テトリスBL

櫻井まじめ

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第一章、小田原耕作と鮎川鳴海の場合

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【鮎川 鳴海】

「別れて欲しいです。」
待ち合わせ場所で挨拶も早々にそう口にした僕(鮎川鳴海)を、彼(小田原耕作)は驚いた様子で見つめた。
今日は僕たちが付き合って半年記念。何度もデートを重ね、少しずつ距離を縮めて今に至る。彼の事が大好きだ。だからこそ、僕と一緒にいて欲しくない。そう思った。
「……何で? 俺何かしたかな。」
いつもの優しい顔に戻った彼は、少しだけ困った様子で呟いた。
「あ、耕作さんは何も悪くなくて……! その……」
「やっぱり、するの嫌だったかな。それとももっと別の事?」
伸びた指先を避けるように後退して「違う。」とやっと口にした。自分で決めた事なのに、いざ口に出すと泣きそうだった。
「理由もわからないのに要求を飲むことはできないな。」
だめだ。押しきられてしまう。
「とにかく、どこかお店入らない? そこで詳しく聞かせてよ。」
温かい手に触れられた瞬間、急に涙が溢れてきた。
「いやっ……」
そして、気がついたら彼の手を振り払っていた。
「あ……」
「……ごめんね、びっくりさせたかな。分かった。今日は帰るよ。君が嫌がる事はしたくないから。」
「あ、ああ……」
「またね。」
彼が行ってしまう。自分でした事なのに、どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。
(でも本当に、これで良いんだ。)
そう言い聞かせて肩を震わせ涙を堪えた。堪えきれない涙が一筋伝った。
「あゆ……?」
そんな声に振り返ると、見知った顔がそこにあった。
「きみちゃん……」



「で、どうしたの?」
近くのファミレスに入って一通り泣いた僕を前に、きみちゃんはそう切り出した。クリームソーダのアイスはもう半分溶けていた。
きみちゃん(君嶋一)は幼なじみで何でも話せる仲だ。僕みたいになよなよしてないし、何かと同級生にいじめられる僕をいつも守ってくれた。
「きょうはデートじゃなかったの? 何かあったの。」
「……ちょっと。何でもないよ。」
「お前、大事なことに限って隠すよな。俺とお前の仲なんだから、話してくれよー」
「……実はね。」
きみちゃんにさっき起こったことを話す。
「きっと女の人の代わりに付き合ってるだけなんだよ。だって耕作さんみたいにカッコいい人、モテないわけないし……それに…………」
「それに?」
「……ん、何でもないよ。とにかくあの人には幸せになってほしい。」
顔を上げると、きみちゃんは少し考えるような変な顔をしていた。
「そうか。」
「変なこと言ってごめんね。ありがとう、聞いてくれて。もう大丈夫だから。」
帰ろう。透明な筒の中に差し込まれた伝票に手を伸ばすと、きみちゃんがその手を重ねる。
「ねえ。俺はお前にも幸せになって欲しいよ。」
「え?」
「……俺がお前を幸せにする。ダメかな。」
急に何を言っているのだろう。
考えを巡らせて、やっと告白されている事に気がついた。
「そんな……」
「理由はどうあれお前にそんな辛い思いさせるような男には任せられない。ねえ。俺じゃダメ?」
言葉に詰まる僕を彼は真っ直ぐに見つめてくる。耕作さんにさえこんなに求められた事はなかった。嬉しくない訳ではない。でも……
「……ダメだよ。きみちゃんとはそういうのじゃなくて友達がいい。」
目の前に引かれた境界線を越えたくない。。優しい幼なじみを失いたくはなかった。
「……そう、か。分かった。」
ゆっくりと手のひらが退けられた。
「でも、俺は諦めない。何かあったら連絡してよ。ずっと好きだから。」
「うん……」
「今日は俺が払う。」
「いや、自分の分は払うよ。」



それから一週間と何日か経った。
耕作さんから何回かメールが来ていたが、全て無視している。今は連絡が来るけれどきっとそのうち無くなる。僕の事を忘れて他のもっといい人を見つけるんだ。
そこまで考えて、一つため息を吐いた。自室のベッドに横になるとやっぱり寂しくなってきてしまってどうにも困った。
(早く。耕作さんの事は忘れなきゃ。)
すると、アパートの玄関ドアを叩く音がした。続いてチャイムが鳴る。
「あゆー俺だよ。」
僅かにきみちゃんの声がする。ドアを開くと、いつもと変わらない彼の姿があった。
「どうしたの?」
「いや、何だろう。どうしてるかなって思って。」
部屋に招き入れると、お土産だと袋ごと酒の缶を渡された。
「えー、まだお昼だけど……」
「たまにはいいじゃん。お前真面目だよなあ。」
まあする事もないし、たまにはいいかと考えて二人で発泡酒を開けた。



「……それで俺は悪くないのに先生に怒鳴られてさー」
「はは、懐かしいね。」
ベッドにもたれて昔話に花を咲かせていると、酒のせいもあり辛い事を考えずに済んだ。
「楽しかったなーあの頃は。なあ、初めて会った日の事覚えてる?」
「なに?」
「小学生の入学式の後、お前が列からはぐれたの俺が見つけたんだ。髪が長かったから最初女の子かと思った。」
「そうだったっけ。」
よく覚えてないけれどそんな事があった気もする。
「その時、この子をお嫁さんにするんだって思った。なあ。あれからどう?」
「え……この前も言ったけど、きみちゃんとは友達だし……」
「もちろんそれもあるけど。その、『コウサクさん』とはどうって話。」
「ああ……どうもこうも、もう連絡とる気もないし。きっとあの人も僕の事なんか忘れるよ。」
「そうか……」
どうしたんだろう。もしかしたら心配して来てくれたのかな。
「ありがとうね。大丈夫。もう終わったんだよ。」
缶の飲み口に目を落として淡々と口に出した。終わらせなきゃ。この想いは消さなきゃいけないんだと。
「……なあ。俺に触られるのは嫌?」
「え?」
するりと、きみちゃんの手が僕の腿に伸びる。久しぶりに他人に触れられたからか、身体が一瞬で熱を帯びた。
「諦めてないって言っただろ?」
気がつくと押し倒されていた。こんなに近くで彼の顔を見たのは初めてだった。真剣な眼差し、凛々しい眉、真一文字に結ばれた口元。身を引こうにも後がない。
「ちょ……ちょっと……」
「嫌ならはね除けて。」
ゆっくりと、唇が重なった。唇を舐められ緩い快楽にひくりと腰が跳ねる。
「ここ、大きくなってる。」
「……ッ!」
彼の膝が、ぐりっと反応したそれを抉る。
耳の端を熱い息と共に舐められた。
「見せて。」
「あ、あ……ちょっ……」
ろくな抵抗もできないままに性器を露出される。
「ふ、かわいいち○こ。あの頃と全然変わらない。」
見られている。幼なじみに性器を見られて、勃起して……一体何をしているんだ僕は。意識すればするほど体積を増すそれを、彼の指が撫ではじめる。
「うッ、あ……」
「身体、びくびくしてる……気持ちいい?」
「はあッ……待って……やだッ……」
「待たない。あゆ……」
「だ、だめ……も、出るッ…………服……よ、ごれちゃうからッ……」
いつの間にか彼のシャツを掴み、誘うような声をあげていた。それがどういう事なのか半分理解しながらもはね除けることが出来なかった。
「ふあッ……あ……んんッ!」
そして誘われるままに絶頂を迎えた。はあはあと彼の腕の中で息を整えていると、腿に何か固いものが当たる。ぼやつく意識のなかでそれの正体を考え、瞬間赤面した。
「あ、ああ…………」
「そんなかわいい声で鳴くんだね。」
彼のものはいつの間にか剥き出しになり、汁を垂らさんばかりに勃起していた。
「……泣かないで? お前が嫌なこと絶対にしない……なあ。まだ好きじゃなくていいから、今は『コウサクさん』の代わりでいいから……」
そして彼は身を寄せて苦しそうに唸った。
「俺のも触ってよ。あゆ……」



【小田原 耕作】

困った。それが最初に考えた事だった。

振られてしまった。何か気に触る事をしただろうか。彼に合わせてゆっくりと事を運んだつもりだったが、もしかすると本番が嫌だったのかもしれない。その日は引いたが、これで終わるつもりは毛頭なかった。しかしメールも無視され電話にも出ない彼とどうコンタクトを取るべきか。あれから二週間は経った。その間に何度か部屋を訪れたものの、出てもらえなかった。今日は午前勤務だから、もう一度部屋に行ってみよう。
そんな事をぼんやり考えながら指先でキーボードを叩く。
「小田原さん。先日の会議の件ですが……」
目線を上げると、デスクの前に部下の浪江くんがいる。
「俺なりにまとめてみたので、見てもらえませんか?」
浪江 歩。なみえ あゆみ。
女性のような名前だがれっきとした男だ。新人研修で俺の部署に来てからそのままいる、社会人二年目の真面目な青年だ。
「小田原さん?」
「ああ。もらうよ。」
USBメモリを受け取り、内容を確認する。
「……ああ、この表現は良くないね。ビジネス向きに直してね。あと、ここをもう少し広げると……」
正直仕事をしている気分ではないんだよな。早く終わらせて彼の所に行かなくては。そんな焦燥感を抱えながら部下に指示を出す。
「ありがとうございました。あの、あとこれを。」
「ん?」
コトリと置かれたのは栄養ドリンクだった。
「最近顔色が悪かったので、部署のみんな心配してたんです。良かったらどうぞ。」
そんなにひどい顔をしていたのか。こんなに若いこに心配されるとは、情けない。
「ありがとう。ちょっと、プライベートでトラブルがあってね。」
「へえ。俺で良かったらいつでも話聞きますよ! ……あ、生意気ですかね。すみません。」
「いや。気にしないよ。さ、仕事仕事。」



(いつも思うが、ガタガタだな。)
午前勤務を終えそのまま彼の住むアパートに向かった。いやに古い建物だ。何回か俺の部屋に一緒に住まないかと提案したのだが受け入れてもらえなかった。
「行くか……ん?」
一階の左から二番目。彼の部屋。そこから誰か出てきた。反射的に塀に隠れてしまった。
鳴海じゃない。髪が短い……男だ。その後に彼が出てくる。二人は遠目でも仲睦まじく見え、その様子はまるで恋人が別れを惜しむようだった。
(何だ?何が起きて……)
男が外階段を下りてこちらに近づく。そしてそのまま塀に隠れた俺を通りすぎて行った。
その後は早かった。気がつけば彼の部屋の前に行き、チャイムを鳴らす。さっきの男が忘れ物でも取りに来たと思ったのだろうか。先日が嘘のように簡単に開いた。
「え、あ……」
瞬間、間違いに気がついてドアを閉めようとするのを靴先を挟む事で阻止する。
「随分無用心だね。チェーンぐらい掛けないと、あぶないよ。」
「……ッ……………!!」
強引に侵入した部屋は嗅いだ覚えのある生臭さに満ちていた。それがどういう事なのか分からない程に、勘が鈍くはなかった。
後ろ手に鍵をかけ、暗闇のなか壁際で逃げ場を失った彼を捕まえ強引に口づける。首を振って抵抗するから長い髪を引っ掴かんで舌を差し込んだ。
「ぷは……ぇう、ぁふ…………」
長く激しく口づけ、最後に喉仏に食らいつくとたまらない声があがった。
「あ、やらあ!」
「……ッッ!!」
嫌だって? 冗談じゃない。この前まであんなに俺の手のなかで喘いでいたくせに! 言葉を忘れるほど強い感情に支配され、気がつけば随分と息が乱れていた。
腰が砕けた様子の彼をベッドに横たえると、薄い寝間着を捲り舌を這わす。甘い声があがり誘われるように手当たり次第に吸い付いた。
「うあっ、あんっ待っ、て!」
ままならない身体を必死にひねり逃亡を図る彼を手首を掴んでベッドに押さえる。なんて力が弱い。たいした労力もなく出来てしまった。
「ひ…………」
ああ、そんな顔をするくらいなら……どうして。
「……したの?」
やっとそれだけ問うと彼の瞳が一瞬揺らぐ。それだけで答えは十分だった。
(離せ。手を離せ。解放するんだ。これ以上苦しめるな。)
荒い呼吸を整えながら頭のなかでそう言い聞かせると、やっと身体が動いてくれた。ゆっくりと、手のひらの力を抜いていくと、彼はもう抵抗していなかった。
「……分かったよ。よく分かった。」
彼はもう俺に興味がないらしい。一体いつからだろうか。気がつかなかった。だってあんなに楽しそうだった。どうやら少し舞い上がっていたようだ。ふらつくのは頭に血がのぼったからだろうか。それとも……
「大丈夫、怒ってないよ。もう終わり……もう、何もしないから……」
無理に笑顔をつくろうとするのだがうまく笑えているだろうか。多分駄目だ。彼は恐ろしいものでも見るように俺を見上げていた。
ベッドから降りると乱れた上着を整え鞄を抱えて逃げるように出口に向かう。
「髪、ごめん。痛かったね。」
それだけ呟いて部屋を後にした。



「小田原さん! 先日の修正の件ですが……確認お願いします。」
「うん……あれ? USBが刺さらない。」
「あ、あの、蓋を取らないと…………」
「あ。」
昨日の事で完全に腑抜けになってしまったようだ。これでは仕事にならない。社会人としてどうなんだこれは。
「だいぶお疲れのようですね。」
「すまない……少し休憩してくるよ。」
喫煙室に移動する。と続けて浪江が入ってきた。
「君、タバコ吸うんだっけ。」
「ああ、いえ……小田原さん相当疲れているみたいだから気になって。あと確認ないと進められないので。」
「それもそうか。悪い。一服したら戻るから……」
「一服の間、良ければお話しませんか? その……みんな心配してるんです。最近元気ないから。おせっかいかもしれませんが、人に話すと少し軽くなるかも……なんて!」
「………ふむ。」
一理ある。
そう考え、騙されたと思って相談してみることにした。年の頃も近いし何か考えが分かるかもしれない。
「実は、最近まで君くらいの年齢の子とお付き合いをしていてね。」
「へえ。どんな子ですか?」
「そうだなあ。ちょっと脆い所があるけれど、いい子だよ。自分より他人の事ばかり考えていて、良くも悪くも気配りをする子だった。」
「だった。」
「うん。それが、二週間くらい前に急に別れて欲しいって言ってきて……全く身に覚えがないんだ。前のデートでは遊園地に行ったんだけど楽しそうだったし。とにかく納得出来なくて、昨日会いに行ったらもう新しい男と一緒にいてね。完全に振られてしまったんだ。」
「ええ!ビッ……いえ、酷いですねその子……」
「いや、きっと俺が何かしたんだ。そもそも年齢も離れているし、感覚が合わなかったのかもしれない。」
「うーん……俺も女の子の考えてることは分からないからなあ……」
「……俺もわからないよ。まあ、話していても仕方ないし、そろそろ仕事に戻るとしようか。」
タバコの火を揉み消そうとすると、浪江くんが急に向き直り手を握ってくる。
「時間あるときにもっと聞かせてください! ほら、何か気づく事があるかもしれないし。」
「……ありがとう。」
慕ってくれる彼に悪い気はしない。少しだけ楽になった。



「本当に何も変わったことはなかったんですか?」
「うーん……そうだなあ。」
仕事終わりに、行きつけのバーで酒を飲みながら話の続きをしている。正直傷口を見られているようで恥ずかしいが、不思議といやな感じはしなかった。
「そういえば……あの時子ども連れを見ていたな。」
遊園地でのデートの際。立ち止まった彼の目線を追うと三人の家族があった。知り合いかと問うと、違うと言って笑った。今思えば、その時から様子がおかしかった。
「じゃあ、その家族が何か関係してるんですかね。」
まるで探偵が推理をしているかのように眉間にシワを寄せ考えを巡らせる浪江くん。
「……わからない。」
もうあの子の考えていることがわからない。
「もういいよ。今更理由を考えても仕方がない。振られた事は変わらないし。」
あれだけ拒絶されたんだ。関係の修復は望めない。不本意だけど終わったんだよな。
そんなことを考えてぼんやりしていると、また浪江くんが手を握ってくる。
「それで良いんですか?」
「え。」
「諦めちゃうんですか? 小田原さん!」
「諦めるも何も、もう終わった事だし……」
「でも……」
「……これ以上掘り返したくはないんだ。」
「……うっ、うっ…………」
見れば彼はぽろぽろと男泣きしていた。
「ええ!」
「ぐす……だって、あんまりですよ! 小田原さんがかわいそうで……すみません、ティッシュありますか!」
「ハンカチなら……」
渡したハンカチで豪快に鼻をかむと、俺に返してきた。逆に気持ちがいい。
「あーあ、いい男が台無しだよ……全く。」
涙を拭ってやると。潤んだ瞳がこちらに向く。その姿が一瞬、鳴海の姿と重なった。
ああ、いけない。
魔が差したとしか言えない。ゆっくりとその身体を引き寄せて触れるように口づけをした。呆けた様子の浪江が「え……?」と呟いて赤面する。職場にプライベートを持ち込むまいと考えていたが、彼もなかなかに魅力的だった。
「な、なんで……」
「……嫌?」
薄い笑みを浮かべ指を絡めると、ひくりと彼の身体が跳ねたのがわかり胸が高鳴る。久しぶりの感覚だった。
「…………いやじゃない……です。」
間接照明のなかでもわかるほど真っ赤になった様子がかわいくて。
「出ようか。着いてきて。マスター、勘定を……」



【鮎川 鳴海】

夜十時。なんとなくお腹が空いて近くのコンビニに足を運んだ。
(あ、新作のパンだ。でもやっぱりいつもの親子丼弁当がいいな。アイスも買おうっと。)
会計を済ませて帰路に着く。夜風にあたりながらまばらな電灯の間を歩いていると、ぼんやりとした考えが頭を巡る。
昨日。彼が無理やりに部屋に入ってきた時。あんまり怖い顔をしていたから誰かと思った。まだちゃんと別れた訳じゃないのに他の男と会ってるのを見られた。嫌な思いをさせてしまった。
(謝りたい……でもどの面下げて行けば良いんだろう。それに自分から別れを切り出しておいておかしな話だ。)

ああ、ダメだ会いたいな。

急激に押し寄せた愛おしいという感情に、胸が苦しくなる。立っているのが辛くて思わずフェンスに寄りかかった。
「……早く、忘れないと。」
ぽつりと口に出した言葉が、耳に張り付いて消えてくれなかった。
忘れないと……
忘れないと…………
忘れたく、ない………………
ぎゅっと目をつむる。
「耕作さんに……会いたい…………」
ぼろぼろと涙が溢れて止まらなくなってしまう。もう身も心も限界だった。ぼやけた視界のなか、スマホを取り出して、履歴の二番目に残っていた彼の番号に掛ける。

(謝らなきゃ。謝って、謝って……それで…………)

《お掛けになった電話番号は、電波の届かないところにあるか、電源が……………………お名前とご要件をお話ください。》
無機質な発信音の後に、やっとメッセージを残した。
「……会いたいです。」



【浪江 歩】

今日の朝の小田原さんは、とても正気には見えなかった。コーヒーは溢すし、老眼鏡は見失うし、全体的に意識がまばらというか、明後日の方向を向いていた。部署のみんなが心配しているのもあったが、俺自身尊敬している上司の様子が気になって。
話を聞くうちに、彼の元彼女がとんでもない悪人に思えたが、俺が何とか励まさないとと思った。あまりに不憫で思わず涙した俺を、小田原さんは優しく抱き締めて……
「ヤバイヤバイヤバイ……」
小田原さんのいるバスルームからドライヤーの音がする。
「……結構、よかったな。」
先程された事に思いを馳せていると、急にスマホの軽快な着信が鳴る。
(俺のじゃない。じゃあ、小田原さんのか。)
何となくコール音を聞いていると、留守番電話サービスに切り替わった。
『……会いたいです。』
小さな声でよく聞こえなかったが、泣いていたような気がした。もしかしたら、例の元彼女だろうか。

何だそれ。

自分から別れたいって言って他の男連れ込んだ癖に今更何なんだろう。電話一本で彼を呼び出すつもりのようだし、さっきまで応援したいと思っていたけれどろくな女じゃないな。
「浪江くん……どうしたの怖い顔して。」
「……小田原さん。」
風呂から戻り帰り支度を始めた彼を見ていると、つい余計なことを言いたくなってしまった。
「未練、ありますよね。」
俺の問いに、不思議な顔をする小田原さん。
「でも、ぶっちゃけ前の彼女さん、そんなにいい人じゃないと思います。小田原さんのこと大事にしてないと言うか……さっきまで応援してたけど、やっぱり俺はより戻さないで欲しいっていうか……」
「浪江くん。何を……」
「俺、あなたの為なら何でもします。あなたの事尊敬してますし、さっきみたいなこと、もっとしたいと思ってます。俺……俺は…………」
何か察したのか、彼は俺の横に座り優しく背中をさする。
「ありがとう。どうしたの? 何か、不安にさせるようなことしちゃったかな。」
「……小田原さん。」
身を寄せると、同じ石鹸の匂いがする。
「もう少し、一緒に居てください。」
「うん……いいよ。」
頭を撫でられ、そのまま見つめあい、口づけを交わした。
(……俺も大概悪人だな。)
「じゃあ、明日まで……いいよね。」
このまま言わなければ、彼は一緒にいてくれるだろう。でも……
「……浪江くん?」
「でも、俺とは遊びなんですよね。」
「……どうしてそう思う?」
「だって……俺を見てない。きっと彼女さんの代わりに俺を抱いてるだけだって……分かりますよ。何年一緒きっとこれに仕事してると思ってるんですか。」
これを言ったら彼は行ってしまう。それをわかっていて口に出した。
「留守電、入ってましたよ。『会いたい』って。どうします? 遊びじゃないなら、どっちを選びますか?」
息を飲む音がした。立ち上がり留守電を確認すると、バツが悪そうに俺を見た。
「冗談ですよ。行きますよね。泣いてる女の子を放っておけるほどあなたタフじゃないですもんね。」
「す、すまない。」
「あ、明日からは元の関係に戻ってくださいね? キープみたいに思われるのもしゃくですから。」
「……ありがとう。」
そう言い上着を掴むと、彼は部屋を後にした。ドア越しに革靴の足音が遠ざかっていく。
「……はあ。」
自分から焚き付けたとはいえ本当に行ってしまった。しばらく呆けていたが、ごろんとベッドに横になる。
「あーあ。振られた。」
最初から勝機はなかったのだろうが、それにしても酷い話だ。このまま延長してデリヘルでも呼ぼうかという考えが一瞬浮かぶがそんな気分にもなれなかった。
(次に付き合うなら、清楚系で胸の大きな、ついでにセクシーランジェリーが似合う女の子が良いな。)
ぼんやり考えたそれが後に現実になる事を、俺はまだ知らない。



【鮎川 鳴海】

(来てくれるかな……)
近くの公園までふらふら歩いてきた僕は自分勝手にそんな事を考えながら、スマホを握りしめる。メッセージを残してから、三十分は経過していた。
ため息と共にまた視界が霞む。そして、居場所を伝え忘れたことに気がついて、また悲しくなった。
(やっぱりもうダメなのかな。)
すると場違いで軽快な着信音が鳴り響く。表示された名前を見て急いで画面をタップする。
「はい……」
「…………鳴海。」
ハッとした。心地よく低い声が耳に響いて僕を離してくれなかった。ぼろぼろと泣きながら、やっと愛おしい彼の名前を告げた。
「耕作さん……あの…………」
「君がしていることは……とても自分勝手だ。」
「ッ……!」
「訳も言わずに交際を終わらせようとして、話がまとまらないうちに新しい男と会っていた。浮気相手に乗り換えようとしていると思われても仕方がない。その上で、君は俺に『会いたい』と連絡してきた。わかるね。」
ゆっくりと含みを持たせるように語る彼。
「俺は比較的温厚な方だけど、あまり勝手な事をされると流石に看過できない。」
じゃあね。という言葉を最後に、電話は切れた。
「………………ああ。」
呆然としてしまう。
終わった。これで完全に関係が切れてしまった。
「うっ……う…………」
わかっていた事なのに返す言葉が見つからなかった。望んでいた事のはずなのに胸が苦しくて嗚咽が止まらなかった。誰に見られているわけでもないが声を圧し殺して泣いた。

悲しい。苦しい。どうしてこんなに、会いたい――――――

すると何者かが歩み寄ってきて、背後から身体を抱かれる。
「……と、これが大人の意見。」
「え……」
振り返ろうとするのを強く抱いて制される。呟くように独り言のような口調で、声の主は続けた。
「本来ならこうやって別れを告げてもいいかもしれない。でも、俺は君が他の男に乗り換える為に別れたがったとは思えないんだ。いや、思いたくないのかもしれないな。」
少しだけ間が空いた。何を話すか考えているのかもしれない。
「……話が聞きたい。あの男とはどんな関係なのか、そもそもなぜ俺と別れたいのか。全部、全部……俺はそれを聞いてから判断したい。」
「…………」
(傷付いているんだ。僕なんかに振られて。)
そうして僕は、声の主……耕作さんに全てを話すことにした。



あの日。遊園地で最後にデートした日。
ジェットコースターに乗ってふらふらの耕作さんをベンチに置き、飲み物を買いに行った帰り道。視界に三人の親子がうつった。
髪の長い女の子が走って、お父さんが『転ぶなよ』と声をかけて、それを見てお母さんが笑う。三人にとって何気ない一日で、きっとそれはこれからも続く。
「急に思ったんです。僕は、あなたとこのままいていいのかなって。」
耕作さんは子どもが好きだと言っていた。僕にそれが与えられるだろうか。いや、無理だ。あるべき姿。あるべき家族の形。長い人生。
考えて考えて、その辺りから黒いモヤモヤとした気持ちが離れなくなってしまい、とにかく別れなくてはいけないという考えしか捻り出せなくなってしまった。
「耕作さんはその、僕と違うし……ちゃんと、女の人と付き合って子どもを育てて、ちゃんとした周りの祝福を受けていいと思います。今は良くてもきっと後悔するから。」
人と違う事は他人に受け入れてもらえない事だ。
「とにかく、とにかく……幸せになって欲しいんです。」
僕の独白が終わってなお、しばらく彼は黙ったままだった。その後小さくため息を吐いて何か呟いた。
「え?」
「……いや、そんな事を考えていたんだね。ありがとう。でもね、そんな事は随分昔に解決しているんだよ。」
「ど、どういう……事ですか……?」
「聞きたいんだけど、その事を俺が考えなかったと思うかい?」
今度は耕作さんが話す番のようだ。夜の公園の暗闇、ぽつんとした明かりの下。彼の話が始まった。



【小田原 耕作】

鳴海と出会ったのはそう、夕暮れ時偶然通った公園で、丁度今みたいに彼が泣きながらこのベンチに座っていた時だった。今とは違う、キノコを模したようなデザインのものが置かれていた。泣いている彼はまるで白雪姫のようだと思ったのを記憶している。
(毒リンゴでも食べましたか? ……なんて言ったらおかしな奴だと思われるな。)
普段トラブルが絡みそうなものには関わらないのだけれど、あまりに辛そうに見えたもので思わず声をかけた。男性だったのは少し意外だったけれど、さほど気にはならなかった。
話を聞いているうちに、不思議な魅力を感じた。今思えば一目惚れに近いかもしれない。そして別れ際に名刺を手渡した。連絡が帰ってくるかは正直五分五分だと思ったが、次の日メールが来た。
『先日お世話になった鮎川です。』
その後に何回か食事をする仲になって、告白は俺から。
「……前置きが長くなったね。本題に入ろう。」
早口にならないように気をつけて、ゆっくりと話し始めた。
「始めに言ってしまうが、俺は君に心底惚れている。確かにあまり積極的に愛を囁くことはしない性分だから伝わらなかったかもしれない。この場所で泣いていた君の話を聞いたのは成り行きだ。でもね、その後何度も食事をした事も、君への告白も、全部、惰性でも妥協でもなく、俺の意思だ。」
「君は、自分と俺が違うと言ったね。それに何か問題がある? 互いに愛し合っていて、何の問題がある? 世間の目なんて関係ない。俺は、君が好きだよ。君を悲しませる世界を焼いてしまいたいくらいにね。子どもをつくれないという事もそうだ。子どもがいれば夫婦なのか? 子どもがいなければ祝福されないのか? 違うだろう?もし君が子どもを望むなら養子をとるけれど、そうじゃないんだろう。君が望むものはできる限り与える。だから、どうか一緒に居てほしい。俺は君から離れたくない。俺の為に俺から離れるなんて事、もうしないでくれよ。」



あれから、場所を移したいと言われて近くのホテルに入った。だが指定の部屋に入ったとたんに背後から抱きつかれた時は面食らった。
「あ、あの………………」
何かモゴモゴ言っているのをよく聞くために向き直ると、身体を預けるようにしてまた抱きついてくる。
「……他の人と、し、したんですよね。」
「え……」
「ぼ、僕も……その、身体触ってもらったし……でも、本当にそれだけで…………」
とっさの事で動けない俺にゆっくりと彼が歩み寄り、スーツの襟を両手で掴んで引き寄せる。唇を押し付けるような拙い口づけだった。
「その人にしたのと、同じことしてほしいです…………」
真っ赤になりながらも真っ直ぐに見据えてくる。さてお互いに限界のようだった。
「……嫉妬、してるんだね。」
「……!」
目の前でひざまずくと、それを見て驚いた様子の鳴海の手をとり、手の甲に口づけた。
「………じゃあこれからは、俺だけのお姫様になって?」



【鮎川 鳴海】

白いシーツに寝転んで見上げた耕作さんの顔は赤く、興奮が見てとれた。きっと僕も同じだ。本当に好き同士なんだ。今から二人でたくさん気持ちいいことするんだ。
(…………)
(痛かったらどうしよう。)
(でも、この人にされるなら――――――)
少し見つめ合った後、唇が重なり口づけが始まる。心地よく口内を撫でられて時折身体がひくりと反応した。
「んんッ……は…………ッ」
しばらくすると口づけがゆっくり下に移動して、鎖骨や突起を舐めるようなものに変わる。恥ずかしい声がたくさん出てしまうが、彼は萎えている様子はなくむしろ興奮が増しているようだった。
「……気持ち良さそう。」
「ふあっ、あ……んん…………」
すると、彼の手が僕のそれに伸びる。半分立ち上がっていたものを刺激されて一気に腰が跳ねた。
(どうしよう。あの時よりきもちいい……)
思い起こしたのは、きみちゃんに迫られた時。あの後僕は言われるがままに彼のものを触り射精を促した。その後一度だって後ろを使うことだけは承諾しなかったけれど、それでも耕作さんに問われて動揺したのはきっと後ろめたかったから。
そうこうするうちに、射精欲が押し寄せてくる。
「ふああ……イくぅ……! こうさくさんッ……!」
導かれるままに彼の手のなかで達した。はあはあと荒い息をついていると、不意に彼のものが下着を押し上げていることに気がついた。
(今からこれを挿入れられるのかな……)
長く自分の指以外いれていなかった。きっと気持ちいい。期待感に腹の奥がきゅうと疼いた。しかし彼は自らのそれを構うことはなく、また僕の身体にキスをしはじめた。
「あ……あんッ……」
「ふふ……鳴海、かわいいね。」
その表情はとても苦しそうに見えた。それを口に出すと耕作さんは笑う。
「同じことをしてと言っただろう? 君が言っている『他の人』としたのは、キスと軽い愛撫だけだ。ただ、もしそれ以上を許してくれるなら……」
耕作さんは、僕の下腹部を撫で、少しだけためらうような様子を見せた。
「ここにはいってもいいかな?」
まるで、子供が親にお願い事をするときのような顔でそう言う。
「怖いようならいいんだ。ただ、少しだけ苦しいから、処理させて……」
「…………」
(本当はしたいんだ。そんなの僕だって同じなのに。)
たまらず背中に手をまわしてきゅッと抱き寄せた。それに驚いたような声を出す耕作さん。
「怖くないです。あなたにされるなら、何だって気持ちいいから……」
表情は見えないけれど、耕作さんは「……そう。」と言ったきり黙っていた。どくどくという彼の心臓の音と温度が心地よかった。



【鮎川 鳴海】

「じゃあ本当に……その、本番はしてないの?」
ファミレスのボックス席に向かい合って食事をしている。耕作さんは、何とも言えない変な表情をしていた。
「それは……申し訳なかったね。」
「え、何がですか?」
「だって大人げないじゃないか。たかだかそんな事で激昂して、君を怖がらせた……」
「そんな……」
元はと言えば、僕がいらない気を回したからで、それを言うと彼は困ったように笑った。
「男としては、最後に自分の所に戻ってくれれば……くらいの気持ちでいたいんだけどね。どうもうまくいかない。」
「耕作さんは他人に甘すぎですよ……」
「まあ……それを言えば君は少し突拍子ないかな。」
「う……」
少し間をあけ、二人で吹き出した。
あれから三日。あの日は二人でたくさん気持ち良くなって、とろとろになって、最後に仲直りした。たくさん好きだと言ってもらえて嬉しかった。
「しかし今回の件は本当に肝が冷えた……約束してくれよ。何かするときはきちんと相談すると。」
「耕作さんも、もう他の人誘惑しないでくださいね。僕以外見ちゃ嫌ですから。」
「ふふ、当たり前だ。俺が本当に好きなのは鳴海だけだからね。」
そうして二人で笑いあった。
色々考えて、色々行動して、悩んで泣いたけれど、最後に笑えて良かった。思えばほんの数週間の出来事で、短い時間で僕達はお互いにグッと近づいたように思う。
「離れないでくださいね。」
「当たり前だ。鳴海は分かってると思うけれど意外と俺は嫉妬深いんだ。」
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