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古森満月編
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放課の終わりを告げるチャイムが鳴り、担任の先生がおどおどしながら号令をさせるとクラスメート達は思い思いの行動を取り始めた。
かたや部活に向かう者。かたや親しい友人の席に集まり雑談を始める者。
俺はぼんやりした頭でなんとなく辺りを見渡す。
すると一人のクラスメートが目に入った。
平均よりも小さめな身長。黒い髪をツインテールにまとめた少女が帰り支度をしていた。
そうしているとふと隣から声をかけられる。
「何見てんの、関(せき)」
顔を上げるとクラスメートの一人である少女・笹崎紗咲(さささき ささき)がそこにいた。
笹崎は俺にならって顔を向こうに向けた。
そしてその先にいる少女に思い至ったようだった。
「古森さん?」
笹崎が不思議そうに尋ねる。
確かに俺は古森、古森満月(こもり みづき)を見ていた。
笹崎の反応もわかる。古森は別に陰気というわけではないけれど、活発に誰かと絡む子ではなくて、俺もクラスではほとんど話したことがないからだ。
しかし別に友達がいないわけではないようで。
ちょこちょこと古森に駆け寄る女子が二人。
彼女たちは帰り支度を進める古森に声をかけた。
「古森さん今日クレープ食べ行かない?」
古森ははたと手を止めて、それから申し訳なさそうに口を開いた。
「えと、行きたいです。でも今、欲しいものがあって。お姉ちゃんも、楽しみにしてるから。節約中なんです」
「そっかあ残念」
誘いをかけた女子達は特に気にした様子もなく、言葉通りに少しだけ残念そうにして古森に「じゃあまたね」と手を振った。
「ごめんなさい。また、誘ってください」
そんな彼女たちにぺこりと頭を下げる古森。
視線に気付いて俺が顔を向けると隣の笹崎は少しだけ訝しげな目をこちらに向けていた。
「古森さんかわいいよねえ、小さくて」
ほんの少し言い方に俺への含みを感じたが、俺は思ったことを答えた。
「わかる」
うん、かわいい。
ただでさえ小さい身長で彼女は少し猫背気味に縮こまっているものだから、きっと小動物的なかわいさがあるのだろう。彼女の“お姉ちゃん”が彼女を大切に思っているのもわかる。
そんな古森が教室を出るのを見送った後、笹崎が言う。
「関さあ、今日みんなでカラオケらしいけど、行く?」
「おー。いいね。行く」
俺がそう返すと笹崎は機嫌良さそうに声のトーンを上げ、
「じゃ一緒に行こ? みんな先行ってるから急ぐよ!」
そう言いながら駆け出した。
しかし、
「あ、前見ろ!」
俺が注意をすると同時に、笹崎は目の前にいる長身の少女の背中にぶつかった。
「あ、ごめん」
慌てて謝る笹崎に対し、ぶつかられた少女は、姿勢を崩さずに金色の髪をなびかせながらチラリと、笹崎に目を向けた。
そして表情を変えずにぽつりと、
「気をつけなさい」
そう言って、何事もなかったかのように教室をあとにした。
少しだけこちらを見下すかのような言葉が気になったが、笹崎は少しだけ興奮した様子で、
「うわあ新城(しんじょう)さん相変わらずかっこいいねえ。ちょっと憧れるかも」
そんなことを言うものだから、特に彼女の言葉にもうところもないのだろう。
俺はそんな笹崎と連れだって、駅前のカラオケ屋へと向かった。
・・・
一通りカラオケを楽しんだ後。
クラスメートの山成(やまなり)と加瀬(かせ)が勢いよく俺に肩を組んで来たので思わず「うお」と声をもらしてしまう。
山成が気にせずヘラヘラと口を開く。
「今日も友也の家行って良いか?」
調子の良いことを言う山成に俺は苦笑いをして答える。
「お前らうちで飯食いたいだけだろ」
俺の言葉に加瀬は笑って、
「それはそう」
山成も首肯した。
俺が「いいよ」と答えると二人は「いえーい」と子供っぽく声を上げる。
そんな二人に俺は言う。
「でも早めに帰れよ?親御さん心配するだろうし」
「いや何目線よ」
山成がそう返す。
いや何目線と言われても、いくら家が今一人暮らし状態って言ったところでまだ学生なわけだし。さすがに親も心配するだろう。
こいつらはちゃんと自分ちに連絡してくれるだろうか。
そんなことを考えてから、冷蔵庫の食材がそろそろなくなりそうだったことを思い出した。
「じゃー買い出ししてくか」
俺は笹崎や他のクラスメート達に別れを告げ、二人を連れて家の近くのスーパーへと向かった。
そうしてスーパーが目に入った時、ちょうど出て行くお客さんの中に知った顔を見つけた。
「あれ古森さんじゃん?」
そう言った山成に俺は告げる。
「近所なんだよ」
「そうなの?じゃあ中学とか一緒だったんだ?」
「いや小学校までは一緒だったんだけどさ。中学がちょっと違って」
俺の言葉に山成と加瀬が「へー」と気のない相槌を打つ。
こいつらには内緒だが、彼女とは実は家が隣同士で、我が家が中学で一時的に引っ越すまでは家族ぐるみの付き合いだったりした。
色々あってまた元の家に戻ってきて、今もまたお隣さんなわけなんだけど。
でもちゃかされそうだからみんなにはそれは秘密。
高校で彼女に再会してからはなんだか気恥ずかしくてうまく声をかけられないが、元気そうで安心したことを覚えている。
そんな古森はおおきくパンパンに膨らんだビニール袋を手にちょこちょこと家に向かっていった。
そんな彼女を見て、山成は言う。
「あれ大丈夫なの?」
言いたいことはわかる。
彼女の手にあるビニール袋。
それはカップ麺でパンパンだった。
俺は答えた。
「まあ、好みは人それぞれだろ」
古森は最後まで俺たちに気付かずに、やはりちょこちょことした動きでやがて見えなくなった。
・・・
遊び盛りの高校生男子に、時間も周りも気にしないでよい遊び場を与えるべきではない。
少し考えればまあわかる。
結局山成も加瀬も日付が変わる頃まで家に居座り、終電の時間にダッシュで帰って行った。
そして次の日。
俺は見事に寝坊した。
いつもセットしている目覚ましをうっかりセットし忘れていたのが原因だった。
久々にチャリ使うかと考えてながら家を出るとちょうど目の前に歩いている古森が見えた。
遅刻ぎりぎりだというのにその足取りは遅くまさか開き直ったかと思った。
しかしその足取りがあまりにもおぼつかない様子だと気付いた時、ふと彼女の体からふらりと力が抜けていくところが見えた。
「みっちゃん!!」
・・・
「……ここは?」
聞こえた声に目を向ける。
どうやら古森が目を覚ましたようだった。
「起きたか」
彼女は見慣れない周囲の様子に不思議そうにしたあと俺に気付き、それからぼんやりと虚空に目を向けた。
そりゃあ気付いたら病室で寝ているなんて驚くだろうが。
お姉ちゃんが説明してくれてるのだろうか。
そんな彼女に声をかける。
「古森。倒れたの、覚えてない?」
古森は、頷いてそれからまた虚空へと目をやる。
「そっか、私倒れたんですね。……お姉ちゃんも、心配してくれてありがとうございます」
「貧血と、軽い栄養失調だってさ」
俺がそう伝えると古森は「そう、ですか」とぽつりと声を漏らす。
そして体を起こしてぼんやりとする古森。
少しばかりの静寂が病室を満たす。
それから俺は口を開いた。
「ちゃんと飯食ってるの?」
古森は答える。
「食べて、ますよ」
その表情に、その歯切れのなさに、少しだけ彼女の後ろめたさのようなものを感じた俺は、目を細めて言う。
「ほんとに?」
古森は観念したように小さく息を吐いて、そして言った。
「一日一食ですけど」
「食ってねーじゃねーか」
俺の言葉に古森は少しだけむっとして、
「でも、欲しいものがあって。お小遣いだとちょっと、足りないのです。だから食費をちょっとだけ切り詰めました」
普段より少しだけ意地を張ったようなしゃべり方に心の中で苦笑する。
「おばさんかおじさんに頼めば買ってくれるんじゃ」
「二人に迷惑、かけられないですし」
「倒れたら結局迷惑かけることになるんじゃない?」
俺がそう返すと古森は少しだけ困ったように眉を下げ「……むぅ」と唸った。
「いやむくれられても困る」
「でも、欲しいのです」
話しながら彼女の、自分の決めたことは譲らない様子にどこか懐かしさを覚えて。
ああそういえばこんな子だったな、なんて思わず笑ってしまった。
俺は尋ねた。
「何が欲しいの」
古森は間髪入れずに答えた。
「ゴーストフライングディステネーショントルネード2プレミアムエディション」
「え?」
「ゴーストフライングディステネーショントルネード2プレミアムエディションです」
「あ、うん。なんとなくわかった」
多分、彼女の好きな映画のDVDとかだろう。
「いくらなの」
俺は何の気なしに尋ねる。
古森は、しれっと、
「プレミア価格で、50万ですね」
「高えな!? 高校生にはちょっと手が出せないんじゃない!?」
俺の言葉に古森は、改めて覚悟を決めるように頷き、胸元で拳をきゅうと握る。
「はい。だから限界まで食費を、切り詰めているのです。お姉ちゃんも、応援してくれているのですよ?」
「それはさすがに止めてやってくれお姉ちゃん……」
古森の言葉に、常に彼女のそばにいるお姉ちゃんのことも考える。
お姉ちゃんはあんまり古森の意思には干渉しないからなあ。
俺も別に否定をしたわけではない。
むしろ彼女のそういうところは昔から好感が持てる。
「まあでもどっちにしろカップラーメンばっか食べてたら体に悪いって。せめて自炊するとかさ」
俺が適当にストレッチをしながらそう言うと、古森は自身の頬に指を当て何か考え始めた。
それからぽつりと。
「じゃあ、関くんが教えてください」
「何を」
「料理」
かつ、さらりとそんなことを言った。
「へえ?」
俺の喉から間抜けな声が漏れた。
・・・
大した症状でもなかったので俺たちはさらりと帰宅できた。
時刻は昼食に良い時間。
学校には既に二人そろって休みの連絡は入れてある。
そんなわけで二人並んで帰路に着き、料理を教えてくれと言う古森のために、彼女を我が家に招き入れた訳なんだけど。
我が家の食卓にちょこんと座る古森。
目の前には俺が適当に作った和風のきのこパスタ。
彼女の包丁の持ち方から危機感を覚えた俺には、結局彼女に包丁を持たせ続ける勇気はなかった。
まあ、一日で覚えられる者ではないし、今日は見学ということで……。
ちなみに古森が言うにはお姉ちゃんはのんきに応援してくれてたようだった。
彼女はきゅうとお腹を鳴らしながらパスタを見て、それから俺に目を向けた。
俺が頷くと少しだけ表情を明るくして、
「いただきます」
「めしあがれ」
そうして一口、パスタを口にした。
彼女は大きい目をさらに見開いて、一瞬停止し。
それから味わうように咀嚼してから嚥下した。
俺は対面に座ってその様子を眺めていた。
「うまい?」
表情からして不満はなさそうだが念のため聞いてみる。
古森はフォークを置かずに答えた。
「私ここの家の子になります」
「それは困る」
「今日からここで寝泊まりします」
「困る」
しばらく無言でパスタを食べ進める古森をぼんやりと眺めていると、古森が、
「私気付いたのですよ」
なんて口にした。
彼女の汚れた口元を拭ってやりながら尋ねる。
「何を」
「誰かのお家のお夕飯のご相伴に預かれば究極の節約になると」
急に何を言い出すのか。
落ちは読めてるが念のために尋ねる。
「一応聞くけど、誰かって例えば?」
古森はさらりと答える。
「お隣さんとか」
「うちじゃねえか!」
俺がそう言うと古森はおかしそうに笑った。
それから一息入れる。
「懐かしいですね。昔はよく一緒にご飯食べましたね」
そうして嬉しそうに辺りを見渡す古森に俺も、昔を思い出して笑みが漏れた。
「あー、そうだね」
「小学生の時ですね。初めてお家に誘ってくれたとき、嬉しかったのですよ? すごく」
「ほぼ毎日来てたもんね。うちが引っ越しするまで」
「おじさんとおばさんはお元気ですか?」
「ぼちぼちやってるみたい。そっちは?」
「相変わらず忙しそうです」
「そっか」
そんなことを離していると彼女は目の前の食事を平らげて、小さく、しかしはっきりと「ごちそうさまでした」と言った。
それからじっとこちらを見つめてきた。
その仕草にまた懐かしさを覚えて。
そして、こういうときは何かを言おうとしているときだったと思い出した。
俺は静かに彼女の言葉を待つ。
そして彼女は口を開く。
「関くんは」
そこまで言って、それから一度口をつぐんでからまた彼女は続ける。
「私はお姉ちゃんがいるので別に平気なのですが、関くんはひとりで辛くないのですか?」
その言葉に彼女を見る。
彼女はただじっとこちらを見ていた。
その大きな目に、少し吸い込まれそうな錯覚を覚える。
それから、
「そうだなあ」
ぽつりとそう口にして、少し俺は考えた。
一人で、とは俺が今一人暮らしをしていることについてだろう。
今、俺の両親は海外赴任でこの国にはいない。
俺が高校に入るタイミングからだ。
この家は一軒家で、高校生が一人で住む分には広すぎる。
家にいるときもほとんど自室だ。
彼女のご両親も仕事が忙しく帰りが遅いので、小学校の時はよく彼女を家に招いたんだった。
俺は、答える。
「まあ知っての通りうちのおかん自活能力は壊滅的だからね。だから俺はおとんに家事を叩きこまれたわけだけど」
言いながら思い返す。
うちはおかんが仕事人間で、うちのことは専らおとんがこなしていた。
だからおかんの海外赴任の際に、身の回りの世話のためにおとんがついて行くことになったわけだし。
あの時のおとんの顔は記憶に新しい。
しかし準備の時間はあったので家事に関しては問題なくこなせるようになったし、生活費も振り込んでもらえてるから問題はない。
家も、学生の時分で自由に使えるというのはありがたいことだ。
でも。
でも、まあ。うん。
「まあ、ちょっとだけ寂しい」
俺が素直にそう答えると、古森は、
「そう、なのですね」
なんて、噛みしめるように相槌を打った。
それから俺が用意したお茶を啜って、一息入れると彼女はまた、
「寂しいと言えば」
なんて思い出したかのように口を開いて、また大きな目でこちらをのぞき込むようにして、続けた。
「どうして昔みたいに呼んでくれないのですか?」
俺はその言葉に、少し固まって。
それから一口だけお茶を飲んだ。
そして答える。
「そっちだって関くんって呼ぶじゃん」
俺の言葉に、古森は少しだけむくれる。
「高校でせっかく再会したのに、そちらが先に名字で呼び出したのですよ」
そんな彼女を誤魔化すように、俺は言う。
「まあ、そこはほらお互いもう高校生だし」
その言葉に、古森は訝しげに目を細めた。
「お姉ちゃんはそうではないと言ってます。私もそう思います。本当は?」
そうしてまた俺に目を合わせる。
俺は、彼女のこの目が好きで、苦手だった。
また少しの沈黙が流れる。
彼女の言外の圧力を感じる。
そして俺は、ようやく観念して、
「……ちょっとだけ」
うぐと少し唸って、
「ちょ、ちょっとだけ照れくさかったんだよ」
なんとか絞り出すようにそう答えた。
その俺の様子を見て古森はにんまりと、満足そうに微笑む。
「ふうん」
「笑わないでよ……」
俺がそう言うと古森は、ふんと鼻を鳴らして、
「私たちが中学の三年間、寂しい思いをしていたのにですか?」
そう言うのだった。
俺は少しばかり目を細める。
「……さっき寂しくはないって言ってたじゃん」
俺が苦し紛れに力なくそう言うと彼女はしれっと、
「お父さんとお母さんがいなくても寂しくはないのです。二人はがんばってくれてますし、小さい頃からそうでしたから。でもずっと一緒だったのに急に離れたら寂しいじゃないですか」
そんなことを言うのだった。
その言葉の意味を考えて、思い至る。
そして俺は怪訝に思って口を開く。
「なんの話」
彼女は言う。
「とぼけるのは男らしくないと思うのです。お姉ちゃんもそうだそうだと言っています」
俺は思わず「うぐ」と閉口した。
そしてまた、じっと見つめられる。
何かを期待されているかのように。
俺は、また「ぐう」と唸り、それから少しばかり口を開いては閉じた。
しばらくの間そうして。
彼女がずっとこちらを見つめているのを感じて。
そうしてようやく観念して、
「……み、……みっちゃん」
なんとか、口にした。
みっちゃんは、それはもう満足そうににんまりと笑った。
とっても気恥ずかしくて顔が熱い。
ちょっと泣きそうだ。
「なんだよぉ、……笑わないでよ」
俺ばかり追い詰められてるような気がしてそう抗議すると、みっちゃんは、
「ばかにはしてないのです。ただ嬉しくて」
そう言葉の通り、嬉しそうに笑うのだった。
それからすんと元の表情に戻り、口を開く。
「でも足りませんね」
「え」
困惑する俺を気にもせず、みっちゃんは言う。
「1日10回と仮定して三年分。10950回」
「え」
理解が追いつかない俺にぐいと顔を寄せ、みっちゃんは続ける。
「どうぞ。さあ、呼んでください昔のように」
「え」
するとまた、はたと虚空に目をやり、
「え?……ああ、そうですよね。ごめんなさい」
そうしてまた俺に目を向け、続けた。
「お姉ちゃんも呼んで欲しいって言ってます。同じ回数」
「え」
この時の彼女の心底楽しそうな微笑みを、俺はきっと忘れないだろう。
・・・
翌日。今度はしっかりと目覚ましをセットしたお陰ですんなりと起床した俺はいつも通りの時間に教室に着いた。
すると既に自席に着いていたクラスメートの笹崎が声をかけてきた。
「お。きたね」
鞄を机にかける俺に、笹崎は続ける。
「聞いたよ、倒れた古森さん助けてあげたんでしょ?」
確かに担任の先生には、理由も添えて連絡したが、なぜ伝わっているんだ。
まさか理由まで言ったのか。
いやあの担任ならあり得るか。
そう思いながら俺は「まあね」と適当に相槌を打つ。
そう思っていると、笹崎は怪訝そうに言う。
「……どうしたの関。げっそりしてるけど」
「いやちょっと夢で色々あって」
あの後、結局折れない彼女の前でしっかり名前を呼び、そのまま夢でも呪詛のように頭から彼女の名前が離れず響き続けた。
彼女のことは嫌いではないが、それはそれでホラーだった。
そんな話をしたら彼女は喜ぶんだろうなと思った。
それから鞄に入れたあるもののことを考える。
余計なことだっただろうか。
迷惑じゃないだろうか。
笹崎は不思議そうに「ふうん」と相槌を打つ。
するとがらりと教室のドアが開き、彼女が入ってきた。
笹崎もそれに気付いて、彼女・古森満月に声をかける。
「あ、古森さんおはよう」
「おはようございます」
心なしかいつもより顔色の良い彼女を見ていると、パチリと目が合う。
「どうしたのです?」
不思議そうに、何の気なしにそう言う彼女に俺が、
「いや別に。おはよう」
なんて挨拶をすると、彼女は、
「はい。おはようございます」
そうして満足そうに答えて自分の席に向かった。
そして鞄の中身を思い出して、つい大きな声で彼女に、
「あ、みっちゃん!」
そう呼び止めた。
そして思わず昔の呼び方で彼女を呼んでしまったことに気付き、教室が一瞬しんとしたのを感じた。
古森はそんなことを全く気にせずこちらに向き直る。
「なあに」
俺は顔を隠すように鞄からそれを取り出して、彼女に差し出した。
「……その、お弁当、です」
だって。食事に困ってそうだったから。
一度決めたら彼女が妥協しないことを、俺は知っているから。
また倒れて欲しくなんてないから。
……お隣さんがそんなことになってるのに無視はできないだろ。
古森は一瞬ぽかんとして、そして、
「ありがとう、ゆうくん」
そう言って、昨日のどこか嗜虐的なものではない、柔らかな微笑みを浮かべて、俺の弁当を両手で受けとるとさっさと自席に着いた。
少しして、教室にざわつきが戻る。
そしてそのざわつきに、どこから俺への目線を感じて、俺は自席で倒れ込んだ。
そんな俺に、隣の笹崎が声をかけてくる。
「……みっちゃんってどういうこと?ゆうくんってどういうこと?どういう関係?」
俺は観念し、抗議の意味も含めて声を上げた。
「んだよ!幼なじみなんだよ!悪いか!?」
そうして、教室のざわつきは一層大きくなった。
それから視界の端でみっちゃんが、それはもう楽しそうに笑っているのが見えて、俺はまた負け惜しみのように唸るのだった。
古森満月編 了
かたや部活に向かう者。かたや親しい友人の席に集まり雑談を始める者。
俺はぼんやりした頭でなんとなく辺りを見渡す。
すると一人のクラスメートが目に入った。
平均よりも小さめな身長。黒い髪をツインテールにまとめた少女が帰り支度をしていた。
そうしているとふと隣から声をかけられる。
「何見てんの、関(せき)」
顔を上げるとクラスメートの一人である少女・笹崎紗咲(さささき ささき)がそこにいた。
笹崎は俺にならって顔を向こうに向けた。
そしてその先にいる少女に思い至ったようだった。
「古森さん?」
笹崎が不思議そうに尋ねる。
確かに俺は古森、古森満月(こもり みづき)を見ていた。
笹崎の反応もわかる。古森は別に陰気というわけではないけれど、活発に誰かと絡む子ではなくて、俺もクラスではほとんど話したことがないからだ。
しかし別に友達がいないわけではないようで。
ちょこちょこと古森に駆け寄る女子が二人。
彼女たちは帰り支度を進める古森に声をかけた。
「古森さん今日クレープ食べ行かない?」
古森ははたと手を止めて、それから申し訳なさそうに口を開いた。
「えと、行きたいです。でも今、欲しいものがあって。お姉ちゃんも、楽しみにしてるから。節約中なんです」
「そっかあ残念」
誘いをかけた女子達は特に気にした様子もなく、言葉通りに少しだけ残念そうにして古森に「じゃあまたね」と手を振った。
「ごめんなさい。また、誘ってください」
そんな彼女たちにぺこりと頭を下げる古森。
視線に気付いて俺が顔を向けると隣の笹崎は少しだけ訝しげな目をこちらに向けていた。
「古森さんかわいいよねえ、小さくて」
ほんの少し言い方に俺への含みを感じたが、俺は思ったことを答えた。
「わかる」
うん、かわいい。
ただでさえ小さい身長で彼女は少し猫背気味に縮こまっているものだから、きっと小動物的なかわいさがあるのだろう。彼女の“お姉ちゃん”が彼女を大切に思っているのもわかる。
そんな古森が教室を出るのを見送った後、笹崎が言う。
「関さあ、今日みんなでカラオケらしいけど、行く?」
「おー。いいね。行く」
俺がそう返すと笹崎は機嫌良さそうに声のトーンを上げ、
「じゃ一緒に行こ? みんな先行ってるから急ぐよ!」
そう言いながら駆け出した。
しかし、
「あ、前見ろ!」
俺が注意をすると同時に、笹崎は目の前にいる長身の少女の背中にぶつかった。
「あ、ごめん」
慌てて謝る笹崎に対し、ぶつかられた少女は、姿勢を崩さずに金色の髪をなびかせながらチラリと、笹崎に目を向けた。
そして表情を変えずにぽつりと、
「気をつけなさい」
そう言って、何事もなかったかのように教室をあとにした。
少しだけこちらを見下すかのような言葉が気になったが、笹崎は少しだけ興奮した様子で、
「うわあ新城(しんじょう)さん相変わらずかっこいいねえ。ちょっと憧れるかも」
そんなことを言うものだから、特に彼女の言葉にもうところもないのだろう。
俺はそんな笹崎と連れだって、駅前のカラオケ屋へと向かった。
・・・
一通りカラオケを楽しんだ後。
クラスメートの山成(やまなり)と加瀬(かせ)が勢いよく俺に肩を組んで来たので思わず「うお」と声をもらしてしまう。
山成が気にせずヘラヘラと口を開く。
「今日も友也の家行って良いか?」
調子の良いことを言う山成に俺は苦笑いをして答える。
「お前らうちで飯食いたいだけだろ」
俺の言葉に加瀬は笑って、
「それはそう」
山成も首肯した。
俺が「いいよ」と答えると二人は「いえーい」と子供っぽく声を上げる。
そんな二人に俺は言う。
「でも早めに帰れよ?親御さん心配するだろうし」
「いや何目線よ」
山成がそう返す。
いや何目線と言われても、いくら家が今一人暮らし状態って言ったところでまだ学生なわけだし。さすがに親も心配するだろう。
こいつらはちゃんと自分ちに連絡してくれるだろうか。
そんなことを考えてから、冷蔵庫の食材がそろそろなくなりそうだったことを思い出した。
「じゃー買い出ししてくか」
俺は笹崎や他のクラスメート達に別れを告げ、二人を連れて家の近くのスーパーへと向かった。
そうしてスーパーが目に入った時、ちょうど出て行くお客さんの中に知った顔を見つけた。
「あれ古森さんじゃん?」
そう言った山成に俺は告げる。
「近所なんだよ」
「そうなの?じゃあ中学とか一緒だったんだ?」
「いや小学校までは一緒だったんだけどさ。中学がちょっと違って」
俺の言葉に山成と加瀬が「へー」と気のない相槌を打つ。
こいつらには内緒だが、彼女とは実は家が隣同士で、我が家が中学で一時的に引っ越すまでは家族ぐるみの付き合いだったりした。
色々あってまた元の家に戻ってきて、今もまたお隣さんなわけなんだけど。
でもちゃかされそうだからみんなにはそれは秘密。
高校で彼女に再会してからはなんだか気恥ずかしくてうまく声をかけられないが、元気そうで安心したことを覚えている。
そんな古森はおおきくパンパンに膨らんだビニール袋を手にちょこちょこと家に向かっていった。
そんな彼女を見て、山成は言う。
「あれ大丈夫なの?」
言いたいことはわかる。
彼女の手にあるビニール袋。
それはカップ麺でパンパンだった。
俺は答えた。
「まあ、好みは人それぞれだろ」
古森は最後まで俺たちに気付かずに、やはりちょこちょことした動きでやがて見えなくなった。
・・・
遊び盛りの高校生男子に、時間も周りも気にしないでよい遊び場を与えるべきではない。
少し考えればまあわかる。
結局山成も加瀬も日付が変わる頃まで家に居座り、終電の時間にダッシュで帰って行った。
そして次の日。
俺は見事に寝坊した。
いつもセットしている目覚ましをうっかりセットし忘れていたのが原因だった。
久々にチャリ使うかと考えてながら家を出るとちょうど目の前に歩いている古森が見えた。
遅刻ぎりぎりだというのにその足取りは遅くまさか開き直ったかと思った。
しかしその足取りがあまりにもおぼつかない様子だと気付いた時、ふと彼女の体からふらりと力が抜けていくところが見えた。
「みっちゃん!!」
・・・
「……ここは?」
聞こえた声に目を向ける。
どうやら古森が目を覚ましたようだった。
「起きたか」
彼女は見慣れない周囲の様子に不思議そうにしたあと俺に気付き、それからぼんやりと虚空に目を向けた。
そりゃあ気付いたら病室で寝ているなんて驚くだろうが。
お姉ちゃんが説明してくれてるのだろうか。
そんな彼女に声をかける。
「古森。倒れたの、覚えてない?」
古森は、頷いてそれからまた虚空へと目をやる。
「そっか、私倒れたんですね。……お姉ちゃんも、心配してくれてありがとうございます」
「貧血と、軽い栄養失調だってさ」
俺がそう伝えると古森は「そう、ですか」とぽつりと声を漏らす。
そして体を起こしてぼんやりとする古森。
少しばかりの静寂が病室を満たす。
それから俺は口を開いた。
「ちゃんと飯食ってるの?」
古森は答える。
「食べて、ますよ」
その表情に、その歯切れのなさに、少しだけ彼女の後ろめたさのようなものを感じた俺は、目を細めて言う。
「ほんとに?」
古森は観念したように小さく息を吐いて、そして言った。
「一日一食ですけど」
「食ってねーじゃねーか」
俺の言葉に古森は少しだけむっとして、
「でも、欲しいものがあって。お小遣いだとちょっと、足りないのです。だから食費をちょっとだけ切り詰めました」
普段より少しだけ意地を張ったようなしゃべり方に心の中で苦笑する。
「おばさんかおじさんに頼めば買ってくれるんじゃ」
「二人に迷惑、かけられないですし」
「倒れたら結局迷惑かけることになるんじゃない?」
俺がそう返すと古森は少しだけ困ったように眉を下げ「……むぅ」と唸った。
「いやむくれられても困る」
「でも、欲しいのです」
話しながら彼女の、自分の決めたことは譲らない様子にどこか懐かしさを覚えて。
ああそういえばこんな子だったな、なんて思わず笑ってしまった。
俺は尋ねた。
「何が欲しいの」
古森は間髪入れずに答えた。
「ゴーストフライングディステネーショントルネード2プレミアムエディション」
「え?」
「ゴーストフライングディステネーショントルネード2プレミアムエディションです」
「あ、うん。なんとなくわかった」
多分、彼女の好きな映画のDVDとかだろう。
「いくらなの」
俺は何の気なしに尋ねる。
古森は、しれっと、
「プレミア価格で、50万ですね」
「高えな!? 高校生にはちょっと手が出せないんじゃない!?」
俺の言葉に古森は、改めて覚悟を決めるように頷き、胸元で拳をきゅうと握る。
「はい。だから限界まで食費を、切り詰めているのです。お姉ちゃんも、応援してくれているのですよ?」
「それはさすがに止めてやってくれお姉ちゃん……」
古森の言葉に、常に彼女のそばにいるお姉ちゃんのことも考える。
お姉ちゃんはあんまり古森の意思には干渉しないからなあ。
俺も別に否定をしたわけではない。
むしろ彼女のそういうところは昔から好感が持てる。
「まあでもどっちにしろカップラーメンばっか食べてたら体に悪いって。せめて自炊するとかさ」
俺が適当にストレッチをしながらそう言うと、古森は自身の頬に指を当て何か考え始めた。
それからぽつりと。
「じゃあ、関くんが教えてください」
「何を」
「料理」
かつ、さらりとそんなことを言った。
「へえ?」
俺の喉から間抜けな声が漏れた。
・・・
大した症状でもなかったので俺たちはさらりと帰宅できた。
時刻は昼食に良い時間。
学校には既に二人そろって休みの連絡は入れてある。
そんなわけで二人並んで帰路に着き、料理を教えてくれと言う古森のために、彼女を我が家に招き入れた訳なんだけど。
我が家の食卓にちょこんと座る古森。
目の前には俺が適当に作った和風のきのこパスタ。
彼女の包丁の持ち方から危機感を覚えた俺には、結局彼女に包丁を持たせ続ける勇気はなかった。
まあ、一日で覚えられる者ではないし、今日は見学ということで……。
ちなみに古森が言うにはお姉ちゃんはのんきに応援してくれてたようだった。
彼女はきゅうとお腹を鳴らしながらパスタを見て、それから俺に目を向けた。
俺が頷くと少しだけ表情を明るくして、
「いただきます」
「めしあがれ」
そうして一口、パスタを口にした。
彼女は大きい目をさらに見開いて、一瞬停止し。
それから味わうように咀嚼してから嚥下した。
俺は対面に座ってその様子を眺めていた。
「うまい?」
表情からして不満はなさそうだが念のため聞いてみる。
古森はフォークを置かずに答えた。
「私ここの家の子になります」
「それは困る」
「今日からここで寝泊まりします」
「困る」
しばらく無言でパスタを食べ進める古森をぼんやりと眺めていると、古森が、
「私気付いたのですよ」
なんて口にした。
彼女の汚れた口元を拭ってやりながら尋ねる。
「何を」
「誰かのお家のお夕飯のご相伴に預かれば究極の節約になると」
急に何を言い出すのか。
落ちは読めてるが念のために尋ねる。
「一応聞くけど、誰かって例えば?」
古森はさらりと答える。
「お隣さんとか」
「うちじゃねえか!」
俺がそう言うと古森はおかしそうに笑った。
それから一息入れる。
「懐かしいですね。昔はよく一緒にご飯食べましたね」
そうして嬉しそうに辺りを見渡す古森に俺も、昔を思い出して笑みが漏れた。
「あー、そうだね」
「小学生の時ですね。初めてお家に誘ってくれたとき、嬉しかったのですよ? すごく」
「ほぼ毎日来てたもんね。うちが引っ越しするまで」
「おじさんとおばさんはお元気ですか?」
「ぼちぼちやってるみたい。そっちは?」
「相変わらず忙しそうです」
「そっか」
そんなことを離していると彼女は目の前の食事を平らげて、小さく、しかしはっきりと「ごちそうさまでした」と言った。
それからじっとこちらを見つめてきた。
その仕草にまた懐かしさを覚えて。
そして、こういうときは何かを言おうとしているときだったと思い出した。
俺は静かに彼女の言葉を待つ。
そして彼女は口を開く。
「関くんは」
そこまで言って、それから一度口をつぐんでからまた彼女は続ける。
「私はお姉ちゃんがいるので別に平気なのですが、関くんはひとりで辛くないのですか?」
その言葉に彼女を見る。
彼女はただじっとこちらを見ていた。
その大きな目に、少し吸い込まれそうな錯覚を覚える。
それから、
「そうだなあ」
ぽつりとそう口にして、少し俺は考えた。
一人で、とは俺が今一人暮らしをしていることについてだろう。
今、俺の両親は海外赴任でこの国にはいない。
俺が高校に入るタイミングからだ。
この家は一軒家で、高校生が一人で住む分には広すぎる。
家にいるときもほとんど自室だ。
彼女のご両親も仕事が忙しく帰りが遅いので、小学校の時はよく彼女を家に招いたんだった。
俺は、答える。
「まあ知っての通りうちのおかん自活能力は壊滅的だからね。だから俺はおとんに家事を叩きこまれたわけだけど」
言いながら思い返す。
うちはおかんが仕事人間で、うちのことは専らおとんがこなしていた。
だからおかんの海外赴任の際に、身の回りの世話のためにおとんがついて行くことになったわけだし。
あの時のおとんの顔は記憶に新しい。
しかし準備の時間はあったので家事に関しては問題なくこなせるようになったし、生活費も振り込んでもらえてるから問題はない。
家も、学生の時分で自由に使えるというのはありがたいことだ。
でも。
でも、まあ。うん。
「まあ、ちょっとだけ寂しい」
俺が素直にそう答えると、古森は、
「そう、なのですね」
なんて、噛みしめるように相槌を打った。
それから俺が用意したお茶を啜って、一息入れると彼女はまた、
「寂しいと言えば」
なんて思い出したかのように口を開いて、また大きな目でこちらをのぞき込むようにして、続けた。
「どうして昔みたいに呼んでくれないのですか?」
俺はその言葉に、少し固まって。
それから一口だけお茶を飲んだ。
そして答える。
「そっちだって関くんって呼ぶじゃん」
俺の言葉に、古森は少しだけむくれる。
「高校でせっかく再会したのに、そちらが先に名字で呼び出したのですよ」
そんな彼女を誤魔化すように、俺は言う。
「まあ、そこはほらお互いもう高校生だし」
その言葉に、古森は訝しげに目を細めた。
「お姉ちゃんはそうではないと言ってます。私もそう思います。本当は?」
そうしてまた俺に目を合わせる。
俺は、彼女のこの目が好きで、苦手だった。
また少しの沈黙が流れる。
彼女の言外の圧力を感じる。
そして俺は、ようやく観念して、
「……ちょっとだけ」
うぐと少し唸って、
「ちょ、ちょっとだけ照れくさかったんだよ」
なんとか絞り出すようにそう答えた。
その俺の様子を見て古森はにんまりと、満足そうに微笑む。
「ふうん」
「笑わないでよ……」
俺がそう言うと古森は、ふんと鼻を鳴らして、
「私たちが中学の三年間、寂しい思いをしていたのにですか?」
そう言うのだった。
俺は少しばかり目を細める。
「……さっき寂しくはないって言ってたじゃん」
俺が苦し紛れに力なくそう言うと彼女はしれっと、
「お父さんとお母さんがいなくても寂しくはないのです。二人はがんばってくれてますし、小さい頃からそうでしたから。でもずっと一緒だったのに急に離れたら寂しいじゃないですか」
そんなことを言うのだった。
その言葉の意味を考えて、思い至る。
そして俺は怪訝に思って口を開く。
「なんの話」
彼女は言う。
「とぼけるのは男らしくないと思うのです。お姉ちゃんもそうだそうだと言っています」
俺は思わず「うぐ」と閉口した。
そしてまた、じっと見つめられる。
何かを期待されているかのように。
俺は、また「ぐう」と唸り、それから少しばかり口を開いては閉じた。
しばらくの間そうして。
彼女がずっとこちらを見つめているのを感じて。
そうしてようやく観念して、
「……み、……みっちゃん」
なんとか、口にした。
みっちゃんは、それはもう満足そうににんまりと笑った。
とっても気恥ずかしくて顔が熱い。
ちょっと泣きそうだ。
「なんだよぉ、……笑わないでよ」
俺ばかり追い詰められてるような気がしてそう抗議すると、みっちゃんは、
「ばかにはしてないのです。ただ嬉しくて」
そう言葉の通り、嬉しそうに笑うのだった。
それからすんと元の表情に戻り、口を開く。
「でも足りませんね」
「え」
困惑する俺を気にもせず、みっちゃんは言う。
「1日10回と仮定して三年分。10950回」
「え」
理解が追いつかない俺にぐいと顔を寄せ、みっちゃんは続ける。
「どうぞ。さあ、呼んでください昔のように」
「え」
するとまた、はたと虚空に目をやり、
「え?……ああ、そうですよね。ごめんなさい」
そうしてまた俺に目を向け、続けた。
「お姉ちゃんも呼んで欲しいって言ってます。同じ回数」
「え」
この時の彼女の心底楽しそうな微笑みを、俺はきっと忘れないだろう。
・・・
翌日。今度はしっかりと目覚ましをセットしたお陰ですんなりと起床した俺はいつも通りの時間に教室に着いた。
すると既に自席に着いていたクラスメートの笹崎が声をかけてきた。
「お。きたね」
鞄を机にかける俺に、笹崎は続ける。
「聞いたよ、倒れた古森さん助けてあげたんでしょ?」
確かに担任の先生には、理由も添えて連絡したが、なぜ伝わっているんだ。
まさか理由まで言ったのか。
いやあの担任ならあり得るか。
そう思いながら俺は「まあね」と適当に相槌を打つ。
そう思っていると、笹崎は怪訝そうに言う。
「……どうしたの関。げっそりしてるけど」
「いやちょっと夢で色々あって」
あの後、結局折れない彼女の前でしっかり名前を呼び、そのまま夢でも呪詛のように頭から彼女の名前が離れず響き続けた。
彼女のことは嫌いではないが、それはそれでホラーだった。
そんな話をしたら彼女は喜ぶんだろうなと思った。
それから鞄に入れたあるもののことを考える。
余計なことだっただろうか。
迷惑じゃないだろうか。
笹崎は不思議そうに「ふうん」と相槌を打つ。
するとがらりと教室のドアが開き、彼女が入ってきた。
笹崎もそれに気付いて、彼女・古森満月に声をかける。
「あ、古森さんおはよう」
「おはようございます」
心なしかいつもより顔色の良い彼女を見ていると、パチリと目が合う。
「どうしたのです?」
不思議そうに、何の気なしにそう言う彼女に俺が、
「いや別に。おはよう」
なんて挨拶をすると、彼女は、
「はい。おはようございます」
そうして満足そうに答えて自分の席に向かった。
そして鞄の中身を思い出して、つい大きな声で彼女に、
「あ、みっちゃん!」
そう呼び止めた。
そして思わず昔の呼び方で彼女を呼んでしまったことに気付き、教室が一瞬しんとしたのを感じた。
古森はそんなことを全く気にせずこちらに向き直る。
「なあに」
俺は顔を隠すように鞄からそれを取り出して、彼女に差し出した。
「……その、お弁当、です」
だって。食事に困ってそうだったから。
一度決めたら彼女が妥協しないことを、俺は知っているから。
また倒れて欲しくなんてないから。
……お隣さんがそんなことになってるのに無視はできないだろ。
古森は一瞬ぽかんとして、そして、
「ありがとう、ゆうくん」
そう言って、昨日のどこか嗜虐的なものではない、柔らかな微笑みを浮かべて、俺の弁当を両手で受けとるとさっさと自席に着いた。
少しして、教室にざわつきが戻る。
そしてそのざわつきに、どこから俺への目線を感じて、俺は自席で倒れ込んだ。
そんな俺に、隣の笹崎が声をかけてくる。
「……みっちゃんってどういうこと?ゆうくんってどういうこと?どういう関係?」
俺は観念し、抗議の意味も含めて声を上げた。
「んだよ!幼なじみなんだよ!悪いか!?」
そうして、教室のざわつきは一層大きくなった。
それから視界の端でみっちゃんが、それはもう楽しそうに笑っているのが見えて、俺はまた負け惜しみのように唸るのだった。
古森満月編 了
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