Locust

ごったに

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 去年のことだ。
 当時、担当していた事件の捜査にかかりきりで、ロクに家にも帰っていなかった。
 仮眠室で寝起きする毎日で、月に何回家に帰っていたか。
『たまには父親らしいこともしてよ!』
 息子の写真や動画よりも、妻の金切り声の方が多く届くようになったのは、いつからだったろう。
 俺の返事は、決まっていつも同じ。
「俺に言うな。馬鹿な犯罪者や半グレどもに言え」
 俺だって、チンピラや通り魔と取り調べ室で禅問答するよりも、五歳になったばかりの愛する息子の成長を見守りたい。
 思うようにいかない人生と、因果な生業を嘆くのにも疲れ切っていた。
 泥水同然のコーヒーで胃を荒れさせながら、パソコンとにらめっこし、書類を捌く。
 区切りがつけば喫煙室に籠り、タバコを咥えた。将来の健康を犠牲にしてでも、目先のイライラを収めなければやっていられない。
 捜査に進展があったり、緊急事態が起きたりすれば、仮眠中でも叩き起こされ、現場へ急行。
 それが、俺の普通だった。
 家族サービスが大変、嫁の実家に顔を出すのが面倒くさい、無理して休みをつくって行った父兄参観日だが行ってよかった、家事をしなさすぎて嫁から凄い当てつけをされた。
 昔の友人の愚痴や、ネットで見る父親の日常こそが、異様に見えた。
 旦那ATM論が唾棄すべきものとして語られているが、俺にはそれくらいしか家族にしてやれることはない。
 非行少年や犯罪者を生むのは、生育過程における親からの愛情不足だ。
 学者が訳知り顔で宣う論が、しょっぴかれてきたガキ相手に調書を取っているとき、いつも脳裏を過ぎる。
 結婚なんて、するんじゃなかったかもしれないな。
 刑事の子供が犯罪者、なんてことになれば、あまりに報われない。
 そうなったら、全部俺の責任だな。
 コーヒーの水面に映った、実年齢より明らかに老けた男に顔をしかめる。
 飲み干して、書類を少しでも片付けようとしかけたときだった。
「日月さん! 奥さんが!」
 名前を呼ばれ、思わず立ち上がる。
 見れば課の入り口で息を切らしている、制服組の婦警。
 優愛ゆあに何かあったのか!?
 聞き返すよりも早く、婦警を押しのけて優愛が乗り込んできた。
 ただならぬ雰囲気に、同僚の視線が突き刺さる。
「あんたのせいよ!」
 疲れ切った顔に、血走った目。
 俺のせい?
 優愛に何かあったわけではないようだ。
 つまり、最悪の答えが脳裏を過ぎる。
直斗なおとが! 直斗がいなくなったのよっ!」
「直斗が……!?」
 一瞬、目の前が真っ暗になった。
 お前がちゃんと直斗を見てなかったのが原因じゃないのか?
 だいたい、うちは金持ちでもなんでもない。しがない刑事の子供をさらって、何が目的だ?
 金目当てじゃないなら、幼児性愛者の変態か?
 俺がしょっぴいた犯罪者の関係者による、報復?
 そんなことより、直斗は生きているのか?
 一斉に去来する考えで、頭がパンクしそうになる。
 そうしている間にも、同僚たちが優愛の元に走り寄り、質問攻めにしている。
 身内の関わった事件からは、その刑事は外される。
 私怨で捜査することで、間違いがあってはならないからだ。
 間違い?
 間違いって、なんだよ。
 息子が攫われて、はいそうですかと関係ない事件の捜査をするのが、人間として正しいのか?
 何のために俺は、捜査一課なんてとこにいるんだ?
 ほどなくして、課長から「面倒くさいからお前、自宅待機」と命令されてしまう。
 自宅待機、と言われて笑ったのは後にも先にもあのときだけだ。
 何が、自宅か。
 もはや署の仮眠室が自宅みたいなものだってのに。
 直斗が誘拐されたことを俺のせいだと詰るだけの、壊れたラジオみたいな妻とアパートで缶詰だと?
 何でもいいから捜査に関わらしてくれ、と訴えるも「規則だから」の一言であしらわれてしまう。
 久しぶりに帰った家は、荒れ切っていた。
 俺を見るなり、優愛は殴りかかって来た。
 致命傷に至らないものはすべて甘んじて受けた。
 だが殴る度、俺よりも優愛が傷ついていくようだった。
 同僚に自宅を張られ、誘拐犯から身代金要求の電話もない。
 そしてある日、とんでもないことを聞かされた。
 捜査本部の、解散。
 当然、直斗の生死すらもわかっていない。
 理由を聞けば、上からの圧力で捜査を禁止された、の一点張り。
 刑事ドラマで幾度となく聞いた、陳腐なものだった。
 殴っても仕方ないのは百も承知で、課長を殴ろうとして同僚に止められた。
 そんなわけで、俺は刑事を辞めた。
 優愛も実家に帰り、しょうもない私立探偵が一人、この世に生まれたってわけだ。
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