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蚊の精霊ってホントですか!?「ホントじゃないです」
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所詮、人間は見た目で判断される。
顔が良ければチヤホヤされて、そうでなければうしろ足で砂をかけられる。
普通、という言葉も案外範囲が狭い。
そして俺は、それからも外れている。
「────はぁあああ、あたしも彼氏欲しい~」
「彼氏? ユミなら、うちのクラスのイモ男から選べば余裕っしょ」
「えぇ、イヤだし。帰宅部の陰キャ率高いじゃん」
「運動部は運動部で、遊べなくね? 汗のニオイ、消えないやついるよ」
「ねぇ! うちの学年、なんでイケメンいないわけ?」
「顔のいい男は他校、遊んで楽しいのは大学生以上、って決まってんの。火に水かけたら消えるくらいの、世界の真理でしょ」
「じゃあさ、うちのクラスの陰キャと付き合うなら誰か、言ってこう」
「ナズナさぁ、それ性格悪すぎなんだけど」
「水野は?」
「あいつは、なんか先輩とデキてね? あの、天才の人」
「切妻(きりづま)とか、ヤバくない?」
「ヤバい、絶対あいつ人殺したことあるって」
「そういう顔してるよね~」
「やめなって。そんな言っちゃ、悪いよ」
「はいはい。自分が最近フラれてるからって、あんなのに同情しなくてもよくね?」
「いやっ! 私は、別に……そんなんじゃ」
「殺人は冗談としても、普通に絵に描いたような卑怯者面してるよね」
「顔も目も細すぎ」
「硬いもの食って、二重に整形しろし」
「動物とかいじめてそう」
「殺した猫の首とか眺めてニヤニヤしてそうじゃん?」
「もう、やめてよ! グロすぎ。うち、猫飼ってるの、知ってるでしょ?」
「でもあの悪人顔は引くわぁ」
「目つきだけじゃないもんね」
「もっとさぁ、どうせ悪人顔ならさぁ。ワイルドな感じがいいよね」
「そうそう。切妻は、なんか、昭和の漫画の悪役感凄いもん」
「ヒッヒッヒ……今宵も我が刀が血に飢えて、妖しく光っておるわ」
「そう! そんな感じで刀舐めるやつ」
「うわぁ、キモいキモいキモいキモいキモい!!」
何を隠そう、この絶賛誹謗中傷されている切妻なる男は、俺だ。
催して、休み時間にうっかりトイレに行ったら、これだ。
高校なのに男女のトイレが隣接している上に、天井が繋がっているという通気性重視の作り。
ゆえに、こういった女子の陰口がダイレクトに聞こえてしまう。
よりによって、どうしてこのタイミングで居合わせるかな。
散々俺を罵倒して、いじり飽きたのだろう。
話題は既に、肥満体型のクラスメイトへの陰口に変更されている。
肥満は心に脂肪がついているのだ、とも言われる。
じゃあ、俺の悪人面、しかも漫画の卑怯な敵みたいな面も同じだというのか?
人質を取ったり、イカサマをしたり、自転車をパンクさせたりする陰湿な悪人だから、俺はこんな顔だというのか?
そんなわけがあって、たまるか。
俺は、そんな卑劣なことはしたことがない。
だからといって、陰口集団と顔を合わせるのは気まずい。
ゆえに俺は小用を済ませたのに、敢えて個室に入り、女子たちが立ち去るのを待つ。
手を洗う水音がして、その後、話声が遠ざかっていった。
「はぁ」
嘆息して、個室を出る。
途端、鳴り始めるチャイム。
仕方なく、手洗いを諦めて教室へと猛ダッシュする。
陰口を言う側はトイレですっきりして、陰口を言われた側は清潔を諦めてドタバタせにゃならんとは。
これを理不尽と言わずして、何という。
◆
美化委員は、人気がない。
当番制とはいえ、学内の花壇への水やりや掃除道具の点検業務がある。
夏場は水やりが夕方だから、帰りが遅くなるのだ。
部活の有無に拘わらず、放課後に一定の拘束時間が発生する。
強豪の運動部や、バイトをやっている生徒が全力で避けるのが、この美化委員だ。
だから本とは無縁そうな運動部が、これを避けて図書委員になったりする。
そのせいか図書室ならともかく、学級文庫に筋トレや特定の球技関連本が充実する珍事を招いている。
もっとも、美とは無縁どころか対極みたいな俺が美化委員やってるんだから、あまり他人のことは言えない。
掃除も花も、好きじゃないし。
植える花や掃除道具は学校が決めるので、濫用できる職権もない。
だから俺が美化委員をやるのは、ラクな委員会を選んで「顔の通り卑怯」との誹りを避けるためだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
「暑い……日本列島まるごと冷やせるクーラーとかないのかよ」
保健室の外側にある蛇口をひねり、ジョウロに水を溜めながらぼやく。
今日は誰もが嫌がる水やり当番を、俺がやらされる日だ。
プィ~~~~~~ン。
耳元で鳴る、癇に障る高音。
左耳ごと捕まえるように、素早く右手を伸ばす。
開いた右手に、蚊の死骸はない。
未だ聞こえる羽音は、微かに遠ざかっていく感じがする。
逃がさん。
蚊を叩き潰すべく両腕を軽く開いた格好で、素早く振り返る。
「…………」
「…………」
背後には女子がしゃがんでいた。
眼鏡の奥にタレ目が覗く、小顔。
小さくて低めな鼻と、桜色をした唇。栗色の髪は肩に乗って、軽く巻いている。
華奢な身体つきは、小学校高学年くらいに見えなくもない。
ライトグリーン。
生白い太腿の間に無防備に開陳された一枚の布は、実際以上に鮮やかに俺の網膜に焼き付くのだった。
いると思わなかった女子に面食らい、向こうも俺が急に振り向いたせいか目を白黒させている。
見覚えのある顔だけど、誰だっけ?
制服のリボンの色的に、一個下、つまり一年生なのだが。
見つめ合うのもおかしいが、視線を下ろせば白く輝く腿裏とライトグリーンだからな。
困っていると、女子の方から切り出してくれた。
「なんですか、先輩。脈絡なく、逃がした魚のサイズを自慢されても困るんですけど」
「いや、蚊がいたんだよ」
見失ったけど。
ほうほう、と納得したかのように女子は三度ほど頷いた。
「おほん、私は蚊の精霊です」
「嫌な精霊だな。妖怪とか悪霊の類だろ、それ」
「これこれ、先輩。無暗に生き物を殺すのではありません。なんですか、血を吸われるくらい。先輩が痒みを我慢すれば、それで女の子が元気な赤ちゃんを産めるんですよ?」
「だから殺すんだろ。なんと言われようと吸われたくないし、痒いのも嫌だよ」
迷惑な蚊が増えるのに、その増産のためのタンパク質を提供してやる筋合いはない。
ここにいる蚊が、死病を媒介してないとも限らないんだぞ?
「うるさいですねぇ、男らしく血を吸われるのです」
「あ」
見失ったと思われた蚊が、蚊の精霊の真っ白な腿裏に止まった。
「どうしたんです?」
「デリケートなところに、蚊が止まってるんだよ」
夕焼けの赤さを眺めながら、指摘する。
「…………えっち」
批難する小さな声の後、パチン、という音がした。
おいおい、蚊の精霊が吸血に来た蚊を殺していいのかよ。
「先輩、水。溢れてますよ」
「うわ、ホントだ」
足元にまで水が流れてきている。
立ち上がりかけて、しかし股間が制止をかけてくる。
蚊の精霊の白い太腿と、ライトグリーンのパンツを見てしまったせいだろう。
男性自身が強烈に、臨戦態勢を主張している。
「どうかしたんですか? 先輩」
「……ッ、なんでもない。なんでも」
中腰の姿勢でぎこちなく、蛇口の方へ向き直る。
水を止めて、すっかり重くなったジョウロに肩を落とす。
このまま持って行けば、振動で水がまけてズボンや靴が濡れるのは確実。
水を捨てようとしたとき、右肩に人の気配がした。
「先輩。おちんちん、おっきくなっちゃったんですか?」
「な、あぁっ!?」
蚊の精霊の、クスクスと笑う声がした。
学校で、女子の口から、俺に向かってなされる卑猥な挑発。
こんな三拍子揃ったら、誰だって動揺する。
断じて、俺の経験値が平均を大きく下回って低いわけではない。
「私のパンツ見て、そんなに興奮しちゃったんですね」
顔が、夏の夕方の蒸し暑さとは別種の熱を帯びる。
やっぱり、俺の経験値が低いのかなぁ。
ぽーっと、放心状態になっていると、
「水、捨てるんだったら、それで手を洗わせてもらっていいですか?」
横に並んできた蚊の精霊と、肩が触れ合う。
どうしてあんな挑発した直後に、そんな普通のお願いしてくるの?
お前の中では、あんなの日常会話なの?
「お、おう」
ジョウロを右に傾け、差し出された手の上に水を捨てる。
蚊の精霊は、その水で掌に付着した蚊の死骸と、赤い血を洗い流す。
制汗剤だろうか。
隣にいる蚊の精霊から、清涼感のするミントの香りがする。
「なぁ、蚊の精霊」
「文月紗理奈(ふづき‐さりな)です。もう、同じ美化委員じゃないですかぁ」
「あ、そうだったのか。すまんな」
抗議する蚊の精霊もとい文月の傍らには、確かにジョウロがある。
いちいち委員会の下級生とか、覚えてねぇっての。
「なんですか、その顔は。文月で、サリナ=去りなだから、七月にいなくなるマジの精霊だと思ってるでしょ」
「思ってねぇよ」
なんだよ、それ。
漫画の新人賞に、唸るほど投稿されるやつかよ。
桜が散る頃に一緒に消える精霊ヒロインかよ。また来年会おうな、ってか?
独創性を出すのはいいが、蚊でやらないで欲しい。
「一緒の日に当番なのに、顔と名前を一致させてないとか。私がすっぽかして帰ってたら、どうするつもりだったんです?」
「不運を嘆いて、一人粛々と文句を垂れながら仕事をするが?」
「泣き寝入りじゃないですかぁ」
「わざわざ美化委員の先生に告げ口するのも、逆に面倒だろ」
「真面目なんですねぇ」
「どうせつまらない男だよ」
「何で読んだか知りませんけどそういう、女子の言葉の裏の意味を俺は知ってるぜ、みたいな物言い、やめた方がいいですよ」
「つまんねぇやつの言い換えで真面目呼ばわり、なんてのは女子に限ったことじゃないだろ」
文月の手は、とっくに綺麗になっている。
俺は文月に背を向け、ジョウロを手にゆっくり立ち上がる。
未だに、股間の興奮は冷めやらないものでね。
だってデパートに入ってすぐ遭遇する化粧品売り場の匂いとか、うっかり入ってしまった女性下着売り場の光景にドキドキしちゃうお年頃だし。
「えー、私の分は水入れてくれないんですかぁ?」
「自分で入れろよ。ジッとしてると、また蚊が寄ってくる」
「そうですよねぇ。私がも~っと、太腿の裏を蚊に刺されたら先輩にはメリットがありますからね」
「ないだろ」
「痒い~、ってパンツを見たばかりの後輩女子が、内腿をすり合わせて悶える姿を視姦したいんですよね?」
「さぁ、ジョウロを貸せ! 先輩が可愛い後輩のために水を入れてやるからな!」
半ばひったくるように文月のジョウロを奪い、蛇口を全開。中へ勢いよく水を注ぎ込む。
「ちょっと、先輩! 水の勢い、強すぎですって!」
「ヒャッハー! マイナスイオンが清涼感を撒き散らすぜぇ!」
科学的に効果が証明されてない謎概念で、束の間の涼を取り、また、取らせる。
「先輩、ヒャッハー似合いますねぇ。髪型的に」
「これはソフトモヒカンではない。ウルフだ」
美容師さんの趣味が出て、平成中期頃に流行ったかもしれない髪型にされてしまったのだ。
ネットで調べたので、間違いない。
断じて「おまかせで」と伝えたせいで、俺の人相に合わせてカットされたものではない。
「ようし、じゃあ俺は校舎の左側と体育館。お前は右側と中庭な」
文月のジョウロにも適切な水が溜まったところで、分担を告げる。
二秒で決めた、適当な分担だ。
「つまり、校舎の裏側で鉢合わせたときに、なんて素敵な男性なのでしょう、と言えばいいんですね?」
「意味が分からん」
「古事記にも書いてありますよ」
「どうしてヒルコを産もうとしてるんだ、お前は」
「私とのセックスは否定しないんですね」
セックス、の響きにちょっとドキッとしてしまう。
「こ、こらぁ! 先輩をからかうんじゃなーいっ!」
「きゃあああ、悪人面が怒ったぁ! 望まない妊娠をさせられるぅ!」
「おい! 人聞きの悪いことを言うな!」
笑いながら校舎右側へ走っていく、文月。
なんだろう。
文月から悪人面と言われても、不思議と女子トイレから聞こえた陰口みたいに、嫌な気持ちにならなかった。
◆
血管の浮き出る手が握るカッターから、芯が伸びる。
くるり、カッターが回転。
逆手に持ち替えられたそれが、黒いものを擦り、削りカスを発生させる。
大きな背中を小さく縮め、机に巨漢が齧りついている。
百目鬼道善(どうめき‐どうぜん)。
俺の数少ない友達だ。
今は手掛けている漫画作品のために、自室でスクリーントーンを削っている。
身長二メートル、本人曰く、体重一〇〇キロ。
全身を覆うは、巌のごとき筋肉の鎧。
勧誘に来た武道系の先輩に勝負を挑まれるも、そのすべてを病院に送り、ひたすらペンを握る漫画一筋の熱い漢だ。
曰く、あらゆる欲求不満を筋トレで解消していたからこの肉体になったという。
元々の恵体もあってのことだろうが、ともかく凄い。凄いとしか言いようがない。俺程度の持ちうる語彙をいくら並べたところで、結局凄いに集約される。凄い。
最近は筋トレだけでは物足りないということで、漫画を描きだしたらしい。凄い。
「切妻。何を浮ついている」
「漫画描くのってさぁ、腰痛くならないの?」
漫画を描いているせいなのか、百目鬼の人間観察能力は凄い。洞察力が凄い。
原稿に向かっているのに俺の精神状態を見透かすとか、意味がわからん。
話をはぐらかしたのは、照れくさいのもある。
でもそれより、ひたすらストイックな百目鬼の前であのことを話すのは、自分がいかにも軽薄な小物臭く見えるから、嫌なのだ。
「腰痛は筋肉の衰え、俺とは無縁の概念だ。話を逸らすな」
ふうぅぅぅぅっ、という深い溜め息。
やり遂げた漢の息吹で、スクリーントーンの削りカスが原稿の上を滑り、飛んで行った。
机にテープで固定した、チラシで折った籠にそれらが入る。
「言いたくないんだよ。恥ずかしいから」
「ふん……女か」
「なんでわかるんだよ!」
「友達だからだ」
理屈を省略する、便利な言葉だよな。
百目鬼の作品にはそういった言葉が頻出する。
人を助けるのに理由がいるのか、みたいなやつだ。
曰く、漫画、会話、格闘はテンポと間が命なのだとか。
哲学があるんだなぁ、と圧倒される。ホントに同い年なんだろうか。
やっぱり、生まれる時代と場所を間違えて生まれてきた感が凄い。
そんなことを思いながら眺めていると、百目鬼はインク瓶を手に取った。
左手の人差し指と親指だけでフタをつまむと、一ひねりで開けた。マジか。
当たり前のように筆の先端をインクに浸し、ベタ塗りを開始する。
「筆ペン使えばいいんじゃないか?」
「俺はこっちの方が好きだ」
「好きなんだったら、仕方ないな」
ふいに、百目鬼が作業の手を止めた。
「好きなのか」
「え? 何が?」
「その女だ」
「いや、まともに話したの一回だけだし、その、なんての? これがキッカケで好きだ、って自覚したようなことは、起きてないし? ほら、その、恋愛に慣れてない人間って、恋愛感情と性欲の区別がつかないじゃん? 好きなAV女優としたいセックス以外のことを訊かれても、パッと答えられないのと同じでさ」
「好きなんだな」
「……だって、女子に優しくされたこと、あんまりないし」
「それの何が悪い」
「へ?」
「人間はなぜ恋愛をする? 恋愛の正体は、脳の電気信号だ。では、なぜ恋愛感情という電気信号が発生する? 顔、身体つき、匂い、その他の打算に基づく期待によって異性に惹かれるのはなぜだ?」
「いや、わかんねぇよ」
「セックスだ」
「セックス、なのか」
セックスとか言いたがるところは、こいつも年相応なのかもしれないな。
「人間の恋愛模様は複雑だ。
金や学歴はクジャクの羽の美しさと同じだが、それで機械的にパートナーの選択が決まるとは限らない。なぜか。人間は子供を育てるために、長い時間をパートナーと過ごすからだ。だから機械的に決められず、価値観の一致不一致で騒ぐのだ。
そして、金で男を選ぶ女はタレントがよくやるように、頃合いを見て離婚する。慰謝料をせしめて最後まで搾り取り、残りカスでしかない男を捨てるわけだ」
「つまり?」
「恋愛感情と性欲は同じということだ。区別をつける必要がない」
「おいおい、あまりに動物的すぎるだろ」
「くどい! 恋愛感情とは、子を産ませたいという気持ちをオブラートに包んだ欲望だ。コンドームに吐き出された精子そのものだ!」
「避妊してるじゃねぇか!」
「いいからさっさとその女に土下座して、セックスさせてもらえ」
不意に、生まれたままの姿を晒す文月が脳裏を過ぎる。
股を開き、秘所を詳らかにして俺を誘っている。
俺の顔と下腹部が熱を帯び、硬くなった男性自身が上を向く。
「めっ、滅茶苦茶言うなぁっ!?」
「嫌われたらどうしよう、恥ずかしい告白を全校に、いやネットに晒されたらどうしよう。お前はそういった失敗を恐れているんだな」
「ネ、ネット!? 怖いこと言うなよ」
「怖いのなら、俺がついていこう。鬼に金棒ならぬ、両手に金属バットでお前を応援してやる。オタ芸の練習をするから、その場合は一週間待て」
「どこからツッコんだらいいんだ、それは!!」
金属バットでオタ芸する身の丈二メートルの筋肉ダルマを連れて告白するやつが、どこにいるんだよ。
「ネットに晒したら殺す、という脅しに説得力が出るだろ?」
「俺が女だったら、告白しにきた男よりもお前をネットに上げるよ」
「違いない」
「自覚あるなら、やめろ。つか、なんでそんな結論を急がせるんだよ」
「お前に彼女ができれば、身近な資料となってくれて俺が助かるんだよ」
「資料? お前、漫画のネタのために俺を焚きつけてんのか」
「当たり前だろ。恋愛も格闘も同じコミュニケーションだと思って、それでラブコメを描いてきたが……そろそろナマのリアルな恋愛を観察して、作品にフィードバックしたい」
そうなのだ。
百目鬼の描く漫画は、ラブコメ主体なのだ。
ヒョロヒョロ猫背で腹筋も割れてない主人公なのが、好感度が高い。
男性向け恋愛もので運動部でもない主人公の腹筋が割れてるの、マジで意味わからんからな。
そして、こいつの描く女子はマジで可愛い。
筋力と同じくらい画力も高い。
でも、恋愛の資料にはなりたくないっ!!
「お前が彼女つくれっ!! 他人の恋愛を取材対象にするなっ!!」
「おい、切妻! 待てっ! ちゃんと告白しろよ!!」
百目鬼の部屋を飛び出すと、一階で晩ごはんをつくっていたあいつのお母さんに挨拶をして百目鬼家を後にした。
帰る途中、スマホに通知が来るのを聞いた。
百目鬼からのLINEだ。
〈ちなみに俺は、好きなAV女優と遊園地デートしてみたい。絶叫マシンとか乗ってみたい〉
「謝罪しろよっ!!」
スマホから顔を上げた瞬間、思わず口に出して叫んでしまった。
「ひぃっ、ごめんなさいっ!!」
「あ」
知らないおばさんが目の前にいた。
犬を散歩させていた最中に、偶然俺の前を通りかかったようだ。
気の弱そうな顔をした人で、怯えているのがひしひしと伝わってくる。
「あの」
「うわあああっ、殺さないでぇーっ!!」
「あああっ、誤解ですっ!! ごめんなさいっ!!」
弁解も虚しく、おばさんは柴犬を胸に抱き、走って行ってしまった。
こうなったのも全部、百目鬼のせいだ。
◆
「ねぇ」
「あぁ?」
朝のHRまであと一〇分。
やるのを忘れていた英語の宿題をしていると、机の前にやってきた女子に声をかけられた。
声をかけられたから顔を上げたのだが、女子の顔は引き攣っている。
失礼なやつだ。
「紫宝珠(しほうじゅ)?」
切れ長の目に高い鼻、ウェーブのかかった豊かな髪。
ギャルなのにと言うべきか、ギャルだからと言うべきか。
モデルでもやってんのかってくらい、姿勢がいい。
「あ、あんたが私に用があるって、聞いたんだけど」
不可解そうに、紫宝珠が眉根を寄せる。
サッ、と廊下に顔を向けると、外に面した窓の枠に背を預ける巨漢が一人。
俺と目が合った百目鬼は、サムズアップして歯を見せて笑う。
なるほど。
そういえば百目鬼の大馬鹿野郎には、文月についての情報を一切話していなかったな。
でも、なんで紫宝珠だと思ったんだ?
「紫宝珠。俺が呼んでる、って誰から聞いた?」
無言で、紫宝珠は百目鬼を指差した。
もう片方の手でもサムズアップする百目鬼。
「やっぱりか」
「ねぇ、何の用? つか、用があるなら他人に頼らないでさぁ、自分から話しかけなよ」
腕を組み、俺を睨む紫宝珠。
そうだな、意気地のない卑怯者のやりそうなことだもんな。
「すまん。全部あいつの勘違いなんだ」
「は? 他人のせいにしてまで自分を守ろうっての?」
百目鬼を見た紫宝珠は、汚いものを見る目を向けて来た。
「何? まさか、告白なんかしないでしょうね?」
うん、俺にそのつもりはない。
ないが、百目鬼はそれを期待してるみたいだった。
「俺はお前に、まったく、これっぽっちも、全然用がないんだ」
「あぁっ!? 何なの!?」
「百目鬼には俺からキツく言っておくから、何も訊かずに忘れてくれないか」
「ハァッ……信じらんない。あんたみたいなのにまで、虚仮にされるなんて」
「悪かった」
頭を下げる。
俺も被害者なのに。
百目鬼に文句言うのは怖いから、こういうときみんな俺に当たるんだよな。
ふと、昨日のトイレでのことを思い出す。
そういえば、陰口集団の中にこいつの声もあったな。
紫宝珠は、俺のことを悪く言う仲間を窘めていたように思うのだが。
ま、少しでも実害があればこの通りよな。
家族と百目鬼以外の全人類が、きっと俺を頭ごなしに卑怯者だと色眼鏡で見ている。
「おいおい、なんで話を終わらせようとしてんだ」
頭まで下げたのに、ややこしいやつが介入して来やがった。
漫画のことがあるからマジになっている百目鬼が、教室へ入って来たのだ。
「ちょっと! 暴力で私を脅して付き合おうっての!?」
「よくもそこまで自分に自信を持てるな。逆に羨ましいわ」
紫宝珠は百目鬼と俺を見比べて、顔を青くする。
武道系の部員も一ひねりな巨漢が、不機嫌そうにしているのだ。
のっし、のっしと歩いて来る百目鬼の圧に、クラスメイトたちが教室の隅に逃げる。
モーセが海を割ったみたいだな。
逃げ遅れた紫宝珠が、半泣きになって後ずさる。
「違うんだ、百目鬼。このおん……この人は違う。関係ないんだ」
「何ぃっ!? こんなに可愛い女子の、何がいけない」
「か、かわっ、かわわっ!?」
可愛いなどと言われたのが照れくさいのか、紫宝珠が下を向く。
「百目鬼。可愛いからって、即好きとはならないんだ」
びくりっ、と紫宝珠の肩が跳ねた。
百目鬼もそれを見逃さなかったようだ。
「おいっ、切妻!」
バンッ、と百目鬼が俺の机に掌を叩きつけた。
教科書やノートの詰まっている机が、薙ぎ払われる。
音を立てて転倒した机から、それらが撒き散らされた。
ついでに、七割方回答し終えていた英語の宿題プリントは破けてしまっていた。
なんてこったい。
「みんなの注目を集めている状況で、女子にそんなこと言っちゃ、ダメだろ!」
「本当のことだろ! 今回のことに、紫宝珠さんは関係ないんだ!」
「お前っ! 自分が恥ずかしいからって、女子のプライドを傷つけていいと思ってるのか!!」
「注目を浴びているのは、何から何までお前のせいだろうがっ!!」
腹が立って来て、俺も椅子を蹴って立ち上がる。
遥かに上背で勝る百目鬼に、怒りをぶつけて睨みつける。
「まだ間に合う。好きじゃないなんて言って、ごめんなさいと言え!」
「どうして俺が謝らきゃいけねぇんだよ! お前の勘違いの分まで、俺は頭下げて謝ったよ! 俺のことを、悪人面だって、刀が血に飢えてるぜ、って刃物を舐めてそうとか陰口叩いていたやつに!」
トイレで聞いてしまった陰口を、自分の口で言い直す。
ちくり、ちくりと心に嫌なものが突き刺さる。
それで初めてわかった。
自分で思っていたより、俺はあの言葉に傷ついていたんだな、と。
「ちょっ、ちょっと待って切妻! それは、私じゃない」
おうおう、陰口を聞かれていたのは、バツが悪いよなぁ!
途端に紫宝珠が動揺しだすが、俺は訂正しない。
「同じだよ」
「いや、聞いてたならわかるでしょ!? 私は庇った側!!」
極楽浄土から垂れた蜘蛛の糸を、自分の後から上ろうとするやつを見つけた人間は、いつだって同じことをする。
なら、結末も同じなんだよ。
「それは、本当なのか」
静かに、押し殺した声で百目鬼が確認を取ってくる。
「友達を、疑うのかよ」
百目鬼は唇を真一文字に引き結んで、押し黙った。
俺の目から、真実を読み取ろうとしているみたいに、ジッとこちらを見る。
「すまなかった、切妻。勘違いした俺を許して欲しい」
「いいんだ、百目鬼。俺たち、友達だろ」
文字通り、全校から選りすぐりの一〇〇人とケンカすることになっても、百目鬼さえいてくれるなら、何も怖くない。
「紫宝珠さん」
「何」
百目鬼が紫宝珠の方を向いた。
腰が引けているが、紫宝珠は何とか毅然と対応しようとしているように見えた。
大した胆力だ。
しかつめらしい顔の百目鬼が、すっ、と身体を折って頭を下げた。
「すまなかった。俺はてっきり、切妻が君のことを好きなのだと思い込み、友達の恋を応援したい一心で、切妻が君を呼んでいたと嘘をついた」
おおーっ、と野次馬やクラスメイトから声が上がった。
「お前も衆人環視の中、とんでもないこと言ってくれるな」
野次馬たちは、百目鬼と俺が殴り合いのケンカを始めると思っていたのだろう。
教室の周りには他クラスの生徒までもが、わらわらと集まってきている。
馬鹿が。
百目鬼と殴り合いなんかしたら、一瞬で俺が負けるわ。
だが、真相が色恋沙汰(※誤解)だとわかっても、それはそれで面白いと思っているようだ。
人間の関心は、暴力、色恋、笑い、そして絶望だ。百目鬼の受け売りだけど。
「えとぉ、事情はわかったんだけど。どうして、私?」
「俺が、このクラスで一番可愛いのは君だと思ったからだ」
頭を上げた百目鬼は、澱みなくそんなことを言ってのけた。
またしても外野が盛り上がる。
ねぇ。もうこれ、俺関係なくない?
「はぁ、それはどうも……って、何? 私、告られてんの?」
目を瞬かせ、動転する紫宝珠。
そりゃ、そうなるわな。
「切妻は俺の友達だ。ならば、価値観も近かろう。つまり、俺が可愛いと思う子を、切妻も可愛いと思うと直感した」
「お前、観察眼は凄いのに直感クソだな。なんでクソな直感で突っ走るかなぁ」
「切妻はお世辞にも社交的とは言えない。クラス外の女子を好きになるようなアグレッシヴさはないと踏み、君しかいないと踏んだのだ。早計だった、本当にすまない」
改めて、頭を下げる百目鬼。
社交的でないのは当たってるけど、他人に言われると腹立つなぁ。
「えーと、その、百目鬼くん的に、私って、可愛いの?」
「はい」
周囲からどよめきや、冷やかすような茶々が入る。
それが聞こえてないかのように、百目鬼と紫宝珠は見つめ合っている。
「この状況で即答できんのすげぇな、おい」
誰もいない校舎裏じゃないんだぞ、ここは。
「そう、なんだ。うん、ありがとう、ございます?」
肩に乗るカールした髪を指に巻きつけて、紫宝珠がはにかんだように笑う。
なんだこれ。
「時に」
再度、頭を上げた百目鬼の顔は険しい表情をしている。
「俺の友達を悪人面呼ばわりして、刀を舐めて切れた舌から出た自分の血を飲んでそうな吸血ヘビ舌野郎などと、聞くに堪えない侮辱をしたのはどいつだ」
酷い伝言ゲームだな。そこまでは言われてないぞ。
「許せない。俺の友達を、そんな風に言われて黙っていられないんだ」
本当は、俺もそれが誰なのかこの場で名前を挙げて指弾することはできる。
交流がなくとも、クラスメイトの声くらいは聞き分けられる。
「あたしも、友達は売れない」
可愛いと言われて嬉しそうにしていたのが一転、紫宝珠の声は硬いものに戻っていた。
「素晴らしい友情だ。けれど、もうそいつらとは付き合うのをやめてくれないか」
ゆっくりと、百目鬼の太い首が動く。
怒りの形相の百目鬼に睨まれて、平静を保てる者は少ない。
心に疚しさを抱えているなら、なおさらだろう。
目は口程に物を言う。
露骨に目が泳いでいたり、一人に責任を押し付けようとしたりする女子のグループがあった。
挙動不審な一人が、紫宝珠に向かって何かを目で訴えかけている。
「君の魂が穢れるのも、見逃せないからな」
一人を生贄にして難を逃れようとする者たちを、百目鬼は汚物を見る目で睨んだ。
肩をいからせ、威圧感を発散する百目鬼。
今にも、そいつらの前まで歩いていきそうな雰囲気がある。
暴力を振るわないなら、是非ちょっと脅してやって欲しいという甘えた気持ちが湧いてくる。
「百目鬼くん」
「なんだ」
「メタルミュージックってどう思う」
なんだ、その唐突な質問は。
紫宝珠の質問に、まったく話の脈絡を見いだせない。
「いいんじゃないか? メンバーの盛り上がった筋肉や、タトゥーのセンスは俺の好みだ」
「音楽性の話だろ。なんだよ、筋肉とタトゥーって」
「それ聞けて決心できたわ。もう、あいつらと縁切る」
小さい悲鳴と、舌打ちが卑劣なグループから聞こえた。
こわ。
「よくわからないが、それは何よりだ」
もちろん百目鬼は、そんな些末な事は気にも留めていない。
「じゃあ、LINE。教えてもらっていい?」
「俺は一向にかまわんのだが、生憎、電池切れでな」
「お前、まだ朝のHR前だぞ!?」
ドン、と肩に衝撃が走る。
百目鬼が俺の肩に手を置いていた。
「切妻から教えてもらってくれ」
「俺かよ」
肩越しに百目鬼を見上げる。
百目鬼は小さく、頼む、と返してきた。
「じゃあ、いいかな、切妻くん」
「…………くん?」
俺を呼び捨てにしていたはずの紫宝珠が、スマホを出して目を輝かせている。
おい、誰か先生呼びに行ってるかもしれないのに、よく出せるな。
陰口グループと縁切り宣言をした紫宝珠だ。
特に意地悪する理由もないので、百目鬼のQRコードを表示する。
用が済んだのでスマホを仕舞おうとすると、
「いや、切妻くんも教えてよ」
「はぁ? 俺関係なくね?」
「いや、百目鬼くんの友達なら私の友達じゃん? ん?」
背中をバシバシと叩いて来たかと思うと、肩を組まされた。
甘い香水の匂いが鼻腔をくすぐり、俺はドギマギしてしまう。
「あたしが孤立しないよう、クラスではあんたが守れつってんの。そのためには、LINE交換しといた方がいいだろ。文句ある?」
女子がグループを抜けるとは、そこまでの大事なのか。
ムラ社会だの現代の五人組だのと、悪評はかねがね伝え聞いている。
でも、俺が思っていた以上のものらしい。
「裏切り者は、組織を上げて迫害にかかるんだよ」
「特撮に出てくる、悪の秘密結社じゃねぇか」
「中高の記憶に消えない汚れを落とされるのは、死よりも重い」
「お前それ、よく俺の前で言えるな?」
仕方なく、自分のQRコードも出した。
俺はクラスのグループを抜けているのでな。
「はい、じゃあ次は私と交換しましょ」
ぐいっ、と背後から腕を引っ張られる。
紫宝珠から俺を引き剥がしたのは、
「蚊の精霊!」
「文月紗理奈です」
心なしか頬を空気で膨らました文月が、俺を睨んでいた。
改めて見てみれば、野次馬は他学年からも来ている。
おいおい、大騒ぎになってんじゃねぇか!
百目鬼の野郎、一挙手一投足にここまで注目が集まるの、やべぇな。
しかし、だったらお目当ては百目鬼じゃないのか?
なんで、俺?
「物好きなやつの多い日だな」
紫宝珠に見せたばかりのQRコードを、文月に向ける。
「ありがとうございまーす」
読み取るなり、ソッコーでトークルームに可愛らしいウサギのスタンプが送られてきた。
実写なのは斬新だな。
「ほう。その子だったのか」
「年下に手を出すとは」
ただでさえ、人前で後輩女子とLINEの交換をしたってだけで気恥ずかしいのに。
ニヤニヤ笑いを浮かべる百目鬼と紫宝珠の、生温かい視線で居心地の悪さが増す。
「手は出してない」
「うんうん、勃起しただけですよね」
一斉に囃し立てる声が上がり、微かに俺を詰る声も聞こえて来た。
嫌な汗が、掌といわず腋といわず背中といわず、いや、全身から噴き出す。
「やめろ!」
「否定すると、より本当だと思われますよ」
タレ目を細くして、いいんですか? と言外に択を迫る文月。
不安に駆られ、俺は文月の忠告に従った。
「……あぁ、勃起したとも。健康な男子なら、誰でも勃起するだろう」
おかしい。
事実を受け容れたのに、囃し立てる連中が減らない。
それどころか「悪人面の切妻が勃起宣言してるぞ」と人を呼ぶやつまで出る始末。
「そういう素直なところ、可愛いと思いますよ」
「かわっ……!?」
いかんいかん、否定は却って本当だと思われるんだったな。
「そうだ。俺はこんなナリだが、素直で可愛いのだ。小腹がすいたら、コンビニでイチゴ味のスイーツを求めてしまう。アイスクリーム屋さんでは、イチゴとブルーハワイを組み合わせてもらうのがお気に入りだ」
おかしい。
事実を受け容れたのに、みんな黙ってしまったぞ。
おいしいだろ、イチゴ味!
「じゃあ、今度食べに行きましょうよ」
「なんでだよ。付き合ってもいない女と、チャラチャラそんなとこ行ったら、誤解されるだろ」
「否定すると、より本当だと思われる、って言いましたよね。私」
「なるほど」
周囲から芳しい反応が得られなくて疑いかけていたが、こういうことは女子の方が詳しい。
従っておくのが得策だろう。
「よし、行ってやる。アイスクリームでもクレープでもパンケーキでも何でも来い。片っ端から二人で回って片付けてやる」
「わぁい! 私、単じゅ……素直な男子、好きです」
「す!?」
おおーっ、と歓声が上がる。
雰囲気に呑まれそうになる自分を、必死に律しようとする。
────好きです。好きです。好きです。好きです。好きです。好きです。好きです……
文月の「好きです」が脳内で無限に反響する。
落ち着け、切妻刀士郎(とうしろう)!
交際関係にない女子からの「好きです」は、母親からのLINEについてくるハート絵文字と同じと思え!
童貞系YouTuberとコラボしていた、謎のギャルが言っていただろう!
「先輩。また誰か他人の言葉に頼って、私の真意を測ろうとしてるでしょ?」
「なぜわかった! やはり蚊の精霊なのか!」
「違いますけど。先輩、顔に出やすいのですぐわかるんです」
「たった二回しか会ってないのに、どうしてそんなに俺の特徴がわかるんだ!?」
「それはな、切妻」
こちらに生温かい視線を向けたままの百目鬼が、会話に割り込んで来た。
「お前が、漫画の悪人が策をめぐらすときにそっくりな表情になっていたからだ」
「テメェ! 俺を悪人面呼ばわりするやつに怒ってくれてたのに、なんて言いざまだ!」
「事実は事実だし、俺は友達として愛情こめて言っているのでノーカンだ」
「ノーカンかどうかは俺が決めることだろうがっ!!」
噛み付いたが、笑って流されてしまった。
畜生……お前だって、善人には見えない顔してるくせにぃ!
「なぁなぁ。君、俺ともLINE交換しよ」
「俺もー♪」
野次馬の中から首のうしろに手を当てている、自然に見せるヘアセットをした男が進み出て来た。
露骨に馴れ馴れしい感じで、文月の肩に手を回す。
それに続いて、髪は短めでヘラヘラ笑いを浮かべた運動部風、遊んでる感じを前面に出した男がやってきて、文月を囲んだ。
急に出て来た男たちに対し、文月は縋るように俺を見る。
お前ら、百目鬼が怖くないのか!?
言いかけて、言葉を呑み込む。
あまりにも、カッコ悪い。
だが、黙っていたのがよくなかった。
「お前はもう交換したろ? どいてろ」
肩を突かれ、俺は輪から外されてしまった。
「おい」
俺を弾いた、スポーツ用ヘアゴムで髪をまとめた男の肩を掴む。
「んだよ。一人では何もできない、顔だけ悪人の臆病陰キャが」
カチン。
月並み極まりないが、そういう音が脳内で鳴った。
噴きあがるボルテージ。
拳に血流が集中するイメージ。
「試してみるか?」
言うより速く、左手はサッカー選手気取りのヘアゴム野郎の前髪を掴んでいた。
腰だめにした拳を、半身の姿勢から勢いをつけて打ち込む。
腕にもスクリュー回転をかけ、渾身の力で叩き込んだ一撃。
「おいおい。止める俺の身にもなれよ」
ヘアゴム野郎の鼻っ柱をへし折るはずだったそれは、百目鬼のごつい手に吸い込まれていた。
「ひっ、陰キャがキレた! 無敵の人だ!」
ひっ、つった時点でどんな捨て台詞吐いてもお前の劣位は決定的だぞ?
逃げるヘアゴム野郎に続いて、文月を囲んでいた男どもが散る。
その程度の連中だ、追う気にもならん。
今は、それより。
「百目鬼ぃぃぃいいいいいっ!!」
邪魔されたことに対し、俺は不満を訴える。
大丈夫だ。百目鬼は逆らう者は皆殺し、というタイプではない。
「切妻。腹が立っても、暴力はダメだろ」
興奮の残滓で上下する肩の振れ幅が、徐々に小さくなっていく。
だが、俺から少し離れたところで首を痛めた男が、文月を背中に庇っている。
睨みつけるも、首痛め男は俺を侮る笑みを浮かべるのみ。
いるよなぁ、こういうやつ。ひとが落ち着こうとしてんのに、火に油注ぐやつ。
けれど文月の目に怯えの色を見て取った、瞬間。
激情が、嘘のように冷めた。
馬鹿か、俺は。
他人に、何を期待してんだよ。
「……だな」
視線を落とす。
そうだ。
別に、文月は俺の何でもないのだ。
LINEの交換をしようと出て来た男どもに、腹を立てる理由はないはずだ。
「それはそうとして」
空気の動きでわかった。
百目鬼が、首痛め男の方へ向き直ったのが。
「蚊がいるようだ」
バチンッ!!
音がしたかと思うと、首痛め男が綺麗な三回転ジャンプを決めた。
「おう、すまん。逃げられたようだ」
即座に、倒れた首痛め男の首根っこを掴み、摘まみ上げる百目鬼。
何か吹き込んでいるようだったが、俺からは見えないし、聞こえない。唇の動きも読めない。
だが、首痛め男の顔が引きつったことが言葉以上に雄弁に、その内容を物語っていた。
解放された首痛め男は、腰を抜かしついでに、尻餅をついた。
文字通り、這う這うの体で首痛め男は百目鬼から逃げ、教室を去って行った。
誰からともなく、拍手が起こる。
いけ好かない横入野郎を、映画のように撃退した百目鬼はかっこよかった。
紫宝珠が、その腰に抱き着いて興奮を露わにするのも、無理もない。
一方、呆然と立ち尽くす文月。
百目鬼に何か訊かれていたが、完全に生返事だ。
そんな文月と、彼女に声をかけられないで突っ立っている俺だけが、周囲の盛り上がりから取り残されていた。
やがて、HR前の予鈴が鳴る。
野次馬も消え、クラスメイトも席に着き出す。
クラスの違う百目鬼、そして学年の違う文月も教室を後にした。
「しゃんとしなさいよ」
背中を叩かれ、首をうしろに向けると紫宝珠がいた。
「直しといてあげたから」
見れば、百目鬼が誤解でキレたせいで倒された俺の席が元に戻っている。
「あぁ、ありがとう」
軽く頷いて、紫宝珠は去って行った。
ほどなくして、本鈴が鳴る。
担任が教室に来て、HRが始まった。
◆
なるほど、確かに見た目だけだ。
最悪の朝から始まった一日。
それを言い訳に、俺はすべての授業を聞き流した。
一部の女子から悪意を向けられもしたが、実害はなかったのでどうでもよかった。
放課後。
俺は意味もなく残っていた。
教室のベランダに腰を下ろし、柵に身を預けて天を仰いでいた。
俺が本物の不良なら、タバコでも吸っているだろう。
いや、本物の不良は学校だとトイレで吸うのか?
便所飯する陰キャがダサいのなら、トイレ喫煙もダサいと言われて当然な気がするのだが。
四階のベランダを眺めても、答えは書かれていない。
夕方になってもまだ聞こえてくる、せわしないセミの鳴き声にもヒントはない。
トイレ喫煙がダサいかどうかも、俺は朝どうするべきだったかについても。
「行かなくていいのです?」
「あ?」
アニメ声で急に話しかけられ、機嫌の悪い俺は声の主を睨みつける。
耳の上で結んだツインテールと、小さな身体にはアンバランスと言わざるを得ない巨乳。
夜の森みたいに真っ黒で深い瞳には、吸い込まれそうな不安を感じる。
教室とベランダを仕切る扉を開け、佇立するクラスの女子。
古森満月(こもり‐みづき)。
そういや文月の胸は、薄めだったよなぁ。
「お姉ちゃんが言っているのです」
「誰だ、それは」
三年に姉がいるのだろうか。
クラスメイトのきょうだいの有無なんざ、興味がないから俺にはわからない。
「あなたは素直になるべきなのです、と」
「素直ね。欲望に忠実であれ、と言い換えることもできるよな、それ」
ささくれだった心に任せ、我ながら厨二病臭い返しをする。
「あなたは、今朝の一年生に欲望をぶつけたいのです?」
「ばっ、馬鹿か。あいつは、そんなんじゃ」
あんまりな質問に、言葉を濁す。
「女の子は、好きな人に大切にされると嬉しいのです」
「そうかよ。お前も彼氏とさっさと帰ればいいだろ」
「あの一年生が、好きじゃない男子に言い寄られて怖がっているのです。お姉ちゃんは、そう私に囁いているのです」
「テキトー言ってんじゃねぇぞ」
なんで、三年が文月の状況を知ってんだよ。
「私は、お姉ちゃんの伝えたいことを伝えただけなのです」
「そうかよ、ご忠告どうも。俺に話しかけるな」
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
「何だよ」
話は終わったようなのに、古森は依然、俺を見つめたまま佇んでいる。
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
「何か言えよ」
「話しかけるな、って言われたのです」
「用が済んだら帰れ」
「…………」
「帰れ!」
怒声を発し、イカレ女を追い払おうとした。
そのときだった。
ガクン、っと唐突に古森の首が折れた。
首だけが綺麗に下を向いているが、背筋はピン、と伸びている。
垂れた髪が古森の顔を覆い尽くしてしまい、その表情は伺えない。
「お、おい! なんだ、どうしたんだよ、おま」
「トイレでタバコを吸うのは────」
肌が粟立つのを感じた。
夏だというのに、背筋を悪寒が襲う。
セミの声が止んでいるのに、気が付いた。
本当に冬が来たのでは、と疑いたくなる。
古森が紡ぐ言の葉は、幼い口調にマッチしたアニメ声ではなくなっていた。
「ダサいダサくない以前の問題だ。火災報知器の誤作動を誘発するだろ。スプリンクラーの水を浴びて、虚偽の火事で出動させられた消防士をはじめとする他人に迷惑をかけるやつを、小僧。お前はかっこいいと思うのか? ん? ここまで言えば、おのずと答えは出るだろうが」
どこか色っぽい声色と、突き放した口調。
それが流暢に、俺の馬鹿な疑問をぶった切った。
「は? え? お前、一体……?」
肝心の答えは、誰にでも言えそうなことでしかない。
けれど、どうして俺の考えていたことがわかったんだ?
「おい。俺、口に出してたか?」
「お姉ちゃんの言いたかったことは、もう全部伝えたのでーっす!」
顔を上げた途端、古森はアニメ声に戻ってその場でぴょんぴょん跳ねた。
何も考えてなさそうな顔で、立派な胸のものをバルンバルン弾ませている。
「待て! 待てったら!」
「ぶいーん! 古森満月、離陸するのでーす♪」
俺が制止するも、古森は振り返らない。
両手を飛行機の翼に見立てて広げ、教室を出て行ってしまった。
「な、なんだったんだ?」
古森の出て行った廊下を、狐につままれたような気持ちで眺める。
「とんだ電波さんだな」
豹変した古森に言われたことを否定したくて、言葉にする。
けれど反対に心は、古森の言っていたことはすべて正しいのではないかと感じだしている。
今、文月の側には百目鬼も俺もいない。
だったら、今朝の男どもが文月に言い寄るには絶好のチャンスだ。
「あいつのクラス、どこだ?」
急な胸騒ぎを覚え、俺は立ち上がった。
◆
探すまでもなく、それは向こうからやってきた。
運動部風男子と、俺を突き飛ばしたヘアゴム野郎。
付きまとう今朝の野郎どもを無視して、文月が廊下を歩いていた。
お前、なんで二年の階に来てんの?
「ねぇねぇ、紗理奈ちゃんさぁ。帰り、ラウンドワン寄ろうよ」
「俺の好きな曲がさぁ、女性パートあるんだよ。一緒に歌わない?」
ぴたり、俺と目の合った文月が立ち止まる。
「先輩、まだ帰ってなかったんですかぁ? ひょっとして、居残りだったり?」
小馬鹿にした口調だが、瞳には安堵の色が浮かんでいる。
────あの一年生が、好きじゃない男子に言い寄られて怖がっているのです
古森の言った通りみたいだ。
文月に袖にされていた連中が、露骨に敵意を剥き出しの目で俺を睨んで来る。
運動部風のやつ、今時分に油を売ってるなんて。実は部活入ってないのか。
「うるせぇ。下校時間までに帰るなら、いつ帰ろうと俺の勝手だろ」
「もしかして、私のこと待ってたり?」
「誰が待っ……」
華奢な肩が震えていた。
ここで照れ隠しをして、強がりを言えば連中に付け入る隙を与えてしまう。
────あなたは素直になるべきなのです、と
古森が一体何者なんだか知らねぇが、ここで俺が素直になるべきなのも、バッチリ当たってるみたいだ。
「待ちくたびれたぞ。イチゴオレの一本や二本奢ってもらわなきゃ、腹の虫が収まらんぞ」
「はいはい。イチゴオレでもレモンゼリーでも買ってあげますから、早く帰りましょ」
妙ににやけた呆れ顔をした文月は、小刻みに手招きをする。
俺はちっちゃい子でも、犬猫でもない。
先輩だぞぉ?
不満点はあったが、肩を竦めて文月の元へ向かう。
しかし。
「イチゴイチゴうるせんだよ、このカマ野郎」
文月をディフェンスせんと、ヘアゴム野郎が俺の前に立ちはだかった。
「ヘアゴムの方がカマ野郎だろうが。日本代表にカマを掘られる妄想でシコってろ、ミーハー」
「んだ、ゴラァ!」
「あっ、先輩!」
ヘアゴム野郎の手が俺の胸倉に伸び、額に額を押し付けられた。
気色悪ぃ、野郎の顔なんざ至近距離で見たかねぇんだよ。
「図星をつかれてキレたのか? 大丈夫だよ。ニューハーフんなりゃ、風俗でもAVでも働き口はあるだろ」
「貴様ァッ!!」
「文月が言ってたぞ。否定すると、より本当だと思われるってなぁ」
「口の減らねぇクソ陰キャだな! 頼りの百目鬼くんはいねぇんだぞ?」
「だからお前の身が危ないんだろうが」
言い終わるや否や、ヘアゴム野郎の顔に唾を吐きかける。
相手が怯んだ隙に、爪先を踵で踏み抜いた。
たたらを踏んだヘアゴム野郎と俺の間に、距離ができる。
右足を畳み、金的蹴りを叩き込んだ。
「ストップ! ストップです先輩!」
しかし、寸前で文月が腰に抱き着いてきたので、ヘアゴム野郎の去勢は果たされなかった。
そのまま文月に引っ張られて、距離を取らされる。
「んだよ、文月。こういうやつは裸土下座するまで殴らないと、死ぬまで後悔するって、YouTuberが言ってたんだよ」
「そのチャンネルは即登録解除してください!」
えぇ? 面白いのにな。老害に恥かかせて泣き寝入りさせる方法とか教えてくれるし。
「む、無敵の人のくせに! なんで紗理奈ちゃんにそんな優しくしてもらえんだよ!」
「え? 無敵の人はお前じゃね?」
高校生は普通、どんなに家庭に問題のある陰キャでも“まだ”無敵の人じゃねぇよ。
進学や就職の道はもちろん、未来が開かれてるからな。
しかし、ここはこいつの言葉の誤りに乗っかって追い詰めてみるか。
すっ、と運動部風の男子を俺は指差した。
急に水を向けられたせいか、運動部風男子は目を白黒させる。
「だって、お前。あいつに助けてもらえてないじゃん」
ヘアゴム野郎が、運動部風男子の方に首を向ける。
あぁ、こいつの無防備な鳩尾に膝を叩き込みてぇ!
「そうだよ、なんでお前、俺を助けないんだよ!」
「え? なんだよ、それ」
無茶苦茶言われた運動部風男子が、泡を食う。
「お前があの陰キャと潰し合えば、俺が紗理奈ちゃんと仲良くなれるじゃん」
「なれませんよ?」
何の感情も乗ってない声で即答する、文月。
こういう時の女子って、マジ残酷だよな。
いてて、胃の古傷が疼くぜ。
「友達もいない、女子にも好かれない。ただの陰キャを大袈裟に、無敵の人なんて言ってるけどよ。それ、まんまお前じゃんかよ」
「違うっ! 俺は、友達いるっ! 陰キャでもない!」
「それって、本当に友達ぃ? あなたが一方的にそう思ってるだけじゃなぁい?」
文月。あらゆる人が本質的には否定できない問いをするんじゃねぇ。
「お前、攻撃に参加するなら、ちゃんと敵だけに当たる攻撃をしろよ」
「ふふふ。百目鬼先輩の中で先輩の優先順位って、何番目なんでしょうね」
「いや、俺を揺さぶってくんじゃねぇよ」
「この世に先輩の味方は、私ただ一人なんですよ」
「依存させようとすんな!」
タレ目を邪悪な形に歪ませて俺をいじる文月に、白けてしまったのだろう。
運動部風男子が嘆息し、首を小さく左右に振る。
「俺、帰るわ」
「は? 何言ってんの? ラウンドワンは?」
「いや、紗理奈ちゃん来ないなら行く意味ないし」
「だったら、私からも今すぐおうちに帰ることをおすすめしますね」
文月の言葉が決定打だった。
運動部風男子が、降参だとばかりに軽く両手を上げる。
「じゃあな、無敵の人」
ヘアゴム野郎の肩をポンッ、と叩いて運動部風男子は行ってしまった。
行ってしまった、はおかしいか。撃退したかったんだし。
百目鬼にやられて懲りたのだろう。
首痛め男もいないし、ヘアゴム野郎は孤立した。
「自分を陽キャだと思い込んでいた、ぼっち先輩、可哀想にねぇ」
文月は、嘲笑たっぷりにヘアゴム野郎を憐れんだ。
容赦ねぇなぁ、もっとやれ。
「違う! 違う! 違う! 俺は無敵の人じゃない!」
本当にその通りなのだが、言葉の誤用をしている残念な人を俺は救わない。
見殺しにしても、別に寝覚めが悪くなる相手ではないし。
「なぁ! なぁ、おい! そこのお前!」
よほどショックだったのか、ロクに話したことがないであろう女子を捕まえるヘアゴム野郎。
捕まった女子も不安そうにしている。
可哀想に。
「なぁ、あいつ! あいつと俺! どっちの顔がいいと思う? どっちがサッカー上手そう?」
「こいつ! 自分が優位だと確信してやがる!」
腹立つなぁ……!
仕掛けられた負け戦に気分を悪くしていたのだが。
すっ、と持ち上げられた女子の人差し指は、なんと俺を指していた。
「はあぁっ!? なんでぇ!?」
「ヘアゴムが女々しい。ガッツいて余裕がないのがキモい。他人を貶める片棒を女に担がせる根性が最低。言うほど顔も良くない。雰囲気作ってるだけの勘違い野郎が、その雰囲気を失ってもイケメンだと思い込んでるのがイタい」
「め、女々しい!? イ、イタい!?」
通りすがりの女子による辛辣すぎる評価に、ヘアゴム野郎は沈んだ。いや、轟沈した。
たった一つ。
テメェが負けた理由は、たった一つだ。
ヘアゴム男子カルチャー圏じゃない女子に意見を聞いたのが、間違いなんだよ。
「そうだ。先輩、イチゴパフェ食べに行きましょうよ」
「おう、いいな。行こう。いい店知ってる?」
「え~? むしろあそこ知らない方がモグリですよ」
「うるせぇ! 男一人だと開拓しづれぇんだよ、そういうの!」
若干サイコパス味を感じないでもなかったが、仕方ない。
イチゴの好きな俺には、文月の提案は魅力的すぎたのだから。
◆
「てゆか先輩。私、めっちゃLINE送ってたのに未読スルーとか、なくないですか?」
うちの高校の女子の間で、マストと名高いスイーツショップへ向かう道すがら。
そんな不満を文月が吐き出すのだった。
「すまん。朝のことで一日ボーっとしてな。授業も全部聞き流しちまったし、スマホも触る気力なかった」
スマホを見れば、実写ウサギスタンプがすっかり流れるくらいメッセージが来ていた。
ざっくり要約すると、男子連中が怖くて動けなかった、俺の行動に引いたわけじゃないです、みたいな内容だ。
ずいぶんと気を遣ってくれていたようだ。
反応できなかったのが、申し訳なくなる。
「もう、繊細ですねぇ」
マジ、座って時間をやり過ごしているうちに夕方だったんだよ。
昼に食ったパンも、ティッシュ食ってるみたいに味しなかったし。
「それは、本当にティッシュを食べていたんじゃないんですか?」
「んな馬鹿な」
財布の代わりにポケットティッシュが軽くなっていた気がするけれど、さすがにないよな。
……ないよな?
「そんなになるくらい私のことで心揺さぶられてた、って聞かされて。悪い気は、しませんけどね」
両手を組んで掌を天に掲げ、薄い胸を反らす文月。
ストレッチしながら言われると、なんだか軽く聞こえてしまう。
我ながら、めんどくさいな。
「そういや文月。お前、どうして俺なんかに声かけようと思ったんだよ」
鏡を見てしまう度思うのだが、決して話しかけたい顔ではない。
目を見たら石化の呪いを受けると言われたら、自分でも受け容れてしまいそうだし。
百歩譲って、蚊を叩こうとしたポーズで振り向いたのが面白かったとしても、だ。
その後、委員会でもない時間にまた話しかけようとか、ましてLINEを交換しようなんて思う顔ではないと思うのだ。
「それはー、話してみたら面白かったからですよ」
「いや、話しかけようと思ったキッカケを訊いてるんだよ」
「いいじゃないですか、そんなの。卵が先か鶏が先かみたいなもんですよ」
「爬虫類は卵生だし、それから進化した鳥類も卵生。鳥の中で鶏の原種が生まれて、それを人間が品種改良した。だから大きな視点では卵生の獲得が先、つまり卵が先で鶏が後だよ」
「理屈っぽいなぁ、もう」
ぽいではない。
俺は理屈で以って。真実に辿り着こうとしているのだ。
「話してみたら面白かった、は光栄な結論だけどよ。じゃあ、俺と話したら面白いかも、って可能性を感じたってことだろ? 違うなら理由教えてくれよ」
今後の人間関係構築において、それは大きな参考になる。
顔でデバフ食らってんだから、気休めだとしても解決策を知りたい。
「嫌です。絶対に、教えません」
「なんでだよ!」
「そんなの先輩に教えたら、勘違い起こして女漁りに使いそうですから」
「するか!」
しないとも断言はできないが、しないつもりだ。
「言っときますけど、私みたいな女子。他にいないんですからね」
「なんだそれは。悪魔の証明か」
私みたいな女子、の定義からふわっとしてるし、どこからツッコめばいいんだ。
「先輩は他の人と話す必要、ないんですよ。あ、そうだ。ちょっとスマホ貸してくださいよ」
「その流れでスマホ渡すのは馬鹿だろ。連絡先消すつもり満々じゃねぇか」
「どうせ親と百目鬼先輩、あと紫宝珠とかいうケバい女のしかないんでしょ」
「あるよ! もっとあるよ!」
「そこ! 企業とか有名人のものを含めない」
なぜバレた!
「何度でも言いますけど、先輩は私以外とお話する必要ないんです」
「いや、その前提はおかしい」
「だから、私が先輩と話したくなった理由は、一切教えません」
取り付く島もない。
諦めて、俺はテキトーな話を改めて文月に振った。
それなりに会話に花を咲かせていると、マストなスイーツショップAdonis Adonaiへと到着した。
文月の言った通り、そこのイチゴパフェはマジで美味かった。
◆
深夜。
キリのいいところでゲームを切り上げ、俺は床に就いた。
あまり夢は見ないのだが、今日に限って俺は夢を見た。
昔の夢だ。
小学校低学年。二年くらいの頃か。
クラスメイトの家に寄り道したはよかったものの、当時の感覚でそこは家からだいぶ遠かった。
帰り道がわからなくなり、俺は迷子になっていた。
半泣きになりながら、通りがかった夕暮れどきの公園。
昔話『浦島太郎』の冒頭か、ってくらいにわかりやすいいじめの現場に遭遇した。
当時から悪人面の片鱗があった俺だが、心はどこにでもいるガキのそれ。
テレビの特撮ヒーローに憧れていて、つまりは正義の味方になりたかった。
悪い奴をやっつけることが正義。
実に子供らしい解釈だ。
俺は目元を腕で拭い、猛然と走り出した。
そして、いじめっこの一人に、うしろからドロップキックを見舞った。
顔面から地面に激突したいじめっこは、ギャン泣き。
ぐるぐるパンチで反撃してくるそいつと、その仲間の逆襲に遭ってボロボロにされた。
俺は、ヒーローなんかじゃなくて、何の力もないガキだからな。
しかも、不意討ちで背中を狙う卑怯者だ。
それなのに多勢に無勢で敗れたことが、妙に悔しかった。
いじめっこが帰った後も、俺は負けたことが受け容れられなかった。
だから、タコの形をした遊具の中で膝を抱えて泣いた。
自分の敗北が、正義の敗北みたいに感じてしまったんだ。
泣きながら、心の中で当時好きだったヒーローに謝っていた。
『この世に悪の栄えた試しはない』
ヒーローのキメ台詞だ。
俺のせいで、それを嘘にしてしまった。
正義が悪に敗れた実例をつくってしまった、と。
今なら、悪が大手を振って歩いている世の中だとわかっているが、当時は知る由もない。
「泣くくらいなら、どうして助けようとしたの?」
声がして、膝に埋めた顔を上げる。
自分も涙と鼻水の痕が残る顔の、タレ目で小さい女の子が立っていた。
髪の長さや服の色が、さっきのいじめられていた子と一致する。
「正義の味方に、なりたかったから」
「じゃあ、正義の味方になれたのに、どうして泣くの?」
「なってない! おれは、あいつらに負けたから!」
「だって、あなたが来てくれたお蔭で、わたしは助かったよ?」
「でも、おれ、負けたじゃん!」
「勝てなかったら、正義じゃないの? 正義の味方って、どんななの?」
女の子が俺の隣に座って、話を聞きたがった。
「んとね、正義の味方っていうのはね……」
俺は当時好きだったヒーローの必殺技や、恐ろしい敵について話した。
女の子は俺の拙い話になんか興味ないだろうに、熱心に聞いてくれた。
クラスの連中は、男子ですらヒーロー番組を卒業し始めていたから、聞いてもらえてとても嬉しかったのが思い出される。
あぁ。
これじゃ、どっちが救われたのかわかんねぇな。
思わず、夢の自分を笑ってしまう。
「じゃあわたし、そろそろ帰るね」
「もう帰るの?」
もう、と俺は言うが外は既にとっぷりと日が暮れている。
前年にやっていたヒーロー番組の概要を、一話一話ていねいに語っていたところだから、気持ちはわかるけどよ。
「またね、わたしのヒーローさん!」
手を振って、タレ目の女の子は帰っていった。
あのタレ目の女の子、今、どうしてるんだろうな。
◆
新人賞の締め切りが近いから、作業を手伝って欲しい。
百目鬼から頼まれ、貴重な休日だというのにタダ働きのために俺はあいつの家に来ていた。
玄関の鍵は開いていた。
挨拶はするが、家の人の返事はない。
許可はもらってるのだし、と上がらしてもらい、やつの部屋へ向かうべく階段を昇る。
「……音楽?」
二階に着いて、違和感を覚える。
あいつの部屋から漏れる、ハードな音楽。
前にも自然系のASMRやボサノヴァを作業用BGMにしていたことはあったが……今日はずいぶんと激しいのを聞いているのだな。
「邪魔するぞ」
ドアを開けると、エアコンの冷気が流れ出し、耳をつんざく激しいシャウトが俺を襲った。
「なんだぁ!?」
激しい演奏とおどろおどろしいエフェクト、威圧的な金切り声と早口でまくし立てられる英語。
ヘビィメタルだかデスメタルだかしらんが、その類が轟いている。
壁にベタベタ貼られているのは、海外バンドや頭が山羊で乳房を晒した悪魔のポスター。
髑髏や逆さ磔の聖者といった、禍々しい置物が空きスペースに置かれている。
そんな中、百目鬼は険しい顔で漫画を描いていた。
「遅かったじゃん」
その隣で原稿に消しゴムをかけていた、紫宝珠がそう声をかけてきた。
「お前、なんでいんの?」
「俺が呼んだら来てくれた」
紫宝珠の代わりに、手を動かしまくっている百目鬼が答えた。
「部屋、それとこの大音量のメタルはどうしたんだよ」
「こうしないとテンション上がらないっていうから、好きにさせた」
消しカスを手で払っていた紫宝珠が、その手で俺にピースサインを向けて来た。
お前、消しゴムかけのためだけにこの魔界をつくったのかよ。
「俺、いらねぇじゃん」
「拗ねるなよ。お前には買い出しというミッションがある」
「パシリかよ」
「制作進行だよ」
「誤解を招く発言はやめろ」
「スクリーントーンセットと、ペン軸と、丸ペンとGペン。あと砂消しゴムと飲み物を頼む」
「待て待て待て、多い多い多い!」
「あ、そうだ。文月さんも連れてきてくれ」
「文月なら、もういないぞ」
「なんで?」
「また来年会おうって、羽音とともにいなくなった」
遠い目をして、窓の外の入道雲を見つめてみた。
無論、嘘である。
「お前、なんだよその桜の精ヒロインみたいなの。つまんな」
「うるせぇよ! あいつが蚊の精霊を自称したんだよ!」
「へー、そうなんだー」
「ホントだぞ!? あと気になったんだけど、砂消しゴムって何!?」
「文月さんに言えばわかる」
「だから、なんで文月が出てくるんだよ」
「あの子、美術部だろ?」
突如提示された情報に、少し考える。
「え? 知らん」
そんな話を聞いた覚えはない。
「美化委員の間違いじゃないのか?」
「お前、彼氏なのにそんなことも知らんのか」
「……彼氏? ……誰が?」
こんなに初耳の情報を浴びせられることって、あるんだな。
「まったく。まだ告白してないのか」
呆れたように、百目鬼に露骨な溜め息を吐かれた。
「うるせぇ! 今や恋愛なんか少数派の爛れた娯楽だぞ! 退廃した上級国民のお遊びだぞ!」
「いいからさっさと行ってこい」
「そうだそうだ、行ってこい。この根性なし」
こいつ、百目鬼に乗っかってなんてこと言いやがる。
「真彩(まや)。根性なしは言いすぎだ」
「ごめんね、道善」
窘められて、百目鬼にだけ謝る紫宝珠だった。こいつ、腹立つなぁ。
え、待って?
つか二人、下の名前で呼び合ってない!?
「……一応、声はかけてみるよ」
「頼むぞ」
言うが早いか、百目鬼は俺に財布を投げて寄越した。
それを受け取り、俺は部屋を出た。
文月を連れてこい、ねぇ。
連れてきたら紫宝珠に「空気読め」と睨まれて、連れてこられなかったら百目鬼に失望される。そういう択でないことを祈るぜ、マジで。
〈文月さぁ、今日って空いてる?〉
一応、文月にLINEを送る。
すぐに既読がついた。
〈空いてますけど〉
〈そういうときは、まず用件を書くのがフェアですよ〉
〈後から用件を書かれると、断りづらいので〉
正論でぶん殴られてしまった。
確かに、暇と言ってしまったらその手前、嫌な用件でも断りづらいわな。
〈すまん〉
〈嫌だったらいいんだけど〉
相槌代わりに、めっちゃドアップで顔に影が落ちてる加工のされた、ウサギのスタンプを送られた。
やっぱり実写だと、ちょっと怖いな。
俺からも、なだめるようなスタンプを送っておいた。
それから、百目鬼が漫画を描いていることと、画材の買い出しと作画の手伝いをして欲しがっている旨を伝えた。
〈先輩も一緒にいてくれるなら、いいですよ〉
またしても圧を感じる実写ウサギスタンプが、間髪入れずに送られてきた。
怖いんだけど。
〈ありがとう〉
〈いえいえ〉
〈先輩を孤立させるためには、まず百目鬼先輩たちのことも〉
〈知る必要がありますからね〉
怖い文面を誤魔化すように、流行ってる漫画の可愛いスタンプが送られてきた。
でもそれ、悪いことを考えているキャラの毒のある笑顔なんだよなぁ。
文脈としては、実写ウサギスタンプより怖い。
ひとまず画材のことが俺にはよくわからないので、ショッピングモール内の文房具店を集合場所に指定した。
◆
「先輩」
「うわっ!」
先に到着した俺が、アイデア文房具を眺めていると、うしろから声をかけられた。
白黒ボーダー柄のノースリーブにアームカバー、ホットパンツにまたボーダーのニーソという出で立ちの文月がいた。
「やはり蚊の精霊か」
「文月紗理奈です。いつまで引きずるんです?」
「ツッコみたくなる服装で来るからだろ」
「デキる女は話題作りからです。二時間を沈黙なく話せない男とは付き合うな、みたいなネット記事を鵜呑みにしてる馬鹿女とは、違うので」
眼鏡のブリッジを持ち上げて、文月は得意そうに薄い胸を反らす。
こいつ、ネット嫌いなのかな?
「じゃ、画材探しましょっか。何を頼まれたんです?」
「えーと」
あの後、改めてメモを百目鬼にLINEで送ってもらっていた。
それを表示すると、文月がスマホを覗き込んで来た。
「ッ!?」
思わず、息を呑んだ。
文月が下を向いたせいでふわりと襟が垂れ、シャツの内側の微かな膨らみが目に入ったからだ。
「ほーん。ほんほんほん。じゃ、あのへんですね」
文月が顔を上げそうだったので、俺も慌てて目線を上げる。
ここの電灯はLEDなんだろうか、それともまだ蛍光灯なのだろうか?
「……何してるんです? 行きますよ」
「あ、うん。すまん」
小首を傾げる文月の後を、早足で追った。
「お前が美術部とは、知らなかったよ」
「言ってないですからね」
さらりと言って、特に悪びれもしない文月。
百目鬼が先に知っていたことに、妙な疎外感を覚える。
「なんで」
「だって、部活してるって知ったら先輩。気を遣って私のこと、遊びに誘ってくれなさそうだから」
「土日もあるのか?」
「基本はないですよ。でも、放課後だって誘ってもらいたいじゃないですか」
「お前が帰宅部でも、そんな毎日は誘わねぇよ」
「へぇ? 私のこと、もっと知らなくていいんですか? 百目鬼先輩から私が美術部だ、って聞かされて、モヤッとしなかったんですか? ん?」
「言ってもないことを読み取ろうとするな」
「そういう理由があったから、言わなかったんです。秘密にされて、寂しかったですか?」
「言ってもないことを読み取るな、つったろ」
「あー、拗ねてるぅ。先輩、後輩の女子に弄ばれて拗ねてるぅ。かーわいいっ」
「拗ねてないし」
「否定すると、余計に本当だと思われますよ」
「拗ねるだろ。こんな距離感で接して来る女、絶対俺のこと好きだと思うじゃねぇか」
やけくそ気味に言い捨てる。
余計にからかわれるかもしれなかったが、どうせこいつは俺をからかうためにここにいるのだ。だったら、どの道同じだ。頭を使ってヘマしないように立ち回るのなんか、馬鹿らしくてやってられん。
「へ、へぇ! そ、そそそんな風に思ってたんだぁ。た、単純ですねぇ!」
あれ?
想定していた反応と、ちょっと違う手応えだな?
「女子のこととか、恋愛のこととか、誰も教えてくれなかったんだ。わかるわけねぇじゃん」
「そう、ですよね」
少しの沈黙の後、文月は何かを見つけたように小走りで棚の前に行ってしまった。
「先輩。砂消しゴム、ありましたよ」
少しぎこちない感じで、謎アイテムを手に俺を呼ぶのだった。
「お、おう。あったんだな」
文月の手に、目の細かい軽石でできた消しゴムのようなものが握られていた。
「何に使うんだ、これ」
「紙を削ってボールペン字を消したりもできますけど、漫画描くなら、スクリーントーンを削ったりするんじゃないですか?」
「削る? あれの表面を?」
「削って白くなれば、光の表現とかに使えますから」
あー。黒髪とか革ジャンに、光が反射してる表現とかか?
「じゃあ、次はスクリーントーンのセットを見繕いましょうか」
「そうだな」
また文月が歩いていくのに、ついていった。
やがて、百目鬼に指定された画材を集め終わり、レジでの精算も済んだ。
いつも気安い感じの文月が、なんだか急に緊張したようになっていた。
「じゃあ、今度は飲み物買おう」
文月は、首肯までもがぎこちないものになっていた。
まるで借りてきた猫だ。
極端に口数の少なくなった文月が、俺の後をついてくる。
テキトーに二リットルのジュースとお茶を選び、それを買ってショッピングモールを後にした。
この間も「炭酸飲める?」とかの、簡単な受け答え以外の会話はなかった。
二時間もたない相手とは付き合うな、ではないが、なんだか気まずくなる。
画材を文月に持たせ、俺は飲み物の入った二枚のレジ袋を持って駅まで歩く。
正直重いが、逆はないからなぁ。
「先輩」
駅の改札前まで来たとき。
文月が、意を決したような感じで話しかけてきた。
「なんだよ」
振り返れば、文月は立ち止まって真剣な顔で俺を見ていた。
「暑いし、さっさと駅に入っちまおうぜ」
「先輩は、好きな女子とか、いないんですか?」
目を泳がせた文月が、高速で毛先を指で擦りながらそんなことを訊いて来た。
唐突。あまりに突拍子もない質問。
「お前、毛先痛むぞ。あと、摩擦で指熱いだろ」
「質問に答えろやがれくださいまし!」
おかしな言葉を遣うな。噛まずに言えるのは、ちょっと凄いけど。
「別に、そういうのは」
「先輩! 大雨の日に、よれよれの段ボールの中心でうずくまる、ずぶ濡れで弱り切った、震える仔猫を見たら、どうしますか?」
「俺はヤンキーじゃねぇよ」
「『あ、犬飼いたいなぁ』とか思い付きで、ペットショップ入ったりしませんよね?」
「そいつ怖いな」
「先輩、好きな女子とかいるんですか?」
「だから別にそういうのは」
「先輩! ウミガメを寄ってたかっていじめている子供の集団がいたら、ウミガメを助けに入りますよね!?」
「浦島太郎じゃねぇよ」
「ウミガメを剥製にして売ろうとしませんよね!?」
「それもう、一般人はできないんじゃないか? 法律的に」
昔は祝いの品で送られていたらしい。
置き場に困るだろうなぁ、花みたいに枯れたら捨てるようなもんでもないし。
「なぁ。重いし、早く電車乗ろうぜ」
「もう一度聞きますよ。先輩には、好きな子、いないんですか!」
「答えようとする度、お前が邪魔するんじゃねぇか」
「いいから答えてください」
文月の顔は、心なしか紅潮している。
熱中症になりかけてる、とかじゃないだろうな?
「こんなとこでする話じゃねぇだろ」
今飲む用のジュースを自販機で買ってやろうと思い、距離を詰めて文月の腕を掴んだ時だった。
「おっぱい見たくせに」
「なっ!?」
カーッ、と文月の耳が赤くなる。
胸元だけとはいえ、見たものは見た。見てしまった。
「ホントに、見たんだ」
下を向き、消え入りそうな声で文月が呟いた。
文月を傷つけてしまったことに、罪悪感が湧き上がってくる。
風俗へ行ける歳まで、ナマは拝めないと半ばあきらめていたそれが、突然そっちからやってきたんだ。
別に俺が、襟元を掴んで覗き込んだわけじゃない。
偶然、見えてしまっただけなんだ。
それでも、俺が悪いのか?
なんなんだよ。
事故で俺が謝ることになるシチュエーション、多くないか?
「悪気はなかったんだ」
「自分の気持ちを、否定するんですか。見たくて見たんじゃないですか?」
悪気はなかった。
本当のことを言うのが、そんなに卑怯なのか。
でも、真実ってやつは一面的ではないのかもしれない。
「うん。私のちっちゃいのなんて、見たって面白くないですよね」
「正直、ラッキーって思ったよ」
文月の方を見れなくて、声も小さくなってしまう。
「こんなに、ぺっちゃんこなのに?」
けれど文月は、俺の声を聞き取れたようだ。
しかも、責める権利があるはずなのに、文月は俺の出方を伺っているみたいな感じだ。
自信なさげというか、何かを怖がっているというか、そんな感じ。
「関係ねぇよ。ラッキー、って思ったのは、サイズどうこうだからじゃないんだよ」
沈黙。
俺の知っている文月なら、茶々を入れて来たりからかったりするはずなのに、それがない。
行き交う人々の会話、電車の発着とそのアナウンス。
雑踏の中でのその沈黙は、まるで闇の中から俺と文月だけを切り取るスポットライトのよう。
これを言ったら、嫌われるかもしれない。
けれど、今更言わずには終われない。
言って終わる関係なら、所詮、遅かれ早かれだ。
「俺なんかにかまってくれる、お前のだから、嬉しかったんだ」
手に伝わる文月の腕の感触が変わった。
強張り、熱を増したそれに動揺する。
だが、文月は未だに黙っている。
うん。
これは、終わったな。
誰になんと思われようと、百目鬼が友達でいてくれるならいいと思っていた。
でもあいつにはもう、紫宝珠がいる。
しかも紫宝珠と俺は、たぶん馬が合わない。
空気を読んで、俺は空気に徹せねばなるまい。
あのヘアゴム野郎基準なら、今日から俺は無敵の人だ。
だってのに、文月はどうしてまだ、俺の手を振り解かないんだろう。
「先輩は、夕方の公園で女の子がいじめられていたら、どうしますか?」
絞り出すように紡がれた文月の言葉に、俺は文月の顔を見た。
真っ赤になった文月の頬を流れ落ちたのは、汗ではない。
女子のことも、恋愛のこともわからない俺でも、それはわかった。
夕方。
公園。
いじめられている女の子。
最近見た、昔の夢の光景と完全に一致する。
「私があの男子たちに言い寄られてるとき、殴って追い払おうとするの見て、全然変わってないな、って思ってました」
涙を流しながら、文月はおかしそうに笑う。
「お前、なのか……!」
こくん、と文月は首を縦に振る。
「あのとき、いじめっこたちに勝てなかったこと。ほんっとうに、悔しかったんですね」
「仕方ねぇだろ。正義の味方は、勝たなきゃ説得力がねぇんだから」
苦笑して、かつてタコの遊具の中でうまく言葉にできなかったことを、口にする。
しかし、文月はそれに首を横に振った。
「先輩は、優しい人です。それだけで、説得力なんて十分なんですよ」
「いや、もう正義の味方なんか目指してねぇよ」
「でも先輩は、私にとってはずっと正義の味方で、ヒーローですよ?」
言葉に胸をつかれたと思った直後、文月が寄りかかって来た。
「先輩。先輩の好きな人の名前、教えてもらっていいですか?」
抱き着き、胸に頬を預けてまっすぐ俺を見上げる視線。
なるほど。
熱っぽいその目は、あのとき俺の稚拙なヒーロー語りを聞いてくれたタレ目の女の子のそれとまったく同じだ。
「文月、紗理奈って人が好きです」
「蚊の精霊、って言ったら腹殴るところでしたよ」
胸の下に巻き付いていた腕が、俺の肩に伸びる。
「ッ!?」
ぴょん、っと文月が飛び跳ねたかと思えば、頬にその唇が触れた。
「私のこと、一生守ってね。正義の味方さん」
「……馬鹿。一生は、重いっての」
「ダメ?」
不安そうにして、目尻を下げる文月。
その華奢で小さな身体を、俺は抱き寄せる。
「ダメとか、言ってないだろ」
「ありがとっ。刀士郎」
俺たちは、人目も憚らずに昼間の改札前で抱き合ったのだった。
◆
ちなみに、百目鬼宅に戻るのは凄く遅れて、すっかり日が落ちた後だった。
「このバカップルめが! 何時だと思ってやがる!」
二〇時に、目が血走った百目鬼に玄関口で怒鳴られたときは、さすがに死を覚悟した。
命を取られる代わりに作業を手伝ったから、なんとか漫画は完成した。
もっとも、百目鬼が締め切りを一か月早く勘違いしていた、というやらかしが発覚するのは、また別の話。
了
顔が良ければチヤホヤされて、そうでなければうしろ足で砂をかけられる。
普通、という言葉も案外範囲が狭い。
そして俺は、それからも外れている。
「────はぁあああ、あたしも彼氏欲しい~」
「彼氏? ユミなら、うちのクラスのイモ男から選べば余裕っしょ」
「えぇ、イヤだし。帰宅部の陰キャ率高いじゃん」
「運動部は運動部で、遊べなくね? 汗のニオイ、消えないやついるよ」
「ねぇ! うちの学年、なんでイケメンいないわけ?」
「顔のいい男は他校、遊んで楽しいのは大学生以上、って決まってんの。火に水かけたら消えるくらいの、世界の真理でしょ」
「じゃあさ、うちのクラスの陰キャと付き合うなら誰か、言ってこう」
「ナズナさぁ、それ性格悪すぎなんだけど」
「水野は?」
「あいつは、なんか先輩とデキてね? あの、天才の人」
「切妻(きりづま)とか、ヤバくない?」
「ヤバい、絶対あいつ人殺したことあるって」
「そういう顔してるよね~」
「やめなって。そんな言っちゃ、悪いよ」
「はいはい。自分が最近フラれてるからって、あんなのに同情しなくてもよくね?」
「いやっ! 私は、別に……そんなんじゃ」
「殺人は冗談としても、普通に絵に描いたような卑怯者面してるよね」
「顔も目も細すぎ」
「硬いもの食って、二重に整形しろし」
「動物とかいじめてそう」
「殺した猫の首とか眺めてニヤニヤしてそうじゃん?」
「もう、やめてよ! グロすぎ。うち、猫飼ってるの、知ってるでしょ?」
「でもあの悪人顔は引くわぁ」
「目つきだけじゃないもんね」
「もっとさぁ、どうせ悪人顔ならさぁ。ワイルドな感じがいいよね」
「そうそう。切妻は、なんか、昭和の漫画の悪役感凄いもん」
「ヒッヒッヒ……今宵も我が刀が血に飢えて、妖しく光っておるわ」
「そう! そんな感じで刀舐めるやつ」
「うわぁ、キモいキモいキモいキモいキモい!!」
何を隠そう、この絶賛誹謗中傷されている切妻なる男は、俺だ。
催して、休み時間にうっかりトイレに行ったら、これだ。
高校なのに男女のトイレが隣接している上に、天井が繋がっているという通気性重視の作り。
ゆえに、こういった女子の陰口がダイレクトに聞こえてしまう。
よりによって、どうしてこのタイミングで居合わせるかな。
散々俺を罵倒して、いじり飽きたのだろう。
話題は既に、肥満体型のクラスメイトへの陰口に変更されている。
肥満は心に脂肪がついているのだ、とも言われる。
じゃあ、俺の悪人面、しかも漫画の卑怯な敵みたいな面も同じだというのか?
人質を取ったり、イカサマをしたり、自転車をパンクさせたりする陰湿な悪人だから、俺はこんな顔だというのか?
そんなわけがあって、たまるか。
俺は、そんな卑劣なことはしたことがない。
だからといって、陰口集団と顔を合わせるのは気まずい。
ゆえに俺は小用を済ませたのに、敢えて個室に入り、女子たちが立ち去るのを待つ。
手を洗う水音がして、その後、話声が遠ざかっていった。
「はぁ」
嘆息して、個室を出る。
途端、鳴り始めるチャイム。
仕方なく、手洗いを諦めて教室へと猛ダッシュする。
陰口を言う側はトイレですっきりして、陰口を言われた側は清潔を諦めてドタバタせにゃならんとは。
これを理不尽と言わずして、何という。
◆
美化委員は、人気がない。
当番制とはいえ、学内の花壇への水やりや掃除道具の点検業務がある。
夏場は水やりが夕方だから、帰りが遅くなるのだ。
部活の有無に拘わらず、放課後に一定の拘束時間が発生する。
強豪の運動部や、バイトをやっている生徒が全力で避けるのが、この美化委員だ。
だから本とは無縁そうな運動部が、これを避けて図書委員になったりする。
そのせいか図書室ならともかく、学級文庫に筋トレや特定の球技関連本が充実する珍事を招いている。
もっとも、美とは無縁どころか対極みたいな俺が美化委員やってるんだから、あまり他人のことは言えない。
掃除も花も、好きじゃないし。
植える花や掃除道具は学校が決めるので、濫用できる職権もない。
だから俺が美化委員をやるのは、ラクな委員会を選んで「顔の通り卑怯」との誹りを避けるためだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
「暑い……日本列島まるごと冷やせるクーラーとかないのかよ」
保健室の外側にある蛇口をひねり、ジョウロに水を溜めながらぼやく。
今日は誰もが嫌がる水やり当番を、俺がやらされる日だ。
プィ~~~~~~ン。
耳元で鳴る、癇に障る高音。
左耳ごと捕まえるように、素早く右手を伸ばす。
開いた右手に、蚊の死骸はない。
未だ聞こえる羽音は、微かに遠ざかっていく感じがする。
逃がさん。
蚊を叩き潰すべく両腕を軽く開いた格好で、素早く振り返る。
「…………」
「…………」
背後には女子がしゃがんでいた。
眼鏡の奥にタレ目が覗く、小顔。
小さくて低めな鼻と、桜色をした唇。栗色の髪は肩に乗って、軽く巻いている。
華奢な身体つきは、小学校高学年くらいに見えなくもない。
ライトグリーン。
生白い太腿の間に無防備に開陳された一枚の布は、実際以上に鮮やかに俺の網膜に焼き付くのだった。
いると思わなかった女子に面食らい、向こうも俺が急に振り向いたせいか目を白黒させている。
見覚えのある顔だけど、誰だっけ?
制服のリボンの色的に、一個下、つまり一年生なのだが。
見つめ合うのもおかしいが、視線を下ろせば白く輝く腿裏とライトグリーンだからな。
困っていると、女子の方から切り出してくれた。
「なんですか、先輩。脈絡なく、逃がした魚のサイズを自慢されても困るんですけど」
「いや、蚊がいたんだよ」
見失ったけど。
ほうほう、と納得したかのように女子は三度ほど頷いた。
「おほん、私は蚊の精霊です」
「嫌な精霊だな。妖怪とか悪霊の類だろ、それ」
「これこれ、先輩。無暗に生き物を殺すのではありません。なんですか、血を吸われるくらい。先輩が痒みを我慢すれば、それで女の子が元気な赤ちゃんを産めるんですよ?」
「だから殺すんだろ。なんと言われようと吸われたくないし、痒いのも嫌だよ」
迷惑な蚊が増えるのに、その増産のためのタンパク質を提供してやる筋合いはない。
ここにいる蚊が、死病を媒介してないとも限らないんだぞ?
「うるさいですねぇ、男らしく血を吸われるのです」
「あ」
見失ったと思われた蚊が、蚊の精霊の真っ白な腿裏に止まった。
「どうしたんです?」
「デリケートなところに、蚊が止まってるんだよ」
夕焼けの赤さを眺めながら、指摘する。
「…………えっち」
批難する小さな声の後、パチン、という音がした。
おいおい、蚊の精霊が吸血に来た蚊を殺していいのかよ。
「先輩、水。溢れてますよ」
「うわ、ホントだ」
足元にまで水が流れてきている。
立ち上がりかけて、しかし股間が制止をかけてくる。
蚊の精霊の白い太腿と、ライトグリーンのパンツを見てしまったせいだろう。
男性自身が強烈に、臨戦態勢を主張している。
「どうかしたんですか? 先輩」
「……ッ、なんでもない。なんでも」
中腰の姿勢でぎこちなく、蛇口の方へ向き直る。
水を止めて、すっかり重くなったジョウロに肩を落とす。
このまま持って行けば、振動で水がまけてズボンや靴が濡れるのは確実。
水を捨てようとしたとき、右肩に人の気配がした。
「先輩。おちんちん、おっきくなっちゃったんですか?」
「な、あぁっ!?」
蚊の精霊の、クスクスと笑う声がした。
学校で、女子の口から、俺に向かってなされる卑猥な挑発。
こんな三拍子揃ったら、誰だって動揺する。
断じて、俺の経験値が平均を大きく下回って低いわけではない。
「私のパンツ見て、そんなに興奮しちゃったんですね」
顔が、夏の夕方の蒸し暑さとは別種の熱を帯びる。
やっぱり、俺の経験値が低いのかなぁ。
ぽーっと、放心状態になっていると、
「水、捨てるんだったら、それで手を洗わせてもらっていいですか?」
横に並んできた蚊の精霊と、肩が触れ合う。
どうしてあんな挑発した直後に、そんな普通のお願いしてくるの?
お前の中では、あんなの日常会話なの?
「お、おう」
ジョウロを右に傾け、差し出された手の上に水を捨てる。
蚊の精霊は、その水で掌に付着した蚊の死骸と、赤い血を洗い流す。
制汗剤だろうか。
隣にいる蚊の精霊から、清涼感のするミントの香りがする。
「なぁ、蚊の精霊」
「文月紗理奈(ふづき‐さりな)です。もう、同じ美化委員じゃないですかぁ」
「あ、そうだったのか。すまんな」
抗議する蚊の精霊もとい文月の傍らには、確かにジョウロがある。
いちいち委員会の下級生とか、覚えてねぇっての。
「なんですか、その顔は。文月で、サリナ=去りなだから、七月にいなくなるマジの精霊だと思ってるでしょ」
「思ってねぇよ」
なんだよ、それ。
漫画の新人賞に、唸るほど投稿されるやつかよ。
桜が散る頃に一緒に消える精霊ヒロインかよ。また来年会おうな、ってか?
独創性を出すのはいいが、蚊でやらないで欲しい。
「一緒の日に当番なのに、顔と名前を一致させてないとか。私がすっぽかして帰ってたら、どうするつもりだったんです?」
「不運を嘆いて、一人粛々と文句を垂れながら仕事をするが?」
「泣き寝入りじゃないですかぁ」
「わざわざ美化委員の先生に告げ口するのも、逆に面倒だろ」
「真面目なんですねぇ」
「どうせつまらない男だよ」
「何で読んだか知りませんけどそういう、女子の言葉の裏の意味を俺は知ってるぜ、みたいな物言い、やめた方がいいですよ」
「つまんねぇやつの言い換えで真面目呼ばわり、なんてのは女子に限ったことじゃないだろ」
文月の手は、とっくに綺麗になっている。
俺は文月に背を向け、ジョウロを手にゆっくり立ち上がる。
未だに、股間の興奮は冷めやらないものでね。
だってデパートに入ってすぐ遭遇する化粧品売り場の匂いとか、うっかり入ってしまった女性下着売り場の光景にドキドキしちゃうお年頃だし。
「えー、私の分は水入れてくれないんですかぁ?」
「自分で入れろよ。ジッとしてると、また蚊が寄ってくる」
「そうですよねぇ。私がも~っと、太腿の裏を蚊に刺されたら先輩にはメリットがありますからね」
「ないだろ」
「痒い~、ってパンツを見たばかりの後輩女子が、内腿をすり合わせて悶える姿を視姦したいんですよね?」
「さぁ、ジョウロを貸せ! 先輩が可愛い後輩のために水を入れてやるからな!」
半ばひったくるように文月のジョウロを奪い、蛇口を全開。中へ勢いよく水を注ぎ込む。
「ちょっと、先輩! 水の勢い、強すぎですって!」
「ヒャッハー! マイナスイオンが清涼感を撒き散らすぜぇ!」
科学的に効果が証明されてない謎概念で、束の間の涼を取り、また、取らせる。
「先輩、ヒャッハー似合いますねぇ。髪型的に」
「これはソフトモヒカンではない。ウルフだ」
美容師さんの趣味が出て、平成中期頃に流行ったかもしれない髪型にされてしまったのだ。
ネットで調べたので、間違いない。
断じて「おまかせで」と伝えたせいで、俺の人相に合わせてカットされたものではない。
「ようし、じゃあ俺は校舎の左側と体育館。お前は右側と中庭な」
文月のジョウロにも適切な水が溜まったところで、分担を告げる。
二秒で決めた、適当な分担だ。
「つまり、校舎の裏側で鉢合わせたときに、なんて素敵な男性なのでしょう、と言えばいいんですね?」
「意味が分からん」
「古事記にも書いてありますよ」
「どうしてヒルコを産もうとしてるんだ、お前は」
「私とのセックスは否定しないんですね」
セックス、の響きにちょっとドキッとしてしまう。
「こ、こらぁ! 先輩をからかうんじゃなーいっ!」
「きゃあああ、悪人面が怒ったぁ! 望まない妊娠をさせられるぅ!」
「おい! 人聞きの悪いことを言うな!」
笑いながら校舎右側へ走っていく、文月。
なんだろう。
文月から悪人面と言われても、不思議と女子トイレから聞こえた陰口みたいに、嫌な気持ちにならなかった。
◆
血管の浮き出る手が握るカッターから、芯が伸びる。
くるり、カッターが回転。
逆手に持ち替えられたそれが、黒いものを擦り、削りカスを発生させる。
大きな背中を小さく縮め、机に巨漢が齧りついている。
百目鬼道善(どうめき‐どうぜん)。
俺の数少ない友達だ。
今は手掛けている漫画作品のために、自室でスクリーントーンを削っている。
身長二メートル、本人曰く、体重一〇〇キロ。
全身を覆うは、巌のごとき筋肉の鎧。
勧誘に来た武道系の先輩に勝負を挑まれるも、そのすべてを病院に送り、ひたすらペンを握る漫画一筋の熱い漢だ。
曰く、あらゆる欲求不満を筋トレで解消していたからこの肉体になったという。
元々の恵体もあってのことだろうが、ともかく凄い。凄いとしか言いようがない。俺程度の持ちうる語彙をいくら並べたところで、結局凄いに集約される。凄い。
最近は筋トレだけでは物足りないということで、漫画を描きだしたらしい。凄い。
「切妻。何を浮ついている」
「漫画描くのってさぁ、腰痛くならないの?」
漫画を描いているせいなのか、百目鬼の人間観察能力は凄い。洞察力が凄い。
原稿に向かっているのに俺の精神状態を見透かすとか、意味がわからん。
話をはぐらかしたのは、照れくさいのもある。
でもそれより、ひたすらストイックな百目鬼の前であのことを話すのは、自分がいかにも軽薄な小物臭く見えるから、嫌なのだ。
「腰痛は筋肉の衰え、俺とは無縁の概念だ。話を逸らすな」
ふうぅぅぅぅっ、という深い溜め息。
やり遂げた漢の息吹で、スクリーントーンの削りカスが原稿の上を滑り、飛んで行った。
机にテープで固定した、チラシで折った籠にそれらが入る。
「言いたくないんだよ。恥ずかしいから」
「ふん……女か」
「なんでわかるんだよ!」
「友達だからだ」
理屈を省略する、便利な言葉だよな。
百目鬼の作品にはそういった言葉が頻出する。
人を助けるのに理由がいるのか、みたいなやつだ。
曰く、漫画、会話、格闘はテンポと間が命なのだとか。
哲学があるんだなぁ、と圧倒される。ホントに同い年なんだろうか。
やっぱり、生まれる時代と場所を間違えて生まれてきた感が凄い。
そんなことを思いながら眺めていると、百目鬼はインク瓶を手に取った。
左手の人差し指と親指だけでフタをつまむと、一ひねりで開けた。マジか。
当たり前のように筆の先端をインクに浸し、ベタ塗りを開始する。
「筆ペン使えばいいんじゃないか?」
「俺はこっちの方が好きだ」
「好きなんだったら、仕方ないな」
ふいに、百目鬼が作業の手を止めた。
「好きなのか」
「え? 何が?」
「その女だ」
「いや、まともに話したの一回だけだし、その、なんての? これがキッカケで好きだ、って自覚したようなことは、起きてないし? ほら、その、恋愛に慣れてない人間って、恋愛感情と性欲の区別がつかないじゃん? 好きなAV女優としたいセックス以外のことを訊かれても、パッと答えられないのと同じでさ」
「好きなんだな」
「……だって、女子に優しくされたこと、あんまりないし」
「それの何が悪い」
「へ?」
「人間はなぜ恋愛をする? 恋愛の正体は、脳の電気信号だ。では、なぜ恋愛感情という電気信号が発生する? 顔、身体つき、匂い、その他の打算に基づく期待によって異性に惹かれるのはなぜだ?」
「いや、わかんねぇよ」
「セックスだ」
「セックス、なのか」
セックスとか言いたがるところは、こいつも年相応なのかもしれないな。
「人間の恋愛模様は複雑だ。
金や学歴はクジャクの羽の美しさと同じだが、それで機械的にパートナーの選択が決まるとは限らない。なぜか。人間は子供を育てるために、長い時間をパートナーと過ごすからだ。だから機械的に決められず、価値観の一致不一致で騒ぐのだ。
そして、金で男を選ぶ女はタレントがよくやるように、頃合いを見て離婚する。慰謝料をせしめて最後まで搾り取り、残りカスでしかない男を捨てるわけだ」
「つまり?」
「恋愛感情と性欲は同じということだ。区別をつける必要がない」
「おいおい、あまりに動物的すぎるだろ」
「くどい! 恋愛感情とは、子を産ませたいという気持ちをオブラートに包んだ欲望だ。コンドームに吐き出された精子そのものだ!」
「避妊してるじゃねぇか!」
「いいからさっさとその女に土下座して、セックスさせてもらえ」
不意に、生まれたままの姿を晒す文月が脳裏を過ぎる。
股を開き、秘所を詳らかにして俺を誘っている。
俺の顔と下腹部が熱を帯び、硬くなった男性自身が上を向く。
「めっ、滅茶苦茶言うなぁっ!?」
「嫌われたらどうしよう、恥ずかしい告白を全校に、いやネットに晒されたらどうしよう。お前はそういった失敗を恐れているんだな」
「ネ、ネット!? 怖いこと言うなよ」
「怖いのなら、俺がついていこう。鬼に金棒ならぬ、両手に金属バットでお前を応援してやる。オタ芸の練習をするから、その場合は一週間待て」
「どこからツッコんだらいいんだ、それは!!」
金属バットでオタ芸する身の丈二メートルの筋肉ダルマを連れて告白するやつが、どこにいるんだよ。
「ネットに晒したら殺す、という脅しに説得力が出るだろ?」
「俺が女だったら、告白しにきた男よりもお前をネットに上げるよ」
「違いない」
「自覚あるなら、やめろ。つか、なんでそんな結論を急がせるんだよ」
「お前に彼女ができれば、身近な資料となってくれて俺が助かるんだよ」
「資料? お前、漫画のネタのために俺を焚きつけてんのか」
「当たり前だろ。恋愛も格闘も同じコミュニケーションだと思って、それでラブコメを描いてきたが……そろそろナマのリアルな恋愛を観察して、作品にフィードバックしたい」
そうなのだ。
百目鬼の描く漫画は、ラブコメ主体なのだ。
ヒョロヒョロ猫背で腹筋も割れてない主人公なのが、好感度が高い。
男性向け恋愛もので運動部でもない主人公の腹筋が割れてるの、マジで意味わからんからな。
そして、こいつの描く女子はマジで可愛い。
筋力と同じくらい画力も高い。
でも、恋愛の資料にはなりたくないっ!!
「お前が彼女つくれっ!! 他人の恋愛を取材対象にするなっ!!」
「おい、切妻! 待てっ! ちゃんと告白しろよ!!」
百目鬼の部屋を飛び出すと、一階で晩ごはんをつくっていたあいつのお母さんに挨拶をして百目鬼家を後にした。
帰る途中、スマホに通知が来るのを聞いた。
百目鬼からのLINEだ。
〈ちなみに俺は、好きなAV女優と遊園地デートしてみたい。絶叫マシンとか乗ってみたい〉
「謝罪しろよっ!!」
スマホから顔を上げた瞬間、思わず口に出して叫んでしまった。
「ひぃっ、ごめんなさいっ!!」
「あ」
知らないおばさんが目の前にいた。
犬を散歩させていた最中に、偶然俺の前を通りかかったようだ。
気の弱そうな顔をした人で、怯えているのがひしひしと伝わってくる。
「あの」
「うわあああっ、殺さないでぇーっ!!」
「あああっ、誤解ですっ!! ごめんなさいっ!!」
弁解も虚しく、おばさんは柴犬を胸に抱き、走って行ってしまった。
こうなったのも全部、百目鬼のせいだ。
◆
「ねぇ」
「あぁ?」
朝のHRまであと一〇分。
やるのを忘れていた英語の宿題をしていると、机の前にやってきた女子に声をかけられた。
声をかけられたから顔を上げたのだが、女子の顔は引き攣っている。
失礼なやつだ。
「紫宝珠(しほうじゅ)?」
切れ長の目に高い鼻、ウェーブのかかった豊かな髪。
ギャルなのにと言うべきか、ギャルだからと言うべきか。
モデルでもやってんのかってくらい、姿勢がいい。
「あ、あんたが私に用があるって、聞いたんだけど」
不可解そうに、紫宝珠が眉根を寄せる。
サッ、と廊下に顔を向けると、外に面した窓の枠に背を預ける巨漢が一人。
俺と目が合った百目鬼は、サムズアップして歯を見せて笑う。
なるほど。
そういえば百目鬼の大馬鹿野郎には、文月についての情報を一切話していなかったな。
でも、なんで紫宝珠だと思ったんだ?
「紫宝珠。俺が呼んでる、って誰から聞いた?」
無言で、紫宝珠は百目鬼を指差した。
もう片方の手でもサムズアップする百目鬼。
「やっぱりか」
「ねぇ、何の用? つか、用があるなら他人に頼らないでさぁ、自分から話しかけなよ」
腕を組み、俺を睨む紫宝珠。
そうだな、意気地のない卑怯者のやりそうなことだもんな。
「すまん。全部あいつの勘違いなんだ」
「は? 他人のせいにしてまで自分を守ろうっての?」
百目鬼を見た紫宝珠は、汚いものを見る目を向けて来た。
「何? まさか、告白なんかしないでしょうね?」
うん、俺にそのつもりはない。
ないが、百目鬼はそれを期待してるみたいだった。
「俺はお前に、まったく、これっぽっちも、全然用がないんだ」
「あぁっ!? 何なの!?」
「百目鬼には俺からキツく言っておくから、何も訊かずに忘れてくれないか」
「ハァッ……信じらんない。あんたみたいなのにまで、虚仮にされるなんて」
「悪かった」
頭を下げる。
俺も被害者なのに。
百目鬼に文句言うのは怖いから、こういうときみんな俺に当たるんだよな。
ふと、昨日のトイレでのことを思い出す。
そういえば、陰口集団の中にこいつの声もあったな。
紫宝珠は、俺のことを悪く言う仲間を窘めていたように思うのだが。
ま、少しでも実害があればこの通りよな。
家族と百目鬼以外の全人類が、きっと俺を頭ごなしに卑怯者だと色眼鏡で見ている。
「おいおい、なんで話を終わらせようとしてんだ」
頭まで下げたのに、ややこしいやつが介入して来やがった。
漫画のことがあるからマジになっている百目鬼が、教室へ入って来たのだ。
「ちょっと! 暴力で私を脅して付き合おうっての!?」
「よくもそこまで自分に自信を持てるな。逆に羨ましいわ」
紫宝珠は百目鬼と俺を見比べて、顔を青くする。
武道系の部員も一ひねりな巨漢が、不機嫌そうにしているのだ。
のっし、のっしと歩いて来る百目鬼の圧に、クラスメイトたちが教室の隅に逃げる。
モーセが海を割ったみたいだな。
逃げ遅れた紫宝珠が、半泣きになって後ずさる。
「違うんだ、百目鬼。このおん……この人は違う。関係ないんだ」
「何ぃっ!? こんなに可愛い女子の、何がいけない」
「か、かわっ、かわわっ!?」
可愛いなどと言われたのが照れくさいのか、紫宝珠が下を向く。
「百目鬼。可愛いからって、即好きとはならないんだ」
びくりっ、と紫宝珠の肩が跳ねた。
百目鬼もそれを見逃さなかったようだ。
「おいっ、切妻!」
バンッ、と百目鬼が俺の机に掌を叩きつけた。
教科書やノートの詰まっている机が、薙ぎ払われる。
音を立てて転倒した机から、それらが撒き散らされた。
ついでに、七割方回答し終えていた英語の宿題プリントは破けてしまっていた。
なんてこったい。
「みんなの注目を集めている状況で、女子にそんなこと言っちゃ、ダメだろ!」
「本当のことだろ! 今回のことに、紫宝珠さんは関係ないんだ!」
「お前っ! 自分が恥ずかしいからって、女子のプライドを傷つけていいと思ってるのか!!」
「注目を浴びているのは、何から何までお前のせいだろうがっ!!」
腹が立って来て、俺も椅子を蹴って立ち上がる。
遥かに上背で勝る百目鬼に、怒りをぶつけて睨みつける。
「まだ間に合う。好きじゃないなんて言って、ごめんなさいと言え!」
「どうして俺が謝らきゃいけねぇんだよ! お前の勘違いの分まで、俺は頭下げて謝ったよ! 俺のことを、悪人面だって、刀が血に飢えてるぜ、って刃物を舐めてそうとか陰口叩いていたやつに!」
トイレで聞いてしまった陰口を、自分の口で言い直す。
ちくり、ちくりと心に嫌なものが突き刺さる。
それで初めてわかった。
自分で思っていたより、俺はあの言葉に傷ついていたんだな、と。
「ちょっ、ちょっと待って切妻! それは、私じゃない」
おうおう、陰口を聞かれていたのは、バツが悪いよなぁ!
途端に紫宝珠が動揺しだすが、俺は訂正しない。
「同じだよ」
「いや、聞いてたならわかるでしょ!? 私は庇った側!!」
極楽浄土から垂れた蜘蛛の糸を、自分の後から上ろうとするやつを見つけた人間は、いつだって同じことをする。
なら、結末も同じなんだよ。
「それは、本当なのか」
静かに、押し殺した声で百目鬼が確認を取ってくる。
「友達を、疑うのかよ」
百目鬼は唇を真一文字に引き結んで、押し黙った。
俺の目から、真実を読み取ろうとしているみたいに、ジッとこちらを見る。
「すまなかった、切妻。勘違いした俺を許して欲しい」
「いいんだ、百目鬼。俺たち、友達だろ」
文字通り、全校から選りすぐりの一〇〇人とケンカすることになっても、百目鬼さえいてくれるなら、何も怖くない。
「紫宝珠さん」
「何」
百目鬼が紫宝珠の方を向いた。
腰が引けているが、紫宝珠は何とか毅然と対応しようとしているように見えた。
大した胆力だ。
しかつめらしい顔の百目鬼が、すっ、と身体を折って頭を下げた。
「すまなかった。俺はてっきり、切妻が君のことを好きなのだと思い込み、友達の恋を応援したい一心で、切妻が君を呼んでいたと嘘をついた」
おおーっ、と野次馬やクラスメイトから声が上がった。
「お前も衆人環視の中、とんでもないこと言ってくれるな」
野次馬たちは、百目鬼と俺が殴り合いのケンカを始めると思っていたのだろう。
教室の周りには他クラスの生徒までもが、わらわらと集まってきている。
馬鹿が。
百目鬼と殴り合いなんかしたら、一瞬で俺が負けるわ。
だが、真相が色恋沙汰(※誤解)だとわかっても、それはそれで面白いと思っているようだ。
人間の関心は、暴力、色恋、笑い、そして絶望だ。百目鬼の受け売りだけど。
「えとぉ、事情はわかったんだけど。どうして、私?」
「俺が、このクラスで一番可愛いのは君だと思ったからだ」
頭を上げた百目鬼は、澱みなくそんなことを言ってのけた。
またしても外野が盛り上がる。
ねぇ。もうこれ、俺関係なくない?
「はぁ、それはどうも……って、何? 私、告られてんの?」
目を瞬かせ、動転する紫宝珠。
そりゃ、そうなるわな。
「切妻は俺の友達だ。ならば、価値観も近かろう。つまり、俺が可愛いと思う子を、切妻も可愛いと思うと直感した」
「お前、観察眼は凄いのに直感クソだな。なんでクソな直感で突っ走るかなぁ」
「切妻はお世辞にも社交的とは言えない。クラス外の女子を好きになるようなアグレッシヴさはないと踏み、君しかいないと踏んだのだ。早計だった、本当にすまない」
改めて、頭を下げる百目鬼。
社交的でないのは当たってるけど、他人に言われると腹立つなぁ。
「えーと、その、百目鬼くん的に、私って、可愛いの?」
「はい」
周囲からどよめきや、冷やかすような茶々が入る。
それが聞こえてないかのように、百目鬼と紫宝珠は見つめ合っている。
「この状況で即答できんのすげぇな、おい」
誰もいない校舎裏じゃないんだぞ、ここは。
「そう、なんだ。うん、ありがとう、ございます?」
肩に乗るカールした髪を指に巻きつけて、紫宝珠がはにかんだように笑う。
なんだこれ。
「時に」
再度、頭を上げた百目鬼の顔は険しい表情をしている。
「俺の友達を悪人面呼ばわりして、刀を舐めて切れた舌から出た自分の血を飲んでそうな吸血ヘビ舌野郎などと、聞くに堪えない侮辱をしたのはどいつだ」
酷い伝言ゲームだな。そこまでは言われてないぞ。
「許せない。俺の友達を、そんな風に言われて黙っていられないんだ」
本当は、俺もそれが誰なのかこの場で名前を挙げて指弾することはできる。
交流がなくとも、クラスメイトの声くらいは聞き分けられる。
「あたしも、友達は売れない」
可愛いと言われて嬉しそうにしていたのが一転、紫宝珠の声は硬いものに戻っていた。
「素晴らしい友情だ。けれど、もうそいつらとは付き合うのをやめてくれないか」
ゆっくりと、百目鬼の太い首が動く。
怒りの形相の百目鬼に睨まれて、平静を保てる者は少ない。
心に疚しさを抱えているなら、なおさらだろう。
目は口程に物を言う。
露骨に目が泳いでいたり、一人に責任を押し付けようとしたりする女子のグループがあった。
挙動不審な一人が、紫宝珠に向かって何かを目で訴えかけている。
「君の魂が穢れるのも、見逃せないからな」
一人を生贄にして難を逃れようとする者たちを、百目鬼は汚物を見る目で睨んだ。
肩をいからせ、威圧感を発散する百目鬼。
今にも、そいつらの前まで歩いていきそうな雰囲気がある。
暴力を振るわないなら、是非ちょっと脅してやって欲しいという甘えた気持ちが湧いてくる。
「百目鬼くん」
「なんだ」
「メタルミュージックってどう思う」
なんだ、その唐突な質問は。
紫宝珠の質問に、まったく話の脈絡を見いだせない。
「いいんじゃないか? メンバーの盛り上がった筋肉や、タトゥーのセンスは俺の好みだ」
「音楽性の話だろ。なんだよ、筋肉とタトゥーって」
「それ聞けて決心できたわ。もう、あいつらと縁切る」
小さい悲鳴と、舌打ちが卑劣なグループから聞こえた。
こわ。
「よくわからないが、それは何よりだ」
もちろん百目鬼は、そんな些末な事は気にも留めていない。
「じゃあ、LINE。教えてもらっていい?」
「俺は一向にかまわんのだが、生憎、電池切れでな」
「お前、まだ朝のHR前だぞ!?」
ドン、と肩に衝撃が走る。
百目鬼が俺の肩に手を置いていた。
「切妻から教えてもらってくれ」
「俺かよ」
肩越しに百目鬼を見上げる。
百目鬼は小さく、頼む、と返してきた。
「じゃあ、いいかな、切妻くん」
「…………くん?」
俺を呼び捨てにしていたはずの紫宝珠が、スマホを出して目を輝かせている。
おい、誰か先生呼びに行ってるかもしれないのに、よく出せるな。
陰口グループと縁切り宣言をした紫宝珠だ。
特に意地悪する理由もないので、百目鬼のQRコードを表示する。
用が済んだのでスマホを仕舞おうとすると、
「いや、切妻くんも教えてよ」
「はぁ? 俺関係なくね?」
「いや、百目鬼くんの友達なら私の友達じゃん? ん?」
背中をバシバシと叩いて来たかと思うと、肩を組まされた。
甘い香水の匂いが鼻腔をくすぐり、俺はドギマギしてしまう。
「あたしが孤立しないよう、クラスではあんたが守れつってんの。そのためには、LINE交換しといた方がいいだろ。文句ある?」
女子がグループを抜けるとは、そこまでの大事なのか。
ムラ社会だの現代の五人組だのと、悪評はかねがね伝え聞いている。
でも、俺が思っていた以上のものらしい。
「裏切り者は、組織を上げて迫害にかかるんだよ」
「特撮に出てくる、悪の秘密結社じゃねぇか」
「中高の記憶に消えない汚れを落とされるのは、死よりも重い」
「お前それ、よく俺の前で言えるな?」
仕方なく、自分のQRコードも出した。
俺はクラスのグループを抜けているのでな。
「はい、じゃあ次は私と交換しましょ」
ぐいっ、と背後から腕を引っ張られる。
紫宝珠から俺を引き剥がしたのは、
「蚊の精霊!」
「文月紗理奈です」
心なしか頬を空気で膨らました文月が、俺を睨んでいた。
改めて見てみれば、野次馬は他学年からも来ている。
おいおい、大騒ぎになってんじゃねぇか!
百目鬼の野郎、一挙手一投足にここまで注目が集まるの、やべぇな。
しかし、だったらお目当ては百目鬼じゃないのか?
なんで、俺?
「物好きなやつの多い日だな」
紫宝珠に見せたばかりのQRコードを、文月に向ける。
「ありがとうございまーす」
読み取るなり、ソッコーでトークルームに可愛らしいウサギのスタンプが送られてきた。
実写なのは斬新だな。
「ほう。その子だったのか」
「年下に手を出すとは」
ただでさえ、人前で後輩女子とLINEの交換をしたってだけで気恥ずかしいのに。
ニヤニヤ笑いを浮かべる百目鬼と紫宝珠の、生温かい視線で居心地の悪さが増す。
「手は出してない」
「うんうん、勃起しただけですよね」
一斉に囃し立てる声が上がり、微かに俺を詰る声も聞こえて来た。
嫌な汗が、掌といわず腋といわず背中といわず、いや、全身から噴き出す。
「やめろ!」
「否定すると、より本当だと思われますよ」
タレ目を細くして、いいんですか? と言外に択を迫る文月。
不安に駆られ、俺は文月の忠告に従った。
「……あぁ、勃起したとも。健康な男子なら、誰でも勃起するだろう」
おかしい。
事実を受け容れたのに、囃し立てる連中が減らない。
それどころか「悪人面の切妻が勃起宣言してるぞ」と人を呼ぶやつまで出る始末。
「そういう素直なところ、可愛いと思いますよ」
「かわっ……!?」
いかんいかん、否定は却って本当だと思われるんだったな。
「そうだ。俺はこんなナリだが、素直で可愛いのだ。小腹がすいたら、コンビニでイチゴ味のスイーツを求めてしまう。アイスクリーム屋さんでは、イチゴとブルーハワイを組み合わせてもらうのがお気に入りだ」
おかしい。
事実を受け容れたのに、みんな黙ってしまったぞ。
おいしいだろ、イチゴ味!
「じゃあ、今度食べに行きましょうよ」
「なんでだよ。付き合ってもいない女と、チャラチャラそんなとこ行ったら、誤解されるだろ」
「否定すると、より本当だと思われる、って言いましたよね。私」
「なるほど」
周囲から芳しい反応が得られなくて疑いかけていたが、こういうことは女子の方が詳しい。
従っておくのが得策だろう。
「よし、行ってやる。アイスクリームでもクレープでもパンケーキでも何でも来い。片っ端から二人で回って片付けてやる」
「わぁい! 私、単じゅ……素直な男子、好きです」
「す!?」
おおーっ、と歓声が上がる。
雰囲気に呑まれそうになる自分を、必死に律しようとする。
────好きです。好きです。好きです。好きです。好きです。好きです。好きです……
文月の「好きです」が脳内で無限に反響する。
落ち着け、切妻刀士郎(とうしろう)!
交際関係にない女子からの「好きです」は、母親からのLINEについてくるハート絵文字と同じと思え!
童貞系YouTuberとコラボしていた、謎のギャルが言っていただろう!
「先輩。また誰か他人の言葉に頼って、私の真意を測ろうとしてるでしょ?」
「なぜわかった! やはり蚊の精霊なのか!」
「違いますけど。先輩、顔に出やすいのですぐわかるんです」
「たった二回しか会ってないのに、どうしてそんなに俺の特徴がわかるんだ!?」
「それはな、切妻」
こちらに生温かい視線を向けたままの百目鬼が、会話に割り込んで来た。
「お前が、漫画の悪人が策をめぐらすときにそっくりな表情になっていたからだ」
「テメェ! 俺を悪人面呼ばわりするやつに怒ってくれてたのに、なんて言いざまだ!」
「事実は事実だし、俺は友達として愛情こめて言っているのでノーカンだ」
「ノーカンかどうかは俺が決めることだろうがっ!!」
噛み付いたが、笑って流されてしまった。
畜生……お前だって、善人には見えない顔してるくせにぃ!
「なぁなぁ。君、俺ともLINE交換しよ」
「俺もー♪」
野次馬の中から首のうしろに手を当てている、自然に見せるヘアセットをした男が進み出て来た。
露骨に馴れ馴れしい感じで、文月の肩に手を回す。
それに続いて、髪は短めでヘラヘラ笑いを浮かべた運動部風、遊んでる感じを前面に出した男がやってきて、文月を囲んだ。
急に出て来た男たちに対し、文月は縋るように俺を見る。
お前ら、百目鬼が怖くないのか!?
言いかけて、言葉を呑み込む。
あまりにも、カッコ悪い。
だが、黙っていたのがよくなかった。
「お前はもう交換したろ? どいてろ」
肩を突かれ、俺は輪から外されてしまった。
「おい」
俺を弾いた、スポーツ用ヘアゴムで髪をまとめた男の肩を掴む。
「んだよ。一人では何もできない、顔だけ悪人の臆病陰キャが」
カチン。
月並み極まりないが、そういう音が脳内で鳴った。
噴きあがるボルテージ。
拳に血流が集中するイメージ。
「試してみるか?」
言うより速く、左手はサッカー選手気取りのヘアゴム野郎の前髪を掴んでいた。
腰だめにした拳を、半身の姿勢から勢いをつけて打ち込む。
腕にもスクリュー回転をかけ、渾身の力で叩き込んだ一撃。
「おいおい。止める俺の身にもなれよ」
ヘアゴム野郎の鼻っ柱をへし折るはずだったそれは、百目鬼のごつい手に吸い込まれていた。
「ひっ、陰キャがキレた! 無敵の人だ!」
ひっ、つった時点でどんな捨て台詞吐いてもお前の劣位は決定的だぞ?
逃げるヘアゴム野郎に続いて、文月を囲んでいた男どもが散る。
その程度の連中だ、追う気にもならん。
今は、それより。
「百目鬼ぃぃぃいいいいいっ!!」
邪魔されたことに対し、俺は不満を訴える。
大丈夫だ。百目鬼は逆らう者は皆殺し、というタイプではない。
「切妻。腹が立っても、暴力はダメだろ」
興奮の残滓で上下する肩の振れ幅が、徐々に小さくなっていく。
だが、俺から少し離れたところで首を痛めた男が、文月を背中に庇っている。
睨みつけるも、首痛め男は俺を侮る笑みを浮かべるのみ。
いるよなぁ、こういうやつ。ひとが落ち着こうとしてんのに、火に油注ぐやつ。
けれど文月の目に怯えの色を見て取った、瞬間。
激情が、嘘のように冷めた。
馬鹿か、俺は。
他人に、何を期待してんだよ。
「……だな」
視線を落とす。
そうだ。
別に、文月は俺の何でもないのだ。
LINEの交換をしようと出て来た男どもに、腹を立てる理由はないはずだ。
「それはそうとして」
空気の動きでわかった。
百目鬼が、首痛め男の方へ向き直ったのが。
「蚊がいるようだ」
バチンッ!!
音がしたかと思うと、首痛め男が綺麗な三回転ジャンプを決めた。
「おう、すまん。逃げられたようだ」
即座に、倒れた首痛め男の首根っこを掴み、摘まみ上げる百目鬼。
何か吹き込んでいるようだったが、俺からは見えないし、聞こえない。唇の動きも読めない。
だが、首痛め男の顔が引きつったことが言葉以上に雄弁に、その内容を物語っていた。
解放された首痛め男は、腰を抜かしついでに、尻餅をついた。
文字通り、這う這うの体で首痛め男は百目鬼から逃げ、教室を去って行った。
誰からともなく、拍手が起こる。
いけ好かない横入野郎を、映画のように撃退した百目鬼はかっこよかった。
紫宝珠が、その腰に抱き着いて興奮を露わにするのも、無理もない。
一方、呆然と立ち尽くす文月。
百目鬼に何か訊かれていたが、完全に生返事だ。
そんな文月と、彼女に声をかけられないで突っ立っている俺だけが、周囲の盛り上がりから取り残されていた。
やがて、HR前の予鈴が鳴る。
野次馬も消え、クラスメイトも席に着き出す。
クラスの違う百目鬼、そして学年の違う文月も教室を後にした。
「しゃんとしなさいよ」
背中を叩かれ、首をうしろに向けると紫宝珠がいた。
「直しといてあげたから」
見れば、百目鬼が誤解でキレたせいで倒された俺の席が元に戻っている。
「あぁ、ありがとう」
軽く頷いて、紫宝珠は去って行った。
ほどなくして、本鈴が鳴る。
担任が教室に来て、HRが始まった。
◆
なるほど、確かに見た目だけだ。
最悪の朝から始まった一日。
それを言い訳に、俺はすべての授業を聞き流した。
一部の女子から悪意を向けられもしたが、実害はなかったのでどうでもよかった。
放課後。
俺は意味もなく残っていた。
教室のベランダに腰を下ろし、柵に身を預けて天を仰いでいた。
俺が本物の不良なら、タバコでも吸っているだろう。
いや、本物の不良は学校だとトイレで吸うのか?
便所飯する陰キャがダサいのなら、トイレ喫煙もダサいと言われて当然な気がするのだが。
四階のベランダを眺めても、答えは書かれていない。
夕方になってもまだ聞こえてくる、せわしないセミの鳴き声にもヒントはない。
トイレ喫煙がダサいかどうかも、俺は朝どうするべきだったかについても。
「行かなくていいのです?」
「あ?」
アニメ声で急に話しかけられ、機嫌の悪い俺は声の主を睨みつける。
耳の上で結んだツインテールと、小さな身体にはアンバランスと言わざるを得ない巨乳。
夜の森みたいに真っ黒で深い瞳には、吸い込まれそうな不安を感じる。
教室とベランダを仕切る扉を開け、佇立するクラスの女子。
古森満月(こもり‐みづき)。
そういや文月の胸は、薄めだったよなぁ。
「お姉ちゃんが言っているのです」
「誰だ、それは」
三年に姉がいるのだろうか。
クラスメイトのきょうだいの有無なんざ、興味がないから俺にはわからない。
「あなたは素直になるべきなのです、と」
「素直ね。欲望に忠実であれ、と言い換えることもできるよな、それ」
ささくれだった心に任せ、我ながら厨二病臭い返しをする。
「あなたは、今朝の一年生に欲望をぶつけたいのです?」
「ばっ、馬鹿か。あいつは、そんなんじゃ」
あんまりな質問に、言葉を濁す。
「女の子は、好きな人に大切にされると嬉しいのです」
「そうかよ。お前も彼氏とさっさと帰ればいいだろ」
「あの一年生が、好きじゃない男子に言い寄られて怖がっているのです。お姉ちゃんは、そう私に囁いているのです」
「テキトー言ってんじゃねぇぞ」
なんで、三年が文月の状況を知ってんだよ。
「私は、お姉ちゃんの伝えたいことを伝えただけなのです」
「そうかよ、ご忠告どうも。俺に話しかけるな」
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
「何だよ」
話は終わったようなのに、古森は依然、俺を見つめたまま佇んでいる。
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
「何か言えよ」
「話しかけるな、って言われたのです」
「用が済んだら帰れ」
「…………」
「帰れ!」
怒声を発し、イカレ女を追い払おうとした。
そのときだった。
ガクン、っと唐突に古森の首が折れた。
首だけが綺麗に下を向いているが、背筋はピン、と伸びている。
垂れた髪が古森の顔を覆い尽くしてしまい、その表情は伺えない。
「お、おい! なんだ、どうしたんだよ、おま」
「トイレでタバコを吸うのは────」
肌が粟立つのを感じた。
夏だというのに、背筋を悪寒が襲う。
セミの声が止んでいるのに、気が付いた。
本当に冬が来たのでは、と疑いたくなる。
古森が紡ぐ言の葉は、幼い口調にマッチしたアニメ声ではなくなっていた。
「ダサいダサくない以前の問題だ。火災報知器の誤作動を誘発するだろ。スプリンクラーの水を浴びて、虚偽の火事で出動させられた消防士をはじめとする他人に迷惑をかけるやつを、小僧。お前はかっこいいと思うのか? ん? ここまで言えば、おのずと答えは出るだろうが」
どこか色っぽい声色と、突き放した口調。
それが流暢に、俺の馬鹿な疑問をぶった切った。
「は? え? お前、一体……?」
肝心の答えは、誰にでも言えそうなことでしかない。
けれど、どうして俺の考えていたことがわかったんだ?
「おい。俺、口に出してたか?」
「お姉ちゃんの言いたかったことは、もう全部伝えたのでーっす!」
顔を上げた途端、古森はアニメ声に戻ってその場でぴょんぴょん跳ねた。
何も考えてなさそうな顔で、立派な胸のものをバルンバルン弾ませている。
「待て! 待てったら!」
「ぶいーん! 古森満月、離陸するのでーす♪」
俺が制止するも、古森は振り返らない。
両手を飛行機の翼に見立てて広げ、教室を出て行ってしまった。
「な、なんだったんだ?」
古森の出て行った廊下を、狐につままれたような気持ちで眺める。
「とんだ電波さんだな」
豹変した古森に言われたことを否定したくて、言葉にする。
けれど反対に心は、古森の言っていたことはすべて正しいのではないかと感じだしている。
今、文月の側には百目鬼も俺もいない。
だったら、今朝の男どもが文月に言い寄るには絶好のチャンスだ。
「あいつのクラス、どこだ?」
急な胸騒ぎを覚え、俺は立ち上がった。
◆
探すまでもなく、それは向こうからやってきた。
運動部風男子と、俺を突き飛ばしたヘアゴム野郎。
付きまとう今朝の野郎どもを無視して、文月が廊下を歩いていた。
お前、なんで二年の階に来てんの?
「ねぇねぇ、紗理奈ちゃんさぁ。帰り、ラウンドワン寄ろうよ」
「俺の好きな曲がさぁ、女性パートあるんだよ。一緒に歌わない?」
ぴたり、俺と目の合った文月が立ち止まる。
「先輩、まだ帰ってなかったんですかぁ? ひょっとして、居残りだったり?」
小馬鹿にした口調だが、瞳には安堵の色が浮かんでいる。
────あの一年生が、好きじゃない男子に言い寄られて怖がっているのです
古森の言った通りみたいだ。
文月に袖にされていた連中が、露骨に敵意を剥き出しの目で俺を睨んで来る。
運動部風のやつ、今時分に油を売ってるなんて。実は部活入ってないのか。
「うるせぇ。下校時間までに帰るなら、いつ帰ろうと俺の勝手だろ」
「もしかして、私のこと待ってたり?」
「誰が待っ……」
華奢な肩が震えていた。
ここで照れ隠しをして、強がりを言えば連中に付け入る隙を与えてしまう。
────あなたは素直になるべきなのです、と
古森が一体何者なんだか知らねぇが、ここで俺が素直になるべきなのも、バッチリ当たってるみたいだ。
「待ちくたびれたぞ。イチゴオレの一本や二本奢ってもらわなきゃ、腹の虫が収まらんぞ」
「はいはい。イチゴオレでもレモンゼリーでも買ってあげますから、早く帰りましょ」
妙ににやけた呆れ顔をした文月は、小刻みに手招きをする。
俺はちっちゃい子でも、犬猫でもない。
先輩だぞぉ?
不満点はあったが、肩を竦めて文月の元へ向かう。
しかし。
「イチゴイチゴうるせんだよ、このカマ野郎」
文月をディフェンスせんと、ヘアゴム野郎が俺の前に立ちはだかった。
「ヘアゴムの方がカマ野郎だろうが。日本代表にカマを掘られる妄想でシコってろ、ミーハー」
「んだ、ゴラァ!」
「あっ、先輩!」
ヘアゴム野郎の手が俺の胸倉に伸び、額に額を押し付けられた。
気色悪ぃ、野郎の顔なんざ至近距離で見たかねぇんだよ。
「図星をつかれてキレたのか? 大丈夫だよ。ニューハーフんなりゃ、風俗でもAVでも働き口はあるだろ」
「貴様ァッ!!」
「文月が言ってたぞ。否定すると、より本当だと思われるってなぁ」
「口の減らねぇクソ陰キャだな! 頼りの百目鬼くんはいねぇんだぞ?」
「だからお前の身が危ないんだろうが」
言い終わるや否や、ヘアゴム野郎の顔に唾を吐きかける。
相手が怯んだ隙に、爪先を踵で踏み抜いた。
たたらを踏んだヘアゴム野郎と俺の間に、距離ができる。
右足を畳み、金的蹴りを叩き込んだ。
「ストップ! ストップです先輩!」
しかし、寸前で文月が腰に抱き着いてきたので、ヘアゴム野郎の去勢は果たされなかった。
そのまま文月に引っ張られて、距離を取らされる。
「んだよ、文月。こういうやつは裸土下座するまで殴らないと、死ぬまで後悔するって、YouTuberが言ってたんだよ」
「そのチャンネルは即登録解除してください!」
えぇ? 面白いのにな。老害に恥かかせて泣き寝入りさせる方法とか教えてくれるし。
「む、無敵の人のくせに! なんで紗理奈ちゃんにそんな優しくしてもらえんだよ!」
「え? 無敵の人はお前じゃね?」
高校生は普通、どんなに家庭に問題のある陰キャでも“まだ”無敵の人じゃねぇよ。
進学や就職の道はもちろん、未来が開かれてるからな。
しかし、ここはこいつの言葉の誤りに乗っかって追い詰めてみるか。
すっ、と運動部風の男子を俺は指差した。
急に水を向けられたせいか、運動部風男子は目を白黒させる。
「だって、お前。あいつに助けてもらえてないじゃん」
ヘアゴム野郎が、運動部風男子の方に首を向ける。
あぁ、こいつの無防備な鳩尾に膝を叩き込みてぇ!
「そうだよ、なんでお前、俺を助けないんだよ!」
「え? なんだよ、それ」
無茶苦茶言われた運動部風男子が、泡を食う。
「お前があの陰キャと潰し合えば、俺が紗理奈ちゃんと仲良くなれるじゃん」
「なれませんよ?」
何の感情も乗ってない声で即答する、文月。
こういう時の女子って、マジ残酷だよな。
いてて、胃の古傷が疼くぜ。
「友達もいない、女子にも好かれない。ただの陰キャを大袈裟に、無敵の人なんて言ってるけどよ。それ、まんまお前じゃんかよ」
「違うっ! 俺は、友達いるっ! 陰キャでもない!」
「それって、本当に友達ぃ? あなたが一方的にそう思ってるだけじゃなぁい?」
文月。あらゆる人が本質的には否定できない問いをするんじゃねぇ。
「お前、攻撃に参加するなら、ちゃんと敵だけに当たる攻撃をしろよ」
「ふふふ。百目鬼先輩の中で先輩の優先順位って、何番目なんでしょうね」
「いや、俺を揺さぶってくんじゃねぇよ」
「この世に先輩の味方は、私ただ一人なんですよ」
「依存させようとすんな!」
タレ目を邪悪な形に歪ませて俺をいじる文月に、白けてしまったのだろう。
運動部風男子が嘆息し、首を小さく左右に振る。
「俺、帰るわ」
「は? 何言ってんの? ラウンドワンは?」
「いや、紗理奈ちゃん来ないなら行く意味ないし」
「だったら、私からも今すぐおうちに帰ることをおすすめしますね」
文月の言葉が決定打だった。
運動部風男子が、降参だとばかりに軽く両手を上げる。
「じゃあな、無敵の人」
ヘアゴム野郎の肩をポンッ、と叩いて運動部風男子は行ってしまった。
行ってしまった、はおかしいか。撃退したかったんだし。
百目鬼にやられて懲りたのだろう。
首痛め男もいないし、ヘアゴム野郎は孤立した。
「自分を陽キャだと思い込んでいた、ぼっち先輩、可哀想にねぇ」
文月は、嘲笑たっぷりにヘアゴム野郎を憐れんだ。
容赦ねぇなぁ、もっとやれ。
「違う! 違う! 違う! 俺は無敵の人じゃない!」
本当にその通りなのだが、言葉の誤用をしている残念な人を俺は救わない。
見殺しにしても、別に寝覚めが悪くなる相手ではないし。
「なぁ! なぁ、おい! そこのお前!」
よほどショックだったのか、ロクに話したことがないであろう女子を捕まえるヘアゴム野郎。
捕まった女子も不安そうにしている。
可哀想に。
「なぁ、あいつ! あいつと俺! どっちの顔がいいと思う? どっちがサッカー上手そう?」
「こいつ! 自分が優位だと確信してやがる!」
腹立つなぁ……!
仕掛けられた負け戦に気分を悪くしていたのだが。
すっ、と持ち上げられた女子の人差し指は、なんと俺を指していた。
「はあぁっ!? なんでぇ!?」
「ヘアゴムが女々しい。ガッツいて余裕がないのがキモい。他人を貶める片棒を女に担がせる根性が最低。言うほど顔も良くない。雰囲気作ってるだけの勘違い野郎が、その雰囲気を失ってもイケメンだと思い込んでるのがイタい」
「め、女々しい!? イ、イタい!?」
通りすがりの女子による辛辣すぎる評価に、ヘアゴム野郎は沈んだ。いや、轟沈した。
たった一つ。
テメェが負けた理由は、たった一つだ。
ヘアゴム男子カルチャー圏じゃない女子に意見を聞いたのが、間違いなんだよ。
「そうだ。先輩、イチゴパフェ食べに行きましょうよ」
「おう、いいな。行こう。いい店知ってる?」
「え~? むしろあそこ知らない方がモグリですよ」
「うるせぇ! 男一人だと開拓しづれぇんだよ、そういうの!」
若干サイコパス味を感じないでもなかったが、仕方ない。
イチゴの好きな俺には、文月の提案は魅力的すぎたのだから。
◆
「てゆか先輩。私、めっちゃLINE送ってたのに未読スルーとか、なくないですか?」
うちの高校の女子の間で、マストと名高いスイーツショップへ向かう道すがら。
そんな不満を文月が吐き出すのだった。
「すまん。朝のことで一日ボーっとしてな。授業も全部聞き流しちまったし、スマホも触る気力なかった」
スマホを見れば、実写ウサギスタンプがすっかり流れるくらいメッセージが来ていた。
ざっくり要約すると、男子連中が怖くて動けなかった、俺の行動に引いたわけじゃないです、みたいな内容だ。
ずいぶんと気を遣ってくれていたようだ。
反応できなかったのが、申し訳なくなる。
「もう、繊細ですねぇ」
マジ、座って時間をやり過ごしているうちに夕方だったんだよ。
昼に食ったパンも、ティッシュ食ってるみたいに味しなかったし。
「それは、本当にティッシュを食べていたんじゃないんですか?」
「んな馬鹿な」
財布の代わりにポケットティッシュが軽くなっていた気がするけれど、さすがにないよな。
……ないよな?
「そんなになるくらい私のことで心揺さぶられてた、って聞かされて。悪い気は、しませんけどね」
両手を組んで掌を天に掲げ、薄い胸を反らす文月。
ストレッチしながら言われると、なんだか軽く聞こえてしまう。
我ながら、めんどくさいな。
「そういや文月。お前、どうして俺なんかに声かけようと思ったんだよ」
鏡を見てしまう度思うのだが、決して話しかけたい顔ではない。
目を見たら石化の呪いを受けると言われたら、自分でも受け容れてしまいそうだし。
百歩譲って、蚊を叩こうとしたポーズで振り向いたのが面白かったとしても、だ。
その後、委員会でもない時間にまた話しかけようとか、ましてLINEを交換しようなんて思う顔ではないと思うのだ。
「それはー、話してみたら面白かったからですよ」
「いや、話しかけようと思ったキッカケを訊いてるんだよ」
「いいじゃないですか、そんなの。卵が先か鶏が先かみたいなもんですよ」
「爬虫類は卵生だし、それから進化した鳥類も卵生。鳥の中で鶏の原種が生まれて、それを人間が品種改良した。だから大きな視点では卵生の獲得が先、つまり卵が先で鶏が後だよ」
「理屈っぽいなぁ、もう」
ぽいではない。
俺は理屈で以って。真実に辿り着こうとしているのだ。
「話してみたら面白かった、は光栄な結論だけどよ。じゃあ、俺と話したら面白いかも、って可能性を感じたってことだろ? 違うなら理由教えてくれよ」
今後の人間関係構築において、それは大きな参考になる。
顔でデバフ食らってんだから、気休めだとしても解決策を知りたい。
「嫌です。絶対に、教えません」
「なんでだよ!」
「そんなの先輩に教えたら、勘違い起こして女漁りに使いそうですから」
「するか!」
しないとも断言はできないが、しないつもりだ。
「言っときますけど、私みたいな女子。他にいないんですからね」
「なんだそれは。悪魔の証明か」
私みたいな女子、の定義からふわっとしてるし、どこからツッコめばいいんだ。
「先輩は他の人と話す必要、ないんですよ。あ、そうだ。ちょっとスマホ貸してくださいよ」
「その流れでスマホ渡すのは馬鹿だろ。連絡先消すつもり満々じゃねぇか」
「どうせ親と百目鬼先輩、あと紫宝珠とかいうケバい女のしかないんでしょ」
「あるよ! もっとあるよ!」
「そこ! 企業とか有名人のものを含めない」
なぜバレた!
「何度でも言いますけど、先輩は私以外とお話する必要ないんです」
「いや、その前提はおかしい」
「だから、私が先輩と話したくなった理由は、一切教えません」
取り付く島もない。
諦めて、俺はテキトーな話を改めて文月に振った。
それなりに会話に花を咲かせていると、マストなスイーツショップAdonis Adonaiへと到着した。
文月の言った通り、そこのイチゴパフェはマジで美味かった。
◆
深夜。
キリのいいところでゲームを切り上げ、俺は床に就いた。
あまり夢は見ないのだが、今日に限って俺は夢を見た。
昔の夢だ。
小学校低学年。二年くらいの頃か。
クラスメイトの家に寄り道したはよかったものの、当時の感覚でそこは家からだいぶ遠かった。
帰り道がわからなくなり、俺は迷子になっていた。
半泣きになりながら、通りがかった夕暮れどきの公園。
昔話『浦島太郎』の冒頭か、ってくらいにわかりやすいいじめの現場に遭遇した。
当時から悪人面の片鱗があった俺だが、心はどこにでもいるガキのそれ。
テレビの特撮ヒーローに憧れていて、つまりは正義の味方になりたかった。
悪い奴をやっつけることが正義。
実に子供らしい解釈だ。
俺は目元を腕で拭い、猛然と走り出した。
そして、いじめっこの一人に、うしろからドロップキックを見舞った。
顔面から地面に激突したいじめっこは、ギャン泣き。
ぐるぐるパンチで反撃してくるそいつと、その仲間の逆襲に遭ってボロボロにされた。
俺は、ヒーローなんかじゃなくて、何の力もないガキだからな。
しかも、不意討ちで背中を狙う卑怯者だ。
それなのに多勢に無勢で敗れたことが、妙に悔しかった。
いじめっこが帰った後も、俺は負けたことが受け容れられなかった。
だから、タコの形をした遊具の中で膝を抱えて泣いた。
自分の敗北が、正義の敗北みたいに感じてしまったんだ。
泣きながら、心の中で当時好きだったヒーローに謝っていた。
『この世に悪の栄えた試しはない』
ヒーローのキメ台詞だ。
俺のせいで、それを嘘にしてしまった。
正義が悪に敗れた実例をつくってしまった、と。
今なら、悪が大手を振って歩いている世の中だとわかっているが、当時は知る由もない。
「泣くくらいなら、どうして助けようとしたの?」
声がして、膝に埋めた顔を上げる。
自分も涙と鼻水の痕が残る顔の、タレ目で小さい女の子が立っていた。
髪の長さや服の色が、さっきのいじめられていた子と一致する。
「正義の味方に、なりたかったから」
「じゃあ、正義の味方になれたのに、どうして泣くの?」
「なってない! おれは、あいつらに負けたから!」
「だって、あなたが来てくれたお蔭で、わたしは助かったよ?」
「でも、おれ、負けたじゃん!」
「勝てなかったら、正義じゃないの? 正義の味方って、どんななの?」
女の子が俺の隣に座って、話を聞きたがった。
「んとね、正義の味方っていうのはね……」
俺は当時好きだったヒーローの必殺技や、恐ろしい敵について話した。
女の子は俺の拙い話になんか興味ないだろうに、熱心に聞いてくれた。
クラスの連中は、男子ですらヒーロー番組を卒業し始めていたから、聞いてもらえてとても嬉しかったのが思い出される。
あぁ。
これじゃ、どっちが救われたのかわかんねぇな。
思わず、夢の自分を笑ってしまう。
「じゃあわたし、そろそろ帰るね」
「もう帰るの?」
もう、と俺は言うが外は既にとっぷりと日が暮れている。
前年にやっていたヒーロー番組の概要を、一話一話ていねいに語っていたところだから、気持ちはわかるけどよ。
「またね、わたしのヒーローさん!」
手を振って、タレ目の女の子は帰っていった。
あのタレ目の女の子、今、どうしてるんだろうな。
◆
新人賞の締め切りが近いから、作業を手伝って欲しい。
百目鬼から頼まれ、貴重な休日だというのにタダ働きのために俺はあいつの家に来ていた。
玄関の鍵は開いていた。
挨拶はするが、家の人の返事はない。
許可はもらってるのだし、と上がらしてもらい、やつの部屋へ向かうべく階段を昇る。
「……音楽?」
二階に着いて、違和感を覚える。
あいつの部屋から漏れる、ハードな音楽。
前にも自然系のASMRやボサノヴァを作業用BGMにしていたことはあったが……今日はずいぶんと激しいのを聞いているのだな。
「邪魔するぞ」
ドアを開けると、エアコンの冷気が流れ出し、耳をつんざく激しいシャウトが俺を襲った。
「なんだぁ!?」
激しい演奏とおどろおどろしいエフェクト、威圧的な金切り声と早口でまくし立てられる英語。
ヘビィメタルだかデスメタルだかしらんが、その類が轟いている。
壁にベタベタ貼られているのは、海外バンドや頭が山羊で乳房を晒した悪魔のポスター。
髑髏や逆さ磔の聖者といった、禍々しい置物が空きスペースに置かれている。
そんな中、百目鬼は険しい顔で漫画を描いていた。
「遅かったじゃん」
その隣で原稿に消しゴムをかけていた、紫宝珠がそう声をかけてきた。
「お前、なんでいんの?」
「俺が呼んだら来てくれた」
紫宝珠の代わりに、手を動かしまくっている百目鬼が答えた。
「部屋、それとこの大音量のメタルはどうしたんだよ」
「こうしないとテンション上がらないっていうから、好きにさせた」
消しカスを手で払っていた紫宝珠が、その手で俺にピースサインを向けて来た。
お前、消しゴムかけのためだけにこの魔界をつくったのかよ。
「俺、いらねぇじゃん」
「拗ねるなよ。お前には買い出しというミッションがある」
「パシリかよ」
「制作進行だよ」
「誤解を招く発言はやめろ」
「スクリーントーンセットと、ペン軸と、丸ペンとGペン。あと砂消しゴムと飲み物を頼む」
「待て待て待て、多い多い多い!」
「あ、そうだ。文月さんも連れてきてくれ」
「文月なら、もういないぞ」
「なんで?」
「また来年会おうって、羽音とともにいなくなった」
遠い目をして、窓の外の入道雲を見つめてみた。
無論、嘘である。
「お前、なんだよその桜の精ヒロインみたいなの。つまんな」
「うるせぇよ! あいつが蚊の精霊を自称したんだよ!」
「へー、そうなんだー」
「ホントだぞ!? あと気になったんだけど、砂消しゴムって何!?」
「文月さんに言えばわかる」
「だから、なんで文月が出てくるんだよ」
「あの子、美術部だろ?」
突如提示された情報に、少し考える。
「え? 知らん」
そんな話を聞いた覚えはない。
「美化委員の間違いじゃないのか?」
「お前、彼氏なのにそんなことも知らんのか」
「……彼氏? ……誰が?」
こんなに初耳の情報を浴びせられることって、あるんだな。
「まったく。まだ告白してないのか」
呆れたように、百目鬼に露骨な溜め息を吐かれた。
「うるせぇ! 今や恋愛なんか少数派の爛れた娯楽だぞ! 退廃した上級国民のお遊びだぞ!」
「いいからさっさと行ってこい」
「そうだそうだ、行ってこい。この根性なし」
こいつ、百目鬼に乗っかってなんてこと言いやがる。
「真彩(まや)。根性なしは言いすぎだ」
「ごめんね、道善」
窘められて、百目鬼にだけ謝る紫宝珠だった。こいつ、腹立つなぁ。
え、待って?
つか二人、下の名前で呼び合ってない!?
「……一応、声はかけてみるよ」
「頼むぞ」
言うが早いか、百目鬼は俺に財布を投げて寄越した。
それを受け取り、俺は部屋を出た。
文月を連れてこい、ねぇ。
連れてきたら紫宝珠に「空気読め」と睨まれて、連れてこられなかったら百目鬼に失望される。そういう択でないことを祈るぜ、マジで。
〈文月さぁ、今日って空いてる?〉
一応、文月にLINEを送る。
すぐに既読がついた。
〈空いてますけど〉
〈そういうときは、まず用件を書くのがフェアですよ〉
〈後から用件を書かれると、断りづらいので〉
正論でぶん殴られてしまった。
確かに、暇と言ってしまったらその手前、嫌な用件でも断りづらいわな。
〈すまん〉
〈嫌だったらいいんだけど〉
相槌代わりに、めっちゃドアップで顔に影が落ちてる加工のされた、ウサギのスタンプを送られた。
やっぱり実写だと、ちょっと怖いな。
俺からも、なだめるようなスタンプを送っておいた。
それから、百目鬼が漫画を描いていることと、画材の買い出しと作画の手伝いをして欲しがっている旨を伝えた。
〈先輩も一緒にいてくれるなら、いいですよ〉
またしても圧を感じる実写ウサギスタンプが、間髪入れずに送られてきた。
怖いんだけど。
〈ありがとう〉
〈いえいえ〉
〈先輩を孤立させるためには、まず百目鬼先輩たちのことも〉
〈知る必要がありますからね〉
怖い文面を誤魔化すように、流行ってる漫画の可愛いスタンプが送られてきた。
でもそれ、悪いことを考えているキャラの毒のある笑顔なんだよなぁ。
文脈としては、実写ウサギスタンプより怖い。
ひとまず画材のことが俺にはよくわからないので、ショッピングモール内の文房具店を集合場所に指定した。
◆
「先輩」
「うわっ!」
先に到着した俺が、アイデア文房具を眺めていると、うしろから声をかけられた。
白黒ボーダー柄のノースリーブにアームカバー、ホットパンツにまたボーダーのニーソという出で立ちの文月がいた。
「やはり蚊の精霊か」
「文月紗理奈です。いつまで引きずるんです?」
「ツッコみたくなる服装で来るからだろ」
「デキる女は話題作りからです。二時間を沈黙なく話せない男とは付き合うな、みたいなネット記事を鵜呑みにしてる馬鹿女とは、違うので」
眼鏡のブリッジを持ち上げて、文月は得意そうに薄い胸を反らす。
こいつ、ネット嫌いなのかな?
「じゃ、画材探しましょっか。何を頼まれたんです?」
「えーと」
あの後、改めてメモを百目鬼にLINEで送ってもらっていた。
それを表示すると、文月がスマホを覗き込んで来た。
「ッ!?」
思わず、息を呑んだ。
文月が下を向いたせいでふわりと襟が垂れ、シャツの内側の微かな膨らみが目に入ったからだ。
「ほーん。ほんほんほん。じゃ、あのへんですね」
文月が顔を上げそうだったので、俺も慌てて目線を上げる。
ここの電灯はLEDなんだろうか、それともまだ蛍光灯なのだろうか?
「……何してるんです? 行きますよ」
「あ、うん。すまん」
小首を傾げる文月の後を、早足で追った。
「お前が美術部とは、知らなかったよ」
「言ってないですからね」
さらりと言って、特に悪びれもしない文月。
百目鬼が先に知っていたことに、妙な疎外感を覚える。
「なんで」
「だって、部活してるって知ったら先輩。気を遣って私のこと、遊びに誘ってくれなさそうだから」
「土日もあるのか?」
「基本はないですよ。でも、放課後だって誘ってもらいたいじゃないですか」
「お前が帰宅部でも、そんな毎日は誘わねぇよ」
「へぇ? 私のこと、もっと知らなくていいんですか? 百目鬼先輩から私が美術部だ、って聞かされて、モヤッとしなかったんですか? ん?」
「言ってもないことを読み取ろうとするな」
「そういう理由があったから、言わなかったんです。秘密にされて、寂しかったですか?」
「言ってもないことを読み取るな、つったろ」
「あー、拗ねてるぅ。先輩、後輩の女子に弄ばれて拗ねてるぅ。かーわいいっ」
「拗ねてないし」
「否定すると、余計に本当だと思われますよ」
「拗ねるだろ。こんな距離感で接して来る女、絶対俺のこと好きだと思うじゃねぇか」
やけくそ気味に言い捨てる。
余計にからかわれるかもしれなかったが、どうせこいつは俺をからかうためにここにいるのだ。だったら、どの道同じだ。頭を使ってヘマしないように立ち回るのなんか、馬鹿らしくてやってられん。
「へ、へぇ! そ、そそそんな風に思ってたんだぁ。た、単純ですねぇ!」
あれ?
想定していた反応と、ちょっと違う手応えだな?
「女子のこととか、恋愛のこととか、誰も教えてくれなかったんだ。わかるわけねぇじゃん」
「そう、ですよね」
少しの沈黙の後、文月は何かを見つけたように小走りで棚の前に行ってしまった。
「先輩。砂消しゴム、ありましたよ」
少しぎこちない感じで、謎アイテムを手に俺を呼ぶのだった。
「お、おう。あったんだな」
文月の手に、目の細かい軽石でできた消しゴムのようなものが握られていた。
「何に使うんだ、これ」
「紙を削ってボールペン字を消したりもできますけど、漫画描くなら、スクリーントーンを削ったりするんじゃないですか?」
「削る? あれの表面を?」
「削って白くなれば、光の表現とかに使えますから」
あー。黒髪とか革ジャンに、光が反射してる表現とかか?
「じゃあ、次はスクリーントーンのセットを見繕いましょうか」
「そうだな」
また文月が歩いていくのに、ついていった。
やがて、百目鬼に指定された画材を集め終わり、レジでの精算も済んだ。
いつも気安い感じの文月が、なんだか急に緊張したようになっていた。
「じゃあ、今度は飲み物買おう」
文月は、首肯までもがぎこちないものになっていた。
まるで借りてきた猫だ。
極端に口数の少なくなった文月が、俺の後をついてくる。
テキトーに二リットルのジュースとお茶を選び、それを買ってショッピングモールを後にした。
この間も「炭酸飲める?」とかの、簡単な受け答え以外の会話はなかった。
二時間もたない相手とは付き合うな、ではないが、なんだか気まずくなる。
画材を文月に持たせ、俺は飲み物の入った二枚のレジ袋を持って駅まで歩く。
正直重いが、逆はないからなぁ。
「先輩」
駅の改札前まで来たとき。
文月が、意を決したような感じで話しかけてきた。
「なんだよ」
振り返れば、文月は立ち止まって真剣な顔で俺を見ていた。
「暑いし、さっさと駅に入っちまおうぜ」
「先輩は、好きな女子とか、いないんですか?」
目を泳がせた文月が、高速で毛先を指で擦りながらそんなことを訊いて来た。
唐突。あまりに突拍子もない質問。
「お前、毛先痛むぞ。あと、摩擦で指熱いだろ」
「質問に答えろやがれくださいまし!」
おかしな言葉を遣うな。噛まずに言えるのは、ちょっと凄いけど。
「別に、そういうのは」
「先輩! 大雨の日に、よれよれの段ボールの中心でうずくまる、ずぶ濡れで弱り切った、震える仔猫を見たら、どうしますか?」
「俺はヤンキーじゃねぇよ」
「『あ、犬飼いたいなぁ』とか思い付きで、ペットショップ入ったりしませんよね?」
「そいつ怖いな」
「先輩、好きな女子とかいるんですか?」
「だから別にそういうのは」
「先輩! ウミガメを寄ってたかっていじめている子供の集団がいたら、ウミガメを助けに入りますよね!?」
「浦島太郎じゃねぇよ」
「ウミガメを剥製にして売ろうとしませんよね!?」
「それもう、一般人はできないんじゃないか? 法律的に」
昔は祝いの品で送られていたらしい。
置き場に困るだろうなぁ、花みたいに枯れたら捨てるようなもんでもないし。
「なぁ。重いし、早く電車乗ろうぜ」
「もう一度聞きますよ。先輩には、好きな子、いないんですか!」
「答えようとする度、お前が邪魔するんじゃねぇか」
「いいから答えてください」
文月の顔は、心なしか紅潮している。
熱中症になりかけてる、とかじゃないだろうな?
「こんなとこでする話じゃねぇだろ」
今飲む用のジュースを自販機で買ってやろうと思い、距離を詰めて文月の腕を掴んだ時だった。
「おっぱい見たくせに」
「なっ!?」
カーッ、と文月の耳が赤くなる。
胸元だけとはいえ、見たものは見た。見てしまった。
「ホントに、見たんだ」
下を向き、消え入りそうな声で文月が呟いた。
文月を傷つけてしまったことに、罪悪感が湧き上がってくる。
風俗へ行ける歳まで、ナマは拝めないと半ばあきらめていたそれが、突然そっちからやってきたんだ。
別に俺が、襟元を掴んで覗き込んだわけじゃない。
偶然、見えてしまっただけなんだ。
それでも、俺が悪いのか?
なんなんだよ。
事故で俺が謝ることになるシチュエーション、多くないか?
「悪気はなかったんだ」
「自分の気持ちを、否定するんですか。見たくて見たんじゃないですか?」
悪気はなかった。
本当のことを言うのが、そんなに卑怯なのか。
でも、真実ってやつは一面的ではないのかもしれない。
「うん。私のちっちゃいのなんて、見たって面白くないですよね」
「正直、ラッキーって思ったよ」
文月の方を見れなくて、声も小さくなってしまう。
「こんなに、ぺっちゃんこなのに?」
けれど文月は、俺の声を聞き取れたようだ。
しかも、責める権利があるはずなのに、文月は俺の出方を伺っているみたいな感じだ。
自信なさげというか、何かを怖がっているというか、そんな感じ。
「関係ねぇよ。ラッキー、って思ったのは、サイズどうこうだからじゃないんだよ」
沈黙。
俺の知っている文月なら、茶々を入れて来たりからかったりするはずなのに、それがない。
行き交う人々の会話、電車の発着とそのアナウンス。
雑踏の中でのその沈黙は、まるで闇の中から俺と文月だけを切り取るスポットライトのよう。
これを言ったら、嫌われるかもしれない。
けれど、今更言わずには終われない。
言って終わる関係なら、所詮、遅かれ早かれだ。
「俺なんかにかまってくれる、お前のだから、嬉しかったんだ」
手に伝わる文月の腕の感触が変わった。
強張り、熱を増したそれに動揺する。
だが、文月は未だに黙っている。
うん。
これは、終わったな。
誰になんと思われようと、百目鬼が友達でいてくれるならいいと思っていた。
でもあいつにはもう、紫宝珠がいる。
しかも紫宝珠と俺は、たぶん馬が合わない。
空気を読んで、俺は空気に徹せねばなるまい。
あのヘアゴム野郎基準なら、今日から俺は無敵の人だ。
だってのに、文月はどうしてまだ、俺の手を振り解かないんだろう。
「先輩は、夕方の公園で女の子がいじめられていたら、どうしますか?」
絞り出すように紡がれた文月の言葉に、俺は文月の顔を見た。
真っ赤になった文月の頬を流れ落ちたのは、汗ではない。
女子のことも、恋愛のこともわからない俺でも、それはわかった。
夕方。
公園。
いじめられている女の子。
最近見た、昔の夢の光景と完全に一致する。
「私があの男子たちに言い寄られてるとき、殴って追い払おうとするの見て、全然変わってないな、って思ってました」
涙を流しながら、文月はおかしそうに笑う。
「お前、なのか……!」
こくん、と文月は首を縦に振る。
「あのとき、いじめっこたちに勝てなかったこと。ほんっとうに、悔しかったんですね」
「仕方ねぇだろ。正義の味方は、勝たなきゃ説得力がねぇんだから」
苦笑して、かつてタコの遊具の中でうまく言葉にできなかったことを、口にする。
しかし、文月はそれに首を横に振った。
「先輩は、優しい人です。それだけで、説得力なんて十分なんですよ」
「いや、もう正義の味方なんか目指してねぇよ」
「でも先輩は、私にとってはずっと正義の味方で、ヒーローですよ?」
言葉に胸をつかれたと思った直後、文月が寄りかかって来た。
「先輩。先輩の好きな人の名前、教えてもらっていいですか?」
抱き着き、胸に頬を預けてまっすぐ俺を見上げる視線。
なるほど。
熱っぽいその目は、あのとき俺の稚拙なヒーロー語りを聞いてくれたタレ目の女の子のそれとまったく同じだ。
「文月、紗理奈って人が好きです」
「蚊の精霊、って言ったら腹殴るところでしたよ」
胸の下に巻き付いていた腕が、俺の肩に伸びる。
「ッ!?」
ぴょん、っと文月が飛び跳ねたかと思えば、頬にその唇が触れた。
「私のこと、一生守ってね。正義の味方さん」
「……馬鹿。一生は、重いっての」
「ダメ?」
不安そうにして、目尻を下げる文月。
その華奢で小さな身体を、俺は抱き寄せる。
「ダメとか、言ってないだろ」
「ありがとっ。刀士郎」
俺たちは、人目も憚らずに昼間の改札前で抱き合ったのだった。
◆
ちなみに、百目鬼宅に戻るのは凄く遅れて、すっかり日が落ちた後だった。
「このバカップルめが! 何時だと思ってやがる!」
二〇時に、目が血走った百目鬼に玄関口で怒鳴られたときは、さすがに死を覚悟した。
命を取られる代わりに作業を手伝ったから、なんとか漫画は完成した。
もっとも、百目鬼が締め切りを一か月早く勘違いしていた、というやらかしが発覚するのは、また別の話。
了
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