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番外編 フェロモン魔人とナミさん 9
しおりを挟む私の妻です、と言った時、背後で息を呑む気配がしたが、一言も声を上げない様子を察してツトムは改めて男を見る。
「え? え? でも名前、違うよね」
男は戸の前にかかっている、濃紺の下地に〝すずや〟と白抜きで染めてある暖簾を見て、ナミの顔を見た。
店内で呼ばれているナミの苗字と違うと言いたいのだ。ツトムは落ち着いて頷いた。
「はい、屋号は私の近しい友人から頂いたもので、鈴木、という苗字から取った訳ではないのです」
目が泳いできた男に、ツトムはゆっくりとしかしはっきりと言った。
「お名刺を頂戴したと聞きました。何分、物を知らぬ妻で、どういった意味か分からずに頂いてしまったのだと思います。私の不徳の致す所です。申し訳ありませんでした」
ツトムが頭を下げた時、後ろでも衣ずれの音がした。たぶん、ナミも合わせて頭を下げたのだろう。
二人に頭を下げられて、居心地が悪くなったのか、男はふ、ふん、と鼻をならした。
「なんだよ、それならそうと早く言ってくれよ。思わせぶりな態度をしやがって……あんたの奥さん、相当遊んでるよ? 気をつけた方がいいぜ、大将」
元はと言えば俺に色目を使ってきたんだからな、とかなんとか、ぶつくさ文句を垂れると、男はチッと舌打ちをし、踵を返し去っていった。
争いの火種を投下していった男だが、ツトムからしたら火種にもならないヨタ話だ。
(色目? 使える訳ないだろう)
ただでさえこの状況に固まっているナミである。無意識の色気は出したかもしれないが、自発的に色目など出来るはずがない。
「大将……ありがとうございました」
ナミの強張った声に、ツトムは振り向いた。
「ああいう客に一人で対応しようとするな」
「……すみません」
「俺が行こうとしたの、分かってただろ? 待ってろよ」
ナミが板場から出たツトムに気付いていたのは、ナミの様子を見て分かった。
大方自分一人で解決しようとしたのだろう。店には迷惑をかけたくないとかなんとか、瞬間的に考えたのだ、ナミはそういう女だ。
「ごめん、なさい」
ナミは胸の前でぎゅっと手を握りしめて、小さな声で言った。握った細い指がかすかに震えている。
ツトムは、ひとまず店に戻ろう、と言った。
土曜にもかかわらずお客の引きが早かった事もあり、小林くんはラストまで残らず早めに帰ったのでまだ店内には洗い物等、仕事が残っていた。お互い、途中であった仕事を片付ける。
もう一度店外へ出て看板と暖簾を下げ、ナミはほっとしたのか、ふっと肩の力を抜いて、乱れたおくれ毛を整えた。
首筋に手を当て少しだけ傾け、うなじに沿って細い指が一房垂れた髪をピンで改めて止めた。その手が少しだけ下がって、首から肩にかけての緩やかな肌を撫でる。
その一連の動作に、ツトムはまた目が吸い寄せられる。本人にとっては何気ない所作であろうに。
ツトムはため息をついて、それだよ、と呟いた。
「え?」
「仲倉さんの無自覚な後ろ姿に、さっきの男は釣られたんだと思う」
「わ、分かりません」
「そうだろうね」
振り向いたナミの綺麗な顎のライン。この一瞬だけ、無造作な動きに匂い立つ色気が出るのをナミは知らない。
従業員の服を和装にしなくてよかったと本当に思う。これで着物姿であったら、鼻の下の伸びた男どもがナミを離さず、〝すずや〟は小料理屋でなくどこかのバーになってしまう所だ。
ツトムは、今日も送るから、と言った。
ナミは黙ってエプロンの胸の前で両手を握っている。
色を無くしたその顔色をみて、ツトムは黙って白い前掛けを外した。
大方ナミの事だ。今回の件で何か言われると思っているのだろう。口をきゅっとつぐんでこちらを見ている。
(そんな顔、しなくていい)
ツトムは苦笑して冷蔵庫を開け、カウンターの前に白い陶器の冷や菓子を置いた。
「お店に出すデザート、試作してみた。食べてみて」
「……いいんですか」
「仲倉さんに食べてもらいたくて作ったんだ。俺じゃ店に出す価値があるのか見当もつかないからね」
ナミは頷いて、カウンターに座った。
ツトムもナミの隣に座る。
ナミが手元を見ると、手の平サイズの乳白色の器にクリーム色の固められたぷるんとした冷菓子。
「プリンですか?」
「ババロアだよ」
「ババロア……製菓店でもあまり見た事がありません。ここでしか食べられない、というのは付加価値がつく。いいかもしれないですね」
生気が戻ってきたナミの目を見て、ツトムは頷いて、どうぞ、と四隅が丸くカーブしたケーススプーンを渡した。
ナミはいただきます、と手を合わせて、そっとババロアをすくった。
「わぁ……! 二層になってます!」
ナミがすくったスプーンの上に、クリーム色とオレンジ色の二層のババロアがふるんと乗っている。
「下はオレンジのゼリー。季節によって下の層を変えることも出来るし、これ、クリームとゼリーが混在した生地を混ぜるだけで置いておけば二層になるから簡単なんだよ」
「最初、下の生地が見えないので、すくった時の驚きもありますし、いいですね!」
「もう少し手を加える所、ある?」
「そうですね……」
ナミはじっと器に残ったババロアを見た。
「色味が少しさみしい気がします。でもこのすくった時の驚きはお客様に体感してもらいたいですし……そうだ! 真ん中に一すくいの生クリームをのせて、ミントの葉を一枚だけ添えるのはどうですか?」
ナミの提案に。ツトムも目を瞑って想像する。
「……いいね、緑が差し色になる。それでいこうか」
「はいっ」
ナミは嬉しそうに頷いて、お預けになっていたババロアを口に含んだ。
「っ美味しい!」
きゅう、と目を細める彼女が、堪らなく愛おしい。
ツトムは、二口目、と手を伸ばしたナミの手を取った。
「仲倉さん、俺と結婚して」
「う、え……?」
「たぶん、俺、仲倉さんを捕まえておかないと、手元が狂う」
「えぇ⁈」
「初めてなんだよ、名刺がどうのってだけで手元が狂ったの」
「え! お怪我⁈」
ナミは血相を変えて掴まれているツトムの手を見た。
「違う違う、手は切ってないよ。包丁の刃先が狂ったって事。俺としてはあまりそういう事はしたくない。だからあなたを捕まえておきたい」
「で、でも彼女さんが、いるのでは?」
「彼女はいないけれど。あー、まぁ、仲倉さんが気にするような人は昨日切ってきたから。ちょっと修羅場って、仕込み時間削られたけど」
「さ、殺……」
「言葉のあやだって、縁を切ってきました。ねぇ、仲倉さんて、そんなボケなの? 知らなかったけど」
「ボ、ボケと言われたのは、初めて、です」
「あ、動揺してるのか」
「た、ぶん」
それっきり黙ってしまったナミの口はまたへの字になっている。
その口があの、と小さくわななくときゅっと結んで、すぐに開いた。
「す、す、〝すずや〟が、好きなんです。この店で働きたいんです。できれば、長く」
「うん」
「す、捨てられたくないです。好きじゃなくなったら、はいさよならとか、私、たぶん、出来ないし、されても、やだって、言うタイプです」
「うん、しないよ」
「大将、していましたよ。電話でさよなら、してた」
「聞いてたのか」
「聞こえたんです」
「仲倉さんにはしない」
「信じられない」
「じゃあどうしたら信じてくれる」
一筋縄ではいかないとは思ったが、やっぱりナミは頑固な鉄女だった。遊んでいた事実は変わらない。でも実際はこの間の女の所に行っても、ナミの顔がちらついて使い物にならなかったのだ。その場でもう会わないと切って帰ってきた。
そうは言っても、そんな都合のいい話は信じないだろう。初めて欲しいと思った女の前では、手詰まり感が半端ない。もうナミ以外の女はいらないから手っ取り早く結婚したいと言ったけれど、それじゃだめなのか。
どんな言葉を言ってもナミには通じない気がしてくる。どうすればいいのか、ツトムには出てくる言葉がなかった。
ただ、離したくはなく、銀のスプーンを持ったままの細い手を握りしめる。痛めないように気をつけながら、でも離さない意思は込めて。
ナミは、されるがままにしながら、独り言のようにぽつりと言った。
「私、浮気する人だめなんです」
「しない」
「女の人が寄ってきても、断れますか?」
「断る」
「結婚って、一生一人の人と一緒にいる、って事ですよ? ちゃんと分かってます?」
「仲倉さん以外いらないんだよ」
「約束、出来ますか?」
「出来る」
ナミはしばらく黙って、そっと小指を立てた左手をツトムに差し出した。
ツトムも、黙ってそのしなやかな指に自分の指を絡ませる。
「ゆびきり げんまん」
「嘘ついたら 針千本 飲ーます」
「ゆびきった」
きった、と歌って小指を離した後に、ナミはやっと、ふわりと満足そうな笑みを浮かべた。ツトムは至近距離でしか見えないホクロが見たくて、握っていた右手を自分の方に寄せる。
あ、と少しだけ体勢が崩れたナミの頬を捉えた。右目の端に見える小さなホクロがツトムを誘う。
「ナミって呼んでいい?」
「……プライベートであれば」
「キスしていい?」
「ダ、ダメです!」
「なんで?」
「今、仕事中ですからっ」
「二人しかいないのに?」
「ここ、仕事場ですから!」
「真面目だなぁ」
「大将がどうかしてます」
引かなそうなナミを見て、ツトムは残念そうに身体を起こした。ナミはババロアを食べたいので手を離して下さいっ、と顔を赤らめて口をへの字にしている。
ツトムは手を離す代わりにそのスプーンを握っている手の甲にキスをした。
するりと落ちたスプーンを、おっと、と掴む。
顔を真っ赤にして口をぱくぱくしている人に、ババロアをすくって、口元に持っていった。
「自分で食べられます!」
「こういうのは食べさせてもらうんだよ、普通は」
「し、知らないもの、普通なんて」
「だろうね、はい」
「い、いいっ……んぐ……」
「美味しい?」
「し、知りません」
「ねぇ、ほんとキスだめ?」
「だ、だめ」
「ナミさんは存外と酷い人だね」
「ひどくない」
「後で覚悟してね」
「な、なんか、いやです」
「そんな可愛い顔していやって言われても、意味ないから」
か、可愛くなんかないです、とツトムからスプーンを奪って背を向けてババロアを食べている姿の、どこが可愛くないというのか。
しかもほんのりと匂い立つようなうなじを見せつけているのに、その自覚もないのだから始末に負えない。これまでどれだけの男を知らず知らずに袖にしていたのか、計り知れない。
(鉄女に、感謝だな)
ナミが他の男になびかなかった事に胸を撫で下ろしつつ、ツトムは食べ終えたのを見計らって背後に回った。
「じゃあ俺だけの顔は家に帰ってからね」
白い小ぶりの耳たぶに目掛けて囁くと、ナミがまたスプーンを落としそうになったのでフォローしつつ、真っ赤になって振り向き乱れた前髪に素早くキスをして洗い場に行った。
先に着替えて待ってて、と投げた言葉は届いているのかいないのか。
〝すずや〟の敏腕従業員は店主の声に返事をしないまま、前髪と右耳に手を当て、いつまでもいつまでもカウンターに座っていた。
完
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