実の椅子から、おしっこが床へ滴って音を立てている。純子はその音と匂いを感じ、志澄実のお尻や背中、うなじを見つめ続けた。 
 キンコンカンコーン♪ 
 チャイムが鳴った。 
「……。はい、終了!」 
 希美子は志澄実が最後の問題を解き終わるまで数秒だけ待ってやり試験を終わらせた。受験生たちがタメ息を漏らし鉛筆を机に置いている。志澄実もすべての解答を終えていて、汗と涙に濡れた手が強く鉛筆を握っていて、離せなかったので左手で鉛筆を指から抜いている。 
「……ぐすっ………」 
「………」 
 えらいよ、やり遂げた、泣き出さずに、最後まで、と純子が感心している。 
「答案を集めます。着席しているよう!」 
 希美子は教室の端から試験用紙を回収していく。回収された受験生はグッタリと机に崩れたり、大きく伸びをしたりしている。誰も私語はしない。もともと同じ中学から受験に来ている生徒は可能な限り教室を分散されているので志澄実のクラスメートもいない。わずかに一人だけ、この教室にも志澄実と同じ中学から来ている受験生がいるけれど、席は離されているし男子だった。けれど、純子にとっては既知の顔が教室内に少なくない。中高一貫であがるエスカレーター組は親の転勤などの都合がない限り、そのまま高校に入るものの高校入試を三学期の期末試験代わりに学校が指定しているので、他の中学の受験生に比べれば高い確率で友人知人が教室内にいる。ただ、事前に私語は控えるよう指導されているので休憩時間もおとなしく座っている子が多かった。 
「………」 
 志澄実は俯いて震えている。そのうち誰かに、おもらしを発見され、大声で指摘され、みんなで笑われるかもしれない、という恐怖に怯えているようだった。 
「………」 
 そっと希美子が答案用紙を集めに来た。そのタイミングで小声で志澄実へ囁きかけている。 
「大丈夫、そのまま静かにしてればバレないから」 
「………」 
「次の自由も教室で受ければ10点あるよ。私が続けて試験官だから、なんとか頑張れ」 
「………」 
 また志澄実は静かに頷いている。希美子は答案用紙を集める作業に戻るので、次には純子の答案用紙を手にする。あえて純子は希美子と目を合わせなかった。希美子が去ると、志澄実はおもらしで濡れた中学制服のまま座り続ける。 
「…………」 
「……」 
 このまま休み時間を乗り切らせる気かよ……たしかに、うちの学園は保健室が幼小中高で共通だから、かなり歩く……往復と着替え、10分で戻ってくるのは無理……だからって、このまま試験を受けさせるのか……晒し者じゃん……でも、意外と周囲は気づかないものだな……気づいたのオレだけか……隣の石見が気づかないのは、あいつらしいけど……このまま、この子が泣かずにいれば、どうにか10分、乗り切れるか……あ、でも、やっぱり泣きそうになってる……ちょっとフォローが要るかも……どうしよう……うっかり男っぽく話しかけると変な女子だと警戒されるだろうし……女の子になる、今は、しっかり女言葉でいく、よし、私は今は女の子、と純子は軽い自己暗示をかけると席を立って志澄実に近づいた。そして、そっと小声で囁きかける。なるべく女の子らしい言動で。 
「あなた…おしっこを漏らしてしまったの?」 
「っ!」 
 ビクリと志澄実は顔を伏せたまま肩を震わせた。その肩を純子は抱いてあげたくなったけれど、初対面でそんなことをするのは変なので自重した。志澄実は顔をあげず、泣き声を押さえた小声で答えてくる。 
「ち…違うから……水筒の…お茶……零しただけ…」 
「水筒って………」 
 おいおい、その言い訳はねぇだろ……お茶が、そんな足元に水たまりをつくるか? お尻だってスカートの周り、ぐるっと濡れて水たまりになってるし……匂いだって……おしっこの匂い……でも可愛い……泣きそうなのに必死に耐えて……なんて名前かな、と純子は机にある志澄実の受験票を見る。 
「…すいとう…しずか…って…」 
 明らかな偽名っぽい氏名が希美子の字で書いてあり、判子まで押されている。つい気になって純子が本名を知ろうと受験票へ手を伸ばすと、志澄実が慌てて押さえてきた。 
 バン! 
 受験票を叩くように押さえ、そのまま机の中へ隠している。絶対に名前を知られたくないという意志が伝わってきた。 
「あ…そうだよね。名前は知られたくないよね。あ、私は鹿狩純子。スイトウさん、何か力になれる? 保健室いく? 雑巾で床を拭こうか?」 
 ごくごく優しい声で純子は提案してみた。おかげで志澄実の恐怖も少しはやわらいだようで答えてくれる。 
「…ぐすっ……大丈夫……なにも目立つことしないで……このまま次の時間も受験するから……これ、お茶だから」 
「そう。……でも、匂うよ?」 
 その言い訳は無理だ……すぐバレるぞ……、と純子は想うけれど、志澄実は泣きそうな声で言い張る。 
「っ……お茶なの……お茶なの…」 
「そっか。お茶だね、頑張って」 
 純子は優しく志澄実の肩を叩いた。これ以上に言うとフォローどころか追及になってしまい、パニックを起こして泣き出しそうだったので引き上げる。純子が着席して時計を見ると、休憩時間はあと5分だった。なのに志澄実の隣にいた石見がニヤニヤと笑いながら初対面なのに志澄実へ馴れ馴れしく話しかけ始めた。 
「よぉ、試験のでき、どうだった?」 
「っ…」 
 また志澄実はビクリと震えている。おもらしを男子にからかわれると怯え、声も出せない様子だった。 
「っ…」 
「……」 
 あの鉄オタ、変なこと言うなよ……、と純子が助けるべきかタイミングを見計らっていると、石見は早口で話し続けた。 
「数学の問い4のまる2さ。あれって解は二つあると思わないか? 出題ミスっぽく」 
「ぇ…………うん…」 
 泣きそうな鼻声だったけど、思わず志澄実は返事している。拍子抜けした様子だった。おもらしがバレたくない気持ちが志澄実の足を無意識に動かさせ、水たまりを誤魔化すようにモジモジとしているのが、純子の目にはとても可愛らしく見えた。石見は気にせず話し続けている。 
「あとさ、国語の問い6の選択肢、あれはイもエも正解だけど、究極に選ぶとしたらエじゃないか? でも、イを選んだとしても間違いじゃない」 
「うん! 私もそれ迷った!」 
「やっぱりか。よし、あとはクリアだな」 
 石見がニヤニヤと笑っている。その表情を見て志澄実は怯えている。おもらしのことをバカにされそうで怯えている顔だった。けれど、純子は石見の性格を幼稚園から知っているので、黙って見守る。石見はニンマリと笑い、志澄実へ言う。 
「オレさ、上位10番までに入れば、きりしまの切符を親に買ってもらう約束したんだ。君はさ、なにか親と約束したりした? ま、言いたくないならいいけどさ。きりしまだぜ、きりしま」 
「……きりしまって何?」 
「おいおい、知らないのか。いいぜ、教えてやる。豪華寝台特急で九州から東北まで走る列車だ」 
「……はぁ…」 
 純子は小さくタメ息をついた。もう何度も石見が語っているのを見てきたので正直どうでもいい。 
「…列車なんだ…」 
 志澄実は無視したときの石見の反応が怖いのと、おもらしに気づかれないためにも相槌を打っている。 
「九州から東北まで四泊五日の旅で、なんと139万円だぞ。一人。しかも、これ一番安いプランで。最上級のプレミアムスイートマテリアルなんて一人339万円。一泊あたり84万7500円だ。走行距離で割ると1キロあたり935円だぜ? 935円!」 
「そ…そうなんだ……すごいね……すごい高い…」 
 志澄実は混乱した顔をしつつも、おとなしく聴いている。おしっこを漏らしたままの自分に、男子が語ってくる内容としては意味不明という顔だった。石見は鉄オタらしく相手の反応などおかまいなしに語り続ける。 
「高いと思うだろ。けど、これが安いと感じさせるほどの旅なんだ。まず九州は霧島神宮から発つだろ、このとき御祓いしてくれるんだぜ。参加者全員に。もちろん、宗教的理由のある人は拒否れるけど、そもそも拒否るなら乗るなって話だよな。で、まずは別府温泉を目指す。熊本城がさ、地震で崩れてるだろ、じゃなきゃ熊本も寄りたいところなんだけど、博多に北上してさ」 
「…へ…へぇ…」 
「……」 
 石見の空気読まない力も、あいかわらずすごいな……でも、この子も、おもらしがバレないよう頑張ってる……可愛い……、と純子は二人を観察する。志澄実は顔をあげて石見の話を聴きながらも、頬を真っ赤にして恥じらっている。一見すると好きな男子に話しかけられて嬉しすぎてボーッとしている女子と、その好意に気づいていない男子に見えて面白かった。 
「山口県では瓦焼きのソバが出てくる。山口県そのものは通過するだけなのに、事前に食材を積んで置いて料理してくれるんだぜ。まったく山口県には停車しないのに、そこの名物料理を出すっていう趣向、すごいだろ?」 
「…うん…すごいね…」 
「京都ではさ…」 
 その後も石見のトークが止まらないのと、さすがに他の同級生が志澄実のおもらしに気づきそうなので純子が立ち上がり、志澄実のそばに立って会話へ入りつつ、足元の水たまりが見えないような立ち位置をとった。 
「鹿狩さん、君は10番までに入れば何か親からもらえる?」 
「まあね。ヨーロッパ旅行、だいたい百万くらいなら出してくれるって」 
「ヨーロッパもいいなぁ。鉄道発祥の地、まさに聖地だ」 
「私は芸術の都パリに行きたいの」 
 それは表向きの理由で本当は性的少数者の運動が盛んなヨーロッパを訪ねてみたかった。ヨーロッパはLGBT運動が活発な反面、今でもカトリック教徒が多く、イスラム圏にも近い、人類の中で強固に同性愛を否定するアブラハム系の宗教が残っている地域でもあり、かつ人権思想の発祥の地でもある。自由と解放を求めてのヌーディストビーチもあれば、露出した服装で訪ねることはできないバチカン市国もある。そんな土地の空気を知ってみたかった。 
「羨ましいなぁ。うちは貧乏だから合格しても何もないよ」 
 かなり羨ましいという声で志澄実が言ってきたのに石見はすかさず言う。 
「青春18切符があるさ!」 
「「……」」 
 微妙な顔になる二人に石見は青春18切符のお得さを語り始めた。その途中で試験官として希美子が早めに戻ってきて、紙束で石見の後頭部を叩いた。 
「まだ受験は終わってないよ。ナンパしてないで席に座れ」 
「荒宮先生、叩かなくてもいいだろ」 
 文句を言いながら石見が座る。教師が来たので全員が座り、残り数分だった休憩は静かに終わった。 
「よーし、最後の科目を始めます」 
 希美子が白紙のA3用紙を配っていく。まったくの白紙で氏名記入欄さえ無い。 
「では、各自、好きなことを書いてください。氏名と受験番号は、どこかに読めるよう、はっきりと。それ以外は自由です。点数化もされません。途中退席さえしなければ10点は入りますが、書いた内容はその人の人物を見るために参考とされ、順位や点数には影響しません。けれど、合否には影響します。とくに同じ点数の人が合格ラインに多数いるときなどは、これで決まります」 
 外部の中学から受験に来ている生徒たちは緊張して書き始めているけれど、純子と石見は氏名と受験番号を書くと、ぼんやりとする。もう何一つ書かなくても合格は確実な上、点数も関係ない。希美子が言ったとおり、このテストは人物を見るためのもので幼稚園から学園にいる二人の人物像はとっくに学園側も把握しているので今さらであり、あとは試験終了まで途中退席せずに座っていれば10点がもらえて終わりだった。 
「「………」」 
 あまりにヒマなので二人とも絵を描き始める。 
「……」 
 純子は目前の光景をデッサンし始めたけれど、途中でおしっこおもらしした瞬間の志澄実の姿を描くことに変えた。背筋をそらせ、泣き声を出さないように両手で口を押さえつつ涙を零す志澄実の表情を記憶と想像で描く。お尻や股から溢れたおしっこが椅子から流れ落ちる様や水たまり、背後から見た絵も描いたし、横や正面から見た絵まで描く。 
「……ハァ…」 
 描いているうちに熱中し、かなりの力作になった。おかげで回収した希美子に拳を頭に落とされた。 
「痛っぅぅ…」 
「まったく、いくら内部生は不合格にならないからって、これはない」 
「ささやかな意見ですよ」 
 受験生の悲劇、そろそろ制度を見直せば? 理事長の孫娘とかが漏らして自殺すればやめる? いつまで他人事なのかな、というタイトルまで書いている。希美子は用紙を集め終えると教壇に戻って全体に告げる。 
「これをもって試験を終わりますが、帰るまでが試験です。静かに整然と退場してください。あ、水藤静香さんは伝言があるので残ってください。他はすぐに教室を出るよう。お疲れ様でした」 
 受験生たちが帰っていく。志澄実は力尽きたように机に突っ伏しているので、純子は教室後方のロッカーを開けると、バケツと雑巾を出した。もう教室には純子と志澄実、希美子の3人だけとなる。 
「私が拭いておくし、先生とスイトウさんは保健室へ、どうぞ」 
「あなたは、いい子なのか悪い子なのか、よくわからないわね」 
「人は多面的なんですよ」 
「はいはい。水藤さん、立てる?」 
「…はい………ご迷惑をおかけしました」 
 志澄実がよろよろと椅子から立ち上がる。おしっこの滴がピチャピチャとスカートの裾から志澄実の上靴や床へ降っている。さっと純子は屈んで乾いている雑巾で上靴を拭いてやった。 
「…ぐすっ…ありがとう…」 
「どういたしまして」 
 純子が水たまりの方も拭き始めたとき、誰かが教室に入ってきた。 
「やべぇ! 忘れるところだった!」 
 石見だった。走って志澄実たちのところに来ると、自分が着席していた机から鉄道雑誌を取り出し、そして何事もなかったように去っていった。おもらしの処理をしてもらっている最中だった志澄実がショックを受けている。 
「……ぅぅ……見られた………」 
「「大丈夫、あいつは…」」 
 純子と希美子が異口同音する。 
「「鉄道以外に興味をもってないから」」 
「………あの男の子と友達なの? 高校の先生も?」 
「別に私とあいつは友達じゃないけど、幼稚園からいっしょだから面識はあるよ。生粋の内部生。あと、荒宮先生は美術の先生で中高どっちでも教えてくれてるから」 
 ずっと志澄実は純子と希美子が気安い雰囲気なのに疑問をもっていたようで、わかりきった質問を重ねてくる。 
「……ぐすっ……内部生って……星丘中学からのエスカレーター組のことですか?」 
「そうそう」 
「…私たちと、いっしょに受験してるんだ…」 
「大学受験で外部を受けるときの演習みたいなものかな。でも不合格にはならない」 
「……」 
 そんなのなんかズルい、と志澄実が思ったのが顔に出ている。純子は気にせず言う。 
「まあ、このテストが私たちの中3の3学期末試験になるから、ぜんぜんテキトーでいいわけじゃないし、あと10番以内に入るのを狙うなら、がっつり頑張るよ」 
「……エスカレーターの内部生もカウントされるの………そんなの…」 
 また志澄実が不平等を感じている顔になるので希美子が言っておく。 
「採点は厳正かつ平等にされるから安心して。自由の答案以外で560点満点で」 
「………内部生って、どのくらいが10番以内に入るんですか?」 
 まだ納得していない顔で志澄実が問うたので希美子は隠さずに答える。 
「だいたい毎年5人から7人かな」 
「っ…」 
 志澄実がショックを受けているけれど、希美子は純子を見て問う。 
「鹿狩さんは、どうだった? 10番に入れそう?」 
「たぶんね」 
「ヨーロッパのどこに行くの?」 
「もちろん芸術の都パリ♪」 
「お父さんは美大志望を認めてくれそう?」 
 すでに希美子は家庭の話も聴いていたので問うてみた。純子は諦め半分に言う。 
「ううん、絶対に医学部に入れって」 
「そっか」 
「けど、今回の試験で10番以内だったら医学部を出た後、美大に入るのを認めさせる」 
「取引ってわけね。それもいいかも」 
「……」 
 志澄実が黙っている。おもらしを純子に目撃されたことを気にしている様子で、その顔が可愛らしいので、からかいたくなってしまった。 
「私も石見も内部生だから、入学式には絶対いるよ。スイトウさんも合格してるといいね?」 
「……………」 
 おもらしのこと新しい高校生活で周囲に言いふらされたらどうしよう、という不安そうな顔になるので希美子が言ってやる。 
「大丈夫、鹿狩さんはイジメをやるほど悪い子じゃないし」 
「さて、どうかな?」 
 からかいたい純子は暗く微笑し、希美子は教師として注意する。 
「そういう不安を与える言い方、やめなさい。すごく傷ついてるに決まってるのに」 
「はい、はい、ごめんね。言わない、言わない。ぜーったい、言わない」 
 軽い調子の純子へ不安になった志澄実が心底頼む。 
「絶対、絶対、お願いね!」 
「うん、うん、この口が裂けても言わない」 
「お願いします」 
「でも、言わないけど描くかもね」 
「っ…カクって、どういうこと?」 
「絵に描くの」 
 画力があり、それを生き甲斐にしたい純子が得意げに言うと、希美子は強く注意する。 
「それもやめなさい。あんな風に描かれたら、水藤さんが傷つきます。イジメとみなしますよ」 
「っ…あんな風って?! どこかに描いたの?!」 
 悲鳴のような声を志澄実があげたので、希美子は口を滑らせたことを後悔しつつ、言わないと逆に不安を高めてしまうので説明する。 
「鹿狩さんが、ふざけて答案に水藤さんの絵を描いたの」 
「っ…」 
「だって自由だもん」 
「ひどい!!」 
「かなり印象的な光景だったしさ。創作意欲をくすぐられて」 
「ひどい!! ひどい!! ひどい!! 私がっ…私が、どんな気持ちで!」 
 叫ぶ志澄実の両目から涙が零れる。嗚咽して泣きかけている。そんな表情に純子は趣味の悪い好意を覚え、ついつい泣かせてみたくなる。そんな気配を察して希美子が叱る。 
「コラ、せっかく泣かせずにいたのに」 
「ごめんね、スイトウさん」 
「っ!」 
 からかう感じの軽い謝り方をされた志澄実は感情が爆発して、手を挙げていた。 
 パチン! 
 志澄実の平手打ちが、純子の頬を音が響くほど叩いていた。 
「痛っ…」 
 純子はよろめく。 
「…ハァ…ハァ…」 
 叩いた志澄実は怒りで興奮している。おしっこおもらしの姿を答案に書かれ、それを提出されたことで怒っている。純子は叩かれたことで頭に血が上る。 
「この…」 
 純子も叩き返そうと右手をあげた。 
「……」 
 けれど、純子は振り上げた手をおろした。たとえ叩かれたとしても、女の子を叩きたくない、そんなことはカッコ悪いという意識が働いたし、取っ組み合いのケンカになると負ける気がした。体格は志澄実の方が15センチほど身長が高い。体重も純子は痩せ形、志澄実は出るべきところが、しっかり出ている。純子は思春期に入ってから、高い身長を望んだけれど、140センチ台から伸びなかった。男の身体になれないまでもスラリとした高身長になりたかったのに、低いままだった。できれば男子野球部員のような筋肉質な身体になりたくて母に隠れて筋トレもしていた。けれど、学習面の才能には恵まれて生まれ、教科書を読めば一度で理解し、英単語も漢字も歴史も簡単に記憶できる脳に生まれたものの、筋肉には女の身体ということもあって努力しても太い腕にはなれなかった。志澄実くらいのおっぱいもお尻も大きい女子を軽々とお姫様抱っこしてあげたい、という野望は果たせそうにない。ただ腹筋は割れている。他の女子たちがケーキやアイスクリームなどの甘い物を強く欲するのに比べて純子は食欲が薄かったし、食べると筋肉にならず胸やお尻に回るのを感じたので、最低限しか口にしなかった。おかげで細身で少し筋肉質というモデル体型になり繁華街を歩いているとスカウトに声をかけられる。今、志澄実とケンカになって勝つなら、素早く蹴るか、急所を殴るのが純子の体格でも勝てる戦法だったけれど、そんなつもりは毛頭無いし、女同士のケンカっぽく平手打ちの応酬をする気もない。もっと確実かつ合理的な方法を採るつもりだった。純子は冷静な顔になり、視線を志澄実から希美子に向けて言う。 
「荒宮先生、他校生に暴力をふるわれました」 
「「……」」 
「とても痛いです。傷つきました。他校生は高等部を受験に来た人です。これから高等部の校長に暴力行為を報告します」 
 これが完全勝利の作戦だった。ケンカ両成敗を受けるより、ただ叩かれただけの被害者であるのが最強という冷静な判断で純子は冷たい顔をつくって志澄実を一瞥する。 
「っ、」 
 志澄実が事態の深刻さに怯み、純子は踵を返して教室の出口に向かった。 
「そんな…やめて! 待って!」 
 志澄実が声まで青ざめた様子で追ってきて純子の袖を握ってくる。そんな報告をされれば合格が危うくなるという受験生の切羽詰まった窮状だった。もうケンカは完全に純子の勝ちで志澄実は折れるしかない。学園側も内部進学の生徒と外部から受験してくる生徒を入学してしまえば差別しないけれど、合否判定をするまでは志澄実の立場は危うい。受験の日にトラブルを起こした受験生がどう扱われるか、合格が確実な純子に比べて不確定要素が多すぎて志澄実は追いつめられた。 
「お願い、待って!」 
「外部生って、やっぱりバカね。自分の立場もわかってない」 
「叩いたことは謝るから!」 
「あれ? せめて、ごめんで済んだら警察は要らないくらいのこと、外の学校でも習わないの?」 
「ごめんなさい! 思わず、思わずなの! だって、あなたが…」 
 謝りながらも志澄実は悔しそうな顔もする。そんな顔が可愛らしくてキスしたくなるのに、男子小学生が好きな子へ意地悪するように純子はほくそ笑む。 
「残念ね、今日一日の頑張りが水の泡。あ、おしっこの泡かな。クスクス」 
「ぅぅ…」 
「おもらししたまま頑張ったのに、不合格確実。でも、その方がよくない? 諦めついて。おしっこ漏らした学校に入学するより、どっか別のとこ行けば」 
「私にはここしかないの! お願い!」 
 すがってくる志澄実を抱きしめたい衝動と、冷たく振り払ってみて反応を観察したい好奇心に純子の心が揺れ、希美子は単純に可哀想すぎるので仲裁に入る。 
「そのへんにしてあげなよ。手を挙げたのは水藤さんだけど、総合的に見て鹿狩さんが悪い」 
「荒宮先生、校長へ報告に行く証人になってください。教師は黙秘権を行使しませんよね。見たことをありのまま証言してください」 
「そんなに怒るな。あと、教師には守秘義務がある。証言はしないし、行かない。水藤さんも謝ってるから、許してやれ」 
「………」 
 まだ意地悪したい純子はプライドの高い女子っぽい仕草で手鏡を出して叩かれた頬を見る。薄くピンクになっている。自分の顔や身体への頓着は無いのに、あえて女の顔に傷がついた風に言う。 
「赤くなってる……親にもぶたれたことないのに」 
「「…………」」 
 志澄実が、どうか許してください校長先生に報告なんかしないで、という涙目で見てくるし、希美子は、もう許してやれ、という目で見てくる。純子は新しい意地悪を思いついた。 
「……いいよ、校長への報告はやめてあげる」 
 そう言って今度はスマートフォンを出すと、さっと操作して耳にあてた。 
「あ、もしもし、サヤちゃん」 
 中学で友達になった子と会話するフリをする。 
「私まだ教室、それがさァ、テスト中におしっこ漏らした子がいて、その掃除」 
「っ?!」 
 志澄実が身震いするほど驚いているし、希美子も声をあげてくる。 
「ちょっと待て、鹿狩!」 
「きゃははは! マジマジ、マジでおもらし! しかも、おもらししたのにテストを続けたんだよ! すごい執念! 私にはここしかないの、って言ってさ。あの執念なら合格かもしんないし、入学してきたら、いっしょにイジメようよ。みんなで!」 
「っ…っ…」 
「やめなさい! 鹿狩!」 
 志澄実は息が止まりそうな顔をしているし、希美子は強引に純子からスマートフォンを取り上げ、耳にあてて警告する。 
「もしもし! 美術の荒宮だ。今、聴いたことを広めたら、君もイジメの幇助者とみなす。……もしもし? もしもし?」 
「クス…先生、それエア電話」 
 純子は可笑しくてクスクスと笑った。希美子が画面を見て、ただの壁紙が表示されているだけなのも滑稽で可笑しい。 
「先生まで、ひかかるなんてね。どう? スイトウさん、ビビった?」 
「…っ…」 
 志澄実は青ざめているだけで何も言えない。純子が畳みかける。可愛いと想っていて、おしっこも拭いてあげた志澄実に叩かれたのは、かわいさ余って憎さ百倍の感もあり、絶対に泣かせてやるつもりだった。 
「さ、どうする? 私には、どっちもできるよ。校長に報告も、友達に報告も」 
「……」 
 志澄実の顔が絶望の色に染まっていく。合格できないかもしれない、合格しても学校でイジメられるかもしれない、そんな風に未来が見えなくなった顔だった。もう、どうしていいか、わからない、そんな表情で志澄実は身震いし立ったまま、おしっこを垂れ始めた。 
 ショー… 
 試験中に漏らした残りがあったようで、それを垂らしている。棒立ちのまま力が抜けたように、おしっこを垂れ流しているので脚の間、スカートの中から床へ、そのまま垂れていた。 
 ショー… 
 おしっこの匂いが再び拡がる。まだ体温の残っているおしっこは冬の教室で湯気をあげて香る。志澄実が二度もおもらしする様子に純子が驚く。 
「え? なんで、また、おもらし?」 
 問いつつ、志澄実が感じている絶望と恐怖を理解して言った。 
「……あ、イジメ宣言されてビビりすぎて漏らしたの?」 
「……ぅ………ぅくっ……ぅああああん!」 
 志澄実が声をあげて泣き出した。おしっこを漏らすほど精神的に追いつめられていて、もう泣くしかないという反応だった。泣きながら、負け犬の遠吠えのように叫ぶ。 
「なんで?! なんでよ?! うちはお金がないの! ここしかないの! イジメないでよ! お金持ちなくせに!」 
「やっかみ? カッコ悪いね」 
「あなたには貧しい人の気持ちなんてわからない!」 
「だから?」 
「だから! ………だから! ………うわあああん! ごめんなさい、ごめんなさい、叩いて、ごめんなさい! 許してくださいいぃいい!」 
 志澄実は謝りながら、おもらしでつくった水たまりに両膝をついて、祈るように両手を組むと純子を見上げてくる。 
「なに、それ?」 
 そう冷たく言ったけれど、純子は背筋が熱くゾクゾクと興奮するのを感じた。 
 圧倒的優越感。 
 おしっこを漏らしてまで謝罪する姿は純子に圧倒的優越感をもたらした。 
 感じる。 
 自分の手のひらの上に志澄実がいることを。 
 志澄実の方も純子の手のひらの上で生殺与奪を握られていることを自覚している。 
 だからこその、おもらし。 
 ボスザルに睨まれた格下ザルが失禁するように。 
 テロリストに銃口を向けられた人質の少女がおしっこを漏らすように。 
 怖いのと、許して欲しいので、精神的に完全に屈服して漏らしてしまっている。 
 純子は高鳴る興奮を、ポーカーフェイスで隠してタメ息をついてみせた。 
「はぁぁぁ……泣く子と地頭には勝てないわ」 
 肩をすくめてみせ、寛容な言葉を述べる。 
「はいはい、もう、いいよ。おしっこ拭いてやったのに、人のこと叩きやがって恩知らずって思ったけど、なんか切羽詰まって受験してるんだね。許してあげるよ」 
 さらに優しくもする。おしっこで再び志澄実がつくった水たまりを雑巾で拭いてやる。志澄実は腰が抜けたように、その水たまりに座り込んでいた。膝がプルプルと震えているのが、最高に可愛らしい。そして優越感も深まる。もともと志澄実も純子を叩いたとき無意識で一回り体格の小さい相手なら、取っ組み合いになっても勝てると踏んでいるだろうことを聡い純子は察している。ほぼ頭一つ体格が違うと、同じ学年でも舐められる。小さい子、と見くびられる。でも、その見くびっていた相手に生殺与奪を論理で握られて、もう対抗できなくて、おしっこを垂れて許しを乞うてくれた。笑顔にならないように注意しながら純子は希美子へ言う。 
「荒宮先生、この子を保健室に連れていってあげたら?」 
「そうね。……鹿狩さん、他言は…」 
「しないしない。あー、私って親切、おしっこ二度も拭いてあげるなんて。叩かれたのにさ」 
 純子はおもらしした志澄実を心底可愛いと想っていることを悟られないように演技して続ける。 
「入学してきたらジュースでも奢ってもらおうかな。たっぷり私がおもらしするくらい」 
「…ぐすっ…叩いて、ごめんなさい…」 
 まだ謝ってくれる。一瞬、純子は高校時代の茉莉那を想い出した。それで自覚する。志澄実に二度目の恋をしてしまった自分を。 
「もういいから。こっちも、からかってごめん。許してくれる?」 
「…うん…ぐすっ…」 
 志澄実を立たせてやり、純子は教室に残って水たまりを片付ける。志澄実と希美子が教室を出て行くと、雑巾で拭く前に指先で志澄実のおしっこに触れた。 
「……可愛い子……合格していて欲しいなぁ…」 
 おしっこの匂いを嗅ぎながら志澄実を想った。指先を舐めようかとさえ想ったけれど、さすがに変態地味ているのと、教室の床に拡がっていたおしっこなのでやめた。床を拭ききり、雑巾をバケツに入れて教室を出る。洗う場所を探していると職員室前に志澄実が立っているのを見かけた。 
「おもらし姿のまま放置かよ……まあ、答案用紙が優先は仕方ないか」 
 純子は一人言をこぼして、志澄実の方へ歩く。そこに水道があるので近づいた。志澄実はコートを着ているおかげで、おもらしした状態なのは靴下が濡れていることくらいでしかわからないけれど、とても恥ずかしそうに立っている。まるで、おもらしした罰で廊下に立たされている少女のようだった。 
「………」 
「………」 
 純子は声をかけたかったけれど、言葉選びに迷い、志澄実は泣き止んでいるけれど、何も言えずにいる。純子は雑巾とバケツ、手を洗った。そして、ごく平凡な挨拶で志澄実と別れる。 
「じゃあね。合格を祈ってあげる」 
 笑顔で手を振った。志澄実は恥ずかしそうに頭をさげている。その姿も可愛くて本当に合格していて欲しいと心から想う。そして純子はバケツと雑巾を教室へ返すと、おしっこに行きたくなった。 
「……これ、家までもたないし、無理に我慢すると、また膀胱炎になるかも…」 
 中学生になっても純子は女子トイレを使わないようにしていた。一日我慢するコツも覚えて、なるべく朝食でも昼食でも水分は控え、家のトイレまで我慢していた。けれど、さすがに寒い日や体調の加減で一年生のうちに4回、おもらしを学校でしてしまった。純子が学校のトイレを使わないことを知っている小学校からのメンバーは中学生にまでなっておもらしした同級生をそっとしておいてくれた。あの夏休みのおもらし合宿以降、夏休み明けには女児たちはおもらし遊びは卒業してしまい、担任教師を安心させたけれど、純子だけは遊びではなかったのでトイレを使わないまま学校生活を送った。中学校では40人の外部生が入学してきていて、おしっこを漏らしてしまった純子を驚いた目で見たし、一度ならず何度も漏らしてしまうので影で噂された。とくに純子は女子の中でリーダー的な位置にいることは小学校から変わらなかったし成績も上位陣だったので目立った。おもらしなどしてしまうとリーダーの座から転落するのではないかと外部生たちは考えたけれど、小学校からのメンバーが無かったことのように純子と接するので誰もイジメたり表立って純子をからかったりしなかった。 
「……高校ではトイレ……どうしよう……」 
 それでも中学二年生になると膀胱炎になってしまったし、夏場は熱中症で倒れることが増え、病弱なように見えるのがカッコ悪くて嫌だったし、膀胱炎が慢性化して多いと一週間のうちに4度も教室でおもらしをした。一番ひどかった日は午前中に漏らしたのに、午後からも漏らしてしまい、さすがに担任教師と養護教諭からトイレに行くようにするか、オムツを着けて登校しなさいと言われ、オムツはカッコ悪くて死んでも嫌だったので渋々女子トイレに入るようにした。自己暗示の技術を使って、そのときだけ自分は身も心も女子だと思い込むようにして女子トイレを使うようになった。自己暗示の技術は希美子から習った。お互い口には出さないけれど、おそらく希美子も純子と同じような人間なのだと感じている。おかげで中学三年生では一度もおもらししなかった。おもらしをしなくなった純子を男子の一人がからかってきたけれど、キンタマ蹴り潰すぞ、と純子が凄むと消えた。実兄に冗談でなく実行したという伝説がある純子は男子からも恐れられていた。 
「………今なら誰もいない……」 
 おしっこが漏れそうで純子はトイレに向かって歩いてきたけれど、男子トイレと女子トイレが並んでいる前まで来て、今現在は校舎に人がいないことに気づいた。受験生は帰り、在校生は休み、教師たちは職員室、いずれ用務員が戸締まりに来るまで高校の校舎には誰もいない。そう思い至ると、純子の脚は男子トイレに向かっていた。 
「高校生活で、最初に入ったのは男子トイレ……」 
 正確には、まだ中学生だったけれど、純子は個室がすべて空いていて本当に誰もいないことを確かめると、男子用の小便器に身体を向けた。 
「もし、ちゃんとチンチンがあったら……」 
 幼稚園の頃から切望したけれど、とうとう純子に男根は生えてこなかった。兄たちのように大きくなれば生えるかもしれない、自分は男のはず、と想っていた。けれど現実は冷たかった。純子は男性のように、おしっこをしてみる。 
「……」 
 スカートを手であげ、ショーツをより分け、おしっこを出した。立ったまま。 
 シュゥゥゥ…パシャパシャ! 
 おしっこは前に飛ばず、真下に落ちてしまう。おかげで脚が濡れた。 
「……なんで…だよ……おチンチン……欲しかった…」 
 情けなくて泣きたくなったけれど泣かず、純子は水たまりを掃除用具のホースで流すと保健室に向かってみた。脚が濡れたおもらししたような姿で、おそらく保健室にはまだ志澄実がいるはずなので会いに行ったら、何か会話できるかもしれない、何を話すつもりか、具体的なことは何も浮かばなかったのに、保健室を訪ねてみた。扉の前に立つと、室内から志澄実の泣き声が響いてきた。 
「あああんううう!」 
「……」 
 号泣だった。 
「うううっうううっ!」 
「……」 
 そこまで泣かなくても……やっぱり、女の子だなぁ……茉莉那も、こんな感じだった……、と純子は懐かしく想いながら、今は会わない方がいいと考え学園を出る。外に出て予定を思い出した。 
「あ! 解答速報のバイトに行かないと!」 
 市街地にある塾が配信する入試問題の解答速報に出演する予定があるので走った。走っているうちに脚は乾いたし、ギリギリで定刻に滑り込んだ。 
「ハァ、ハァ、遅くなりました、ごめんなさい」 
「おいおい、オレたちギャラもらってるんだ。定時運行は基本だろ?」 
 いっしょに出演する予定で先に到着していて、もう数秒前から配信放送を始めていた石見が言ってくる。純子は女子らしい口調を心がけて言い返す。 
「野暮用があって学校を出るのが遅くなったの! あんたが気づかない問題を色々処理してたんだから」 
 塾の講師が雑談はほどほどにしてほしいという顔で純子を紹介する。 
「もう一人の受験者、鹿狩純子さんです。では、さっそく数学からお願いします」 
「「はい」」 
 純子と石見は試験問題を記憶しているのでホワイトボードに書いていき、正確かつ手際よく解答を説明していった。五教科すべての解答が終わり講師が礼を言ってくれる。 
「お二人ともご苦労様でした」 
「「いえいえ」」 
 アルバイトが終わり、即日で謝礼を受け取った。 
「「フフフ…、これで5万円か、チョロい」」 
 純子と石見が異口同音しつつ封筒にある紙幣を数え、懐に入れた。たまたま偶然、高い知能指数に生まれてきたことを感謝する瞬間だった。 
「鹿狩さん、オレがこの5万円ですることを語ってもいいかな?」 
「どうせ、どっかに鉄道旅行へ行くんだろ?」 
「正解♪」 
「お前、ホントに鉄道が好きだよな。女とかに興味ねぇの?」 
 純子は気安く石見と話している。幼稚園からいっしょなので気を遣う必要はなかった。石見の方も、時と場所によって純子が男っぽく話すことに慣れているし、そこに興味がない。 
「あまり無いかな」 
「少しはあるんだ?」 
「少しは」 
「オレのパンツ、見せてやろうか?」 
「いえ、けっこう」 
「フン、ちゃんとチンチン、勃起するのか?」 
「往来で話すことじゃないよ。まして女性が」 
「鉄オタに常識を説かれるとは……別に、男とか、女とか、関係ねぇじゃん。ってか、もし石見、お前の身体が女だったら、どうする?」 
「え? ……自分の身体が女性だったら、どうするか、という問いですか?」 
「そうだよ。どうする?」 
「どうって……どうもしないかな。普通に生きて、鉄道で旅して、人生をまっとうする」 
「結婚とかは、どうする? 女なんだぞ、男と結婚するのか?」 
「そりゃ、女であれば、男と結婚するんじゃないかな」 
「……そう簡単に言うけど、お前はホモか? 男同士で愛し合えるのか?」 
「いえいえ、それ問いの前提条件が変わってる。女になった場合という問いのはず」 
「身体は女になるけど、心は今のまま、という条件で再考せよ」 
「う~ん……」 
 石見が腕組みして考え込む。そして答える。 
「まあ、身体が女であれば、だんだん女の気持ちになるというか、無理に男として生きても仕方ないので、女として振る舞うかな。女性の鉄も最近、増えてるし」 
「………鉄オタ趣味は、どの性別でもいいだろうけど……っていうか、鉄オタも一種の変態かもしれないな」 
「そうかも」 
「否定しないのかよ」 
「考えてみれば、廃線になると聴けば九州だろうと北海道だろうと駆けつけ、雨の日にも負けず風にも負けず、走る姿を撮る者もいれば、乗り込む快感に浸る者もいる。本来の人間の営みからは、ずいぶんと外れた行動だから、変異体といえば変異体ゆえに、変態という言い様も当たっているかもしれない。実際、自分は乗り込む派、ノリ鉄なわけだけど、乗っているとね、ものすごくゾクゾク快感がくる。ワクワクするし、ソワソワする」 
「……そうか……変態だなぁ……男であるとか、女とか、超越してるなぁ……まあ、ありがとう、少し参考にはなったよ。じゃあ、また高校でもよろしくな」 
「こちらこそ、よろしく」 
 親友ではないけれど、幼稚園からの縁がある仲なので気安く手を振って別れた。 
  
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