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そもそも脳みそが努力アレルギー

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 脳みそはラクをしたがる。

 手書きで文字や文章を書く機会は、減ってきているがそれでもゼロなわけではない。
 筆者は急いで手書きしなくてはならない(単に急ぎたいとき含む)とき、漢字を書くのがともかく嫌だ。
 画数が多い。
 魔法の「魔」の「鬼」を「マ」にするなどの略字はさまざま存在する。
 この知識があると、手書きで有利だ。
 まあ、現代人が手書きで「魔」を書く機会はかなり減っていると思うが、門構えの簡略化とかはよくやる。
 略字の知識があってもどうにもならない、煩わしい画数問題に直面したとき、脳みそはラクをする。

 ────悪魔が集いし邪教の館へようこそ……

 そう、悪魔合体ならぬ漢字合体をするのだ。

 具体例が残ってないので説明に困ってしまうところだが、「身体」という熟語を例として省略してみよう。

「躰」

 このように一文字で「身体」を表す漢字が存在する。

 小学校で習った「体」でいいだろ、という声もあろうがやろうと思えば「身体測定」を「躰測定」とやってしまっても意味は通じる。「体」とは違う利便性があるのだ。

 こんな感じで二字熟語の内側を省略して外側同士をくっつけて一文字にする、というラクをするわけだ。

 ラクなようで、後で見返す、他人に見せるという場合に困るので結局消して書き直す羽目になる。
「仮面ライダーW」で例えると、「サイクロンジョーカーとルナメタル」を「サイクロンメタル」と書いてしまうようなものだ。
 意味が全然変わってしまう。

 このように、人間の知的活動はもちろん運動のための電気信号を出す役目も負う大元の脳みそが、そもそもずぼらで努力が大嫌いなのだ。

 忘れ物をするのもそうだ。
「今日は〇〇があるからコレコレが必要」と理性で思っていても、「別に体操服とか隣のクラスの友達に借りればいいよ」「アレがあった方が快適に過ごせるけど、そんなものなくても仕事の遂行自体には問題ない」と本音では思っているのだ。脳みそはそこをついて、最低限の装備で出発させようとしてくる。
 筆者は本職の脳科学者とかではないが、実感としてはそう。
 出先で忘れ物に気が付いたとき、その大半が「本音ではそんなものなくても問題ない」と思っているものだ。
 上の例以外だと「ついでに〇〇したかったのにそのための物を忘れた」もある。
 戸締り確認を二度も三度もしたのに忘れ物をした、みたいなときは本当に自分に失望する。
 体育の授業が忘れ物にめちゃくちゃ厳しい(体操服や水着を忘れただけで欠席扱いなど)のは、教育の意図があると思うのだが……残念ながら教育で強迫観念を持たせても、人間は忘れ物をしてしまう。
 もっと重大なダメージ(留年や退学など)で「痛くなければ覚えませぬ」をしたら、今度は卒業できない人だらけになる(=進学や就職の面で学校の評価が下がる)しね。

 だから「努力」を額面通りに受け取ってはならない。
「俺は同じことができた。できないとは言わさん」みたいなのは、そもそもめちゃくちゃだ。
 自我の区別がついていない。
 適正も好みも全然違う、別人なのだ。
 口で何を言おうが「努力」したという人間は「それが好きだから」やったのだ。
 やるべき対象が好きだったとは限らない。一緒にやる仲間が好きで、楽しかったから好きだったのかもしれない。

 傍から見たら「努力」だけど、本人としてはまったくそのつもりはなく楽しくやっているのが最強。
 もしくは他人からしたら凄いんだけど、本人としては「誰でもできるわこんなん」みたいなことをやる。これも同じくらい強い。

 お読みいただきありがとうございました。
 それでは、引き寄せの法則の研究に戻ってください(笑)
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