【R18】Fall into the sky

Cleyera

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 リサンデは俺の名前を呼ばない。
 そこには、きちんと理由があった。

 スターク・オグラス。
 それがこれまで二十年間使ってきた、俺の名前だった。

 〝スターク〟の名前は、俺が育てられたオグラス孤児院で与えられたもの。
 つまり、俺の名前はそのまま〝オグラス孤児院出身のスターク〟だ。

 リサンデによると、この名前は俺の本当の名前ではないらしい。

 俺自身が知らない、俺の本当の名前がある、らしい。
 「いつか、それを一緒に調べに行こうね、野花ちゃん」とリサンデは言った。

 それを聞いた時に、目から鱗が落ちた。

 出生証明のない俺は、生まれ育った街すら出られなかったのに、今では城下に巨大な屋敷まで与えられている。
 お披露目はされてないし、階級章の発行がどんどん先延ばしになっているから、いまだに俺は存在していないのに。

 そう、俺の人生に足りなかったのは、リサンデだ。

 リサンデが乗せてくれたら、俺は空を飛べる。
 空に国境はない。

 俺はどこにもいない、だから、どこにでもいられる。
 リサンデと一緒ならどこにでもいけるし、どこででも生きていける。


『この辺で良いの?』
「たぶんな」

 鞍に座ったまま、炎毒竜の姿のリサンデに、前脚の鉤爪で草原を引っ掻いてもらう。
 地竜でも行っていた縄張りの主張、匂い付けだ。

 本物の竜の存在を大地に刻みこめるようになったのは、人々の安全のためには大きな変化だ。

 魔獣も魔物も、きっと魔族でさえも、今のヒデランテ竜王国には近づかないだろう。
 神を滅ぼせる(らしい)炎毒竜の縄張りに入ろうと思う物好きは、いないと思う。

 竜のリサンデの胸元と前脚を通した手綱を引いて、今日の仕事は終わりかな、と周囲を見渡す。

 まだ三ヶ月くらいだが、空を飛ぶのは怖くない。
 慣れたわけではなく、リサンデのお陰だ。

 初めて空を飛んだ時に、俺がころっと気絶したことに衝撃を受けたリサンデは、綿毛が舞うような優しさで俺を乗せて飛んでくれる。

 そこまで大事にされて、気を遣ってくれる竜に、惚れ直さないわけがないだろう。
 毒を鱗に滲ませて、青い火の玉を纏うリサンデの背中は、安心感がすごい。

『野花ちゃん、お腹すいたよ』
「ちょうど切りが良いから、飯にしようか」
『やった』

 見上げた空は昼の光に満ちている。
 腹が空腹を訴え始めていた。

『今日のご飯はなあに?』
「いつもと変わらないぞ」

 立派な屋敷はもらったが、リサンデが俺以外の人を近くに寄せたがらないので、通いの掃除係しか雇えていない。

 何十人も紹介されたのに、全員駄目。
 最終的に家政組合から紹介された老夫婦とその娘夫妻だけが、リサンデのお眼鏡にかなった。

 偉い人と関係なさそうだし、人の良さそうなご夫婦だからかなと思っていたら、違った。

 老夫婦は祖父母世代、その娘夫婦も親世代だ。
 同じ匂いをさせてる両思いの夫婦なら俺を奪おうとしない。
 生殖能力の衰えている年齢ならもっと安心、と選んだ理由が直接的すぎた。

 というわけで料理も洗濯も、自分でやっている。
 長屋暮らしの時と同じだ。

『野花ちゃんの作ってくれるご飯、私は好きだからいいの」
「うわっ」

 俺を背中に乗せている時に人の姿にならないでくれ、と何度も言ってるのに。

 全裸男に背負われて、地面に着地する。
 浅黒い肌にからみつく、巨大な鞍と手綱を回収しながら背中から降りた。

 人の姿でも飛べると知ったが、全裸に革の鞍は駄目だ。
 俺がムラムラする。
 リサンデえろい。

「服を持ってない時に、人の姿になるなよ」
「野花ちゃん」
「ん?」

 リサンデの声が珍しく甘くない。

「やめろぉっっっ!!」

 突然のリサンデの絶叫に、どうした、と顔を上げると同時に、俺の足の下から地面が消えた。



   ◆



   ◆



 目が覚めて、思った。
 覚えていないが、とてもいい夢を見ていた気がする。

「あなた、おはよう」
「おはよう」

 五年前に知り合ってすぐに連れ添ってくれた妻が、俺に声をかけて、頬に唇を寄せてくる。
 なぜだか触れられたくなくて、顔を少し背けてしまった。

「早くしないと、出勤時間になっちゃうわよ」
「そうだな」

 騎竜騎士を目指していた俺は、十五歳の時に竜に選ばれ、その数日後に落竜して腰を痛めてしまった。

 金が無くて満足な治療が受けられず、走れなくなったので騎士をやめるしかなかった。
 荒れて通い詰めた酒場で働いていた妻に慰められて、少しずつ現実を受け止めた。

 今は、妻が働く酒場で用心棒兼任の給仕をしている。

 ごきごきと肩を鳴らし、体をほぐす。
 腰は痛めていても、俺には女給をしている妻を守るという大役がある。

 大通りに面しているので新顔がふらっと入ってくる店は、いつ何時も気が抜けない。

 妻は美人だからな。
 どうして俺みたいな騎士崩れを夫に選んでくれたのか、今でも分からん。

「はい、どうぞ」
「ありがとう」

 妻はいつでも優しい。
 子宝にはまだ恵まれていないが、俺が人並みに稼げないので、収入に不安がある以上、夫婦二人でも良いかと思っている。

 手作りの朝食、時間的には昼食を食べながら、目の前でにこにこと微笑む姿を見つめる。

 色素の薄い淡茶の髪。
 優しい焦茶の瞳。
 いつも、いつでも優しい彼女。

「今日はね、店長が……」
「へえ」

 妻の語る日常の話に耳を傾けながら、日々の幸せを噛みしめていた。

 このまま、何事もなく妻と二人で老いて、爺さまになって死んでいく。
 悪くない。

 悪くないと思うのに、胸に穴が空いている気がするのは何故だろう。

「ごちそうさま、美味しかった」
「どういたしまして」

 にこにこと笑う妻の顔が、見えない。
 夢見がおかしかったからだろうと首を振り、妻の手から皿を受け取って、洗い上げる。

 長時間立ち続けることはできないが、これくらいはできる。
 つまり、給仕としての仕事量もお察しという所だ。

 店の奥の席から、酔っ払いに睨みを効かせる時間の方が長い。

「お買い物に行ってくるわね」
「ええ?、出勤時間に間に合わなくなるぞ」
「なに言ってるの、今日は休みじゃないの」

 あれ、そうだったか。
 そうだったかもしれないな。

 買い物籠を提げた妻を見送って、ぼんやりとする。

 いつも、なにをして過ごしていたんだっけ。
 家にいる間、なにもしてないわけがないよな。

 思い出せない。
 ここは俺の家なのに、知らない場所に迷い込んだように、どこになにがあるのか、分からない。

 いつのまにか夕闇に沈んでいる部屋の中で、迷子になったような気持ちを抱えて、一人ぼっち。

 こんな日々、だっただろうか。
 毎日は、こんなに無味無臭で乾燥したものだっただろうか。

 幸せだと思っていた。
 なにが、幸せだったのだろう。

 妻がいること?
 妻に出会えたこと?

 食っていけること?
 生きていること?

 ……夢を、失ったのに。
 幸せでいられるはずがない。

 俺の夢。
 騎竜騎士になること。
 地竜に選ばれて誇らしかった。
 竜を駆って走る喜び、風を切る爽快感。

 空から見下ろした大地の広さ。

 ……空?
 地竜は空を飛べないのに、どうして、俺は広い空と大地を知っているんだ。

 思い出せ。
 思い出せよ。
 思い出せるだろう!

 風に揺れる野の花。
 大地を焦がす青い炎。
 降り注ぐ穏やかな陽光。
 全てを焼く毒の息吹。


 俺の、一番大事なことは、………………生きてることじゃない。


 どうして。
 どうして忘れていた。

 俺の愛する竜。
 エン・グドゥムリ・オ・リサンデ・ギフティグ・ブロマ。

 美しく浅ましい、炎毒を纏う竜を。

 
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