だって、コンプレックスなんですっ!

清杉悠樹

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本編

5 好きになったきっかけを教えてくれました

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 至近距離からの真剣な告白にどきりとした。
 キス直前のようなこの体制に追い込まれ、逃げることも出来ない。ううん、本気で嫌がってしまえばすぐに振りほどけるほどの触れ方しかされていない。頬に添えられている大きな手は優しく包み込んでいるだけだ。
 場所は環菜の自宅アパートの玄関に二人きり。天井から柔らかいオレンジ色の光が二人を照らしている。
 そんな中、課長の強くて真っすぐな眼差しは私だけに注がれている。

「キスしていい?」
 甘やかに漂う雰囲気にのまれ、だんだんと近づいてくる木槌課長を拒めない。
 環菜が思わず閉じてしまった瞼を見て、木槌はそれを了承と受け取ったらしい。

 ほんの僅か。微かだけれど唇に確かに触れ合った感触がして、環菜の体は震えてしまった。
 それは頬を包み込んでいた木槌にも伝わった。
 お互い閉じていた目をゆっくりと開けた。けれど二人の距離は離れていない。息が触れ合う程に近い距離に留まっている。

 木槌は早急に推し進めすぎた自分本位の行動が環菜を怯えさせてしまったかと思い身を引こうとしたが、環菜に袖口をぎゅっと掴まれた。
「ご、ごめんなさい。ちょっと、驚いただけで。あの、その・・・」
 ちゃんとキスして?もっとキスして?
 環菜はそう言いかけそうになって、言葉を詰らせた。

 今自分は何を言いかけた?

 自分からキスを今まで強請ったことが無くて恥ずかしくてどうにかなりそうだった。
 これって木槌課長の事を好きになってしまったからなのか、ただ雰囲気に流されているだけなのか、自分の心の事なのに自分の気持ちが分からない。震えてしまった私を見た課長が気まずそうにして離れて行くのを見ると、心がぎゅっとしてしまった。
 一人にしないで欲しいと無言の行動で、ワインレッドの長袖を掴んでしまった。
 これって好きだからなの?振られたから一人になりたくないから、ただそれだけなの?

「あ、あの、私・・・・・・課長に返事もしてないのに、こんな引き留めるようなこと・・・。その・・・自分勝手で・・・ごめんなさい」
 例え課長じゃない他の誰かに好きって言われていたのなら、その人にもこんな風に同じようにしのだろうか?
 それとも無意識だからこそ、これが今の私の正直な気持ちの表れなのだろうか?

「自分勝手なんかじゃない。むしろ俺が望んでしていることだ。三田さんの弱みに付け込んでいるのは俺の方。三田さんがもう一人で夜を泣き明かしたりしない為なら、俺は喜んでそれに答えるよ。今は辛くても元カレを早く忘れたいから、ずっと傍にいて欲しいのならそうするし、寂しいだけでも誰かが傍にいて欲しいなら俺を選んで」

 三田さんが一人になって寂しさに負けて泣くくらいなら、俺が一晩中でも抱きしめてあげるのに。まだ相手の事を忘れられなくても、甘やかして、慰めて、俺がいる。だから、せめて泣くなら俺の傍で泣いてくれ、と。
 そう言いたかったけれど。体を慰めるようなそんなぬるい関係だけになりたいわけじゃない。

 彼女を怯えさせたり、怖がらせたりはしたくない。まだ、そう告げるには気持ちの距離がまだ遠い。俺だけが一方的に気持ちを押し付けてしまうことになる。
 木槌はドアに向いていた体をゆっくりと環菜の正面になるよう向けた。右腕をそっと彼女の背に回す。怯える様子がないのを確認すると、左手は彼女の耳近くの髪へと伸ばし緩く撫でる。
 けれど、もし、少しでも彼女がそう望む気持ちがあるのなら。
 自分から言えないけれど、俺から手を差し伸べれば答えてくれるのなら、悲しむ彼女ごと抱きしめてあげるのに。

「それってどっちも課長が私の傍にいることが前提になっているじゃないですか。どうして私ばっかり甘やかすようなこと言うんですかぁ。もう元カレの事はそんなに落ち込んで無いですよ。自分でも四年も付き合ってて薄情だとは思うんですけど」
 一晩泣けば諦められたぐらいですからと少しだけ痛む胸の痛みと目の奥の熱さを感じながら告げれば、課長は少し目を見張って驚いたようだった。
「なら、全然こうしても問題は無いわけだ。三田さんには泣き顔より笑顔が似合うよ」
 そういって私の左目じりにちゅっとキスをしてきた。
 私が泣いているとでも思ったんだろうか。反対の目じりにも同じことをしてきた。ちょっとだけ残っていた筈の胸の痛みは木槌課長によって癒された。

 木槌は下を向いて俯き恥ずかしそうにしている環菜が愛しくて仕方がない。
 少なくとも嫌われてはいないようだ。いや、気のせいでは無ければ好意を持たれ始めているような気さえしている。
 腕の中に閉じ込めている彼女は緊張が抜け体ごと預けられいる。離れる様子も怯える様子もない。気持ちの上ではまだ戸惑ってはいるようだが、ただそれだけだ。
 もっと時間をかけて彼女の気持ちを自分に向けさせたいと思うのに、二年間もの長い間片思いをしていたからか、これ以上抱きしめるのをそろそろ止めた方がいいのは理性では分かっているのだが、どうしても愛しくて気が急くのが止められない。

 もう一度触れたくて。・・・・・・柔らかな唇に。
 欲しくて欲しくて堪らない。・・・・・・気持ちも体も全てが欲しい。

 木槌は環菜の頤を指で救い上げ、もう一度触れる為に唇を寄せようとした。

 くうっ。

 静かだった空間に響き渡ったのは、空腹を知らしめる音。
 音が鳴ったのが木槌ではないということは、目の前の相手ということで。今までの甘い空気は一瞬に変化してしまった。

「はうっ!」
 環菜は変な声で叫んでしまった。

 ありえないっ、こんな場面でお腹が鳴るなんてありえないっっっ!
 環菜は顔を真っ赤にさせ、自分のお腹を両手で押さえてしゃがみ込んでしまった。

 何故、今、お腹が鳴るかなぁ!は、恥ずかしいっ、これは恥ずかしすぎるっっっ!穴があったら入りたいっ、隠れてしまいたいっ。。・゚・(ノД`)・゚・。
 という心境に環菜は陥っていた。

 木槌はいい雰囲気だったのが壊れてしまい勿体なくも思ったが、普段見ることがない珍しい環菜の姿を見ていることになんだか和みを感じているのもまた事実だった。
(ここで笑っちゃまずいよな)
 流石にこの場面で笑うのは失礼だろう。それにあのままだったら確実に抱きしめるだけでは済まなかったと思う。感情の赴くまま抱いていたかもしれない。

「そういや俺も腹減ったな。出来ることなら三田さんをこれから食事に誘いたいところだけど、買ってきた食材を仕舞わなくちゃいけないんだよな。悪い、俺のせいでまだ冷蔵庫にも仕舞えてないな」
 木槌は危なかったなどと冷汗をかきながら反省をすると、気持ちを切り替え環菜の頭上の髪を優しく撫でた。
「これで帰るよ。遅くまで邪魔して悪かった。また明日、会社で」
 これ以上ここにいると自分の邪な気持ちをまた彼女に押し付けしまいそうだから木槌は帰ろうとした。好きになってもらいたいのに反対に嫌われたらどうする。立ち直れないかもしれない。
 そうなる前に木槌は帰る為にドアを開けた。

 うー、と唸って落ち込んでいた環菜は木槌の帰るという言葉にぱっと顔を上げた。
「待って、待ってください。荷物を運んでいただいて今日は本当に有難うございました」
 お腹が鳴ってしまったことが恥ずかしくて顔を見れないほどだが、それはそれだ。
 上司を見送ろうとして慌てて立ち上がると、しゃがんだ時にすぐ傍にあったスーパーの袋に体が当たってしまった。すると、一番上に乗っかっていた卵のパックがつるりと滑り落ちて床の上でぐしゃりと嫌な音を立てた。
「ああーっっ、卵がー・・・」
 環菜は慌てて拾い上げたが、確認するまでもなく幾つか割れているのは聞こえた音で確実だった。案の定裏を見ると五個は割れているのが見えた。他にもヒビが入っているのもありそうだった。
「怪我はしてないか?」
 ドアに手をかけていた木槌は派手な音にびっくりし、しゃがみ込んでいる環菜の元へと心配して引き返してきた。
「あ、はい。怪我は何も。卵が割れただけで」
 卵のパックが落ちただけで怪我は無かったようだ。木槌はほっとした。
「そうか、それなら良かった」
「あの、課長、お腹空いているんですよね?良かったらご飯を作りますから食べて行ってくれませんか?送ってもらったお礼と、卵の消費を助けると思って」
「え?」
「割れちゃった卵は早く使わなくちゃならないけど、流石にこれは多すぎますから、良かったら是非。カニカマの天津飯とワカメのスープを作ろうと思うんですけど、どうですか?」
 こんなにすぐさま献立まで言えるのは流石だと思う。普段から手馴れているからだろう。環菜の手料理を味わえるという魅力的な申し出を木槌は断る訳がなく。
「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
 はからずも環菜の部屋の中にまでお邪魔することになったのだった。

 木槌は物は多いがすっきりと片づけがされているキッチンへと買ってきた荷物を運ぶのと、冷蔵庫の中へ取り敢えず食材を入れる手伝いを申し出た。
「いいんですか?そんなこと課長に頼んで」
 上司に雑用を頼むようで環菜は躊躇しているようだ。
 だが木槌は何かしていないと落ち着かない。見慣れない部屋を不躾に眺めるのも失礼だろうし、それぐらいなら家事の手伝いをしていた方がましというものだろう。
「夕食を作ってもらう代わりにこれぐらいはさせてくれ。ただ、適当にしか入れられから二度手間になってしまうかもしれないが」
 他人の冷蔵庫を開けるのは滅多にない経験だ。少し緊張する。
「いえ、助かります。じゃあお願いします」
 お任せすればその分早くご飯が作れるので、課長に素直に任せることにした。
 環菜は普段から使っている白とオレンジ色のストライプ柄のエプロンを身に着けると、スーパーの袋の中から卵のパック、ネギ、カニカマを取り出すと料理に取り掛かった。
 木槌は割れた卵を丁寧に取り出しボウルの中に殻が混ざらないようにしている環菜の後ろ姿を見ると、色んな想像をしてしまい頭を振った。

 二人の為だけに作られている料理を思うと笑みが浮かび、エプロン姿に萌え、まだ付き合ってもいないのに二人の新婚生活を想像する顔はにやけて締まりがない。
 妄想する木槌の姿を料理をしている環菜がもし見ていたらおそらくドン引きしたことだろう。それ程普段からの姿とはかけ離れた不気味なにやけ顔だった。

 環菜の借りている部屋の一番手前はキッチンとなっていて、狭いながらも綺麗に片づけられている。およそ一人暮らしには必要がないと思えるほどの大きな冷蔵庫に吃驚しながらも、これだけの材料を仕舞うのなら必要だろうとも思う。
 他にもレンジの他、トースター、炊飯器は分かるのだが木槌は分からなかったがフードプロセッサー、ホームベーカリー、コーヒーメーカー、ホットプレート等が見えないところに仕舞われていた。

 冷蔵庫の扉を開けると調味料のビンが幾つかとタッパーが幾つか並ぶ以外はがらんとしていた。木槌は肉や魚のパックは重ねてなるべく同じ種類になるよう気をつけて入れていった。
 一番下の段は野菜室で、そこに白菜やキャベツを入れ終えた。
「三田さん、調味料や米はどうすればいい?」
 残ったものをどうしていいのか分からなくて聞くと、環菜は振り返って言った。
「調味料やキッチンペーパーなんかは取り敢えずそこのワゴンの上に置いておいてもらえますか?米はレンジ脇にお願いします」
「了解」

 冷蔵庫の横にあるワゴンには炊飯器が乗っている。その横に醤油や酒といったビンを並べていった。
(炊飯器もうちで使っているよりは一回り大きいな)
 あまり使うことが無くても一応は持っている炊飯器を思い出しながら木槌はふっと笑った。だが、顔も見たこともない元カレと環菜が楽しそうに食事をしている姿を想像してしまい、嫌な映像は瞬殺した。
 眉間に皺を寄せたまま今度は米をレンジ脇へと運んだ。10kgの袋を軽々と持ち上げ乱暴にならない様そっと床へと置いた。すると傍に置かれているゴミ袋が目に入った。
 半透明な袋には明らかに男物と思われる服が捨てられていた。
 木槌は眉間の皺の本数を増やし、せめて見えないようにとゴミ袋の向きをくるりとさせ位置をずらした。
 だがこれらが捨てられているということは、付き合っていた相手の事も切り捨ててしまっていると考えていいはずだと気が付くと気分は上昇した。
 昔、自分にも付き合っていた人がいるのに何をやってるんだかと可笑しく思えた。
 これではまるで自分が十代の少年の頃に戻ってしまい、相手の挙動一つ一つに勝手に振り回されているみたいに思えた。
(あー、馬鹿なことしてるよなー、俺)
 軽快な音を立てて調理している環菜の姿を見て木槌は抱きしめたい衝動に駆られたが、ゴミ袋にもう一度視線を遣り自重した。



「お待たせしました。どうぞ食べてください」
 隣の寝室を兼ねた部屋の真ん中にあるローテーブルに湯気がたったままの手料理をトレーに乗せて運んだ。
 キッチンは使う道具や機械が多いのでごちゃっとしているが、こちらの部屋は割とすっきりとしている。カーテンは淡い緑で、壁は白、ベッドカバーは白と深藍色とかなり落ち着きある地味部屋だ。

 昨日のうちに掃除しておいて良かったーっっと環菜は思いながら、木槌が来ている服と一緒な色のワインレッドのフロアクッションに先に座って待って貰っていた目の前に並べていく。ぼんやりテレビを眺めていた木槌は環菜に礼を言った。
「有難う。早いな。まだ30分も経ってないだろう?短時間でこんなにいっぱい作ったのか?」
「いえ、天津飯とスープ以外は昨日作ったものを出しただけなので。ご飯もレンジで温めただけだし、簡単なもので済みません」
 待たせるのも申し訳なくて時間のかからないものしか作っていない。昨日冷蔵庫に作り置きしていた白菜の浅漬けと新ジャガの味噌炒めも一緒に出しただけだ。
「手抜きだというが、一体これのどこが?いつもはコンビニ弁当が多い俺にしてみたら、とても簡単なものとは言えないぞ。久々のこういった手料理は嬉しいな。有難う、三田さん」
 木槌は料理を見て本当に嬉しそうにして環菜に礼を言うと割りばしを手に取った。
「頂きます」

 最初に手を付けたのはワカメと卵のコンソメスープからだった。
「うん、美味い。塩加減もとろみも俺好み」
 片栗粉でとろみを付けたのだが、少しだけ冷凍のコーンも入っている。木槌には箸を止めることなく料理は次々に食べ進められていった。それを見て環菜もようやく食事を始めた。
「頂きます」
 ペースは木槌に劣るが環菜も自分のペースで食べ進めていった。
「このジャガイモのお替りってあったりする?凄い美味いんだけど」
 テーブルに並べた料理はそろそろ終わろうとしていたが、まだ木槌には食べ足りなかったらしい。
「ありますよ。もし良かったら他にも冷凍したのを解凍して出しましょうか?」
「ほんとに?嬉しいな」
 環菜に向けられたのは作り手冥利につきる笑顔だった。
「じゃあちょっと待っててください」
 立ち上がって冷蔵庫へと向かった。
(そういえばここでこうやって食事を誰かとするのも久々かも)
 そう思うぐらいには最近はずっと一人で食事をしていたんだと気づいた。

 課長とは会話はそう多くないがとてもまったりと食事が出来ていて、いつもより食が進んでいる。環菜は料理の一つ一つを褒められて、おまけにお替りまでしてくれて嬉しくて仕方がない。

(そっか、そんなに一人で居たんだ私。そっか、お互い仕事が忙しいのを理由にしてずっと会ってなければ悠人に愛想を付かされて当然だったかも)
 環菜はそう思えた。

 冷凍しておいた酢豚をレンジで温め、お茶と一緒に運んだ。それもあっという間に平らげられた。環菜も自分も分を食べ終えた。
「凄い美味かった。ご馳走様」
 課長と差し向かいで食事をしていることがなんだか不思議だったが(しかも自分の部屋で)、緊張もなく楽しんで食べてくれている様子を見れば環菜も楽しい。
「どういたしまして。あ、茶碗は後で片づけますからそのままにしておいてください」
 テーブルの上の茶碗や皿を重ねて片づけようとしている木槌に声をかけた。
「美味い食事作ってもらったんだから、片づけ位は俺がするよ。三田さんは座ってて」
(ええー?座っててって言われても)
 手伝うと言ってくれるのは嬉しいのだが、上司が働いて居るのに部下が座ってテレビを見ているのも居心地が悪すぎる。私には無理。

 俺がする、私がすると言い合い、結局狭いキッチンに二人並んで片づけをした。木槌が洗い物を担当し、環菜は拭く担当だ。
「ずっと好きだったんだ」
 え?
 突然横から聞こえてきたセリフに環菜は皿を拭いていた手を止めると上司の方を見た。
「二年前からずっと好きだったんだ、三田さんの事が。あの電車で乗り合わせた時からずっと」

 洗い物を全て終わらせた木槌はスポンジを元の場所に戻して手を拭くと、皿を手にしたまま固まっている環菜の手から皿を落とすことが無いようキッチンカウンターの上へと置いた。
 恥ずかしいのか木槌は環菜の顔を見ないで、キッチンの上のライトのあたりを見ながら話を続けた。
 その横顔は少し赤くなっていた。

「あの時は朝食を食べて無かった俺の方が三田さんに腹の音を聞かれたんだよね。電車を降りてからお弁当用にと作ってあったロールパンのサンドイッチを分けてくれただろう?あれがきっかけ」

 木槌が言うように二年前、電車で偶然同じ車両に乗り合わせ扉近くで一緒になったことがあった。 電車の中は出勤する人たちで溢れていて、すし詰めという程ではないが密着に近い木槌に守られるような形で目的の駅に着くまで揺られたことがあった。
 駅に到着間際スピードを落として電車が止まりそうになっている時に、目の前からぐうーとお腹の音が鳴って聞こえた。
 傍にいた環菜にははっきりとその音が届いてしまって、思わず、えっ?と目線を上司に向けると恥ずかしそうにしていたから、音の出所は上司で間違いがないようだった。
「悪い、朝食べる時間が無かったんだ。聞こえなかったことにしておいてくれ」
 ばつが悪そうに苦笑いでそう告げる直属の上司である木槌課長がなんだか可愛く見えた。悪いとは思ったがその頃入社したばかりの環菜は思わず笑ってしまった。
「分かりました。黙っておきます」
「ん。有難う」
 そういってちょっと照れている様子で上司の耳が赤いのを発見した環菜は、木槌の元へ配属された時から目がきつく怖そうだと思っていたのだが、そうではないのかもと初めて思った瞬間だった。

 二人は電車を降りて一緒に並んで歩き出した。
 環菜はふとその日は月曜日で課長には朝から会議が入っていた筈だったのを思い出すと、肩から下げていた大きめのトートバッグの中から歩きながらも目当てのものを探し出し、課長へと差し出した。
「課長。もし良かったらどうぞ。サンドイッチです。確か朝から会議でしたよね?」
 環菜が手の平に乗せたのは日曜だった昨日作ったロールパンだ。それは酵母から手作りしたロールパンをサンドイッチ風に具沢山に作ったもので、100均で買ったワックスペーパーで包んだものだ。

 一つ目のロールパンの中に挟まれているのは、今朝焼いたベーコン、レタス、キュウリ、昨日作っておいた卵、マヨネーズ、塩コショウ、粗びきマスード、隠し味にオリーブオイルを入れて和えたものも入れた。
 もう一つは甘辛チキンとレタスだ。

 今朝環菜も同じものを食べたので味の方は大丈夫だと思うのだが、迷惑だったろうか。木槌は手に取ろうとしないままじっと環菜の手に乗ったパンを見つめていた。
「御免なさい、ご迷惑でしたね」
 いきなりこんな所でパンを出した私に呆れたのだろう。会社に行く途中にはコンビニも確かあったはずだ。余計なお世話だったかと、環菜は取り出したパンをバッグに仕舞おうとした。
「待った、仕舞わないでくれ。食べるから。いきなりパンが出てきたから吃驚したから反応できなかった。でも、貰っても大丈夫なのか?そのパンは三田さんの昼の分だろう?」
「沢山あるので全然大丈夫ですよ。どうぞ」
 上司が食べるからと言って手を出したので、環菜はその手に仕舞おうとしていたパンを乗せて渡した。
「有難う、遠慮なく頂くよ。会議で腹の虫が鳴ったら弁解できそうに無いしな」
 そう言いながら早速包み紙を開いて歩きながら木槌は食べ始めた。周りに歩いている人もいる中、多少目立っていたが、歩けば数分で会社に着いてしまう前に歩きながら食べることにしたらしい。

 環菜は木槌のセリフから会議中に無表情のまま上司のお腹の音が響くのを想像してしまい、また笑ってしまった。
 早くも一つ目を食べ終え、二つ目のパンを半分ほど食べたところで木槌は呟いた。
「美味いな、このロールパン。どこの店の?三田さんの家の近く?」
 今課長が手にもって食べているのはチキンの方だった。
「いえ、それ私の手作りです。今パン作りに嵌ってて。酵母菌から作るのが楽しいんですよ。つい色んな種類を作りすぎちゃって。因みにそのパンはリンゴの酵母菌です」
 一度嵌ると酵母菌作りが面白くて何種類もの酵母菌を作ってしまった。なので休日だった昨日は千代牛に乗って作りすぎた大量のロールパンが出来上がってしまい、今日は同僚にも食べてもらおうと思って沢山持ってきたのだった。
「手作り!?これを!?」
 驚いた様子の木槌に環菜は嬉しくなった。パンはどうやら気に入ってもらえたようだ。
「はい、足りなかったらまだありますよ?もう一つ食べますか?」
 環菜の提案に三つは貰いすぎかなと木槌は暫く悩んでいたようだったが、食欲には勝てなかったようで卵の方をもう一つ貰うと木槌のお腹はようやく満足したようだった。



「新人歓迎会で三田さんに彼氏がいるって他の奴らが噂をしていたのを聞いていたから、何度も諦めようとはしたんだけど、全然駄目だった。同じ職場で働いているともっと三田さんの良い所ばかりに気が付いて、気が付けば二年も片思いしてた。諦めないで良かった」
 上司の胃袋を掴んでいたのを知らなかった環菜は、ただ、ただ驚いていた。
 木槌は環菜の手を引いて食事をしていた場所へと移動し、自分が座っていたクッションへと座らせると、膝を付き合わせる形で自分は床へと座った。
「一緒に買い物に行って、一緒に食事して、一緒に片づけて、何気ない生活が楽しく思えるのは三田さんだからだよ。こういう風に共に将来を歩いていきたいと思えるのは三田さん、君だけだよ」
 向き合って木槌は告げた。
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