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2 一匹狼はつがう

10 望みと決意 ※? まだ裸

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 蛇に睨まれた蛙。
 本当にそんなふうになることが、感じることなんてあるんだ。

 裕壬ユウジンは、は、は、と浅く呼吸をしながら、逃げようとする意思と恐怖で動けない体に、そう思った。

「ユージン」
「……なぁに?」

 ごくり、と喉を鳴らして、裕壬は言葉を絞り出した。
 返事をしないのは危険だと、わかるから。

「おれに……」

 ぐ、と唸るように声をおさえ、唇を噛みしめて、ゴーシュはぶるぶると全身を震わせた。

 耐えようと思った。
 裕壬は番ではない。
 自分にそう言い聞かせようとした。

 それなら、今、目の前にいる、おれのために色めく裕壬は、なんなんだろう。
 抱かれたい?
 番ではないのに、それを望むのか?

 人の常識など分からない。
 人が快楽のために、伴侶以外とも性交を行うのは知っている。

 まさか、裕壬もゴーシュ以外のメスやオスに抱かれて、抱くのか?

 目の前が真っ暗になる。
 ゴーシュは、判断を誤ったのだ。

 裕壬は手に入れられない。
 人狼ではない裕壬を、番に望んではいけなかったのだ。

 裕壬を番にできないのなら。
 ゴーシュは生きられない。
 それでも、せめて、番にしたいと望んだ相手の願いは叶えたい。

 〝おれに、もっと苦しんでから死ねと言いたいのか?〟

 どこまでも番本位な人狼は、言葉を飲み込んだ。

 番ではないと訴える番を抱く。
 それは、ゴーシュにとって悪夢だと知りながら。



 裕壬は、狭い風呂場でゴーシュの体を洗った。

 なすがままどころか、協力的になってくれたことに安心しながら。
 他人の体を洗うことが初めてで、力加減も下手だろうなと焦りながら。

 それから「抱かれる準備をするから、布団を敷いておいてほしい」とゴーシュに囁いて、裕壬は風呂場に残った。

 部屋の隅にたたまれていた布団を敷いて、腰にバスタオル一枚を巻いただけのゴーシュは、室内を見回す。

 箱に山積みの絵の具。
 イーゼル。
 布や紙を張った木枠。
 プラスチックの箱に立てられた、たくさんの絵筆。
 何冊もあるリングとじの大きなノート。
 穴の空いた本のようなもの。
 臭い液体の入った瓶。
 何に使うのか分からないものも多い。

 ここが、裕壬の巣穴か。 

 少し冷静さを取り戻したものの、まだ不安定なゴーシュは、タオルを床に落として布団の上に転がった。
 裕壬の匂いがする。

 掛け布団を鼻先に押し当てて深く息をすれば、それだけで気持ちが落ち着くのを感じた。

 愛おしいのに、愛してはいけない。
 それなのに抱くのか。
 番になれないのに。

 ゴーシュの絶望は始まったばかりだった。



 裕壬は、不安を抱えたまま風呂場を後にした。
 ゴーシュは男同士でセックスをする知識がないようだから、少ない経験を思い出しながら洗ってほぐした。

 あとは、なんて言えば良いのか。
 恋人ではなく伴侶?

 人狼は、そういうものなのかもしれない。
 お試しの恋人期間はなくて、好きになれば、そのまま結婚なのかもしれない。

 ……結婚?
 ゴーシュと?
 日本で同性結婚はできないのに。

 裕壬には結論が出せなかった。
 結婚。
 それは大学三年生の学生が、考えることの少ない命題だ。

 この後、健康に生きられれば人生が七十歳くらいまであるとしても、五十年近くをゴーシュと過ごす?
 想像もつかない。

「ゴーシュさん?」

 無音の部屋を覗くと。
 全裸のゴーシュが、丸めた裕壬の掛け布団を片手で抱きしめるように、仰向けに寝ていた。
 布団に口付けながら。

 美しい。
 恐ろしいほどに。

 言葉が出ない。
 いつも見慣れている部屋が、突然、見知らぬ場所になったようだ。

 力が抜けていても、きれいな筋肉の筋が全身を包み、形のきれいな大きな男根が、ゴーシュの雄としての能力を股間で主張している。
 柔らかい時にこの大きさなら、その気になったらどこまで大きくなるのか。

 男の価値は大きさではない。
 裕壬はそれを身をもって知っている。
 けれど、大きい、ということに憧れるのも事実だ。

 美しい姿に言葉が出ない。
 呼吸が浅くなる。

 ゴーシュは美少年というより、美丈夫だけれど。
 まるで眠るエンデュミオンだ。

 眠っているのだろうか。
 それなら。

 そっと足音を忍ばせて、裕壬はクロッキー帳を手に取った。
 2Bの鉛筆も。

 枚数を描くためにはスケッチブックでは足りない。
 消しゴムなんていらない。
 次のページをめくっていくだけだ。

 薄い紙に鉛筆を走らせる音を立てて、タオルを腰に巻いただけの格好で、裕壬は耽った。
 目の前に在る美しい生き物を、永遠にするために。



 無言でシャッシャッと音を立て、無心に鉛筆を走らせる裕壬の存在を、ゴーシュは目を閉じたまま感じていた。

 眠っていたわけではない。
 ただ、何も考えたくなくて、裕壬の匂いを嗅いでいた。

 目を閉じていても、風呂から上がった裕壬が息を飲んで、なにかを決意したように動き出したことは察知できた。

 手が届く範囲に来たら体を起こそうと思っていたのに、なぜか裕壬は座り込んで、延々と大きなノートに何かを書き出した。

 それは、デッサンのモデルになった時と、同じ感覚だった。

 しかし、二人きりの部屋の中では少し違った。
 求愛されている。
 裕壬から。

 動いてはいけないと思えば負担だ。
 動きたい。
 けれど動けない。
 動くわけにはいかないのだ。

 番が、裕壬がゴーシュを見つめている。
 焼け焦げてしまいそうなほどに、熱をこめた瞳で。   

 愛してる。
 ゴーシュが欲しい。
 全力でそう訴えられている。

 愛おしい裕壬から向けられる、どこか陶酔すら感じる視線。
 狩りをする者のような真剣な眼差しでありながら、ゴーシュを求める官能的な誘惑の香りも漂わせている。

 はっ、はっ、と興奮して短い呼吸をする裕壬があまりに幸せそうなので、ゴーシュは目を閉じたまま動くのをやめた。

 人狼のゴーシュには、全く理解できない幸福の形が、人にはある。
 それを身をもって感じながら。

 ゴーシュは一つ、思い出した。

 父親がいない時に、母親がよく言っていた。
 「若い時のセブあなたのお父さんは、よく愛してると言ってくれたわ」と。
 腕を潰してからの父は、寡黙になってしまったけれど、と。

 ゴーシュは決意をした。
 人の中で暮らしてきたからこそ、できた決断だ。


 裕壬に愛を伝えよう。
 そして、機が熟す時を待とう。


 ゴーシュは判断を誤った。
 番になりたいと考えていない裕壬を番にしてしまった。

 もう、変えられはしない。
 変えられる気がしない。
 愛おしすぎて、苦しいのだから。

 胸の奥に横たわる裕壬への想いは、これまでに知らなかった熱量だ。
 あっという間に、ゴーシュの人生そのものに成り代わった。

 裕壬がゴーシュを嫌っているなら、諦めもつく。
 人狼生を終わらせる形で。

 裕壬はゴーシュに好意を持っている。
 人狼が番に抱くものとは違うとしても。

 待とう。
 今は、裕壬がゴーシュを望む時を。

 決意とともに、死にたい、と絶望していた心が軽くなる。

 ゴーシュは、人狼だ。
 寛容なオスに見られたい。
 メスにカッコつけな姿を見せたくなる、思春期真っ只中の人狼だ。





「っへくしゅっ」

 裕壬のくしゃみを聞いて、ゴーシュは目を開けた。

 もう何枚、紙をめくったのか。
 裕壬は姿勢を変えずに、タオル一枚の格好でゴーシュを凝視して、信じられない集中力で描き続けていた。

「ユージン」
「……あ、はいっ!?」

 じっくりとゴーシュの腰辺りを見て、紙に手を走らせていた裕壬が、パッと顔を上げて、途端にうろたえる。

 番に熱烈な視線で見つめられていたというのに、ゴーシュの股間は反応していない。
 裕壬の望みが交尾ではないと、本能が感じ取ったからだろう。

「風邪をひく、服を着た方が良い」
「あ、そうだね」

 風呂を上がってから、かなりの時間が経っている。
 昼は暑くても、夜は冷える時期だ。

 このまま大人しくしていろ、番に愛でてもらいたい、と訴える本能に反意を示し、ゴーシュは裕壬の健康を願った。
 番にはいつでも幸せでいてほしい。

 裕壬は、ゴーシュがずっと眠っていなかったことに気が付いたらしい。
 焦ったように風呂場に戻り、ごそごそと音をさせていたかと思えば、すぐに半袖のTシャツにスウェットパンツの格好で戻ってきた。

 
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