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本編 〝弘〟視点

06/21 強迫観念に近いこだわり

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 の背中を見送って、気がついた。

「あ、鞄が」
「鞄ですか?」
「あの、わたしのではなく、学校のっ」
「俺が渡しておきますよ、ね?」
「は、はい」

 さっきの晋矢シンヤさんは恐ろしかった。
 が怒り狂うところをずっと怖いと思っていたけれど、上には上がいた。
 晋矢さんを怒らせたら殴られるだけでは済まない、きっと殺される。
 そう思って震えるわたしに向かって、晋矢さんが困ったように眉を下げて体をかがめた。

「まずは、部屋の片付けを手伝わせてください」
「片付け?」
「あいつの部屋が汚いのはいつものことです、一日でこれでもか!って汚す奴でしょう?」
「……そう、ですね」

 には悪いと思ったけれど、否定ができなかった。
 その通りだと思ってしまったから。

 が泊まりで来るようになってから、わたしの部屋は汚くなった。
 私物の持ち込みは断り続けていたけれど、ゴミは増える。
 掃除や整理整頓が下手で、家具やものを持たないようにして、散らかることがないように気をつけていたのに、今では汚部屋だ。

 ただでさえ苦手なのに、仕事でもないのに、他人が散らかした片付けまでしたくない。
 そう思ってしまう、ダメなわたしがいけないのに。

「お邪魔します」

 開け放たれた玄関に入る前にかけられた言葉を聞いて、なぜか涙が出そうになった。
 好意的に接してくれる理由はなんだろう、わたしをどうしたいのか。






 元から物が多いわけではなく、が持ちこんでいたものも、スナック菓子やペットボトルのジュース以外に無かったので、片付け自体はすぐに終わった。

 室内に残っていた焦げたような悪臭が気持ち悪くて、枕カバー、掛け布団のカバーとシーツも変えた。

 途中で、惨状に気がついた。
 使いかけのローションのボトルや、がわたしに使ってくる道具が、そのまま放置されていた。
 それを晋矢さんに見られた事が恥ずかしくて、死にたくなった。

 触れたくなくて困っていたら「これは、必要ですか?」と晋矢さんが聞いてきたので、勢いで首を横に振ったらゴミ袋に入れられた。
 ご丁寧に、中が見えないように二重にして。

 怒らせてしまったのだろうか。
 手つきが荒いわけでもなく、怒っている人特有の、近寄るなと無言で発する怒気もないのに、晋矢さんが怒っているような気がしてならない。



 片付けの後は、そのまま掃除になった。
 フローリングワイパーを「やりますよ」と取り上げられて、窓を拭いた後にやることが思いつかなかった。
 ふと壁掛け時計を見れば、十二時をかなり過ぎていることに気がついた。

「お、お茶を、いかがですか?」
「ありがとうございます」
「はいっ」

 慌ただしく電気ポットでお湯を沸かしながらも、フローリングワイパーをかけてくれている、晋矢さんの存在が気になって仕方ない。
 排気の臭いで頭痛がするので、うちには掃除機がない。
 ロボットタイプなら、臭くないのだろうか。

 スナック菓子のカケラを踏んで飛び上がってしまい、部屋が狭くてもロボット掃除機を買っておくんだった、と後悔している。
 わたしの個人的な空間に晋矢さんがいると思うと、どうしても緊張してしまう。

 挙動不審に周囲を伺って、晋矢さん相手にどもってしまう姿を見て、呆れているのではないだろうか。

 うちは四畳のキッチンと八畳の和室の1DKで、晋矢さんのワンルームよりも少し広い。
 築年数が古い上に、長く住んでいるので、真新しさはない。
 住み慣れた部屋なのに、なぜわたしは緊張しているのか。

 晋矢さんの家にいる時は居心地の悪さを感じなかったのに、もてなさなくてはいけないと謎の強迫観念に襲われる。
 洗ったばかりの耐熱ガラスの急須の底を、布巾で何度も拭いた。

 わたしはお茶が好きだ。
 味覚が鋭いわけではないので、お気に入りの産地やこだわりはない。
 どちらかといえば香りを楽しむためのものとして。

 休日にお茶を飲みながら画集を見ることは、簡単に精神が揺れてしまうわたしにとって、有意義な時間の使い方だ。
 コーヒーは食事も美味しい喫茶店で(客が少ない時間帯に)飲むことにしている。

 数少ない贅沢だからと、緑茶は百グラム千円程度を基準にして、渋みが少ないものが好きなので、調べて試しながら色々なものを楽しんでいる。
 緊張はするけれど、店員に好みを伝えて選んでもらうこともある。
 知識もないのに当てずっぽうで博打を打つ気はない。

 初めは高いと思ったけれど、百グラム三百円程度のスーパーのお茶と風味が全く違うし、計算してみればペットボトルのお茶を買うよりも安い。
 他にも紅茶、プーアル茶、ルイボスティーのティーバッグを常備しているけれど、選べるのは緑茶しかない。
 一人暮らしでは使いきれず、質と味が落ちるだけだ。

 お気に入りの常滑トコナメ焼と耐熱ガラスの急須を並べてみる。

 ガラスの急須で、つい衝動買いしてしまった、ジャスミンか千日紅センニチコウの工芸茶はどうだろうか。
 店先のガラス筒の中で綺麗に咲く花が本当に素敵だった……女々しいと思われたくない。
 やはり無難に緑茶が良いか。

 最近お気に入りの甘めの茎茶で、いいや、お茶請けを用意するなら、川根カワネの煎茶を開けても良いか。
 おやつ時にオススメですと(勇気を出して話しかけた)店員さんが言っていた。

 お茶請けになりそうなもの……冷蔵庫の中にある白菜の浅漬けと、お気に入りのバタークッキーくらいしかない。
 昼を過ぎているから、晋矢さんはきっと空腹だろう。
 わたし自身は緊張で分からないけれど。

 晋矢さんを家に残して、生菓子を買いに行くことはできないから、どら焼きもどきでも作ろうか?
 お昼ご飯には足りなくても、小腹くらいなら満たせるだろう。
 ホットケーキミックスとお気に入りの喫茶店特製のあんこで、見た目だけはそれなりにできるはず。

 ミックスを用意して混ぜて寝かせている間に、フライパンを温めて濡れ布巾を用意して……。
 ぽたあんとフライパンの上にまあるく広がる生地が、大好きな絵本を思いださせる。

 そういえば、晋矢さんに海外美術館作品画集と、絵本のコレクションを見られたかもしれない。
 には「なんだこれ、ダセェ」って散々に言われた。
 ……わたしから話さなければ、触れずに見逃してくれるだろうか。

 祖母がよく作ってくれた、小麦粉と塩と水だけのおやきを思い出す。
 よく手伝いで生地を作らせてもらった。
 フライパンに薄く垂らして、焼けたら真ん中に真っ黒でずっしりと重たくて水気のない、祖母お手製のあんこを二枚で挟んで、熱い、でも美味しい!って言いながら食べたっけ。

 あ、お湯が沸いた、一煎目の温度まで冷まさないと。

ヒロシさん、机を拭くものはありますか?」
「っっ!は、はい、あの、除菌シートが、そこの棚にっ」

 あんこを挟もうとして、容器の蓋をあけて気がついた。
 喫茶店のあんこは、トースト用で水気が多いことを忘れていた。
 時間が経つと、べちゃべちゃになりそうだ。

 冷ましているどら焼きの生地に、水気の多いあんこを挟むのをためらってから、別の器によそってスプーンを添えることにした。

 前にに容器ごと浅漬けを出したら「手抜きかよ」って怒鳴られた。
 お皿に出しておけば大丈夫だよな。

 小鉢にゆるめのあんこを盛り付けてから気がついた。
 そもそも晋矢さんに甘いものが平気か、を聞いてなかった、と。
 甘いものが苦手なら、おかずのようなものが必要だろう。
 あんこはわたしが食べれば良い。

 焦って冷蔵庫を覗けば、小袋のウインナーと小分けの薄切りハムが残っていた。
 賞味期限は大丈夫。
 お湯で温めたウインナーに半分に切ったハムと、ゆるめのスクランブルエッグと、レタスはないけれど、チルドのポテトサラダもあったので皿に移して添えよう。
 そうだ、浅漬けと……つぼ漬けも出しておくべきか。

 うちにある中で一番大きな平皿に、たくさん焼いたどら焼きもどき(何も挟んでいないので、どら焼きに見えない)とあんこの小皿を並べる。
 急げ急げと心の中で言いながら用意して、それよりも小さい平皿に甘くないおかずを乗せて。

 そこでわたしは愕然とする。

 さっき、わたしはお茶をいかがですか?と聞いたのに、これはどう見ても食事のような気がする。
 お茶受けにしては多すぎるだろう。
 もしも晋矢さんのお腹が空いてなかったら?
 今更、なんて聞けば良いのか。

 皿を持って動けなくなっているわたしに、晋矢さんが近づいてくる。
 怒るだろうか。
 余計なことをするな、と。
 余計なことばかりする、と。

 もしかして、ご飯が良かったかもしれない。
 食パンが好みかもしれない。
 お茶だけで良かった?
 どうしてわたしはどら焼きもどきなんて作ってしまったんだろう。

「ありがとうございます、美味しそうですね」
「……い、いいえ」

 男の手作りどら焼きもどきが嬉しいわけなどないのに、穏やかな晋矢さんの言葉で胸がざわめく。
 この胸のドキドキはなんだろう、緊張だろうか。

 だらしなく緩みそうな唇をかみしめて、二人用の大きさのダイニングテーブルの真ん中に二つの皿を置く。
 バターはないのでマーガリンで代用。
 こればかりは容器のままで大丈夫だよな。
 ケチャップとマヨネーズも必要か。
 取り皿と割り箸、お茶だけでなく水もいるかもしれない。

 シンク横のスペースで、赤茶色の常滑焼の急須を温める用意をしながら、スティック温度計で湯温を確かめる。
 ポットにも温度表示はあるけれど、五度の幅は大きすぎる。
 自分一人でお茶を飲む時は感じたことのない、焦りに背中を押されて急いで準備する途中で、手が滑った。

「あつっ!」
「弘さん!」

 湯のみを温めていた熱めのお湯を、急須に入れようとして、手が滑って左手にかかってしまった。
 大変だ、お湯が冷める前にお茶の葉を入れないと。

「手を冷やさないと!」
「あの、でも、お茶」

 いや、でも、お茶が、お湯がっ。
 せっかく用意したのに。

「弘さん、お茶の入れ方を俺にも教えてくれませんか?
 手を冷やした後で」
「……ええと、あの、はい」

 いつのまにか近くに来ていた晋矢さんに手首を掴まれ、シンクのカランからの流水に手を突っ込まれる。

 一煎目なので、お湯の温度はそこまで熱くない、放っておいても水ぶくれになるくらいだろう。
 大丈夫ですと告げたかったけれど、言えなかった。

 じんじんと痺れるような痛みが、冷えて痛い痺れに変わっていく。
 わたしの手首を掴んでいる力強くて大きな手が熱い、背中に触れている晋矢さんの胸を、服越しなのにひどく熱く感じてしまう。

 まるで背後からすっぽりと覆われて、守られているような錯覚が怖い。

 手は冷たいのに、全身が熱い。
 それなのに、触れているのに、近くに晋矢さんがいるのに、なぜか緊張していない。
 さっきまでは、あんなに居心地が悪かったのに。
 ふわふわと鼻先をくすぐる良い香りは、どら焼きもどきのものではなかった。

 
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