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縁の始まり 3
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3
話は戻り、忘れ物を届けて会社へ戻り始めて5分ほど歩いただろうか。ただただ暑い日差しを受けるだけだった歩道に、ようやく一息付けそうな街路樹の大きな影を発見した。
「あっ、やっと大きな木があるーっ。ちょっと影で休んじゃおうっと」
ようやくキツイ日差しを遮る事が出来て、ラッキーと思い気分も上昇し、歩道脇にある花壇が割と高く造られているレンガの上にちょっと腰かけて一息付いた。
暑さを凌ぐ為に入った影の木の種類は桜だった。
夏の桜の木は猛暑にも耐え、木漏れ日がアスファルトにゆらゆらと濃い陰影を落とし、春だったらもっと花が咲いて綺麗なんだろうなぁとか、ぼんやり思い中がら空を見上げると、雲ひとつない晴天。
太陽はギラギラとかジリジリ照りつけるっていうのがぴったりと当てはまる。最高気温を連日更新し続けている。昨日は37℃を超えたと夕食を食べながらTVのニュースで聞くと、その実際の気温を数字で聞くと自分が思ってたより高くて驚いた。
暑かったけど、そんなに暑かったっけ?とその日一日を思い返してみると、仕事場は冷房が適度に効いた部屋で、日中外に出たのは昼休みに行ったコンビニの行き帰りだけだが、それがとても暑かったのを思い出し納得した。
木の陰に暫くいると、風も出てきた為にようやく汗も収まってきて、今度はお腹のすき具合を思い出し、そろそろ歩きを再開しようかと思って立ち上がろうかと思った時―――。
足元から小さな声でにゃーんって聞こえてきた。
「えっ猫!?何処に!?」
彩華は驚いて、鳴き声が聞こえてきた自分の足下をみると、標準よりやや小さそうな猫がいた。
見つけた猫の体の色は殆どが真っ黒で、耳と前足が白く、目はくりっとして瞳の色は緑っぽい。そして、体全体は非常に見た目がまるまるっとして、まるでバスケットボールの様な丸さの猫が彩華を見上げてた。
・・・これ、ほんとに猫!?と思うようなシルエットに驚いたが、座っていたから丸く見えていただけらしい。立ち上がると丸みを帯びた見えていた体はスッキリして見えた。
その猫は彩華の足元に頭をすり寄せてきた。スカートを穿いていて、素足のふくらはぎの部分にすり寄られるとくすぐったい。
(な、なんか、すっごい可愛いかもっ!)
元々、もふもふっとした毛並みの動物は大好きで。こういう風にすり寄ってきてくれるなんて、触りたくなるに決まってるよねー!満面の笑みを浮かべて彩華はしゃがみ込む。
「おいで~」
猫を脅かさないよう慎重に手をそっと顔の近くに持っていくと、今度は指先をペロッと舐めた。
「可愛いーっ、もうちょっと触っていい?」
ほわわわーんっと幸せな気分。今度は背中を触ろうかと思ったら、すいっと身をそらし歩いて行ってしまった。
あーぁ、残念。もうちょっと触りたかったなと考えていたら、猫は頭だけ後ろを振り返り彩華を顔をじっと見ていた。
もう一度、触ろうかなと猫のところに行こうとすると、また先に歩きだし、くるっと頭を振り向けた。
同じ動作を4回も繰り返す。そこでようやく猫が彩華をどこかへ案内しようとしてるんじゃないかと思いゆっくりと後を追った。
10m程進むと、猫がどうやら目指していたらしい目的地に着いたらしくお店の入り口でちょこんとまんまる姿でお座りをして、にゃーんと鳴いた。
まるで、中に居る人にただいまーと言葉をかけているように彩華には聞こえて思わず自分で笑ってしまった。
(ほんとは猫の形をした人なのかも知れない・・・なんてね)
そう思えてしまえる程に、ちょっと不思議な猫に思えた。
猫はそのまま暫くドアが開けられるのを待っていたようだが、開く様子はないとみると、今度は彩華の顔を見上げ、代わりに開けてくれる?と言わんばかりに首を傾げ、なーう?と鳴き声と一緒に見つめてくる。
(真剣に、本当に人が化けているのかも・・・もしくは、夢を見てるだけなのかな私・・・猫と会話してるみたい)
なんだか、小さな子供と接している気分になってきた。
猫は彩華がドアを開けてくれるのをじっと待っててくれてるようだが、このドアを開けてもいいのか分からず、とにかく何の店なのか看板を探すと、ドア横の壁に店名が書かれたプレートが貼られているのを見つけた。
COFFEESHOP CLEMATIS
(あ、コーヒーショップ クレマチス!マスターのお店の名前!)
こんな偶然にお店を見つけられるなんて!
好きになった人の店の名前に、一度行ってみたいと前から思っていた彩華は興奮し、ドキドキした。
4月に働き始めたばかりの新入社員である自分は、会社へとコーヒー豆を届けに来た男性が挨拶をしてくれた時の笑顔がとびきり素敵で、その時に彩華は一目で恋に落ちた。
その男性はコーヒーショップのマスターだと後で同僚から聞いた。
マスターがその後何度か手芸店に来て短くとも会話を交わす事が出来て少しずつ増えて行く好意を止める事が出来なくて、今度こそ会ったら好きですっていう気持ちを伝えようとしたことが何度もあったが、そのたびに他に従業員が居たり、店にお客さんが来たり、宅急便が届いたり、電話が鳴ったりとにかくタイミングが合わなくて、4カ月近くたった今でも自分の胸の中にしまったままになっている。
でもたとえ言えなくても、月に数度しか顔を見れなくても、その都度少しずつ会話も増えてきたことが嬉しくて、次にまた来てくれるのを待ち遠しくしながら仕事をしているのだった。
その届けられるコーヒー豆に貼られていたラベルと同じ名前が目の前のプレートに刻まれている。
ドキドキする胸の上に手を当てて、好きな人のお店に入りたいけど、恥ずかしさも多少あり、ドアを開けようかどうしようと迷いながらガラス部分から怖々中の様子を窺ったが外からはよく見えなかった。
すると、中からウロウロしている様子が見えたらしく、チリリンと控えめな鈴の音とともにドアは中から開かれた。
ドアが開いて現れたのは、予想していた通り彩華が恋に落ちたマスター本人だった。マスターは一瞬目を見張った。
「橘さん?・・・いらっしゃいませ。初めてのいらっしゃいませ、ですね。嬉しいです、中へどうぞ」
目を細めて笑顔で続くセリフにもう一度ときめきを覚えた。
ほんとにマスターのお店なんだ、と初めて足を踏み入れるのに少しだけ勇気がいった。
その勇気を出して一歩踏み出そうと思った隙に、完全に存在を忘れていた黒い猫はただいまーと言わんばかりに、にゃーんと大きく一声鳴いてマスターの足元からするり中へ入って行った。彩華は慌てて、
「あ、あのマスター・・・猫が・・・中に入って行っちゃいました・・・ごめんなさい!」
もしかすると野良かもしれない猫をお店に入れてしまったのは自分だと謝る。
「ああ、構いませんよ、ウチで飼っている猫なんです。ほら、ちゃんとドアに、猫がいますって書いてありますよ?」
そう言われ開かれたドアをよく見るとOPENと書かれた文字の下に「猫がいます」とイラストと共に書かれていた。彩華が文字を確認し納得した表情を見て、マスターは笑いながら、更にもう一度どうぞ?って促されて、ようやく彩華は店の中へと入っていった。
店の外観はコンクリートの打ちっぱなしだが、部屋の中の壁は白を基調とし、数個の観葉植物の他、コーヒー茶碗、小物も配置良く棚に飾られており、道路側に面している窓はかなり大きく取ってあり光が満ちている。床は木目で落ち着いた雰囲気を醸し出していて居心地が良さそうで、彩華好みの内装だった。
入った瞬間に芳醇な珈琲の香りに包まれ気持ちが穏やかに癒されていく様で、控えめな音量でクラッシックが店内に流れているのもリラックス出来る要素だと思う。
ドアから入ってすぐにレジがあり、左壁際にはキッチンがあり奥の方まで続いている。レジの右手にはクッキー、サンドイッチが陳列されていて、通路を挟んで右壁際は、大きなガラス瓶が木で作られた棚に沢山並べられており、瓶の中にはコーヒーが入っている。瓶一つ一つには、コーヒーの種類・産地・特徴などが書かれたラベルが付けられており分かりやすい。
そのまま奥に進むと、カウンター席が4つとテーブルが3つで奥の壁に長椅子が置かれている。10人程の客席とこじんまりとしたお店の作り。奥正面の壁には外に繋がるドアがあり、庭と2~3台の駐車スペースが見て取れた。
先ほど一緒に店の中に入った猫は表通りの出窓のデッドスペースに作られた棚の上にすでに丸まっていて、早くもクーラーの涼しさに気持ちよさそうにまどろんでいる。
まだ12時前だからか他にはお客様が居なく、マスターにカウンター席に案内されて座った。
「今日は仕事はどうされたんですか?たかやまのエプロンをつけたままですけど・・・。」
マスターから水が入ったコップを頂きながら、忘れ物を見つけてからのお使いの話から猫に付いてきてここへたどり着いたことを順に説明した。
「あの猫なんですけど、名前はなんていうんですか?」
「無難に『くろ』です。実は3日前から飼い始めた猫なんですよ。ここのオーナーが連れてきて。でも、頭の良い猫みたいですね。トイレのしつけもしてないのに粗相しませんし。時々こっちの言うことが分かっているんじゃないかと思う時もありますよ」
「あっ、私も思いました。ここのお店に来たのも、あの猫についておいでっていう感じで導かれたみたいにしてここに着きましたから。なんだか不思議な感じがしました」
そう、たぶんあの猫が居なかったら、気づかないで店を素通りしてたと思う。
いつかは、来てみたかったマスターのお店。
だけど、住所を頼りに一人で来る勇気は、たぶんもっと後にならないと出来なかったと思う。たまたまお使いを頼まれて、猫に導かれてここに来れたのって、運がいいから?
それとも、マスターと私との間にひょっとして、何か特別なものがあるのかな?と思ってしまう。
「この猫を連れてきた奴も変わってますから、猫も普通じゃなくてもおかしくないです。ここのオーナーは大学からの友人なんですけど、いきなり店に猫を連れてきて、そのまま自分で飼わないで押しつけていった事に最初腹も立ちましたけどね。飲食店だし。猫はコーヒーの匂いが苦手にしているって聞いたことがあったので、飼うことに不安だったんですけど『くろ』は特にストレスも感じてなさそうだし、トイレの場所やテーブルの上に乗らないとかちゃんと守りますし。今は飼って良かったかなって思いますよ。あ、橘さん、ご注文は何になさいますか?」
そう言われれば、まだ注文して無かった。
「あっ、ごめんなさい、話しこんじゃって。えっと・・・そうだなぁ・・・うーん・・・マスターのお勧めのホットコーヒーと、フレンチトーストをお願いします」
夏場でも暑いコーヒーを好む為、メニュー表を見ながら種類が多くて決められずにそう答えると、手持ちのポーチの中から電話の着信音が流れてきた。
「あっすみません」
断りを入れてから相手を確認すると会社の主任・上條さんから。
マスターは軽く頷くと、注文の品を作る為に作業を開始したようだ。
「はい、橘です」
『ああ、彩華ちゃん?どう、見本渡せた? 』
「はい、ちゃんと渡しました。大丈夫です」
『良かったわー。彩華ちゃん、方向音痴でしょう?もしかして、迷子になってるんじゃないかと思って・・・』
と、続けられた。そ、そりゃー自他ともに認める方向音痴ではありますが!
「方向音痴ですけど、行ったことが無い所でも、流石に会社から一直線の場所は迷いません!念の為に携帯持ってますし!」
そう答えると、耳元の電話から爆笑が聞こえ、キッチンでは会話が聞こえてしまいマスターが肩を小刻みに揺らして笑いを堪えてるのがありありと見えた。
(ううっ!恥ずかしいーっ自らばらしちゃったよーっ上條さんの馬鹿―っ!!)
『ごめんごめん、笑っちゃって。で、お昼なんだけど、早めに入っても良いわよって伝えたけどもう決めた?まだ決まってない?』
「今、カフェに居ます。えっとうちの会社で飲んでるコーヒーの」
『あーら、そう!そのお店を教えようと思って今電話かけたのよーぅ。彩華ちゃん、なかなかやるわねっ。早く告白出来るといいわね。応援してるわー、頑張ってねっ』
それじゃあね、と一方的に電話は切れた。
上條さんは、私のお母さん位の年齢で、以前からこっそりと私を応援してくれている上司。有難いやら、恥ずかしいやら。なんかこう、背中がむずむずする。
マスターは相手の話声までは聞こえなかったらしい (聞こえていたら大変だけど!)。
「すみません、笑ったりして。これ、お詫びです。」
目の前にコトリと数枚のクッキーが入った小皿を置かれた。
「有難うございます」
現金にも、その台詞でぱぁーっと笑顔になると、マスターにまた笑われた・・・。
きっと、食いしん坊で、甘いもの大好きな子っていう認識されてるんだろうなぁ。会社にコーヒーを届けに来てくれる時にも、度々クッキーを差し入れしてくれる事があるから。
(確かに間違いなく食いしん坊で、甘党で合ってますけどねっ)
マスターを見ると、今度は冷蔵庫から食パンを卵液に浸したバットを取り出すとフライパンで焼き始め、火加減を調節すると今度はコーヒーの準備を始めた。
彩華は、その流れる動作で料理をするマスターの高い身長、コップに注がれる目元、その目を覆い隠すように長めな黒い前髪、店に似つかわしい白シャツに黒のベストと黒のパンツに長いソムリエエプロン姿を改めて堪能し、改めて手の動きに見惚れていた。
・・・大きな手。私と違って指も長くて。
シャツを肘まで捲りあげてる腕の前腕部分の筋肉の付き方がいいなぁ。
手の甲の血管が見える・・・。あの手に出来れば、じかに触って見たいな・・・。
なんてことをぼんやり考えているとマスターは、いつの間にかキッチンの中から私のすぐ傍まできていて、目の前にランチョンマットを引き、カトラリーケースとコトッとコーヒーを置いた。
そのランチョンマットに何故か見覚えがあるような気がした。
「コーヒーを先にどうぞ。トーストはもう少し待ってくださいね」
「はい。・・・頂きます」
答えると見覚えがあったような気がしたランチョンマットの疑問など綺麗さっぱり忘れ去り、目の前に置かれたコーヒーに移行する。会社ではミルクを入れるのを常としているが、一口目をブラックのまま飲んだ。・・・濃いんだけど甘く感じる。不思議。
ミルクを入れなくても飲めたのは初めてだ。
「・・・美味しい」
「それは良かった」
マスターは笑みを返してきた。
もー、その笑顔は不意打ちですよ。どきんと一瞬鼓動が跳ねた。
「私、いつもはミルク入れるのに、これは入れなくても飲めます。何か違うんですか?」
マスターの顔を目にしていると蕩けてしまいそうになるのを回避するために会話をして、意識を逸らせて鼓動を鎮めた。
「そう・・ですね。会社ではペーパーフィルターでしたよね。ネルフィルターとの違いでしょうか。豆の種類によっても随分違いますが」
「ネルフィルターって何ですか?」
分からなかったので聞いてみた。
「布で出来たフィルターですよ」
マスターは実物を見せてくれた。続いて向こうにああいうのもありますよ、と棚に置かれたガラスで出来たひょうたんみたいな形でサイフォンというのも教えてもらった。
「じゃあ、この私の飲んでいるこのコーヒー豆の種類って何ですか?」
「うちのオリジナルでショコラブレンドですよ」
そっか、覚えておこう。帰りに自宅用に少し買って行きたいな。
コップの中身を1/3程飲み終えると残りの注文した品を持って来てくれた。
「はい、お待たせしました、フレンチトーストです」
厚切りのトーストが1/2サイズでカットされたものが2つ皿に並べられ、表面はカリッとしていて、上からメープルシロップで細く何重にも円を描かれ、サイドに生クリームとミントが添えられ見た目もとても綺麗に彩られている。
コーヒー皿を少し右にずらしてフレンチトーストの皿を彩華の目の前に置くと、私が座っている左側の背もたれ付きの椅子にマスターは並んで座った。
(えっ、なんで隣に座るの!?ち、近いっ、真横にマスターの顔があるっ。ど、どうしよーっ、どうすべき!?取りあえず食べなきゃ。)
緊張しながら再度頂きますと小声で言って食べ始めた。
「・・・ふわふわで美味しい・・・です」
小声で答えた。甘さは控えめで、予想以上に柔らかくてすごい好みだった。
その感想を聞くと、マスターはふっと笑って、食べる様子をじっと見つめて来るのは何故?・・・なんだか緊張してきた。
(新手の嫌がらせですかー!?)
「あの、じっと横で見られているとキンチョーして食べにくいんですが・・・」
「さっき、俺が作っているところをじっくり観察されていたからお返しです」
気づいてたんですか!とあわあわしてると、
「観察してたのは、どうして?」
ど、どうしてって聞かれましても・・・。って、なんで顔を覗き込むんですか!
さらに、無駄に色気を振りまくのはやーめーてー!と心の中で絶叫。
だって観察していた理由って、好きな人の事は沢山見ていたいし、実は、マスターの手を触りたくて見惚れてましたという訳には・・・もにょもにょ・・・ねぇ?
言えない・・・。そんなこと正直に言えるはずもなく答えに詰まって黙ってしまった。
「もしかして、見惚れてた、とか?」
ぼふぅーっっと顔から火が出そうな勢いで真っ赤になった・・・。
(今日のマスターいつもと雰囲気が全然違う!もう、心臓が持ちそうにありません、私!!)
ジタバタと挙動不審な動きをし、恥ずかしくて返事はもちろん言うことも出来ずに、俯いて肩を縮こまらせることしか出来ない。
「くすっ。耳まで赤くなってる。・・・少しは俺も自惚れていいって事ですか?」
聞かれているのは疑問形なんだけど、彩華には確信してる風なニュアンスに聞こえて、その「自惚れても」っていう言葉に、驚いて顔をあげた。
(嘘・・・もしかして、マスターも少しは私の事同じように思ってくれ・・て・るのかな?)
私との視線を合わせると、マスターはしなやかな体をこちらに真直ぐに向き直り、自身の右手を私の口の端へ持って行った。
「クリーム付いてますよ」
柔らかく微笑んだかと思うと、囁くように告げ、彩華の口元に付いていたクリームをゆっくり指で拭った後自らの口で舐めとった。
そんな漫画の中でしか見ないようなワンシーンを自分が体験するとになろうとは思ってもいなく、ただ驚愕し、反応できずに固まるしかなかった。
「彩華さん」
マスターから先程までとは違ってかなり口調を改めて真面目な態度で名前を呼ばれたが、直ぐに反応できなくてやや裏返って「―――はい」と答えてしまった。
「今、付き合っている人はいますか?」
今現在所か、居た試しが無い。彩華は勢いよく横に振る。
さらに、続いたのは――――――。
「私・・・、いや俺と--- 」
チリリン
自意識過剰かも知れないけれど、私、まるで告白を受けているんじゃないかと思うような言葉が続いたと思ったのに、肝心なセリフを聞く前に、お店のドアが唐突に開かれお客さんが入ってきた音に中断をされてしまった。
(嘘―っ、こんな場面で邪魔が入るの!?なんでー!?信じらんなーい!!!!)
こんな夢みたいな雰囲気もう二度と起こらない気がする・・・。
良い場面で店に入ってきた二人の男性に対して、内心罵倒している彩華の事など判る筈もなく、入って来た背の高い方の一人は、大きな声でマスターに声をかけた。
「あっちぃーっ、浩介―、アイスコーヒー頂ぉーだーいっ!」
二人の客が来るまでは、店内にあふれ始めていた甘い雰囲気を一瞬で消え去ってしまい、喧しく奥のテーブル席にやってきた。
彩華はその勢いと大声に吃驚し、横に居るマスターの表情を見ると苦々しく眉を潜めて、客に対して何やら物騒な言葉を呟いているのが聞こえた。
・・・気のせいということにしておこう。そう彩華は決めた。
「今日もまた邪魔が入りましたね。ほんとにいつもいつも良い所で。まったく。一体何に呪われてるんでしょうか」
ブツブツつぶやきながら、また後で、と客の対応をしに椅子から立ち上がって行った。かなり良い雰囲気だったのが、変な間合いで邪魔されて彩華はマジ凹みしてしまい、打ちひしがれた・・・。
それにしても、今の「俺と---」その続いたであろう言葉は何なのか?
気になってしょうが無かったが、マスターがつぶやいた「また邪魔が入った」のセリフを自分も同じタイミングで思ったことに動揺した。
マスターに今まで会ったのは、「たかやま」の店か、私の新人歓迎会の時だけ。
その少ない数回でマスターもまた邪魔が入ったと思うことが出来る程に、向こうも私に対して何か言ってくれようとしてたってことだよね?
(私、もう少し頑張って気持ちを伝えてみようかな・・・。)
今まで自分から告白しても振られることが怖くて、出来ないと決めつけていたが、後ろ向きな自分の性格を少しでも変えるためにも、言ってもらうのを待っているのではなく、自分から相手に「言葉」として伝えたいと始めて思った。
話は戻り、忘れ物を届けて会社へ戻り始めて5分ほど歩いただろうか。ただただ暑い日差しを受けるだけだった歩道に、ようやく一息付けそうな街路樹の大きな影を発見した。
「あっ、やっと大きな木があるーっ。ちょっと影で休んじゃおうっと」
ようやくキツイ日差しを遮る事が出来て、ラッキーと思い気分も上昇し、歩道脇にある花壇が割と高く造られているレンガの上にちょっと腰かけて一息付いた。
暑さを凌ぐ為に入った影の木の種類は桜だった。
夏の桜の木は猛暑にも耐え、木漏れ日がアスファルトにゆらゆらと濃い陰影を落とし、春だったらもっと花が咲いて綺麗なんだろうなぁとか、ぼんやり思い中がら空を見上げると、雲ひとつない晴天。
太陽はギラギラとかジリジリ照りつけるっていうのがぴったりと当てはまる。最高気温を連日更新し続けている。昨日は37℃を超えたと夕食を食べながらTVのニュースで聞くと、その実際の気温を数字で聞くと自分が思ってたより高くて驚いた。
暑かったけど、そんなに暑かったっけ?とその日一日を思い返してみると、仕事場は冷房が適度に効いた部屋で、日中外に出たのは昼休みに行ったコンビニの行き帰りだけだが、それがとても暑かったのを思い出し納得した。
木の陰に暫くいると、風も出てきた為にようやく汗も収まってきて、今度はお腹のすき具合を思い出し、そろそろ歩きを再開しようかと思って立ち上がろうかと思った時―――。
足元から小さな声でにゃーんって聞こえてきた。
「えっ猫!?何処に!?」
彩華は驚いて、鳴き声が聞こえてきた自分の足下をみると、標準よりやや小さそうな猫がいた。
見つけた猫の体の色は殆どが真っ黒で、耳と前足が白く、目はくりっとして瞳の色は緑っぽい。そして、体全体は非常に見た目がまるまるっとして、まるでバスケットボールの様な丸さの猫が彩華を見上げてた。
・・・これ、ほんとに猫!?と思うようなシルエットに驚いたが、座っていたから丸く見えていただけらしい。立ち上がると丸みを帯びた見えていた体はスッキリして見えた。
その猫は彩華の足元に頭をすり寄せてきた。スカートを穿いていて、素足のふくらはぎの部分にすり寄られるとくすぐったい。
(な、なんか、すっごい可愛いかもっ!)
元々、もふもふっとした毛並みの動物は大好きで。こういう風にすり寄ってきてくれるなんて、触りたくなるに決まってるよねー!満面の笑みを浮かべて彩華はしゃがみ込む。
「おいで~」
猫を脅かさないよう慎重に手をそっと顔の近くに持っていくと、今度は指先をペロッと舐めた。
「可愛いーっ、もうちょっと触っていい?」
ほわわわーんっと幸せな気分。今度は背中を触ろうかと思ったら、すいっと身をそらし歩いて行ってしまった。
あーぁ、残念。もうちょっと触りたかったなと考えていたら、猫は頭だけ後ろを振り返り彩華を顔をじっと見ていた。
もう一度、触ろうかなと猫のところに行こうとすると、また先に歩きだし、くるっと頭を振り向けた。
同じ動作を4回も繰り返す。そこでようやく猫が彩華をどこかへ案内しようとしてるんじゃないかと思いゆっくりと後を追った。
10m程進むと、猫がどうやら目指していたらしい目的地に着いたらしくお店の入り口でちょこんとまんまる姿でお座りをして、にゃーんと鳴いた。
まるで、中に居る人にただいまーと言葉をかけているように彩華には聞こえて思わず自分で笑ってしまった。
(ほんとは猫の形をした人なのかも知れない・・・なんてね)
そう思えてしまえる程に、ちょっと不思議な猫に思えた。
猫はそのまま暫くドアが開けられるのを待っていたようだが、開く様子はないとみると、今度は彩華の顔を見上げ、代わりに開けてくれる?と言わんばかりに首を傾げ、なーう?と鳴き声と一緒に見つめてくる。
(真剣に、本当に人が化けているのかも・・・もしくは、夢を見てるだけなのかな私・・・猫と会話してるみたい)
なんだか、小さな子供と接している気分になってきた。
猫は彩華がドアを開けてくれるのをじっと待っててくれてるようだが、このドアを開けてもいいのか分からず、とにかく何の店なのか看板を探すと、ドア横の壁に店名が書かれたプレートが貼られているのを見つけた。
COFFEESHOP CLEMATIS
(あ、コーヒーショップ クレマチス!マスターのお店の名前!)
こんな偶然にお店を見つけられるなんて!
好きになった人の店の名前に、一度行ってみたいと前から思っていた彩華は興奮し、ドキドキした。
4月に働き始めたばかりの新入社員である自分は、会社へとコーヒー豆を届けに来た男性が挨拶をしてくれた時の笑顔がとびきり素敵で、その時に彩華は一目で恋に落ちた。
その男性はコーヒーショップのマスターだと後で同僚から聞いた。
マスターがその後何度か手芸店に来て短くとも会話を交わす事が出来て少しずつ増えて行く好意を止める事が出来なくて、今度こそ会ったら好きですっていう気持ちを伝えようとしたことが何度もあったが、そのたびに他に従業員が居たり、店にお客さんが来たり、宅急便が届いたり、電話が鳴ったりとにかくタイミングが合わなくて、4カ月近くたった今でも自分の胸の中にしまったままになっている。
でもたとえ言えなくても、月に数度しか顔を見れなくても、その都度少しずつ会話も増えてきたことが嬉しくて、次にまた来てくれるのを待ち遠しくしながら仕事をしているのだった。
その届けられるコーヒー豆に貼られていたラベルと同じ名前が目の前のプレートに刻まれている。
ドキドキする胸の上に手を当てて、好きな人のお店に入りたいけど、恥ずかしさも多少あり、ドアを開けようかどうしようと迷いながらガラス部分から怖々中の様子を窺ったが外からはよく見えなかった。
すると、中からウロウロしている様子が見えたらしく、チリリンと控えめな鈴の音とともにドアは中から開かれた。
ドアが開いて現れたのは、予想していた通り彩華が恋に落ちたマスター本人だった。マスターは一瞬目を見張った。
「橘さん?・・・いらっしゃいませ。初めてのいらっしゃいませ、ですね。嬉しいです、中へどうぞ」
目を細めて笑顔で続くセリフにもう一度ときめきを覚えた。
ほんとにマスターのお店なんだ、と初めて足を踏み入れるのに少しだけ勇気がいった。
その勇気を出して一歩踏み出そうと思った隙に、完全に存在を忘れていた黒い猫はただいまーと言わんばかりに、にゃーんと大きく一声鳴いてマスターの足元からするり中へ入って行った。彩華は慌てて、
「あ、あのマスター・・・猫が・・・中に入って行っちゃいました・・・ごめんなさい!」
もしかすると野良かもしれない猫をお店に入れてしまったのは自分だと謝る。
「ああ、構いませんよ、ウチで飼っている猫なんです。ほら、ちゃんとドアに、猫がいますって書いてありますよ?」
そう言われ開かれたドアをよく見るとOPENと書かれた文字の下に「猫がいます」とイラストと共に書かれていた。彩華が文字を確認し納得した表情を見て、マスターは笑いながら、更にもう一度どうぞ?って促されて、ようやく彩華は店の中へと入っていった。
店の外観はコンクリートの打ちっぱなしだが、部屋の中の壁は白を基調とし、数個の観葉植物の他、コーヒー茶碗、小物も配置良く棚に飾られており、道路側に面している窓はかなり大きく取ってあり光が満ちている。床は木目で落ち着いた雰囲気を醸し出していて居心地が良さそうで、彩華好みの内装だった。
入った瞬間に芳醇な珈琲の香りに包まれ気持ちが穏やかに癒されていく様で、控えめな音量でクラッシックが店内に流れているのもリラックス出来る要素だと思う。
ドアから入ってすぐにレジがあり、左壁際にはキッチンがあり奥の方まで続いている。レジの右手にはクッキー、サンドイッチが陳列されていて、通路を挟んで右壁際は、大きなガラス瓶が木で作られた棚に沢山並べられており、瓶の中にはコーヒーが入っている。瓶一つ一つには、コーヒーの種類・産地・特徴などが書かれたラベルが付けられており分かりやすい。
そのまま奥に進むと、カウンター席が4つとテーブルが3つで奥の壁に長椅子が置かれている。10人程の客席とこじんまりとしたお店の作り。奥正面の壁には外に繋がるドアがあり、庭と2~3台の駐車スペースが見て取れた。
先ほど一緒に店の中に入った猫は表通りの出窓のデッドスペースに作られた棚の上にすでに丸まっていて、早くもクーラーの涼しさに気持ちよさそうにまどろんでいる。
まだ12時前だからか他にはお客様が居なく、マスターにカウンター席に案内されて座った。
「今日は仕事はどうされたんですか?たかやまのエプロンをつけたままですけど・・・。」
マスターから水が入ったコップを頂きながら、忘れ物を見つけてからのお使いの話から猫に付いてきてここへたどり着いたことを順に説明した。
「あの猫なんですけど、名前はなんていうんですか?」
「無難に『くろ』です。実は3日前から飼い始めた猫なんですよ。ここのオーナーが連れてきて。でも、頭の良い猫みたいですね。トイレのしつけもしてないのに粗相しませんし。時々こっちの言うことが分かっているんじゃないかと思う時もありますよ」
「あっ、私も思いました。ここのお店に来たのも、あの猫についておいでっていう感じで導かれたみたいにしてここに着きましたから。なんだか不思議な感じがしました」
そう、たぶんあの猫が居なかったら、気づかないで店を素通りしてたと思う。
いつかは、来てみたかったマスターのお店。
だけど、住所を頼りに一人で来る勇気は、たぶんもっと後にならないと出来なかったと思う。たまたまお使いを頼まれて、猫に導かれてここに来れたのって、運がいいから?
それとも、マスターと私との間にひょっとして、何か特別なものがあるのかな?と思ってしまう。
「この猫を連れてきた奴も変わってますから、猫も普通じゃなくてもおかしくないです。ここのオーナーは大学からの友人なんですけど、いきなり店に猫を連れてきて、そのまま自分で飼わないで押しつけていった事に最初腹も立ちましたけどね。飲食店だし。猫はコーヒーの匂いが苦手にしているって聞いたことがあったので、飼うことに不安だったんですけど『くろ』は特にストレスも感じてなさそうだし、トイレの場所やテーブルの上に乗らないとかちゃんと守りますし。今は飼って良かったかなって思いますよ。あ、橘さん、ご注文は何になさいますか?」
そう言われれば、まだ注文して無かった。
「あっ、ごめんなさい、話しこんじゃって。えっと・・・そうだなぁ・・・うーん・・・マスターのお勧めのホットコーヒーと、フレンチトーストをお願いします」
夏場でも暑いコーヒーを好む為、メニュー表を見ながら種類が多くて決められずにそう答えると、手持ちのポーチの中から電話の着信音が流れてきた。
「あっすみません」
断りを入れてから相手を確認すると会社の主任・上條さんから。
マスターは軽く頷くと、注文の品を作る為に作業を開始したようだ。
「はい、橘です」
『ああ、彩華ちゃん?どう、見本渡せた? 』
「はい、ちゃんと渡しました。大丈夫です」
『良かったわー。彩華ちゃん、方向音痴でしょう?もしかして、迷子になってるんじゃないかと思って・・・』
と、続けられた。そ、そりゃー自他ともに認める方向音痴ではありますが!
「方向音痴ですけど、行ったことが無い所でも、流石に会社から一直線の場所は迷いません!念の為に携帯持ってますし!」
そう答えると、耳元の電話から爆笑が聞こえ、キッチンでは会話が聞こえてしまいマスターが肩を小刻みに揺らして笑いを堪えてるのがありありと見えた。
(ううっ!恥ずかしいーっ自らばらしちゃったよーっ上條さんの馬鹿―っ!!)
『ごめんごめん、笑っちゃって。で、お昼なんだけど、早めに入っても良いわよって伝えたけどもう決めた?まだ決まってない?』
「今、カフェに居ます。えっとうちの会社で飲んでるコーヒーの」
『あーら、そう!そのお店を教えようと思って今電話かけたのよーぅ。彩華ちゃん、なかなかやるわねっ。早く告白出来るといいわね。応援してるわー、頑張ってねっ』
それじゃあね、と一方的に電話は切れた。
上條さんは、私のお母さん位の年齢で、以前からこっそりと私を応援してくれている上司。有難いやら、恥ずかしいやら。なんかこう、背中がむずむずする。
マスターは相手の話声までは聞こえなかったらしい (聞こえていたら大変だけど!)。
「すみません、笑ったりして。これ、お詫びです。」
目の前にコトリと数枚のクッキーが入った小皿を置かれた。
「有難うございます」
現金にも、その台詞でぱぁーっと笑顔になると、マスターにまた笑われた・・・。
きっと、食いしん坊で、甘いもの大好きな子っていう認識されてるんだろうなぁ。会社にコーヒーを届けに来てくれる時にも、度々クッキーを差し入れしてくれる事があるから。
(確かに間違いなく食いしん坊で、甘党で合ってますけどねっ)
マスターを見ると、今度は冷蔵庫から食パンを卵液に浸したバットを取り出すとフライパンで焼き始め、火加減を調節すると今度はコーヒーの準備を始めた。
彩華は、その流れる動作で料理をするマスターの高い身長、コップに注がれる目元、その目を覆い隠すように長めな黒い前髪、店に似つかわしい白シャツに黒のベストと黒のパンツに長いソムリエエプロン姿を改めて堪能し、改めて手の動きに見惚れていた。
・・・大きな手。私と違って指も長くて。
シャツを肘まで捲りあげてる腕の前腕部分の筋肉の付き方がいいなぁ。
手の甲の血管が見える・・・。あの手に出来れば、じかに触って見たいな・・・。
なんてことをぼんやり考えているとマスターは、いつの間にかキッチンの中から私のすぐ傍まできていて、目の前にランチョンマットを引き、カトラリーケースとコトッとコーヒーを置いた。
そのランチョンマットに何故か見覚えがあるような気がした。
「コーヒーを先にどうぞ。トーストはもう少し待ってくださいね」
「はい。・・・頂きます」
答えると見覚えがあったような気がしたランチョンマットの疑問など綺麗さっぱり忘れ去り、目の前に置かれたコーヒーに移行する。会社ではミルクを入れるのを常としているが、一口目をブラックのまま飲んだ。・・・濃いんだけど甘く感じる。不思議。
ミルクを入れなくても飲めたのは初めてだ。
「・・・美味しい」
「それは良かった」
マスターは笑みを返してきた。
もー、その笑顔は不意打ちですよ。どきんと一瞬鼓動が跳ねた。
「私、いつもはミルク入れるのに、これは入れなくても飲めます。何か違うんですか?」
マスターの顔を目にしていると蕩けてしまいそうになるのを回避するために会話をして、意識を逸らせて鼓動を鎮めた。
「そう・・ですね。会社ではペーパーフィルターでしたよね。ネルフィルターとの違いでしょうか。豆の種類によっても随分違いますが」
「ネルフィルターって何ですか?」
分からなかったので聞いてみた。
「布で出来たフィルターですよ」
マスターは実物を見せてくれた。続いて向こうにああいうのもありますよ、と棚に置かれたガラスで出来たひょうたんみたいな形でサイフォンというのも教えてもらった。
「じゃあ、この私の飲んでいるこのコーヒー豆の種類って何ですか?」
「うちのオリジナルでショコラブレンドですよ」
そっか、覚えておこう。帰りに自宅用に少し買って行きたいな。
コップの中身を1/3程飲み終えると残りの注文した品を持って来てくれた。
「はい、お待たせしました、フレンチトーストです」
厚切りのトーストが1/2サイズでカットされたものが2つ皿に並べられ、表面はカリッとしていて、上からメープルシロップで細く何重にも円を描かれ、サイドに生クリームとミントが添えられ見た目もとても綺麗に彩られている。
コーヒー皿を少し右にずらしてフレンチトーストの皿を彩華の目の前に置くと、私が座っている左側の背もたれ付きの椅子にマスターは並んで座った。
(えっ、なんで隣に座るの!?ち、近いっ、真横にマスターの顔があるっ。ど、どうしよーっ、どうすべき!?取りあえず食べなきゃ。)
緊張しながら再度頂きますと小声で言って食べ始めた。
「・・・ふわふわで美味しい・・・です」
小声で答えた。甘さは控えめで、予想以上に柔らかくてすごい好みだった。
その感想を聞くと、マスターはふっと笑って、食べる様子をじっと見つめて来るのは何故?・・・なんだか緊張してきた。
(新手の嫌がらせですかー!?)
「あの、じっと横で見られているとキンチョーして食べにくいんですが・・・」
「さっき、俺が作っているところをじっくり観察されていたからお返しです」
気づいてたんですか!とあわあわしてると、
「観察してたのは、どうして?」
ど、どうしてって聞かれましても・・・。って、なんで顔を覗き込むんですか!
さらに、無駄に色気を振りまくのはやーめーてー!と心の中で絶叫。
だって観察していた理由って、好きな人の事は沢山見ていたいし、実は、マスターの手を触りたくて見惚れてましたという訳には・・・もにょもにょ・・・ねぇ?
言えない・・・。そんなこと正直に言えるはずもなく答えに詰まって黙ってしまった。
「もしかして、見惚れてた、とか?」
ぼふぅーっっと顔から火が出そうな勢いで真っ赤になった・・・。
(今日のマスターいつもと雰囲気が全然違う!もう、心臓が持ちそうにありません、私!!)
ジタバタと挙動不審な動きをし、恥ずかしくて返事はもちろん言うことも出来ずに、俯いて肩を縮こまらせることしか出来ない。
「くすっ。耳まで赤くなってる。・・・少しは俺も自惚れていいって事ですか?」
聞かれているのは疑問形なんだけど、彩華には確信してる風なニュアンスに聞こえて、その「自惚れても」っていう言葉に、驚いて顔をあげた。
(嘘・・・もしかして、マスターも少しは私の事同じように思ってくれ・・て・るのかな?)
私との視線を合わせると、マスターはしなやかな体をこちらに真直ぐに向き直り、自身の右手を私の口の端へ持って行った。
「クリーム付いてますよ」
柔らかく微笑んだかと思うと、囁くように告げ、彩華の口元に付いていたクリームをゆっくり指で拭った後自らの口で舐めとった。
そんな漫画の中でしか見ないようなワンシーンを自分が体験するとになろうとは思ってもいなく、ただ驚愕し、反応できずに固まるしかなかった。
「彩華さん」
マスターから先程までとは違ってかなり口調を改めて真面目な態度で名前を呼ばれたが、直ぐに反応できなくてやや裏返って「―――はい」と答えてしまった。
「今、付き合っている人はいますか?」
今現在所か、居た試しが無い。彩華は勢いよく横に振る。
さらに、続いたのは――――――。
「私・・・、いや俺と--- 」
チリリン
自意識過剰かも知れないけれど、私、まるで告白を受けているんじゃないかと思うような言葉が続いたと思ったのに、肝心なセリフを聞く前に、お店のドアが唐突に開かれお客さんが入ってきた音に中断をされてしまった。
(嘘―っ、こんな場面で邪魔が入るの!?なんでー!?信じらんなーい!!!!)
こんな夢みたいな雰囲気もう二度と起こらない気がする・・・。
良い場面で店に入ってきた二人の男性に対して、内心罵倒している彩華の事など判る筈もなく、入って来た背の高い方の一人は、大きな声でマスターに声をかけた。
「あっちぃーっ、浩介―、アイスコーヒー頂ぉーだーいっ!」
二人の客が来るまでは、店内にあふれ始めていた甘い雰囲気を一瞬で消え去ってしまい、喧しく奥のテーブル席にやってきた。
彩華はその勢いと大声に吃驚し、横に居るマスターの表情を見ると苦々しく眉を潜めて、客に対して何やら物騒な言葉を呟いているのが聞こえた。
・・・気のせいということにしておこう。そう彩華は決めた。
「今日もまた邪魔が入りましたね。ほんとにいつもいつも良い所で。まったく。一体何に呪われてるんでしょうか」
ブツブツつぶやきながら、また後で、と客の対応をしに椅子から立ち上がって行った。かなり良い雰囲気だったのが、変な間合いで邪魔されて彩華はマジ凹みしてしまい、打ちひしがれた・・・。
それにしても、今の「俺と---」その続いたであろう言葉は何なのか?
気になってしょうが無かったが、マスターがつぶやいた「また邪魔が入った」のセリフを自分も同じタイミングで思ったことに動揺した。
マスターに今まで会ったのは、「たかやま」の店か、私の新人歓迎会の時だけ。
その少ない数回でマスターもまた邪魔が入ったと思うことが出来る程に、向こうも私に対して何か言ってくれようとしてたってことだよね?
(私、もう少し頑張って気持ちを伝えてみようかな・・・。)
今まで自分から告白しても振られることが怖くて、出来ないと決めつけていたが、後ろ向きな自分の性格を少しでも変えるためにも、言ってもらうのを待っているのではなく、自分から相手に「言葉」として伝えたいと始めて思った。
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