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一、片思いから
03 志野木
しおりを挟むあの日、俺たち二人が相思相愛だったと知った日から、二週間が過ぎた。
双方共に忙しくなった仕事のせいで、俺たちはまったく会えずにいた。
生まれつき体が丈夫でない俺は、疲労がたまると体調を崩しやすくなる。
休みの日に寝て過ごすことで、なんとか忙しい中で寝込まずに体調を誤魔化し続けて仕事をしていた。
車の足回り交換も、仮の見積もりを出してもらったまま、具体的な返事ができずに先延ばしになっている。
給料内で支払いきれる返済計画をたて、サスペンションのローンは車を買った時からお世話になっている信金に頼むことに決めた。
後は俺が動けば進む段階なのに、全く動けない。
俺の……を拡張するって約束も、約束のまま、先延ばしになっている。
そもそも、仕事が忙しくなった、とメールが送られてきてから連絡がない。
東鬼のパソコンらしいアドレスしか知らないことに、連絡しようとして初めて気がつくあたり、俺はよほど浮かれていたんだろう。
これまでの連絡は、いつも東鬼からだったから。
もしかしてあの夜のことは、俺にとって都合のいい夢だったんじゃないだろうか、と近頃では思っている。
夢だから、東鬼があんなに優しかったのだ。
お互いのものをこすりあって、俺の尻に東鬼が指を、た、たぶん何本か突っ込むところまではやったけど、俺は緊張し過ぎていて何を言ったのかすら覚えてない。
少しだけ後悔している。
夢だったなら、怖くても初めてを済ませてしまえばよかった、と。
東鬼に会えなくなってから、昼休憩時間に男同士の行為について調べた。
家に帰ってから一人で調べるのは、気分が落ち込みそうで無理だった。
切れる、裂ける、脱肛、炎症の慢性化、感染症、大腸菌、中毒症状、専門病院、挫傷、人工肛門などの物騒な単語が山ほど出てきた。
本当なら突っ込む場所じゃないから、気持ちいい!だけじゃ済まないよな、と思い、先を考えることが怖くなる。
尻の穴は、どこまでいっても尻の穴でしかないんだろう。
男同士だってだけで、こんなに何もかもが難しいのかと、先を考えたくなくなった。
◆
「おはようございます志野木さん」
「おはようございます田中さん、何かありましたか?」
「ええ、実は警備の責任者が変わることになったそうで、同席をお願いできませんか?」
職場が入っているビルの、管理会社の担当者である田中さんは、些細な問題も信用につながるから、と日頃からこまめに動いてくれる良い人だ。
仕事だと割り切って、最低限しか動いてくれない人もいるというから、この人が担当でよかった、と常日頃から感謝している。
「所長の田貫はまだ出社前です、一時間後では無理でしょうか?」
「顔合わせがありますので、できれば、今からの申し送りだけでもお願いできませんか」
管理会社とはいえ、警備に関しては警備会社と提携しているため、自由に警備員を動かせないのだろう、とすぐに分かった。
「わかりました、自分でよろしければ今すぐ伺います」
「助かります、よろしくお願いします」
田中さんと共にビル管理室に向かうと、大きな紺色の背中があった。
くるりと振り返り……な、なんで?
「よ、よろしくお願いします、この度エクサ第二ビルの警備主任を受け持つことになりました、五鬼助警備保障の東鬼と申します」
「よろしくおねがいします、三階のコナカ行政書士事務所で事務を受け持っております、志野木と申します」
お互いに一度だけ視線を絡めたあと、仕事用の顔に戻る。
気がつかないフリなら得意だ、高校生の頃はずっと東鬼に気がつかれないようにしてきた。
あれ、待ってくれ、前に東鬼がなんか言ってたような?
車を見る目がとかなんとか?
ちらりと様子を伺った東鬼と、再び視線が絡んでしまって慌てるが、表に出さないようにと振る舞う。
忙しいとは聞いていたけれど、勤務先の異動をこんな中途半端な時期にするなんて、何かあったんだろうか。
というか、俺の職場のあるビルに異動とか、聞いてないぞ。
それからは、ビル内の他の事務所や出張所などにも紹介をする、と田中さんが言うので、早々に辞退することになった。
何も聞かされてないってどういうことだよ、と思いながら事務所に戻ると、先輩事務員の首長さんが出勤していて、事務所内の掃除を始めていた。
「おはようございます、遅くなってすいません」
「いいのよ、入り口で聞いてるから、それで、新しい主任さんはイケメンだった?」
首長さんは五十前後の女性だが、イケメン探しに余念がない。
若い男性アイドルにも詳しいらしいが、一番のおすすめは同年代の渋イケメンだという。
同年代でメタボで薄毛で空気の旦那では、目の保養にならないそうだが、これが熟年夫婦の倦怠期ってやつなんだろうか。
「顔が良いかどうかは分かりませんが、体格の良い警備員さんでした」
「あらいいわね、がっちり系で顔がトヲルちゃんだったら最高よね」
「すいません、ドラマを見ないので、僕にはよく分かりません」
首長さんオススメのトヲルちゃんって、誰なんだ。
俳優なのかアイドルなのか、タレントなのかも不明だ。
そんなイケメン大好き首長さんのすごいところは、高速で口を動かしているのに、手も止まらないところだ。
毎日見ているのに、俺には未だに真似できない。
「もったいないわね、シノくんだって顔がいいんだから、もっとがっつきなさい。
細すぎると思うけどニコニコしてたらモテるわよぉ」
「そう言われても、楽しくないのに笑う習慣がありません」
「あらあら、そういうところがもったいないのよねぇ」
まるで高校生の時に自分が同性愛者だと自覚した直後、母に何もかもを見透かされたように「好きな子でもできたの?」と言われた時の気持ちを思い出す。
親に好きな人のことを言えない後ろめたさを。
その時は同性を好きになった、なってしまったことをまだ受け入れられなくて、母に「変なこと言うなよ」と当たり散らしてしまった。
「もったいない、ですか?」
「ええ、でも無理しちゃダメよ、恋愛は無理してするもんじゃないのよ」
人生の先輩からの忠告よ!と、手早く集めたゴミを捨て、ほうきを片付けながら言われ、俺も給湯室のシンクを磨くくらいはしようか、と手にしていた書類をファイルに挟んだ。
その日の夕方、詰めていた仕事に目処が立ち、書士の先輩方がお茶を美味しそうにすすっている中、事務所の扉がノックされた。
曇りガラスの向こうには大きな紺色。
インターホンがあるのに、と誰もが思ったはずだが、ファイルを棚に片付けるために離席していた俺が、扉の近くにいたので向かった。
「はい、どちら様でしょうか」
インターホンで会話をするときのように声をかけながら、扉を開いたそこには、紺色の制服の襟元があった。
「就業時間中に失礼いたします、本日よりエクサ第二ビルの警備主任を受け持つことになりました、五鬼助警備保障の東鬼と申します。
すでに申し送りはさせていただいておりますが、挨拶をさせて頂きに参りました」
普通はそこまでしないよ、と先輩たちが思ったのがこちらにも伝わってきたけれど、まあ、警備員と働いている人間の双方が顔を知っておいて損はないだろう、とも思ったらしい。
「まあご丁寧に、よろしければどうぞー」
仕事の早い首長さんが、いつのまにか用意したお茶を持ってくる。
早すぎる。
「志野木くん」
「はい」
「はい」
あ、と思った時には遅かった。
「えーっと?」
俺を呼んだ書士の先輩が、俺と東鬼を見比べて、怪訝な顔をしている。
「佐藤さん、こちらの方は東鬼さんとおっしゃるそうです」
「ああ二人ともシノギなんだ、そりゃ間違えるか、すいませんね」
「こちらこそすいません、もう名前を覚えていただけたのかと思ってしまいました」
なんでここで高校生時代の繰り返しみたいな真似をさせられているんだ、と混乱しながら東鬼を盗み見ると、受け取った湯飲みを傾けている東鬼の目は、間違いなく俺を見ていた。
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