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しおりを挟むリサンデは俺の名前を呼ばない。
そこには、きちんと理由があった。
スターク・オグラス。
それがこれまで二十年間使ってきた、俺の名前だった。
〝スターク〟の名前は、俺が育てられたオグラス孤児院で与えられたもの。
つまり、俺の名前はそのまま〝オグラス孤児院出身のスターク〟だ。
リサンデによると、この名前は俺の本当の名前ではないらしい。
俺自身が知らない、俺の本当の名前がある、らしい。
「いつか、それを一緒に調べに行こうね、野花ちゃん」とリサンデは言った。
それを聞いた時に、目から鱗が落ちた。
出生証明のない俺は、生まれ育った街すら出られなかったのに、今では城下に巨大な屋敷まで与えられている。
お披露目はされてないし、階級章の発行がどんどん先延ばしになっているから、いまだに俺は存在していないのに。
そう、俺の人生に足りなかったのは、リサンデだ。
リサンデが乗せてくれたら、俺は空を飛べる。
空に国境はない。
俺はどこにもいない、だから、どこにでもいられる。
リサンデと一緒ならどこにでもいけるし、どこででも生きていける。
『この辺で良いの?』
「たぶんな」
鞍に座ったまま、炎毒竜の姿のリサンデに、前脚の鉤爪で草原を引っ掻いてもらう。
地竜でも行っていた縄張りの主張、匂い付けだ。
本物の竜の存在を大地に刻みこめるようになったのは、人々の安全のためには大きな変化だ。
魔獣も魔物も、きっと魔族でさえも、今のヒデランテ竜王国には近づかないだろう。
神を滅ぼせる(らしい)炎毒竜の縄張りに入ろうと思う物好きは、いないと思う。
竜のリサンデの胸元と前脚を通した手綱を引いて、今日の仕事は終わりかな、と周囲を見渡す。
まだ三ヶ月くらいだが、空を飛ぶのは怖くない。
慣れたわけではなく、リサンデのお陰だ。
初めて空を飛んだ時に、俺がころっと気絶したことに衝撃を受けたリサンデは、綿毛が舞うような優しさで俺を乗せて飛んでくれる。
そこまで大事にされて、気を遣ってくれる竜に、惚れ直さないわけがないだろう。
毒を鱗に滲ませて、青い火の玉を纏うリサンデの背中は、安心感がすごい。
『野花ちゃん、お腹すいたよ』
「ちょうど切りが良いから、飯にしようか」
『やった』
見上げた空は昼の光に満ちている。
腹が空腹を訴え始めていた。
『今日のご飯はなあに?』
「いつもと変わらないぞ」
立派な屋敷はもらったが、リサンデが俺以外の人を近くに寄せたがらないので、通いの掃除係しか雇えていない。
何十人も紹介されたのに、全員駄目。
最終的に家政組合から紹介された老夫婦とその娘夫妻だけが、リサンデのお眼鏡にかなった。
偉い人と関係なさそうだし、人の良さそうなご夫婦だからかなと思っていたら、違った。
老夫婦は祖父母世代、その娘夫婦も親世代だ。
同じ匂いをさせてる夫婦なら俺を奪おうとしない。
生殖能力の衰えている年齢ならもっと安心、と選んだ理由が直接的すぎた。
というわけで料理も洗濯も、自分でやっている。
長屋暮らしの時と同じだ。
『野花ちゃんの作ってくれるご飯、私は好きだからいいの」
「うわっ」
俺を背中に乗せている時に人の姿にならないでくれ、と何度も言ってるのに。
全裸男に背負われて、地面に着地する。
浅黒い肌にからみつく、巨大な鞍と手綱を回収しながら背中から降りた。
人の姿でも飛べると知ったが、全裸に革の鞍は駄目だ。
俺がムラムラする。
リサンデえろい。
「服を持ってない時に、人の姿になるなよ」
「野花ちゃん」
「ん?」
リサンデの声が珍しく甘くない。
「やめろぉっっっ!!」
突然のリサンデの絶叫に、どうした、と顔を上げると同時に、俺の足の下から地面が消えた。
◆
◆
目が覚めて、思った。
覚えていないが、とてもいい夢を見ていた気がする。
「あなた、おはよう」
「おはよう」
五年前に知り合ってすぐに連れ添ってくれた妻が、俺に声をかけて、頬に唇を寄せてくる。
なぜだか触れられたくなくて、顔を少し背けてしまった。
「早くしないと、出勤時間になっちゃうわよ」
「そうだな」
騎竜騎士を目指していた俺は、十五歳の時に竜に選ばれ、その数日後に落竜して腰を痛めてしまった。
金が無くて満足な治療が受けられず、走れなくなったので騎士をやめるしかなかった。
荒れて通い詰めた酒場で働いていた妻に慰められて、少しずつ現実を受け止めた。
今は、妻が働く酒場で用心棒兼任の給仕をしている。
ごきごきと肩を鳴らし、体をほぐす。
腰は痛めていても、俺には女給をしている妻を守るという大役がある。
大通りに面しているので新顔がふらっと入ってくる店は、いつ何時も気が抜けない。
妻は美人だからな。
どうして俺みたいな騎士崩れを夫に選んでくれたのか、今でも分からん。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
妻はいつでも優しい。
子宝にはまだ恵まれていないが、俺が人並みに稼げないので、収入に不安がある以上、夫婦二人でも良いかと思っている。
手作りの朝食、時間的には昼食を食べながら、目の前でにこにこと微笑む姿を見つめる。
色素の薄い淡茶の髪。
優しい焦茶の瞳。
いつも、いつでも優しい彼女。
「今日はね、店長が……」
「へえ」
妻の語る日常の話に耳を傾けながら、日々の幸せを噛みしめていた。
このまま、何事もなく妻と二人で老いて、爺さまになって死んでいく。
悪くない。
悪くないと思うのに、胸に穴が空いている気がするのは何故だろう。
「ごちそうさま、美味しかった」
「どういたしまして」
にこにこと笑う妻の顔が、見えない。
夢見がおかしかったからだろうと首を振り、妻の手から皿を受け取って、洗い上げる。
長時間立ち続けることはできないが、これくらいはできる。
つまり、給仕としての仕事量もお察しという所だ。
店の奥の席から、酔っ払いに睨みを効かせる時間の方が長い。
「お買い物に行ってくるわね」
「ええ?、出勤時間に間に合わなくなるぞ」
「なに言ってるの、今日は休みじゃないの」
あれ、そうだったか。
そうだったかもしれないな。
買い物籠を提げた妻を見送って、ぼんやりとする。
いつも、なにをして過ごしていたんだっけ。
家にいる間、なにもしてないわけがないよな。
思い出せない。
ここは俺の家なのに、知らない場所に迷い込んだように、どこになにがあるのか、分からない。
いつのまにか夕闇に沈んでいる部屋の中で、迷子になったような気持ちを抱えて、一人ぼっち。
こんな日々、だっただろうか。
毎日は、こんなに無味無臭で乾燥したものだっただろうか。
幸せだと思っていた。
なにが、幸せだったのだろう。
妻がいること?
妻に出会えたこと?
食っていけること?
生きていること?
……夢を、失ったのに。
幸せでいられるはずがない。
俺の夢。
騎竜騎士になること。
地竜に選ばれて誇らしかった。
竜を駆って走る喜び、風を切る爽快感。
空から見下ろした大地の広さ。
……空?
地竜は空を飛べないのに、どうして、俺は広い空と大地を知っているんだ。
思い出せ。
思い出せよ。
思い出せるだろう!
風に揺れる野の花。
大地を焦がす青い炎。
降り注ぐ穏やかな陽光。
全てを焼く毒の息吹。
俺の、一番大事なことは、………………生きてることじゃない。
どうして。
どうして忘れていた。
俺の愛する竜。
エン・グドゥムリ・オ・リサンデ・ギフティグ・ブロマ。
美しく浅ましい、炎毒を纏う竜を。
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