上 下
2 / 5

浅海雪奈編

しおりを挟む
「位置について! よーい!」
 ピストルが鳴る。
 小さな俺は走り出す。
 いつも遊んでいる園庭に、白線で描かれた楕円形のコース。
 スピーカーから、音割れした『天国と地獄』が鳴り続け、もっと速く走れと尻を蹴っ飛ばしてくる。
 隣を、同じく小さな子供が走る。
 黄色やすみれ色をした帽子で目元は見えないが、一生懸命走っているのはわかる。
 思い出した。
 これは、幼稚園の運動会での徒競走だ。
 俺は、あの時のことを夢に見ているのか。
 コースの外には、園庭に沿って立ち、声援を送る保護者や他の園児が見える。
 半分ほど走ったところで、フッ、と自分の中を何かが通り抜ける感触がした。
 鳥肌の立つようなそれはしかし、不快なそれではない。
 地を蹴る足に、力が漲る。
 研ぎ澄まされる、足裏の神経。
 ダンッ、と力強く地面を蹴り、かつての俺は外周からコース内側へと入る。
 そんなに意外だったのか、競争相手の子供が転ぶのが見えた。
 それを尻目に、俺は走り続け──────一着でゴールした。
「また、あの夢か」
 目を覚まし、過去の栄光を誇るでもなく溜め息を吐いた。
 朝が、現実が、学校が憂鬱だからではない。
 本当に、夢に見たあの出来事が、消したい過去だからだ。



 一日は、何事もなく過ぎ去った。
 自習室からの帰り、ふとグラウンドに目をやった。
 習い事があるから、と新城は先に帰ってしまっていた。
 俺も一人ではあまり気が乗らず、宿題だけ済ませて帰ることにしたのだ。
 ふわり、空中に身を躍らせるその人と、窓越しに目が合った。
 浅海雪奈(あさみ‐せつな)先輩。
 背を反らすことで突き出された胸、ショートパンツから伸びるしなやかな脚に目を奪われる。
 バーを跳び越えた瞬間、先輩が微笑んだ気がした。
 クッションに沈む先輩に、体育着姿の女子生徒が群がる。
 おかしな先輩、という俺の印象は一面でしかないのだろう。
 先の鮮やかな跳躍を黄色い声を上げて賞賛する、陸上部女子。
「カリスマ、か」
 意図せずして、独り言が漏れた。
 肩をそびやかして階段を降り、帰途へ就いた。



「ちゃんと根まで抜きなさい!」
 適当に草をむしってやりすごそうとしていると、新城の鬼指導によってしっかり作業させられてしまった。
 気分的には、体育を四時間分やったようなものだ。
 今日は、運動部が揃って大会で学校を空ける日。
 それで授業がないのだが、代わりに文化部と帰宅部は校内で清掃や草引きをさせられる日だ。
 こういう地味なことの積み重ねで、体育会系へのヘイトが蓄積されていくのも知らずに。
 放課後。
 くたくたの俺を見かねてなのか、新城は「今日はまっすぐ帰るから」と自習室に寄らず帰ってしまった。
 教室で少し休んだ後、俺も帰宅しようと昇降口へ向かっていたときだ。
「やあ。昨日ぶり」
 振り向くより先に、肩を抱かれる。
 途端、ふわっと香る石鹸の匂い。
 腕に押し付けられて潰れる、柔らかな塊。
 顔が、いや全身が熱を帯びる。
「浅海先輩!?」
 昨日ぶりってなんだよ。一瞬、目が合っただけだろ?
「そうとも。おや? なんだか体温が高くないか? ちょっと診てやろう」
 言うなり、先輩は俺の前髪をかき上げ、自分の額を押し当ててきた。
 陶器のように白い肌と、きりりとした意志の強そうな眉。
 鼻は高く、長いまつ毛が群生する目には力があり、唇はやや薄い。
 整った顔が、俺の視界を占有する。
「ふむ。顔も赤いじゃないか、すぐ保健室へ行こう」
 あんたのせいだよ! 
「先輩、近いです。感染(うつ)すと悪いので離れてください」
 嘘も方便、先輩の勘違いに乗っかって逃れようとする。
「平気だとも。なぜって? 感染症よりも私の方が強いからさ」
 ジャブを繰り出す仕草をする浅海先輩。
 目に見えない微細なウイルスと拳でやり合う気か、この人は。
「おい、聞いたか。陸上部の顧問が、クルマで事故ったらしいぜ。部員も何人か一緒に」
「そりゃあいい、体育会系の不幸は希少糖の味だ」
 すれ違う、知らない男子生徒が嬉々として話しながら通り過ぎて行った。
 一瞬、冷たい一瞥を寄越された気がするが、希少糖の味がする出来事でイライラを飲み下してくれたようだ。
「そうなのか? 私を頼ってやってきた運動部の子がケガをしても、私の舌に上品な甘みは乗らなかったぞ?」
「身体を動かしていると、その特殊な受容体は死滅するんですよ」
「まさか活性酸素か」
「たぶんそれです」
 先輩が悪に走るのを阻止する。嘘も方便だ。
「いたぁ! よかったぁ!」
 職員室の方から走って来たダールリが、俺に向かって小刻みに手招きする。
 嫌な予感しかしない。



「は? 俺、ド素人ですよ」
 呼ばれるまま職員室へついていくと、陸上部の助っ人を頼まれた。
 部員を乗せた陸上部顧問のクルマが事故をして、顧問以下部員数名が負傷したのだとか。
 さっきすれ違った男子生徒が話していた通りのようだ。
「二週間後には、また試合があるの」
「責任重大ですね。他を当たってください、俺には荷が勝ちすぎています」
 だいたい、運動部不入部罪みたいな感じで作業させられたばかりだぞ。
 先の男子生徒ほどではないが、俺にも思うところはある。
「そうだとも。水野くんの、運動部の不幸を希少糖の味として知覚する受容体を不当に破壊することは、許されていいことじゃない」
 そうだった、浅海先輩も俺についてきてたんだった。
「希少糖? 受容体の破壊? なんのこと?」
 目を瞬かせるダールリ。無理もない、俺が即興でついた嘘だからな。
「先輩はちょっと黙っててください」
「フッ。私の口を塞ぐことができるのは、甘いベーゼだけさ」
「お願い、水野くん。あなたにしか頼めないの」
「んなこたぁ、ないでしょう。運動部じゃない男子なんて、今時いくらでもいますよ」
 新城と友達になる件とは、わけが違う。
 ケガした陸上部の部員は以前俺に敗れていた、なんて話はないだろ。
「確かに、文化部や帰宅部の生徒でも、水野くんがずば抜けて足が速いわけではありません」
「でしょう? 俺でないといけない理由がないですよ」
「しかし! あなたが走ると、不思議なことが起こるのです」
「…………は?」
 おいおい。俺の身体には、賢者の石もキングストーンも埋まってないぞ?
「中学校のときの、あなたの担任の先生からも聞いています」
 おいおい。まさか、あれを期待しているのか。
「あなたと同時に走った人は、転びやすいという」
「よその学校の生徒ならケガしてもいいと?」
「何かおかしいこと、言ってますか?」
「おかしいだろ!」
「だいたい、馬じゃあるまいし。転んだくらいで重傷を負うような人は、スポーツマンではありません。鍛え方が足りません」
「鍛えてないのを走らせようとしてるやつが言うな!」
「身体の硬いやつが故障するのは、運命。運動向いてないよ」
「先輩まで!」
「私は、君が陸上部を助けようと、陸上部が廃部になろうと、どっちでもいいからね」
 廃部にはならないだろうが、先輩は本当にどうでもよさそうだった。
 じゃあ昨日、陸上部に混じって背面跳びしてたのはどうしてなんだ?
「ねぇ、いいじゃない。新城さんを助けるのも陸上部を助けるのも一緒じゃない」
 個人から組織にスケールアップしてるんですが、それは。
 そのうち学校の危機を救うためにアイドル部を盛り立てろとか、世界の平和を守るためにスーパーロボットに乗れとか言われるんですかね。
「安田先生」
 しつこいダールリに辟易していると、浅海先輩が口を開いた。
 また話がややこしくなることを言うんじゃないだろうな?
「先生は、どうして陸上部を助けたいんですか?」
「え? それは、がんばってる子たちのピンチなんだし」
「綺麗ごとはいいです。運動部が活躍すると、学校の名声が高まるからですよね」
「大人の事情がまったくない、とは言えないわね」
「学校組織の構成員が、交通事故とはいえ他人から預かっている子弟の命を危険に晒したんですよね? 顧問の先生、懲戒免職では?」
 職員室内の時間が停止して、お通夜の静寂が降りる。
 薄い笑みを浮かべる浅海先輩と、黙り込むダールリを見比べるのは、俺だけじゃなかった。
 男子生徒の話を聞いたときの浮世離れした反応とは打って変わり、怜悧に、冷徹にダールリの弁を抑え込む。
「運動部は偉い、体育会系は立派。そういう価値観からいい加減に脱しないと、いつかしっぺ返しを食らいますよ。あぁ、今食らうんですね、陸上部は」
 血の気の多い先生方は、運動部の引率で出ているのだろう。
 平時の職員室であれば、正義を振りかざす彼らが詰め寄ってくるのが目に浮かぶ。
「浅海さん。それは今日の校内作業のことを言ってるの? そんなの、先生に言われたって!」
「学校を去る顧問に変わって、マトモな指導者を立てられなければ廃部も見えてきますよ」
「マトモな、指導者……?」
 ダールリの顔が青くなる。
「もしかして、顧問の臨時代行とか、引き受けちゃいました?」
 沈黙が答えだった。
「見損ないました。先生はあの世界史のテストみたいに、ユーモラスな人だと思っていたのに。残念です」
 ぽん、と肩に手が置かれた。
「行こう、水野くん。陸上部を助けるにしても、それは君よりも愚かな誰かの仕事だ」
 促されるまま、俺は浅海先輩と職員室を後にした。
 退室の間際に見たダールリの顔は、とても心細そうだった。



 どこへ連れて行かれるのかと思えば、屋上だった。
 確か、立ち入り禁止で施錠されていたはず。
 などと思っていると、先輩は当たり前のように鍵を取り出して解錠してしまった。
 重い金属音の後、扉が開かれた。
 瞬間、踊り場に籠った熱と湿気とカビ臭い空気を、爽やかな風が吹き飛ばす。
「初めてだろう? なに、緊張することはない」
 屋上に出るだけで緊張も何もないのだが、心は踊る。
 いつも見上げるだけだった、立ち入らずに卒業するはずだった場所。
 そこへの一歩を踏み出したのだから。
 高所だからか、日差しがより強いように感じる。
 ぐるりを囲むフェンス、間近で見ると思ったより大きい貯水タンク。
「上がろう。もっと、見晴らしがいいぞ」
 扉で屋上と校舎内を区切る小屋、その影から浅海先輩が手招きしていた。
 側面についたはしごを、慣れた様子で昇っていく。
「早く来なよ。それとも、極度の高所恐怖症だったかい?」
「いや、間隔あけてからじゃないと、見えちゃうじゃないですか」
「君は、私のパンツなど見たくないということか」
 そんな、酒を強要する姉貴分みたいに言われましても。
 先輩が小屋の上に腰を下ろしてから、俺もはしごを昇った。
「さっきは、ありがとうございました」
 脚を投げ出し、うしろへ突いた手に体重をかけて座る先輩。
 その隣に座り、俺はお礼を言った。
「部活に入ってないだけで暇人扱いなんて、酷いものな。やりたいことがあるから、部活に入ってないかもしれないのに」
 やりたいことがないから、部活に入っていないのだが黙っておいた。
 小屋に上がったことで、見渡せる範囲の広がった景色を堪能する。
 民家の多い学校周辺から、離れるにしたがって商業施設やオフィスビルが増えていくグラデーションになっていた。
「初めて君と会ったのは、自習室だったね」
 先のテスト期間、その初日だったか。
 新城と一緒に、ダールリのテストに出る奇問の予想を話していたとき、先輩が入って来たんだったな、と思い出す。
「金髪の子、新城さんだっけ? 彼女と勉強してるなんて、殊勝じゃないか」
「なんかニュアンス的に、ガールフレンドの意味で言ってませんか?」
「違うのかい? 男女の友情は成立しない、なんて所詮は俗説か」
 俗説だろう。間違っても、学説として発表されないでくれ。
「なんだ、彼女じゃないのか」
 面白そうでもあり、面白くなさそうでもある。なんとも感情の読み取りにくい顔で、先輩は鼻を鳴らした。
「なんであれ、あの子と勉強するのが君の青春、人生の貴重な一幕であるのは違いないだろう」
「新城と勉強してるのも、元を辿ればダールリ、じゃなくて安田先生に言われてのことですけどね」
 自習室で新城と勉強するようになった経緯を、先輩にざっと簡単に話した。
「ますます勝手だな。君を陸上部にやれば、また新城さんが一人になるじゃないか」
「あの」
「なんだい」
 先輩がダールリを責めていたときから気になっていたことを、訊ねる。
「先輩、陸上部じゃないんですか?」
「私の背面跳びに見とれていたものね。今ここで、また実演してみようか?」
 試すような笑みを向けられるも、俺は危険な冗談をスルーする。
「君と似たようなものさ。私は、陸上部じゃない」
「助っ人、ですか」
「そうだよ。同じクラスの陸上部から、後輩への指導を頼まれてね」
「自分は助けに入ってるのに、あんなことを?」
「うん。私のやっていることは、大したことじゃない。指導といいつつ、ただの実演だ。でも、君が言われていたことは違う」
 飄々としていて、いっそ歌うようですらあった先輩の口調が真剣味を帯びる。
「君が一生懸命練習して、助っ人として大会に出たとしよう。結果がよくても、よくなくても君は幸せにならない」
「結果がよくても、よくなくても?」
「結果がよかった場合、ケガをして出場できなかった選手はもちろん、他の部員もよくない感情を抱く。ケガをした連中は、急ごしらえの帰宅部で代用が利く存在だ、とね」
 先輩の目は、遠くを見ているようだった。ビル群のさらに先、おそらくまた民家が連なる地域のそのまた先。ぼんやりと見える、緑の山々を。
「結果が奮わなければ、口では君の健闘を称え、感謝する。だが、内心では敗北の原因を君に責任転嫁する。何より、至らなかったことを君が気に病むだろう」
「だから、止めに入ってくれたんですか」
 静かに、遠くを見つめたまま先輩は頷いた。
「すべては、事故をした顧問の責任だ。試合に出られないなら、それが陸上部の運命だ」
「俺が出ないことが、本当に最善なんですか?」
「そうだよ。私がサラシを巻いて、胸を潰して出場するよりもいい」
 男子と競っても勝てると言いたげで、凄い自信だ。
「私は運動部の連中からすれば、ある種の有名人だ。だから、私が代理をやって起きた結果については、みんな諦めがつくのさ。天才には勝てない、とか、天才がいても勝てないほど未熟だ、なんてね」
 傲慢な発言だが、不思議と嫌味がない。
 実際にそういう反応を見てきた、ありのままの事実を話しているからだろう。
「暑くなってきたね、そろそろ帰ろうか。付き合わせたお詫びに、アイスでも奢るよ」
 すっくと立ちあがり、先輩ははしごを降りて行った。
 本当に、俺は陸上部を見捨てていいのだろうか?
 快晴の空を見上げ、太陽の眩しさに目を眇める。
「どうしたんだい? パンツが見たかったなら、もう一度昇ってもいいんだぞ」
 丁重にお断りして、俺もはしごを降りた。



 土日が明けて、月曜日。
 帰りのHRを終えて、新城から「行くよね?」とアイコンタクトを送られる。
 頷き、自習室へと足を向ける。
「待って、水野くん」
 ダールリから声をかけられるも、足は止めない。
「考え直してもらえない? みんな、試合に向けてがんばってきたの」
 追いすがって来たダールリは、また同じことを言う。
 今日一日、何も言ってこなかったと思ったら、これだ。
「頼むよ、水野。メシ奢るから」
 同じクラスの陸上部、佐藤までやってきてダールリとともに俺の行く手を阻む。
 さすが陸上部だけあって、見事な反復横跳びによるディフェンスを展開する佐藤。
 バスケとかに転向した方が輝けるのでは?
「何なの、これ?」
 怪訝な顔で新城が訊いて来た。
「新城さん、実はね……」
 俺が口を開くよりも早く、ダールリが陸上部のピンチを情感たっぷりに熱弁した。
「ね? 新城さんからもお願いしてくれない? 水野くんのー、かっこいいとこ見たい見たーい、的な」
「っ! 言えません、そんな恥ずかしいこと」
 腕を組み、そっぽを向いて断る新城。
 危なかった、この場でそんなことを言われたら浅海先輩の助言を忘れて助っ人をするところだった。
「頼むよ新城さーん。こいつが活躍するところ、見たくない? 足が速い男って、かっこいいだろ?」
「小学生かよ」
「いやいや、リレーで活躍するやつ、いっぺん側で見てみ? いくつになってもかっこいいから!」
 ツッコむ俺に、佐藤が熱く抗弁する。側で見るには、並走するだけの実力が必要では?
「決めるのは、私ではありません」
 にべもなく断り、新城はさっさと自習室へ行ってしまった。
「じゃ、俺も行くから」
 一瞬の隙をつき、ディフェンスを突破する。
「女のケツを追い回すために、俺らを見捨てるのか」
 硬い声で詰る佐藤に、俺は足を止めた。
 さすがに聞き捨てならないぞ、その言葉は。
 振り返り、佐藤を睨みつける。
 さぞひとを小馬鹿にしたような顔をしているだろうと思われた佐藤の顔はしかし、驚くほど爽やかに笑んでいた。
「さては知らないな? 女子陸上のユニフォームが、ネットで写真をまとめられるほどエロいということを!」
 さすが運動部。
 無駄にデカい声を張り上げ、馬鹿みたいな役得をアピールし始めた。
 爽やかな笑みで、よくそんなことが言えるな!?
「佐藤くん! なんてことを言うんですか! あぁ、違うんです、彼は場酔いしているだけです!」
 謎のフォローを入れて、あたふたし始めるダールリ。
 場酔い、て。もっと何かなかったのか。
「水野! 女子のエロいところはネットの画像で十分か? エロ動画だけで十分か? そうではないはずだ! このネット全盛の時代にこそ、ナマの、ライブの躍動するエロにリビドーを燃やしてこその男だろう!」
「佐藤くん! もっと健全なアピールをしてください!」
「ツッコむのも馬鹿らしいが、競技は男女で別だろう。帰宅部でも、それくらいは知ってるぞ」
「甘いぞ水野!」
 芝居がかった感じで、俺に人差し指を突きつける佐藤。暑苦しいなぁ。
「だったら女子の大会だけ応援に行けばいいじゃん、とお前は思っているな?」
 理屈はそうだが、首肯一つでもすれば俺は変態扱いだ。
 オープンスケベの佐藤とは、立ち位置が違う。
「気心の知れてない男から見られれば、それは視姦。しかし! ともに汗を流した仲間からの視線は応援なのだ!」
「イケメン無罪みたいなこと言ってるぞ、お前」
「つまり、お前も陸上部に入ればイケメンなのだ」
「そうはならんやろ!」
「なっとるやろがい!」
 サムズアップした親指を自分に向けて、胸を反らす佐藤。
「彼女いたっけ?」
「おいおい。みんなの佐藤を独占しようなんて道徳心のない女、わが校にいるわけないだろ」
「語るに落ちたな」
「水野~~~~っ! 俺は諦めんぞーッ!」
 無視をして、俺は新城を追って自習室へ向かった。



 朝、教室に入るなり、ねっとりとした佐藤の視線を感じ。
 しつこいなぁ。そして、朝練はないのか?
 やり過ごしたくて机に突っ伏していると、近くで人の気配。
「おはよう、水野くん」
「……おはよう」
 笹崎だった。
 佐藤の姿はないことに、安堵の息を吐く。
「やぁ、モテる男はツラいねぇ」
「こんな嬉しくないイベントに、貴重なモテ期を費やしたくない」
「あはは。でも、なんで陸上部の助っ人が嫌なの?」
「それは……」
 浅海先輩とのやり取りを、かいつまんで笹崎に話した。
「なるほど。老婆心からの忠告、ってやつね」
「どうして気にかけてくれるのかは、わからないけどな」
「でも、本当に見捨てていいのか迷ってるんでしょ?」
「迷いはあるけど、めんどくさいからやりたくない気持ちが勝ってる」
「割合は?」
「三対七」
「やらないやつだね」
「先輩の言うこと、一理あるじゃん」
「でも決めるのは、先輩じゃなくて水野くんだよ」
「新城みたいなこと言いやがってからに」
「私から言えるのは、一つだけ」
「なんだよ」
 ワンポイントアドバイス、とばかりに人差し指を立てると笹崎は口角を上げた。
「君が陸上部の助っ人として大会に出るなら、私も応援に行くよ」
 それだけ、と付け加えて笹崎は友達のところへ行ってしまった。
「どうして、そっちの肩を持つようなことを言うかな」
「そんなものでしょ、人間」
 どっか、と鞄を俺の机の端に下ろしてきた女子が言った。
「新城」
 教科書類を毎日持ち帰っているから、自然、新城は登校するときも大荷物なのだ。
「がんばってる人間がいれば応援したい。要は、娯楽として消費したいの」
「運動部ならいくらでもいるだろ。佐藤でも応援してやれよ」
「がんばっているのが、身近な、気心の知れた人間であればなお、よし」
「まさか、新城も?」
 訊くと、新城はその返しは予想外だったみたいな顔でフリーズした。
「ほ、本当に出るのなら、時間をつくるのは、やぶさかではありません」
「マジ?」
「あなた、また私を勉強以外に興味のないつまらない女、みたいに見てませんでした?」
 俺の態度から何かを読み取って、柳眉を逆立てる新城。
 つまらない女だと思われるのが、そんなに不服なことの方が意外だった。
「そんなこと思ってないから、怒るなよ」
「ふん。準備運動を怠って、ねんざでもすればいいのに」
 重い鞄を一息に持ち上げ、去って行く新城。
 呪詛めいた捨て台詞だが、その実、やるのならアップを怠るなということだろう。
 新城の言葉を都合よく解釈したはいいものの、これでやらない理由が浅海先輩だけになってしまった。
 放課後。
 やはり今日もダールリと佐藤から、陸上部の助っ人をやるように頼まれた。
「水野くん知ってる? 三顧の礼だよ? 先生、三回も頼んでるよ?」
 劉備がそんな態度なら、諸葛孔明は応じてないだろ。その言葉自体が生まれなかったまである。
「水野、頼む。別に入部してくれ、ってわけじゃない。今回だけでいいから!」
「心理学のテクニックを使ってんじゃねぇよ」
 これは助っ人に入ったら、次は入部を要求されるやつだ。
「煮え切らない人。はっきりしたら?」
 妙にそわそわした新城が、向こうに加勢する。
 同調圧力。
 日本の強力な因習に、俺は自由意志を挫かれようとしていた。

「素人に頼って出る試合で、君たちは結果に胸を張れるのかな?」

 鶴の一声が、決しかけた趨勢を仕切り直した。
「浅海、先輩……?」
 悠然と歩く浅海先輩のオーラのなせる業か。
 二年生のフロアはこの瞬間、ランウェイへと変貌する。
 俺の隣で立ち止まると、先輩はおもむろに手を握って来た。
「行こう」
 短く告げて、踵を返す先輩。
「お言葉ですが先輩。俺たち陸上部は、猫の手も借りたい状況です」
「では野良猫をスカウトしたまえ。猫は、人間よりも速いぞ」
「無茶言わないでくださいよ」
「知ったことか」
「うわっ」
 浅海先輩は、手を繋いだまま俺の脚を払って上体を反らさせる。
 社交ダンスかよ。しかもこれ、俺が女側じゃね?
 戸惑う俺に、嗜虐的な笑みを浮かべた先輩の顔が迫る。
 息がかかるほどではないにしろ、ドギマギするには十分以上に近い。
「君も、彼女の要求なら呑んでくれるだろう? ん?」
 彼女?
 誰が?
 ……誰の?
 一瞬の静寂の後、野次馬から驚きの声が上がる。
「いつ……から……?」
 批難の色の滲む目が、俺を見ていた。
 新城。君は、どうしてそんな顔をしているんだ?
「では。私たちは、行くところがあるのでね」
 手を引かれ、身体を起こしてもらった後、浅海先輩の腕が俺の肩に回る。
 逆エスコートされる形で、俺たちはこのフロアを後にする。
 背後で、誰かが立候補する声が聞こえたからだろうか。
 それ以上、俺を引き留める者は、いなかった。



 地平線の彼方に、夕陽が沈もうとしていた。
 屋上に吹く風は、先週の昼のものと違って涼しかった。
「俺たち、付き合ってたんですか?」
「そういうことにしてもいいよ」
 こともなげにつぶやくのは、俺の後からはしごを昇る浅海先輩。
 マジで?
 心臓が高鳴り、滲んだ手汗で危うくはしごから手を滑らせそうになる。
「ただ、そういう人間関係に特別な興味がなくてね。君が満足できるかは、わからないよ」
「つまり、その場限りのでまかせですか」
「君を傷つけてしまったなら、謝ろう」
「いいです。別に、本気にしてたわけじゃ、ないですから」
「本気にさせてしまったか。ふむ、どうしたものか」
 なにやらつぶやいているが、無視をする。
 小屋の上に上がり切ると、鞄を枕にして仰向けに寝そべった。
「一つ、聞いてもいいかい?」
「どうぞ」
 隣に腰を下ろした先輩が、寝転んだ俺を見下ろす。
「君と同時に走った人が転びやすい、というのはどういうことなんだ?」
「そっちですか」
「他に不思議なことなど、何があると言うんだい? これでも、土日いっぱい考えていたんだよ」
「ただの、本当にただの偶然なんですよ。運とか、そういうやつです」
 初めは、幼稚園の運動会。
 一瞬、徒競走で先頭に躍り出た俺のうしろで、他の走者がもつれあって転んだ。
 それからも、小学校三年、五年、六年の運動会。
 中学一年のマラソン大会と、三年の体育祭でそういうことがあった。
 本当に偶然でしかない。
 うしろの走者が加速をかけようとした瞬間、すっと俺が前にスライドしてきたせいで転んだ。
 被害を主張してきた同級生たちは、そう訴えた。
「決して、いいもんじゃないですよ。マンガの世界じゃあるまいし」
 誰かにとって、致命的に間の悪い男。
 その英訳でもつければ、能力バトルものの主人公になれるんじゃないか、みたいに思って中学のときは一人で盛り上がったりした。
 けれど、一般的な努力や才能で説明のつかない能力は、不気味がられて爪弾きにされるだけだった。現実にヒーローがいない理由の、一つかもしれない。
「けんか、というかいじめに発展することもありましたからね」
 中学のときの担任が面白おかしく伝えたのか、ダールリが厨二解釈したのか。
 ともかく、それが高校側に伝わっていたのがひどく嫌だった。
「だから、君は競技として走るのが嫌なんだね」
「誰も傷つけたくない、なんて繊細で善良な理由じゃないです。自分が嫌な思いをしたくないだけです」
 能力というのは、コントロールできて初めて能力なのだ。
 いくら速い球でも、ストライクゾーンに投げられなければ野球のピッチャーとして一流にはなれない。
 特に、結果がネガティブというかデバフ的な俺の走りなんて、呪いといって過言ではない。
「私の運動、に限らない才能全般も似たようなものだ。器用貧乏などと謙遜すれば反感を買うが、万能の天才とまではいかない」
 勉学、スポーツ、芸術、遊び。
 すべてにおいて浅海先輩は“なんとなく”上手くできたのだという。
 照れるでもなく、誇るでもない。ただの、事実。
 先輩にとっての才能も、どうやら呪いであるようだった。
 俺と違うのは、任意で発揮できるゆえに、能力でもあるところ。
 しかし。
「結局、何も面白くないんだよ。夢中になってやれるほど、もっと上手くなりたいっていう、渇望がないからね」
「渇望、ですか」
 おうむ返しにつぶやいて、青黒くなりつつある空と流れる雲を見る。
 渇望、向上心、情熱。
 そんなもの、俺にだってない。
 学生時代に打ち込んだことは〇〇です、と就職面接で聞き流されるだけの情熱に、どれほどの価値があろうか。
 それ一本で食っていけるほどに研鑽し、極められるほどの“好き”でなければ、虚無に等しいではないか。
「あれはピアノだったかな? 私と比べるまでもなく下手な子に、訊いたことがあった。どうしてそんなに必死になれるの、ってね」
「性格悪いですよ、それは」
「もちろん、答えの代わりに頬を張られたよ。もっとも、実際には当たる前にその子の手首を掴んで、捻ってしまったんだけどね」
「なんでもできるけど、極められない原因は渇望がないから。それが、先輩の辿り着いた結論なんですか?」
「うん。神童、という言葉がしっくり来たね。子供にしてはできるけど、決して大人(プロフェッショナル)の世界では通用しない半端者」
 先輩は皮肉げに言って、肩をそびやかした。
「そんな、そんな風に決めつけちゃ、寂しいですよ」
「寂しいから、請われれば暇潰しに子供だまし止まりの才能を披露するのさ」
 その横顔は、痛みに耐えているように歪められていた。
「先輩」
「なんだい、後輩」
「俺は、先輩に何も頼んでないですよ」
「そうだね」
 少し考えた後に、先輩は不思議そうに言った。
「なのにどうして、俺のことを庇ったり助けてくれたりしたんです?」
 力を振るうのは暇潰し、しかし、それも請われて初めてやるのだと先輩は言った。
 じゃあ、そんな先輩が俺に関わる理由とは、なんだろうか。
「あれ? 本当だ。どうしてだろうね」
 暗い空を見上げる先輩の顔は闇の黒で塗り潰され、どんな表情をしているのかわからない。
「先輩、世界って広いと思いませんか」
「急にどうしたんだ」
「ほら、こうやって空を見上げてたから思ったんですよ」
 俺は、一点を指差す。
 夜空に架かる、白い輝き。
「宵の明星だね」
「今、俺たちに見えているのはほぼ沈みかけの太陽と、欠けた月と、あの一番星だけです」
「そうだね」
「でも、空はこんなにも広いんですよ。まだ宵の口だから、都会の夜は明るいから、季節で夜空は変わるから、肉眼では観測できないから」
「何の話をしてるんだい?」
「見えてない星が、本当は宇宙にたくさんあるんですよ。そもそも宇宙だって、一つじゃないかもしれない」
「多次元宇宙論?」
 天才を自称して憚らないくせに、要領を得ない顔をこちらに向ける先輩。
 この人をして戸惑わせるとは、もったいぶった言い回しがすぎたか。
 ともかく身体を起こし、俺は先輩に手を差し伸べた。
「先輩、俺と馬鹿やりに行きませんか」
 虚を突かれたとばかりに、先輩は目を丸くして、すぐにいたずらっぽい笑みを浮かべた。



 やってきたのは繁華街。
 もう遅いから明日から、と帰りかけたものの「期待させた責任を取れ」と先輩に引っ張られてしまった。
 仕方がないので、さっそく馬鹿をやっていく。
 コンビニでメントスと数本のコーラを買うと、広場のベンチに並んで座った。
 コーラは、強炭酸を謳うものだ。
「これは知ってるぞ。噴き出すんだろ?」
「ルールその一。開栓したら、自分のフタに触ってはいけない」
「ふむ」
「ルールその二。じゃんけんをして、勝ったらメントスを相手のペットボトルへ入れる、負けたらペットボトルにメントスを入れられないようにする」
「叩いて被ってジャンケンポンじゃないか」
「ルールその三。相手のコーラにメントスを入れたら、思いっきりペットボトルを振りまくる」
「馬鹿だ!!」
「ルールその四。自分のペットボトルを倒すか、コーラにメントスを入れられたら負け」
「本当にやるのかい?」
 先輩が自分と俺を指差す。二人とも制服姿だと言いたいのだろう。
「だからこれは休日にやりたかったんですよ」
「なら余計に今やろう。だって、馬鹿をやりに来たんだろう?」
「そっすね。じゃあ、準備はいいですか」
「待った、ジャンケンの掛け声は?」
「メントスコーラジャンケンポンで」
「わかった、やろう!」
 開栓し、コーラを振れるようにラベルの辺りまで飲んだ。
「ようし、じゃあやりますよ、先輩」
「望むところだ、後輩」
「せーの……」
「「メントスコーラ、ジャンケンポン!!」」
 いざ、開戦の火蓋が切って落とされた。
 初戦の結果は、言うまでもない。
「あはははははっ、馬鹿だ! 自分から持ち掛けておいて、いひっ、ひひひっ、いきなり負けてるじゃないか! あはははははっ!!」
 腹がよじれて苦しい、などと俺を指差し笑う浅海先輩。
 俺はというと、ぶっかけられたコーラの糖分で髪と顔をベタベタにしていた。
 制服のシャツもカラメル色素が染み込んでおり、おそらくこれはダメになってしまうだろう。
「はー、存外面白いな。勝つのは当たり前として、君のその無様な姿! 最高にウケる!」
 それなりに屈辱的な気分になるも、先輩のポニーテールがぽよんぽよん元気に跳ねているので、オッケーです。
 先輩の笑いっぷりが落ち着いてきたところで、互いに二本目のコーラを取り出し、開栓した。
「勝ち逃げなどしないさ。天才の証、しかと見せつけてやろう」



「じゃあ、次の馬鹿をやりに行きましょう」
「よーし、次は何をするんだい?」
 コーラをすべて空にするまで遊んで、ハタと気が付いた。
 一応、俺も先輩に一矢報いることができたので、その……先輩の肌に濡れたシャツが貼り付いて、豊かな胸部装甲がくっきりと浮き出ていた。
「言葉巧みに私を誘い出したかと思えば、これが目的か」
 視線に気付いたのか、先輩は腕で緩く胸を隠しながら、ジト目を向けて来た。
「いやっ、違っ」
「いいんだよ」
 俺との距離を詰めてきたかと思うと、腕を抱いて来た。
「不埒な輩の視線から、君が守ってくれるんだろう?」
 ふにょん、と二の腕に柔らかなものが当たる。
「ほう、意外に硬いじゃないか」
「いや、そんな、その……普通です。第二次性徴頼りの筋肉、ですよ」
 顔が熱い。
 そういや、急に額をくっつけて体温を計られたこともあったっけ。
 この人、パーソナルスペース狭くないか?
「パンツに興味を示さなかったから心配していたのだが、君は胸が好きなのか」
「勘弁してください」
「何を言う。まだまだ始まったばかりだろう?」
 促されるままに、俺は先輩にしなだれかかられた状態でメントスコーラを調達したコンビニへと、再度向かうのだった。
「殺虫剤? これで何をするんだ?」
「別に人に噴きかけるわけじゃないですよ」
「ほう」
 空のペットボトルを捨て、代わりに対ゴキブリを謳う緑のボディをした殺虫剤を買い込んだ。
 酔客や呼び込みを避けて、人通りの少ない通りへ入る。
「YouTubeで昔流行ってたんですよねぇ」
 先輩にも噴射可能な状態にした殺虫剤を渡す。
 マンホールへと延長ノズルを向けると、二本一気に噴射した。
「ほら、先輩も」
「こんなことをして何になるんだ?」
「いいからいいから。今日は馬鹿をやるんです」
「わかった」
 先輩の両手の殺虫剤も併せて、合計四本の缶から薬剤が噴射される。
 鼻を突くアーモンド臭のする霧が、足元に立ち込める。
 指が疲れてきた頃だった。
「う、うわうわうわうわっ、出た!」
 ネオンの明かりを反射する、黒光りする昆虫が下水より這い出てきた。
 それも一匹ではない。
 二匹、三匹と次々出てくる。
 それが足元を通り抜ける気色悪さに、俺は声を上げて跳びすさる。
 怖いもの見たさでやったら、本当に出てきたシチュエーション。
 しかし、先輩はいまいち楽しめなかったようだ。
「殺虫剤でゴキブリを誘引するとは、どういうことだ。意味がわからん」
「誘引じゃなくて、燻されたからたまらず出てきたんですよこいつらっ……!!」
 説明の途中で、顔面に飛来する存在Xを確認。
 咄嗟に両脚のバネを活かして跳躍、回避する。
「何するんですか!!」
 見れば、黒光りする脂ぎった虫を手に、悪い笑みを浮かべる先輩。
 それ、素手で触れるの?
 ちょっと引いていると、先輩は犯行の理由をこともなげに述べた。
「いや、ゴキブリを炙り出しただけじゃ何も面白くないだろ。やはり、水野くんのリアクションを引き出してこそ、面白くなるというものだ」
 言い終わるが早いか、第二投が襲ってくる。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
「こら、口を開けるな。殺虫剤の成分のついた虫が口に入るぞ」
 投げられて飛行能力を開花させたGのうしろで、先輩が忠告する。
 燻されてちょっとついただけの成分以上に、こいつらの不潔さが致命的なんだよ!
 さすが、あらゆる運動部の助っ人をやっている天才だけあり、その強肩は凄まじかった。
 投げるのがゴキブリであっても、速度、コントロールともに申し分ない威力と投擲精度を見せた。
「ううううわああああああああああああああああああああああああああっ!!」
 ピトッ、ピトッと投げられたゴキブリが次々と身体にしがみついてきた。
 ぞわぞわぞわっ、と鳥肌が立った。
 生理的嫌悪感から路上をのたうち回る俺を見て、先輩は大笑いしていた。
 やめて、剥がすの手伝って! 気持ち悪いよぉ!
 ドンッ、と肩が肉質のものに当たる感触。
「いてぇなぁ。何してくれんねん」
 素早く身体の向きを変えられ、胸倉を掴まれる。
 二十代くらいだろうか。
 猫背の長身で、髪をオールバックにしたガラの悪い男が凄んでいた。
「おう、ガキ。道で遊んでんじゃねぇぞ、コラ。アァッ!?」
 ぴりり、と空気の張り詰める。
 まずい。
 ゴキブリのせいで回りが見えなくなっていた。
 悪いことには、こういう半グレ連中は高確率で仲間とツルんでいる。
「おい、いい女がいるじゃねぇか」
 やっぱりだ。
 しかも、今の先輩はコーラでシャツが濡れて胸に貼り付いていて、とても扇情的だ。
 サカったゲス野郎にいつ脱がされたって、おかしくない。
「……ッ! 先輩ッ!」
「おう、謝りもせんと女の心配か? ナメやがって」
「うぅっ!」
 半グレ男によって、ビルの壁に、背中を叩きつけられる。
 血管の浮き出た腕の筋肉が盛り上がり、片手だけで俺の首を掴み上げた。
 磔だ。
 半グレ男ごしに、その仲間が先輩に詰め寄るのが見える。
「余所見すんなや」
「ガアアッ!!」
 鳩尾に鋭い拳が突き刺さり、肺の空気がすべて吐き出される。
 全部をメントスコーラに費やさず、ちゃんと飲む用のものも用意しておけば。
 ゲップとともに吐き出された胃液交じりのそれで、半グレ男を怯ませることができたかもしれないのに。
 後悔先に立たず、先輩が喜ぶので俺たちはコーラを全部遊びに費やしてしまっていた。
 痛みに全身の力が抜けそうになる。
 怖い。
 殴り合いなんて、中学のとき以来していない。
 なのに目の前にいるのは、圧倒的に力量も技量も体格も勝る悪人。
 絶望的な状況に、心が折れてしまう。
「私に勝てると、思っているのか」
 先輩の吐く強気な言葉が聞こえた。しかし、いつもと違ってその声は震えていた。
 あの人らしいっちゃらしいが、そんな挑発をしてどうなるというんだ。
 俺は首を押さえられてしまい、身動きが取れない。どうやって先輩を助ければいい!?
「へぇ、俺らに殴り合いで勝つ気かよ。んじゃ、試してみるか?」
「馬鹿。こいつで潰して、さっさとホテル、連れ込もうぜ」
「このお兄さん、怖いだろう。スピリタス持ち歩いてるからねぇ」
「知ってるか、お嬢ちゃん。これ、ほとんど消毒液と同じアルコール度数だぜ」
「おうよ。こちとら、女潰して犯すつもりで街歩いてんだから、使うならこれよ」
 半グレ男の仲間たちが、下卑た哄笑を爆発させる。
 まずいまずいまずいまずいまずいまずい!
「気の強い女じゃねぇか。ヘタレのテメェにはもったいない」
 仲間のやり取りを横目で見て、半グレ男が猛獣の笑みを浮かべた。
「女を差し上げます、ってテメェの口から言えば金だけで勘弁してやるよ」
 何の交換条件にもなっていない。
 完全に弱者を馬鹿にした物言いだ。
「言えっ、水野くん! 私は天才だ!」
「あぁ、天才的なカラダしてるな」
「くっ、やめろ! 汚い手で触るな!」
「女に庇われて、嬉しいなぁ。ほら、早く言わねぇと今日の思い出でマスかけないように、テメェのタマ、潰すぞ」
 自分の弱さ、情けなさ、考えの至らなさに拳を握る。
 いや、握れなかった。
「うわっ、何しやがるテメェッ!!」
 なぜなら俺の手は、強く強く殺虫剤の缶を握りこんでいたからだ。
 殺虫剤を、遮二無二半グレ男の顔へと噴射。
 しかも、幸運なことに延長ノズルが半グレ男の鼻腔へと突き刺さっているではないか。
 力の限りトリガーを引き絞り、粘膜へとダイレクトアタックをかます。
「この野郎! 殺す!」
 目を剥いた半グレ男が、空いている手でノズルを引き抜いた。
 歯を食いしばれ、俺!
 先輩を守れるのは、俺しかいない!!
 ノズルが宙に舞い、半グレ男が必殺の拳を固める。
 殴られたっていい、先輩のためならば。
 覚悟を決めて俺は、トリガーを絞り続けた。
 カッ開かれた半グレ男の目に向けて、殺虫剤を噴射する。
「ああああああああああああああっ!! 目ぇ痛ってええええええええええっ!!」
「────────────────────────────────ッ!!」
 横っ面を抉る拳に、脳が震えた。
 頬から対角線に突き抜ける痛みで、目に星が散る。
 殴られた衝撃で俺は、道路へと投げ出された。
 殺虫剤の缶も俺の手を離れ、甲高い音を響かせて転がっていった。
 もんどりうちながら、殴られた痛みに悲鳴を上げる顎の関節を手で押さえる。
 半グレ男も、殺虫剤塗れの自分の顔を手で押さえてうずくまっている。
「テメェ! やりやがったな!」
 先輩を囲っていた半グレ男の仲間たちが、こちらに向かってくる。
 ダメだ、半グレ男を怯ませることができたのは、不意打ちだったからに過ぎない。
 一対多で、こちらの手の内がバレていればなす術もない。
 肉食獣への情けという、神の悪意。
 恐怖に足がすくんでしまい、俺は立ち上がることさえできなくなっていた。
 まさに、万事休す。
「う、うわあああああああっ、気持ち悪い!! 取ってくれぇ!!」
「ぎゃああああああっ、背中に入ったあああああっ!!」
 肩をいからせ、こちらに詰めて来ていた半グレ男の仲間たちが、突然背中に手をやって騒ぎ出す。
「うわあああ、ゴキブリついてんぞお前!!」
 仲間たちはたちまち統率を失い、互いにぶつかったり、避けたりし始める。
「早く逃げるんだ、水野くん!!」
 見たことのない必死な形相をした先輩が、鮮やかなフォームでゴキブリを投げていた。
 まさか、ゴキブリを投げる才能のある人に助けられる日が来るとは、思わなかった。
 先輩に檄を飛ばされて、俺は転びそうになりながらも慌てて立ち上がる。
「待ちやがれ!」
「逃がすな!」
「いや、先に俺のゴキブリ取ってくれよ!」
「馬鹿言うな!」
「馬鹿とはなんだ! 俺の気持ちを思い知れ!」
「うわあああっ、何しやがんだテメェ!」
「やんのかオラァ!」
 態勢を立て直そうとする仲間たちはしかし、ゴキブリの取れない仲間に邪魔をされて仲間割れを始める。
 その隙を突き、U字を描いて走った。
「先輩!」
 浅海先輩の手を掴むと、俺は走り出した。
 やたら脂ぎっていたが、今はその理由を考えないことにする。
「お前ら!! 大の男がゴキブリくらいで騒いでんじゃねぇ!!」
 あらぬ方向へと半グレ男が一喝する。
 未だに目が開けられないようだ。
 失明したら?
 それは天罰だな。
「待てコラァ!」
 しかし、それで仲間に統率を取り戻すことには成功したようだった。
「実にしつこい連中だ」
「反社は、メンツ第一だって、聞きますからね」
 先輩の手を引いて走っていたはずが、気が付けば俺が引っ張られていた。
 なるほど、こりゃ助っ人として引く手あまただろう。
「へっへっへ、捕まえたぁ!」
 後から追いかけて来た半グレ男の仲間の手が、俺の顔を横切る。
 俺が捕まったら、先輩まで捕まってしまう。
 咄嗟に、握った手を離そうとした。
 しかし、脂ぎっているにも拘わらず、逆に凄い力で先輩が握り返してきた。
「とっとと、うわぁ!」
 強引に先輩に引き寄せてもらったお蔭で、間一髪、追手の手をかわすことができた。
 びたんっ、と背後でアスファルトに肉を打ち付ける音がした。
 俺を捕まえかけたやつが転んだようだった。
「テメッ、何やってんだダボがッ!」
「痛てぇ! 踏むことねぇだろ!」
「畜生、あの女、速くね?」
 連中はしかし、諦める様子はない。
 先輩は角を曲がり、繁華街のメインストリートへと紛れ込む。
「しっかり握っているんだよ」
 言外に、浅海先輩を逃がすために俺が手を離そうとしたことを責めている。
 先輩は、そういう目をしていた。
「はい……っ!」
 人込みを縫って走る先輩は、まるで風のように器用に通行人を避けていた。
 ゆえに止まらず、ゆえに速度が落ちない。
「オルアアアアアアアアアアアアッ、待ちやがれぇっ!!」
 しかし、相手も負けてはいない。
 通行人を威嚇する怒声を張り上げることで、道を開けさせる。
「当然のようにスマートではないね」
 先輩の声には、焦りが滲んでいた。
 無理もない。
 向こうは強引に道を空けさせて、まっすぐ俺たちを追えばいい。
 人込みの隙間を探し、通行人の行動を予測して進路を割り出す必要のある先輩よりも有利なのだ。
 たちまち、彼我の距離は縮まっていく。
「あっ」
 土踏まずに違和感。
 ずるり、足を滑らせる感覚がした。
 態勢を崩す先輩。
 鬨を上げる半グレ男の仲間。
 硬くて、円柱状のそれの正体を瞬間的に察知する。
 誰かがポイ捨てした、スチール缶。
 缶コーヒーなど、この世から消えてなくなれ、と呪詛を念じる。
 絶対に転ぶ、という予感がしたときである。
 フッ、と自分の中を何かが通り抜ける感触がした。
 鳥肌の立つようなそれはしかし、不快なそれではない。
 地を蹴る足に、力が漲る。
 うしろに傾きかけていた上体が、前進に適した前傾姿勢へと修正される。
 研ぎ澄まされる足裏の神経。
 スチール缶が、わずかにひしゃげるのがわかった。
 沈み込んだ足がバネと化すと、爆発的な推進力を発揮する。
 その力を活かして、俺につられてこけかけていた先輩を引き上げる。
「ぐあっ!」
 半グレ男の仲間の呻きが、続いて空き缶が道路を転がる音が聞こえた。
 力強い踏み込みにより、背後にスチール缶が飛んだのを感じ取っていた。
 それが追手に当たったのだろう。
「君、そんな風に、走れたのか」
「舌を噛みますよ、先輩」
 頭がクリアになり、自分とは思えない足運びで俺は走っていた。
 また連中が怒声を上げたからだろうか。
 通行人は、俺達の前から既に道を空けてくれるようになった。
 目の前には、横断歩道と点滅を始める歩行者用信号。
 先輩の手を強く引き寄せ、足を速める。
 道路に描かれた白いラインを踏み、一気に駆け抜ける。
 赤に変わる瞬間、向こう側に渡り切った。
「どうやら、撒けた、みたいだよ……」
 自らを天才と言って憚らない先輩が、頬を上気させて息を切らせている。
 メントスコーラで遊んだ広場へと入りながら減速し、息を整える。
 無理をしたせいか、調子に乗ったせいか、とても息が苦しい。
 激しく心臓が跳ねまわり、全身がたちまち重くなっていくのを感じた。
 まるで血が鉛を運んでいるみたいだった。
「いわゆる、ゾーンっていう、やつかな?」
 ベンチに倒れ込む俺に、先輩が問いかけた。
 わからない。
 けれど、この感覚は初めてのものではない。
 ダールリが、陸上部の助っ人を俺に頼んだ理由。
 俺が、陸上部の助っ人をやりたくなかった理由。
「そんなスポーツマン的なやつじゃないですよ」
「……そうか。これが、それなんだね」
 わかってもらえたようだった。
「かっこいいじゃないか」
「そんなことないですよ」
「いや、君がその天稟(てんぴん)を授かっていなければ、私たちは悪漢から逃げられなかった」
 真剣な目だった。
 自分の功績を話すときの、事務的なそれとは違う。
 ダールリに言いくるめられそうになった俺を、庇ってくれたときのものとも違う。
 あぁ、俺はこの目を知っている。
 ────中間テストでは、絶対に負けないから
 世界史の小テストで、悪問に正解したせいで俺に宣戦布告をしてきたときの新城の目。
 それと同じものが、先輩の瞳の奧から感じ取れた。
 その他大勢とは異なる、競う価値のある他人を認める目だった。
「決めたよ」
 先輩は、未だベンチで仰向けの俺に手を差し伸べる。
「これからも馬鹿をやるときは、君を頼ることにしよう」
「天才のあなたに頼ってもらえるのは、地力のない人間には面映ゆいですね」
「何を言う。君といれば、今夜のような焼け付くスリルを堪能できるのだ。私一人では、こうはいかない」
 なんだか、話の方向性が怪しいことを察知する。
「もしかして、夜の繁華街が気に入っちゃいました?」
「無論だ。天才の私を、悪漢から守って逃げてくれる男子などそうはいない」
「……いや、反社を刺激して遊ぶのはこれっきりにしましょうよ」
「ほう。君は今夜のスリル以上に、私を楽しませる引き出しを持っていると?」
 嗜虐的に笑む先輩に、ドキッとさせられつつも、俺は正直に答えるのだった。
「勘弁してくださいよ」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活

XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

ドSでキュートな後輩においしくいただかれちゃいました!?

春音優月
恋愛
いつも失敗ばかりの美優は、少し前まで同じ部署だった四つ年下のドSな後輩のことが苦手だった。いつも辛辣なことばかり言われるし、なんだか完璧過ぎて隙がないし、後輩なのに美優よりも早く出世しそうだったから。 しかし、そんなドSな後輩が美優の仕事を手伝うために自宅にくることになり、さらにはずっと好きだったと告白されて———。 美優は彼のことを恋愛対象として見たことは一度もなかったはずなのに、意外とキュートな一面のある後輩になんだか絆されてしまって……? 2021.08.13

大嫌いな歯科医は変態ドS眼鏡!

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
……歯が痛い。 でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。 けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。 同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。 そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?

処理中です...