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恋か愛か、欲か願いか
貴女となら全てが ②
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薄暗い林の中、並ぶ幾つもの酒樽の陰で長身の男が身をすくめて震えていた。
男は耳をそばだてる。聞こえるのは闇夜に似合わぬ愛らしい鳥の鳴き声のみ。明朗な声はその異質さからか、逆に男の恐怖を煽っている。
「なんで俺が」
真っ青な顔で男――フェリクス・ベークマンは呻いた。
ベークマン家は裕福な商家である。
フェリクスの父は海外製の家具輸入業を始めに、食品や機械製品の輸入、飲食店経営や観光農園、私立大学運営まで手広く手掛けるベーク社の代表取締役。一族の者の多くはベーク社に勤め、次男のフェリクス自身も将来を約束された立場であった。
とは言え、厳しい父にフェリクスへの期待も野心も大きい母、影では疎みながらも擦り寄る友人に下心を隠さずに近付く女達。
フェリクスが満たされる経験は、周りが思うよりもずっと少なく。家への反抗心と欲求不満、恵まれた容姿、そして次男という立場は遊び人フェリクス・ベークマンを作り上げるには十二分な環境であり、勘当の話が度々浮上するのも無理のない事であった。
(俺はただ、指輪を渡して渡された紙にサインさせてくれと頼まれただけだ。サインは直筆で、指輪は必ず身につけさせるようにすれば手段は問わないと……成功すれば、それだけで小金が貰えるはずだった!)
実に簡単な話だった。フェリクスはいつものように何処の誰かもわからぬ仲間からその話を聞き、何かのゲームだと思い安請け合いをした。
ただどこかで商人の血が騒いでしまったのだ。
単に賭け事として指輪をはめさせるだけでは損である、一時的にでも煩い家から逃れる術として利用すればリスクに見合う報酬が得られるだろう、と。
ゲーム感覚で始めた事だが、自分に興味を抱かない人間との会話は案外楽しく、軽蔑を隠さずに接してくる割には誠実に向き合ってくれるエリスとのやり取りは新鮮だった。
僅かな罪悪感と久しい興奮を覚え始めた頃には終わりを迎え、フェリクスは種明かしと謝罪代わりの金銭と菓子を贈り物として用意し、薬局へと向かった。だけであった。
(なのになんで、殺されかける? そんなに危険な取引だったのか?)
薬局への道中、二回フェリクスは足を滑らせ転倒しかけた。転倒しかけた事により贈り物が台無しとなり、一旦別荘へと帰宅する途中に二度野盗に出くわし、命からがら逃げてきた。
嫌な予感がして身を寄せた知人宅は放火され、購入していたパンを野宿の相棒にと犬にやったところ、犬は泡を吹いて死んでしまった。
恨みを買った覚えがないと言えば嘘になるが、フェリクスを殺して得をする人間も少ない。
フェリクスは生かして利用する、それが一番のはず。それに野盗は「仕事を終えたクズ犬は用済みだな」と笑っていた。
遊び歩くフィリクスが請け負った仕事と言えば、エリス絡みの一件しか思い当たらない。
(畜生! 親父に連絡しようにも、ゴタゴタだとか……)
「くそッ…………っ⁉」
遠くから笑い声が聞こえ、フェリクスは飛び上がりかけた。何の害もない酔っ払いだと気付き、ほっと胸をなで下ろす。
(どうすれば良いんだ!)
『食うか?』
ふと、背後からの低い男の声が響いて、フェリクスは再度身を固くした。
∞∞∞
昨晩エリスと深く交わり、尊く濃密な時間を過ごしたノアはローエの屋敷を訪れていた。
澄んだ空には雲ひとつない。
甘い朝を過ごし、エリスから受け取った二日酔いに効く薬湯を飲み干し、昼食の約束をして。そこまでは不安や懸念よりも、どんな困難があろうと絶対に成し遂げるという決意の方が大きかったものの。
屋敷を出てからその比率は逆転してしまった。
淡い色の美しい花を見て爽やかな風が吹く林道を下っても、当然のように屋敷に入っても。ノアの足取りは軽くならない。
力量不足を感じているノアにとって、彼女の事を想えば想うほど己の信じる最善だろう方法を推し進めて良いものか不安になっていく。
いつもならば見逃すはずのない男の気配に気付かなかったのも、ずっと下を向いていたからだった。
「やあ。こんな所で会うとはね」
慌てて普段の自分が浮かべる微笑を作り、突如始まった寸劇に付き合う。
「近くに来たので、義姉に挨拶をと思いまして」
彼の金の瞳は抜け目なく、飄々とした雰囲気や合間に見せる爽やかな笑顔は初めて会った時から変わらない。彼の本心が一体何処にあるのかは、未だにノアにも知り得ない。
(屋敷内は特に魔法の効力が強いのに……。エリオットさんの流儀なのか、警戒か。慎重な彼なら両方かもしれない)
「今日はあいにくの天気ですね、フリーダー卿。昼頃には獲物の話がしたいと、猟師が言ってましたよ」
乱れる心を落ち着かせるように、わざとのんびりとした調子でノアは窓の外を見た。偽名で呼ばれたエリオットもならい、分厚いガラスの先へと視線を移す。
煌めく午前の日差しは眩しく、青々と生い茂る草木を照らしている。
「へぇ。猟師もお天道様には勝てないね。ところで彼は昼までに、獲物を捕える準備をするのかな?」
「人捜しを……魔術師を探すみたいです。猟とは別に個人的な案件だとか」
「……そうなんだ。彼に伝えといてよ。時は金なりってさ。忙しいんだよ」
ニコリと微笑むエリオットにノアも微笑する。受けるのは構わないが詳しい指示を出すなら迅速に、彼はそう言いたいらしい。
「伝えておきます。ところで、今日は義姉(あね)に何か?」
「別に? でもそろそろ帰るよ。怖いお方に睨まれちゃうから」
「……すみません」
一呼吸おいて。ノアの口元に苦笑が浮かぶ。エリオットの言わんとすることに対して、謝罪の言葉しか思い当たらなかったからだ。
「ノア君でも気をつけた方が良いと思うよ? あいつ、お姫が絡むとやばくなるからさ」
自らの頭を指先で軽く叩くエリオットに、ノアは「はい」と眉を下げ応えた。酷い物言いだが、事実とそう大きくは違わない。
優しく争いを好まぬ兄が冷静さを失い、過激な行動に出るのは、いつだって義姉が関わる事柄だ。
(調査を許して貰う為に利用したけれど……さすがに誤解はされてない……とは思うんだ)
「じゃあ」
ひらひらと手を振り、エリオットは去っていく。その背を見送り、ノアは客間へと戻る歩みを再開させる。
三百年前に生きる深窓の令嬢と二人きりになるならばいざ知らず。現代において、互いに恋愛感情を持たぬ姉弟のような男女が部屋で二人、仕事の話や世間話をしただけで誤解されるなど珍しく……。
(……もないのか?)
『刺されたら骨だけは拾ってやるよ』
(ありがとう。恩に着るよ)
脳内に話しかけてくる悪魔に、ノアは失笑しながら扉を開けた。
男は耳をそばだてる。聞こえるのは闇夜に似合わぬ愛らしい鳥の鳴き声のみ。明朗な声はその異質さからか、逆に男の恐怖を煽っている。
「なんで俺が」
真っ青な顔で男――フェリクス・ベークマンは呻いた。
ベークマン家は裕福な商家である。
フェリクスの父は海外製の家具輸入業を始めに、食品や機械製品の輸入、飲食店経営や観光農園、私立大学運営まで手広く手掛けるベーク社の代表取締役。一族の者の多くはベーク社に勤め、次男のフェリクス自身も将来を約束された立場であった。
とは言え、厳しい父にフェリクスへの期待も野心も大きい母、影では疎みながらも擦り寄る友人に下心を隠さずに近付く女達。
フェリクスが満たされる経験は、周りが思うよりもずっと少なく。家への反抗心と欲求不満、恵まれた容姿、そして次男という立場は遊び人フェリクス・ベークマンを作り上げるには十二分な環境であり、勘当の話が度々浮上するのも無理のない事であった。
(俺はただ、指輪を渡して渡された紙にサインさせてくれと頼まれただけだ。サインは直筆で、指輪は必ず身につけさせるようにすれば手段は問わないと……成功すれば、それだけで小金が貰えるはずだった!)
実に簡単な話だった。フェリクスはいつものように何処の誰かもわからぬ仲間からその話を聞き、何かのゲームだと思い安請け合いをした。
ただどこかで商人の血が騒いでしまったのだ。
単に賭け事として指輪をはめさせるだけでは損である、一時的にでも煩い家から逃れる術として利用すればリスクに見合う報酬が得られるだろう、と。
ゲーム感覚で始めた事だが、自分に興味を抱かない人間との会話は案外楽しく、軽蔑を隠さずに接してくる割には誠実に向き合ってくれるエリスとのやり取りは新鮮だった。
僅かな罪悪感と久しい興奮を覚え始めた頃には終わりを迎え、フェリクスは種明かしと謝罪代わりの金銭と菓子を贈り物として用意し、薬局へと向かった。だけであった。
(なのになんで、殺されかける? そんなに危険な取引だったのか?)
薬局への道中、二回フェリクスは足を滑らせ転倒しかけた。転倒しかけた事により贈り物が台無しとなり、一旦別荘へと帰宅する途中に二度野盗に出くわし、命からがら逃げてきた。
嫌な予感がして身を寄せた知人宅は放火され、購入していたパンを野宿の相棒にと犬にやったところ、犬は泡を吹いて死んでしまった。
恨みを買った覚えがないと言えば嘘になるが、フェリクスを殺して得をする人間も少ない。
フェリクスは生かして利用する、それが一番のはず。それに野盗は「仕事を終えたクズ犬は用済みだな」と笑っていた。
遊び歩くフィリクスが請け負った仕事と言えば、エリス絡みの一件しか思い当たらない。
(畜生! 親父に連絡しようにも、ゴタゴタだとか……)
「くそッ…………っ⁉」
遠くから笑い声が聞こえ、フェリクスは飛び上がりかけた。何の害もない酔っ払いだと気付き、ほっと胸をなで下ろす。
(どうすれば良いんだ!)
『食うか?』
ふと、背後からの低い男の声が響いて、フェリクスは再度身を固くした。
∞∞∞
昨晩エリスと深く交わり、尊く濃密な時間を過ごしたノアはローエの屋敷を訪れていた。
澄んだ空には雲ひとつない。
甘い朝を過ごし、エリスから受け取った二日酔いに効く薬湯を飲み干し、昼食の約束をして。そこまでは不安や懸念よりも、どんな困難があろうと絶対に成し遂げるという決意の方が大きかったものの。
屋敷を出てからその比率は逆転してしまった。
淡い色の美しい花を見て爽やかな風が吹く林道を下っても、当然のように屋敷に入っても。ノアの足取りは軽くならない。
力量不足を感じているノアにとって、彼女の事を想えば想うほど己の信じる最善だろう方法を推し進めて良いものか不安になっていく。
いつもならば見逃すはずのない男の気配に気付かなかったのも、ずっと下を向いていたからだった。
「やあ。こんな所で会うとはね」
慌てて普段の自分が浮かべる微笑を作り、突如始まった寸劇に付き合う。
「近くに来たので、義姉に挨拶をと思いまして」
彼の金の瞳は抜け目なく、飄々とした雰囲気や合間に見せる爽やかな笑顔は初めて会った時から変わらない。彼の本心が一体何処にあるのかは、未だにノアにも知り得ない。
(屋敷内は特に魔法の効力が強いのに……。エリオットさんの流儀なのか、警戒か。慎重な彼なら両方かもしれない)
「今日はあいにくの天気ですね、フリーダー卿。昼頃には獲物の話がしたいと、猟師が言ってましたよ」
乱れる心を落ち着かせるように、わざとのんびりとした調子でノアは窓の外を見た。偽名で呼ばれたエリオットもならい、分厚いガラスの先へと視線を移す。
煌めく午前の日差しは眩しく、青々と生い茂る草木を照らしている。
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ニコリと微笑むエリオットにノアも微笑する。受けるのは構わないが詳しい指示を出すなら迅速に、彼はそう言いたいらしい。
「伝えておきます。ところで、今日は義姉(あね)に何か?」
「別に? でもそろそろ帰るよ。怖いお方に睨まれちゃうから」
「……すみません」
一呼吸おいて。ノアの口元に苦笑が浮かぶ。エリオットの言わんとすることに対して、謝罪の言葉しか思い当たらなかったからだ。
「ノア君でも気をつけた方が良いと思うよ? あいつ、お姫が絡むとやばくなるからさ」
自らの頭を指先で軽く叩くエリオットに、ノアは「はい」と眉を下げ応えた。酷い物言いだが、事実とそう大きくは違わない。
優しく争いを好まぬ兄が冷静さを失い、過激な行動に出るのは、いつだって義姉が関わる事柄だ。
(調査を許して貰う為に利用したけれど……さすがに誤解はされてない……とは思うんだ)
「じゃあ」
ひらひらと手を振り、エリオットは去っていく。その背を見送り、ノアは客間へと戻る歩みを再開させる。
三百年前に生きる深窓の令嬢と二人きりになるならばいざ知らず。現代において、互いに恋愛感情を持たぬ姉弟のような男女が部屋で二人、仕事の話や世間話をしただけで誤解されるなど珍しく……。
(……もないのか?)
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