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17 裸足
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セオドールさんに指摘されるまで自分が泣いている事に気付かなかった。仕事で家を空けることは教えて貰えても、内容までは教えて貰えなかったことにこんなにショックを受けるなんて。
「俺が所属している近衛騎士団という仕事は、国王や王族の身辺を警護することです。それ以外に俺には魔族の討伐というのも課せられています。俺が使う闇の力は魔族を滅ぼす事が出来る特殊なものなのです。この力を使えるものはとても少ないので、任務を断ることは出来ません」
セオドールに抱きしめられていた腕はゆっくりと放された。
真剣で凛々しい彼の後ろからは微かに月の明かりがその表情を照らしている。藍色の瞳を更に神秘的にしている。
「必ず貴方の元へと帰ってきます。だから泣かないでください」
「本当に?必ず?」
「はい、必ず。・・・約束です」
そう言って目に涙が浮かんでぼやけている視界の中、額には温かで柔らかい唇がそっと押し当てられた。
「ふえっ?」
額とはいえ、そんな事をされた経験は初めての事だった。
私は泣くのも忘れ、ぽんっと音を立てたかの様に瞬時に顔が熱くなった。その原因を作った本人もまた同じように顔を赤らめていた。
額キスに動揺してしまった。穂叶はまたもや洗濯物を手から滑らせたのだが、衝撃的な出来事に洗濯物を落としたという認識は無かった。
固まったままの落ちた服を拾う様子が無いのを見たセオドールは、廊下に散らばった服を代わりに拾い集めた。服を拾いあげるとその下からは服以外のものが現れた。
しかし、この世界では存在しない形をしていて何か分からなかったセオドールはその二つを手に取り真面目に聞いた。「これは何ですか?」と。
手にしてたものは、風呂に入るまで実際に自分が身に付けていたブラとショーツだった。
質問を受けて、額キスの余韻に浸りどこかへ意識を飛ばしていた穂叶はセオドールが手にしているものを見て普段は絶対上げないような大きさで絶叫した。
「いっやーっっっっっっ、それ、私の下着――――――!!」
もちろん家全体にまで響き渡った悲鳴は、一階にいたシェリーにも聞こえ大いに慌てさせ、何事かと二階まで走ってやってきた。
「どうしたの?何があったの?」
「ふえーん、シェリーさ~ん」
大声を出してしまった理由をぽつりぽつりと弁明した。
洗濯物を奪い取り、しゃがみ込んで涙目になって顔を上げられずにいた私をシェリーさんは優しく宥めてくれた。
分かってます。誰が悪い訳じゃないって。でも恥ずかしいんです~っっっ。
「もう大丈夫ね?穂叶さん、髪がまだ濡れたままだわ。そんなところで座っていると風邪をひいてしまうわ。下へ行って乾かしましょう」
濡れ髪の私はシェリーさんの温かい手に引かれ、リビングへと降りて行った。
誰も居なくなった廊下でセオドールは長い時間、顔を真っ赤にしたまま置物よろしく動くことは無かったのだった。
「御免なさいね、穂叶さん。後でセオドールはきっちり叱っておきますから」
「いえ、そんなことしなくていいですからっ。こっちこそ大きな声をだして済みませんでした」
洗っていない下着を拾われてしまったことは、ただ恥ずかしいだけで怒っている訳ではないのだ。大体が手にしていた洗濯物を落した自分が悪いのだから。
穂叶はリビングにある暖炉の前の椅子に座らせられると、シェリーさんが髪をタオルドライしてくれるというのでそのまま甘えさせてもらうことにした。
汚れた洗濯は籐で編まれた籠の中へと入れた。洗濯の仕方は明日教えてくれると約束もしてもらった。
タオルドライはシェリーさんが言うように仕事で慣れているという言葉通り、丁寧で素早いのに痛みなど全く無く、あまりの気持ちよさに眠気に襲われそうになった程だった。その後に、ホットミルクまで淹れてもらった。
「有り難うございます」
お礼を言って両手で大きなコップを受け取るとゆるりと湯気が踊った。じんわりと手に感じる温もりにシェリーさんの優しさも感じられた。
ホットミルクを全部飲み終わると、台所にいたシェリーさんは私に何も聞かずに二階へと戻る様促してくれた。
「でも、あのセオドールさんは?」
一階へ来てからは姿を見ていないので、どうしているのかと思い聞いてみた。セオドールさんとは辺境へ行く事に付いて話をしている途中だったのだ。
「今、風呂に行っているみたいよ。まだ顔を合わせにくいでしょう?」
シェリーさんにそう言われて、確かにまだ顔を合わせるのが恥ずかしいと思った。
「・・・はい」
もじもじとしていると火が灯された状態のオイルランプを手渡された。大人しくあてがわれた部屋へと戻ったのだった。
二階へと上がって部屋へと入るのにドアを開けようとして、そこが洗濯物を落した場所だったと気付くと一人赤面した。
昨日はお風呂に入る間もなくそのまま寝てしまったものだから着替えも出来なかった。今日ようやくお風呂に入ることが出来て新しい下着に着替え気分もすっきりしたところだったのに、汚れた下着を好きな相手に拾われるなんてどんな拷問だと唸らずにはいられない。
せめて洗い終わった下着ならまだしも、と考えてぷるぷると首をふった。
駄目っ、どんなものであれ下着は駄目っ!
乙女心が切ない。
そんなことを考えていたその時、下から上へと上がってくる足音が聞こえた。
ちらりと階段下へと目を遣るとセオドールさんの頭部が見えたので、私は慌ててドアを開け滑りこむようにして中へと入った。
まだ心の準備が出来てないから無理―っっ。
中へ入り後ろ背にドアにもたれて息を吐いた。暫くして、同じ階にあるらしい何処かの部屋のドアの開け閉めする音が聞こえた。そこでようやく落ち着くことが出来た。
手にしている以外に明かりが無い室内は、秋の夜を思わせる気温に相応しく、寒くて暗かった。
壁には暖炉もあるが穂叶にはどうやって使ったらいいのから分からないので使えない。することも無いので仕方なくベッド近くにあるサイドボードの上にランプを置くと、ベッドへ腰かけスニーカーを脱いだ。もそもそと冷たいシーツへと潜り込んだ。
横になり目を閉じて頭の中を整理する。
マギ課で教えてもらった事よりも、やはり立ち聞きしてしまった事が頭から離れない。
セオドールさんが危険を伴う辺境の任務で一週間もいなくなるなんて聞きたくなかった。しかも、魔物討伐なんて・・・。
繰り返し見ていた夢の出来事が、またこの世界で繰り返されるんじゃないかという考えが頭から離れない。
元の世界から訳が分からないまま落ちて来たのはつい昨日のこと。
知らない世界にすべてが不安なままだというのに、この上さらに一人取り残されてしまうのかと考えだしたら、流れだした涙は溢れて止まらなくなってしまった。
コンセントを探している時に偶然にもお姉ちゃんに電話で今の状態を伝える事が出来てある程度は気持ちは一度落ち着いたと思う。
けれど一晩経って一人で慣れない部屋に寝ているとどうしても元居た世界の事を考えてしまう。
お姉ちゃんは私の事を心配していないだろうか。
仕事を無断欠勤してしまってどうなっているんだろうか。
様々な事が頭をよぎってとても寝つくことが出来ない。
気晴らしにカラオケやテレビ、映画でも見られれば少しは気がまぎれたかもしれないが。
暗い部屋に閉じこもって、電気も無くて一人っきり。シーツに包まって寝ていると不安な事ばかりが浮かんでしまい碌な事を考えない。
そして、明日からはセオドールさんまでが私の傍からいなくなるという事実。
ランプの明かりでぼんやりとした闇の中、自分の手にある痣を見て、夢で見ていたように愛する人を亡くすという事が、現実として今度は私が遺される側になるんじゃないかという不安が拭えない。
両親を無くした経験もある自分は、親しい人が亡くなるということにとても臆病になっている。例え昨日会ったばかりのセオドールさんとはいえ、穂叶の中では既にとても大事な人となっているのだ。
・・・お姉ちゃんに会いたい。
嗚咽が漏れないよう頭まですっぽりとシーツで包まると、体を抱きしめて流れる涙をシーツへと吸い込ませ続けた。
***
セオドールは微かな人の声が聞こえた気がした。それも泣いているような声だ。
「気の所為か?」
しかし、自分だけなら空耳だと結論付けただろうが、聖獣のマートルも壁の向こうにある客室に向かって耳をそばだてているのを見て、自分の気のせいでは無い事を確信した。
「穂叶さん?」
明後日から出発する為の荷物の準備をしていた手を止めた。立ちあがり部屋の明かりはそのままにして、移動式の小さなランプに明かりを点けて声が聞こえたと思われる客室へと向かった。
コンコン
「穂叶さん」
客室のドアを控えめにノックする音がした。相手の声はセオドールさんだ。
ドアを叩く音に穂叶はとっさに聞こえなかったふりをして返事はしなかった。泣いている事を知られたくなかったから。黙っていれば寝ていると思ってもらえると思ったのだ。
コンコン。
それなのに間を置くことなく、もう一度ノックされた。次は音を少し大きくさせて。
「穂叶さん。起きてるんでしょう?お願いです、ここを開けて下さい」
何故か私が起きている事は知られているらしく、時間が経ってもドアの前から去っていく気配が無い。
諦めてベッドから裸足のまま降りると内鍵を外した。少しだけドアの隙間を開けると、空いた隙間から柔らかなランプの光が差し込んだ。
「やっぱり泣いていたんですね。さっきのアレが原因ですか?済みませんでした。ワザとではもちろん無いのですが・・・」
まだ真正面から目を合わす勇気を持てなくて俯いていたが、その言葉に思わず上を向いてしまった。
少ししか開けていなかったドアは勝手に一人が優に通れるくらいに開かれてしまった。
「えっ、違います。これはその・・・」
涙は下着の事が理由では無い。泣いていた理由を正直にいってしまっても良いものなんだろうか?
悩んで口ごもっていると、急に涙の跡をセオドールさんの指の背でなぞられ驚いた。
「それにこの部屋、寒いですね。暖炉を使って無いんですか?」
「だって使い方、知らないから」
部屋の温度の低さに眉を寄せられたが、今まで使っていた暖房と言えば、エアコンかヒーターだ。暖炉は見たことはあっても、普通の家庭ではまず見かけない。
「それは気が付かなくて済みません。ああ、しかも裸足で。風邪を引きます」
そう言って裸足のままの私を簡単に抱き上げたかと思うと、そのまま廊下を出て歩きだしてしまった。
「きゃっ、えっ、ちょっと。どこへ行くんですか?」
視界が高くなり体が不安定に揺れるのでセオドールさんの肩にしがみ付いた。説明の無いまま連れていかれた先はセオドールさんの自室だった。
「寒い部屋に穂叶さんを泣かせたまま一人にさせたくありません。今日は、このまま俺と一緒にいて下さい」
「俺が所属している近衛騎士団という仕事は、国王や王族の身辺を警護することです。それ以外に俺には魔族の討伐というのも課せられています。俺が使う闇の力は魔族を滅ぼす事が出来る特殊なものなのです。この力を使えるものはとても少ないので、任務を断ることは出来ません」
セオドールに抱きしめられていた腕はゆっくりと放された。
真剣で凛々しい彼の後ろからは微かに月の明かりがその表情を照らしている。藍色の瞳を更に神秘的にしている。
「必ず貴方の元へと帰ってきます。だから泣かないでください」
「本当に?必ず?」
「はい、必ず。・・・約束です」
そう言って目に涙が浮かんでぼやけている視界の中、額には温かで柔らかい唇がそっと押し当てられた。
「ふえっ?」
額とはいえ、そんな事をされた経験は初めての事だった。
私は泣くのも忘れ、ぽんっと音を立てたかの様に瞬時に顔が熱くなった。その原因を作った本人もまた同じように顔を赤らめていた。
額キスに動揺してしまった。穂叶はまたもや洗濯物を手から滑らせたのだが、衝撃的な出来事に洗濯物を落としたという認識は無かった。
固まったままの落ちた服を拾う様子が無いのを見たセオドールは、廊下に散らばった服を代わりに拾い集めた。服を拾いあげるとその下からは服以外のものが現れた。
しかし、この世界では存在しない形をしていて何か分からなかったセオドールはその二つを手に取り真面目に聞いた。「これは何ですか?」と。
手にしてたものは、風呂に入るまで実際に自分が身に付けていたブラとショーツだった。
質問を受けて、額キスの余韻に浸りどこかへ意識を飛ばしていた穂叶はセオドールが手にしているものを見て普段は絶対上げないような大きさで絶叫した。
「いっやーっっっっっっ、それ、私の下着――――――!!」
もちろん家全体にまで響き渡った悲鳴は、一階にいたシェリーにも聞こえ大いに慌てさせ、何事かと二階まで走ってやってきた。
「どうしたの?何があったの?」
「ふえーん、シェリーさ~ん」
大声を出してしまった理由をぽつりぽつりと弁明した。
洗濯物を奪い取り、しゃがみ込んで涙目になって顔を上げられずにいた私をシェリーさんは優しく宥めてくれた。
分かってます。誰が悪い訳じゃないって。でも恥ずかしいんです~っっっ。
「もう大丈夫ね?穂叶さん、髪がまだ濡れたままだわ。そんなところで座っていると風邪をひいてしまうわ。下へ行って乾かしましょう」
濡れ髪の私はシェリーさんの温かい手に引かれ、リビングへと降りて行った。
誰も居なくなった廊下でセオドールは長い時間、顔を真っ赤にしたまま置物よろしく動くことは無かったのだった。
「御免なさいね、穂叶さん。後でセオドールはきっちり叱っておきますから」
「いえ、そんなことしなくていいですからっ。こっちこそ大きな声をだして済みませんでした」
洗っていない下着を拾われてしまったことは、ただ恥ずかしいだけで怒っている訳ではないのだ。大体が手にしていた洗濯物を落した自分が悪いのだから。
穂叶はリビングにある暖炉の前の椅子に座らせられると、シェリーさんが髪をタオルドライしてくれるというのでそのまま甘えさせてもらうことにした。
汚れた洗濯は籐で編まれた籠の中へと入れた。洗濯の仕方は明日教えてくれると約束もしてもらった。
タオルドライはシェリーさんが言うように仕事で慣れているという言葉通り、丁寧で素早いのに痛みなど全く無く、あまりの気持ちよさに眠気に襲われそうになった程だった。その後に、ホットミルクまで淹れてもらった。
「有り難うございます」
お礼を言って両手で大きなコップを受け取るとゆるりと湯気が踊った。じんわりと手に感じる温もりにシェリーさんの優しさも感じられた。
ホットミルクを全部飲み終わると、台所にいたシェリーさんは私に何も聞かずに二階へと戻る様促してくれた。
「でも、あのセオドールさんは?」
一階へ来てからは姿を見ていないので、どうしているのかと思い聞いてみた。セオドールさんとは辺境へ行く事に付いて話をしている途中だったのだ。
「今、風呂に行っているみたいよ。まだ顔を合わせにくいでしょう?」
シェリーさんにそう言われて、確かにまだ顔を合わせるのが恥ずかしいと思った。
「・・・はい」
もじもじとしていると火が灯された状態のオイルランプを手渡された。大人しくあてがわれた部屋へと戻ったのだった。
二階へと上がって部屋へと入るのにドアを開けようとして、そこが洗濯物を落した場所だったと気付くと一人赤面した。
昨日はお風呂に入る間もなくそのまま寝てしまったものだから着替えも出来なかった。今日ようやくお風呂に入ることが出来て新しい下着に着替え気分もすっきりしたところだったのに、汚れた下着を好きな相手に拾われるなんてどんな拷問だと唸らずにはいられない。
せめて洗い終わった下着ならまだしも、と考えてぷるぷると首をふった。
駄目っ、どんなものであれ下着は駄目っ!
乙女心が切ない。
そんなことを考えていたその時、下から上へと上がってくる足音が聞こえた。
ちらりと階段下へと目を遣るとセオドールさんの頭部が見えたので、私は慌ててドアを開け滑りこむようにして中へと入った。
まだ心の準備が出来てないから無理―っっ。
中へ入り後ろ背にドアにもたれて息を吐いた。暫くして、同じ階にあるらしい何処かの部屋のドアの開け閉めする音が聞こえた。そこでようやく落ち着くことが出来た。
手にしている以外に明かりが無い室内は、秋の夜を思わせる気温に相応しく、寒くて暗かった。
壁には暖炉もあるが穂叶にはどうやって使ったらいいのから分からないので使えない。することも無いので仕方なくベッド近くにあるサイドボードの上にランプを置くと、ベッドへ腰かけスニーカーを脱いだ。もそもそと冷たいシーツへと潜り込んだ。
横になり目を閉じて頭の中を整理する。
マギ課で教えてもらった事よりも、やはり立ち聞きしてしまった事が頭から離れない。
セオドールさんが危険を伴う辺境の任務で一週間もいなくなるなんて聞きたくなかった。しかも、魔物討伐なんて・・・。
繰り返し見ていた夢の出来事が、またこの世界で繰り返されるんじゃないかという考えが頭から離れない。
元の世界から訳が分からないまま落ちて来たのはつい昨日のこと。
知らない世界にすべてが不安なままだというのに、この上さらに一人取り残されてしまうのかと考えだしたら、流れだした涙は溢れて止まらなくなってしまった。
コンセントを探している時に偶然にもお姉ちゃんに電話で今の状態を伝える事が出来てある程度は気持ちは一度落ち着いたと思う。
けれど一晩経って一人で慣れない部屋に寝ているとどうしても元居た世界の事を考えてしまう。
お姉ちゃんは私の事を心配していないだろうか。
仕事を無断欠勤してしまってどうなっているんだろうか。
様々な事が頭をよぎってとても寝つくことが出来ない。
気晴らしにカラオケやテレビ、映画でも見られれば少しは気がまぎれたかもしれないが。
暗い部屋に閉じこもって、電気も無くて一人っきり。シーツに包まって寝ていると不安な事ばかりが浮かんでしまい碌な事を考えない。
そして、明日からはセオドールさんまでが私の傍からいなくなるという事実。
ランプの明かりでぼんやりとした闇の中、自分の手にある痣を見て、夢で見ていたように愛する人を亡くすという事が、現実として今度は私が遺される側になるんじゃないかという不安が拭えない。
両親を無くした経験もある自分は、親しい人が亡くなるということにとても臆病になっている。例え昨日会ったばかりのセオドールさんとはいえ、穂叶の中では既にとても大事な人となっているのだ。
・・・お姉ちゃんに会いたい。
嗚咽が漏れないよう頭まですっぽりとシーツで包まると、体を抱きしめて流れる涙をシーツへと吸い込ませ続けた。
***
セオドールは微かな人の声が聞こえた気がした。それも泣いているような声だ。
「気の所為か?」
しかし、自分だけなら空耳だと結論付けただろうが、聖獣のマートルも壁の向こうにある客室に向かって耳をそばだてているのを見て、自分の気のせいでは無い事を確信した。
「穂叶さん?」
明後日から出発する為の荷物の準備をしていた手を止めた。立ちあがり部屋の明かりはそのままにして、移動式の小さなランプに明かりを点けて声が聞こえたと思われる客室へと向かった。
コンコン
「穂叶さん」
客室のドアを控えめにノックする音がした。相手の声はセオドールさんだ。
ドアを叩く音に穂叶はとっさに聞こえなかったふりをして返事はしなかった。泣いている事を知られたくなかったから。黙っていれば寝ていると思ってもらえると思ったのだ。
コンコン。
それなのに間を置くことなく、もう一度ノックされた。次は音を少し大きくさせて。
「穂叶さん。起きてるんでしょう?お願いです、ここを開けて下さい」
何故か私が起きている事は知られているらしく、時間が経ってもドアの前から去っていく気配が無い。
諦めてベッドから裸足のまま降りると内鍵を外した。少しだけドアの隙間を開けると、空いた隙間から柔らかなランプの光が差し込んだ。
「やっぱり泣いていたんですね。さっきのアレが原因ですか?済みませんでした。ワザとではもちろん無いのですが・・・」
まだ真正面から目を合わす勇気を持てなくて俯いていたが、その言葉に思わず上を向いてしまった。
少ししか開けていなかったドアは勝手に一人が優に通れるくらいに開かれてしまった。
「えっ、違います。これはその・・・」
涙は下着の事が理由では無い。泣いていた理由を正直にいってしまっても良いものなんだろうか?
悩んで口ごもっていると、急に涙の跡をセオドールさんの指の背でなぞられ驚いた。
「それにこの部屋、寒いですね。暖炉を使って無いんですか?」
「だって使い方、知らないから」
部屋の温度の低さに眉を寄せられたが、今まで使っていた暖房と言えば、エアコンかヒーターだ。暖炉は見たことはあっても、普通の家庭ではまず見かけない。
「それは気が付かなくて済みません。ああ、しかも裸足で。風邪を引きます」
そう言って裸足のままの私を簡単に抱き上げたかと思うと、そのまま廊下を出て歩きだしてしまった。
「きゃっ、えっ、ちょっと。どこへ行くんですか?」
視界が高くなり体が不安定に揺れるのでセオドールさんの肩にしがみ付いた。説明の無いまま連れていかれた先はセオドールさんの自室だった。
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