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三、歩み寄りたくても
31 志野木
しおりを挟む気がつかないうちに、眠っていたようだ。
風呂を出て体を拭かれてから、東鬼の服を着せられたところまでは覚えている。
目が覚めて初めて考えたことは、体力も筋力も戻っていないのに、東鬼とのセックスに励んだのはやりすぎだったかな、ということだ。
「……よ、っと、いてて」
腕を使って、痛む腰を捻って、なんとか寝返りを打つ。
体幹の筋力が戻っていないから、自力でマットレスの上に起き上がるのは難しい。
腹筋で体を起こすって、意外と高度な運動だったんだな、と痛感している。
腹筋すらできない今、誰の助けも借りずに自分だけで座ろうと思ったら、赤ん坊がやるようにうつ伏せまで持っていって、そこから腕を使って上半身を起こすしかない。
右を下にして体を横倒しにした状態で、周囲を見回しても東鬼の姿が見当たらない、今がチャンスだ。
リハビリをしなくては。
東鬼は俺のリハビリの邪魔をしてくるから困っている。
見ているとムラムラするとか言い出す始末だ。
確かに東鬼の言う通り、全身汗だくになってひぃひぃ言っているけれど、どこに発情する要素があるんだよ。
全身を舐めさせてくれと本気で言う東鬼に、本気で拒否を返したのは、寝返りができた初日のことだ。
汗まみれの体を舐めて、何が楽しいんだ。
腕を全力で突っ張って、上半身を起こす。
腰をひねって座ろうとしたその時、ずきりと走った痛みで、マットレスに倒れ込んでしまった。
「!!っうぅ……いっ……たぁっ」
やっぱり駄目だったか、と虚しくなりながら、うつ伏せのまま近くに転がっている枕を引き寄せた。
この好機に歩く練習を始めようと思ったけれど、腰と尻周辺が、おかしくなってしまっている。
尻の穴が裂けているのかもしれない。
東鬼は興奮していた割に、十分に優しくしてくれたと思うけれど、俺が虚弱だからだろう。
早く元気になって、元の生活に戻りたいと思っても、動けない。
テレビもスマホもない部屋では何もすることがない。
……そういえば、俺の仕事用カバンを東鬼の上司さん?が預かってくれているって話を聞いたけれど、いつになったら返してもらえるのか。
立てるようになってから、自分で受け取りに行くしかないのか。
腕を使ってごろりと転がり、体の右側を下にする。
それだけで腰が痛む。
「っいってぇ……」
窓がマットのようなもので塞がれている薄暗い部屋の中で、ちん、ちん、と灯油ストーブの上の薬缶が音をたてるのを聞きながら、久しぶりに空虚さを覚えていた。
なんでこの部屋、窓が塞いであるんだ?
引き寄せた枕を頭の下に押し込むだけでも、両手が必要なのが辛い。
体幹周りの筋肉って、意外と必要なんだな。
これから先、どれだけ東鬼と一緒にいられるだろう。
女々しいなと悲しくなりながら、毛布をかぶって目を閉じる。
あまりにも暇すぎて、もう一度寝ようと思ったけれど、なかなか眠気が訪れない。
そんな時、扉を叩くような音がした。
「タクー起きてっか?」
「起きてるよ」
重たい音を立てながら、巨大な扉が開く。
搬入口並みの大きな引き戸だと思っていたけれど、鬼の時の東鬼の大きさにあわせてあるのかもしれない。
「おやっさんとこ行ってタクの荷物もらってきたんだ、中身を確認してくれよ」
マットレスの上の俺の手が届く範囲に、母が就職祝いで買ってくれた本革のドクターズバッグ型のビジネスバッグが置かれる。
正直なことを言うと重たくて使い辛いのだけれど、母が奮発してくれたことを知っているので、軽いナイロン製のものに変えづらい。
鞄と一緒に、あの日に来ていたスーツ一式も。
握力が弱くなっているので、苦労して口金を外して、中身を一つずつ確認していく。
仕事を持ち帰る職場でなかったことに感謝して、私物が揃っているのを確認した。
充電器は家か、電源の切れているスマホの充電ができないな。
「全部揃っているよ、預かってくれた礼を言ってくれたか?」
「なんで誘拐犯に情報流してたおやっさんに礼を言うんだよ、文句は言ってきたぞ」
「……」
そのおやっさんって人が、俺に何かしてきた訳ではないんだよな、と思うけれど、見ず知らずの人なので庇うのも違う気がする。
俺の主義主張を東鬼に押し付けても仕方ないか。
「それで、な」
「なんだ?」
「タクに触りてぇ」
「……俺の記憶がおかしいのかな、寝る前にしたよな?
それとも俺は一日以上寝ていたのか?」
「いいや昨夜のことだぞ、おれが今朝起きてすぐストーブ用意して、そのまま行ってきて一時間半くれえかな。
あー、ちゃんと火事にならないように見ててもらってたからな」
誰にだよ、じゃなくて。
「今、何時だ?」
「朝の九時過ぎくれぇかな」
「お前、こんな朝早くに人の家を訪ねるなよ!あと、いい加減に仕事に行け!!」
「まだタクが元気になってねえのに行けるか!」
「俺のことなんか放っておいて良いんだよ、お前がクビになったらどうする!」
「後でタクを見せびらかす約束で、仕事の肩代わり頼んできた!」
「お前アホだろ!!」
「そうだって知ってんだろ!」
ものすごくくだらない言い争いをしながら、俺は何十回目かになる〝なんで俺はこいつが好きなのか〟問題を、本気で真剣に考えた方が良いような気がしていた。
こいつと口喧嘩するのは嫌いじゃないな、とか思っている自分が嫌だ。
口喧嘩を続けようにも、俺が続かなかった。
怒鳴っただけで疲れてしまい、マットレスの上で脱力すると、なぜか服を脱いで全裸になった東鬼がのしかかってくる。
「しないぞ」
「入れねえから」
「俺に触るなって言っているんだ」
「なんでだよ、突っ込まなけりゃ辛くねえだろ?」
「……」
「なあ、なんでだよ?」
「……」
「タク?もしかして、おれとセックスすんのが嫌なのか?」
「嫌じゃないから、困るんだよ」
「おう、だから?」
聞くまで退かねえぞ、と俺の横に転がりながら、太い腕で抱き込まれてしまうと、毛布をかぶっているのに東鬼の体温を感じてしまう。
俺に鬼であることを知られてからのこいつは、色々とあけっぴろげになりすぎだ。
「前に言っただろ、ダッチワイフやオナホ扱いはされたくない」
「それは聞いた、手だけ貸せって言ってるわけじゃねえよ?」
「あのな、好きな奴が目の前で興奮した色っぽい顔をしてるのを見て、冷静でいられるわけがないだろ。
お前に触れられると、したくなるから嫌だ」
「あー、あー、えーと」
「顔が緩みすぎだ、アホ!」
だから、言いたくなかったんだよ。
俺は性欲は強くないつもりだったのに、入れられる方なら、そうでもないのか?
東鬼の体力に、俺の体がついていけるとは思えないけれど。
「とにかく、しないからな」
釘を刺すように告げると、顔がだらしなく緩んでいた東鬼が、途端にしょんぼりとした表情になった。
感情の動きが分かりやすいから、裏を考える必要がなくて楽だけれど、子供でももう少し取り繕うだろう。
裏表のなさが東鬼の良いところだと思っていたけれど、鬼特有の性格だったりするのか。
「匂いだけでも嗅がせてくれ」
「嫌だ」
「くっついて寝るだけ」
「もうしてる」
「くっそおかしくねえ!?やっとおひいさまにしたのに、タクの攻略難易度が上がってるってなんでだよ!!」
「……東鬼」
「タッくんだ……あ、あれ、タク?」
「俺を〝おひいさまにした〟ってどういう意味だ?」
俺の言葉に、表情がすぐに変わる東鬼の顔が固まる。
凍りつくってのは、こういう反応のことを言うんだろうな。
「ど う い う い み だ?」
答えやすいように笑顔を浮かべてやったら、赤鬼のはずの東鬼が青ざめた。
別に威圧とかしてないのに、なんで怯えたような顔をするんだよ。
滅多にしようと思わないけれど、俺にだって作り笑いくらいできるんだよ。
ほら、怒ってないぞ。
イライラはしてるけどな。
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