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1 ゴーシュ・ガイルは一匹狼
09 モデル再び
しおりを挟む人狼の威圧を受けて、普段と同じように動ける人間は滅多にいない。
むしろゴーシュに視線を向けるまで、まったく気がつかない鈍感さに驚いた。
首元に牙を突きつけられているというのに、それに気が付かない時点で、危機管理本能が欠如しているのかもしれない。
獲物を罠にはめることしか考えていなかったから?
狩る者が狩られる側になると、驚くほどたやすく狩られることがあるという話は、父親から聞いたことがあるので、とりあえずそういうことだろう、と納得しておく。
ゴーシュは、自分がごく普通の一般的な人狼だと思っている。
両親以外の人狼を知らないから。
ごく普通の一般的な人狼は、率先して狩りを行う側ではない。
群れに所属していれば、序列は低かっただろうというのが、自己評価だ。
それでも捕食者だ。
人狼の威圧を受けて動じないのは、日常で荒事を生業にしている者くらいしかいない。
「それで?
全ての詳細を説明いただけますよね?」
強面を三割強化するグラデーションサングラスをはめたまま、にやりと〝仕事用〟の笑顔を浮かべるゴーシュに、震える男二人が頷く。
その様子を見て、このまま威圧しておこうと、ゴーシュは再度微笑んだ。
ゴーシュが異動先で、副支社長の肩書きを持っているのは社長権限だが、ただ与えられているだけでもない。
それなりに実力もある、つもりだ。
人狼は対人特化の捕食者だ。
捕食者である人狼が無意識に垂れ流す威圧を、意識的に用いれば、人間に話を聞かせるのは容易い。
捕食される可能性を匂わせるだけで、頷かせることも思いのまま。
結論として、人を相手にした交渉が得意だ。
もちろんこれは、会話がうまい云々以前の話である。
威圧と雰囲気で相手を呑んでいるだけなので、とんでもない条件の契約などを押し付けることはできない。
とは言え、ゴーシュはよほど悪辣な人物でもない限り、人狼の力を漏らさないように気をつけている。
社長に仕事を任せられた以上、実力で期待に応えたい。
小狡い手を使うのは、人狼の矜持にもとる行為だ。
今回は違う。
今後の関係が続く相手ではない。
心象を心配する必要もない。
そう割り切って、今回は使った。
強面がさらに怖く見える服装をして、あえて丁寧に話す。
それだけで、キレたら何をしでかすかわからないという恐怖心を与えられる。
……といいなー、とゴーシュは考えていた。
目指すは一直線にマフィア路線だ。
「一度だけです。
もしも、しつこく付きまとうようなら、こちらにも考えがありますので」
自分でもこれは悪役だな、と思う顔で、ゴーシュはにたりと笑顔を作った。
真っ青になった学長と、口煩そうな男は震えながら頷いた。
服を着たまま変化はしたくないので、人のまま威圧する。
しかし、人狼の力を意識して使うには、姿を変える必要がある。
思考を限りなく狼に近づけながら、ゴーシュは目の前の獲物をどうやって喰らってやろうか、と考えた。
ここ数百年で、人狼は人を食料にしなくなった。
もっと安全に入手できて、美味いものが増えたからだ。
それでも、人狼の本性は〝人喰い〟だ。
やっとそのことに気がつき、自分たちがかごの中の小鳥だと気がついた男たちは、身も世もなく震え始めた。
その姿を見たゴーシュは目を細めて、人の姿の時でも人よりも鋭い犬歯をのぞかせた。
その姿は、どこからどう見ても、ただの人ではなかった。
学長と対峙した約二週間後。
某美術大学の一番広い階段講義室に、ほぼ全学生と全教授が集まっていた。
何をおいても参加したという様子だ。
彼ら、彼女らが待っているのはただ一人。
人狼のゴーシュ・ガイル。
控室で、スジモン装備から前開きのストライプシャツ一枚を羽織った、ハーフパンツ姿になって。
そっと控室の窓から階段講義室を覗いた。
「一回とは言ったけど、いくら何でもこれはないだろ」
老若男女あわせて、百人以上が詰まった広い部屋を見て、ゴーシュは顔を引きつらせた。
「人数制限を言わなかったから、学長が捻じ込んできたんですよ」
困った顔をしているのは、ゴーシュの連絡先を知っていて、繋ぎ役を丸投げされた愛子(仮)だった。
他の人から連絡を受けたくない、とゴーシュが断ったせいで迷惑をかけていると知りつつも、どうしても愛子(仮)以外には教えたくなかった。
通話中の愛子(仮)の声を録音しておいて、自慰に使っているなんて言えない。
愛子(仮)の言葉を聞いたゴーシュは、感心した。
あれだけしっかりと威圧をしておいたのに、それだけのことができる人物だったのか、と。
報復を受ける可能性を知りつつ、覚悟を決めたのかと「やるなぁ」と感嘆の声を漏らしたゴーシュだが、実際はそんなことはなかった。
三枝以外の教授達のゴリ押しに負けたのだ。
「ガイルさん」
申し訳なさそうに声をかけてくるのは、三枝教授だ。
「あー、少し走ってきてもいいですか、ストレスで胃が痛いので」
意外ですね、という表情になる教授と愛子(仮)に、苦い顔を返すゴーシュ。
二人には、ゴーシュが胃が悪いという話をしていない。
子供の頃に無理をしてアレになって以来、ゴーシュはなにかあるたびに胃が痛くなるようになった。
悪化したことで、過敏になった。
今では慢性化している。
先日の円形脱毛症も繰り返したらどうしよう、とこっそり恐れている。
集まった人々への説明を三枝教授に任せて、ゴーシュは控え室で服を脱ぐと、狼の姿で窓から外に出る。
ブルリと体を震わせて、一気に走り出した。
屋内に入ろうとしていた数人が、ゴーシュを見て何か叫んでいたが、無視した。
爪の下で、アスファルトが硬い音をたてる。
大学内の敷地は閑散としていた。
素晴らしい晴天も手伝い、縦横無尽に走り回る。
時間のことは考えない。
前と同じデッサンとかいうものを描くなら、どうせ数時間を考えているはずだ。
開いたままの窓から控え室に入って、人の姿にハーフパンツだけ履いて、持ってきた常温のボトルの水を煽る。
運動で熱を持ち汗をかいた肌に、ひやりとした空調の風が気持ちいい。
今なら無心でいられる、とゴーシュは腹をくくった。
それでも、人前では変化できない。
人狼の姿に変わってから控え室の扉を開くと、泣きそうな顔の愛子(仮)がそこにいた。
苦い匂い。
苦しんでいる匂いがした。
「ドウシタ」
「あ、ガイルさん、戻られたんですね」
「……ドウシタンダ、ドコカ痛イノカ?」
聞きながら頭を下げて、ふんふんと愛子(仮)の匂いを嗅ぐ。
頭、首筋、そしてうなじへ。
きれいな頭骨の形が分かる頭。
シャンプーの香る黒髪は、この国に来て知った、真っ直ぐな強い髪だ。
愛子(仮)軽く頭を動かすだけで、さらさらと踊る。
若者らしく伸びた、歪みのない首。
少し日焼けをしていて、シャツの襟元から鎖骨が見えて、どきりとする。
すらりとしたうなじにかかる、つややかな黒髪。
鼻先を突っ込んで匂いを嗅ぎたい。
うなじ……なんだろう。
口がむずむずする。
舐めたい。
嗅ぎたい。
鼻先に届くのは、運動を日常的にしているのか、若者らしい爽やかな体臭だ。
……ただ、それ以外に良い匂いがする。
なんだろう。
しがみついて腰を振りたくなる。
巣穴に閉じ込めたくなる?
そんなことを考えてしまう自分に、首を傾げたゴーシュは、愛子(仮)を見た。
どこかを痛めて泣いているわけではないらしいが、と目をすがめて再び鼻先を寄せる。
「いえ、あの、なんでもないです」
今度は赤くなる愛子(仮)。
そして好意の匂いが強くなる。
愛子(仮)の不思議な行動に、再び首を傾げながらゴーシュは扉に手をかけて。
バタン!、と大きな音が響いた。
力加減を誤って勢いよく扉を開いてしまったことで、それまでうるさかった室内が一瞬で静まり返った。
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