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本編 〝弘〟視点
03/21 わたしは毒になりたくない
しおりを挟む普通になりたかった。
母親に支配されて育ち、金で婿に買われた父親は仕事に逃げ、兄弟姉妹は延々と罵り合うだけ。
産後すぐの検査で所持が判明した能力は、幼稚園に入る頃には撹乱装置による抑制措置を受けていたと、祖母に聞かされた。
中学入学時の能力測定で、最上の五等級の素質を認められた時は、とても嬉しかった。
一生涯の仕事を見つけたと思い、訓練だって自分から進んで受けにいった。
両親の助けなど期待できないから、雨の日も風の日も自転車で片道一時間をかけて訓練所に通った。
けれど、わたしの能力測定の結果は安定しなかった。
毎回、毎回、毎回、安定した平均値が出ない。
同じテスト内容なのに正誤が混ざる。
能力が安定しなければ、資格を取得して職業として能力を使うことはできない。
努力したつもりだった。
できることは全部やった。
高校卒業までに能力を安定させられなかったわたしは、撹乱端末で能力を最低の一等級まで制限して生活しなくてはいけなくなった。
わたしの能力はESPで、直接五感につながる能力であったこともあり、高校卒業時までの制限は二等だった。
高校卒業後に渡された、新しい撹乱端末。
これまでに見かけた有資格者向けのものと明らかに違う、ただ、能力を抑え込むことだけが目的の端末は、ずしりと重たい気がした。
装着して、調整と起動、動作確認を受けた後で、これまでとは違う、濁って鈍い匂いがわたしを包んでいることを知る。
悪臭も心地よく感じる芳香も、何もかもが嗅ぎ分けられずに、ひどく遠い。
なんの匂いなのか、分からない。
対面している相手の感情が分からない。
手足をもがれたように感じて、この生活が死ぬまで続くのだと悟り、三日三晩寝込んだ。
今のわたしが生きているのは、優しい人々のおかげだ。
母親に進学を反対されたわたしは、能力制御で苦しんでいる時に助力してくれた教師の助けで仕事を得た。
教師が間に入ってくれたことで、それなりの会社に就職できた。
しかしその後にあったのは、働いて寝るだけの生活だった。
家と職場を往復するだけの日々。
家に金を入れろ、恩知らず、となじられる日々。
家賃光熱費だけでなく、生まれてからの養育費を払えと言ってくる母。
それだけでなく、大学中退して無職で引きこもりの兄、フリーターの弟、花嫁修業中だと働いていない姉妹まで、口を揃えて金を無心する。
断れば、全員に罵倒されて、何のために働いているんだと詰め寄られる。
わたしが働いているのは……なんのためだ。
もう、何も分からない。
内心を口に出すことができないまま、日々が過ぎていく。
潜在的な高等級能力者として、定期検査を受けながら何年もが過ぎる内に、自分の能力の不安定さが生来の障害由来だと知った。
薬でこの生きにくさを緩和できる。
それを知ったわたしは、能力者として資格を得て働けるかもしれない、その淡い期待を胸に、服薬治療を始め、そして能力訓練の前段階検査を受けて、今度こそ絶望した。
脳の働きを強制的に抑える薬物を取り込む以上、能力等級変動の可能性は聞いていた。
そして、服薬時にわたしの能力の発現等級は、三等級まで低下してしまっていた。
能力者が専門職に就くのに、必要な能力等級は四以上。
三等級では限定資格は取得できても、正社員の職を見つけることは難しいと聞く。
正社員や正職員の求人募集が四等級以上なのは、能力者自身を守るためだ。
能力の出力や、安定性に問題がある三等級能力者では、無理をして体を壊しやすいと教えられた。
生まれつき能力を持たない者が、能力に目覚めることはないとされている。
けれど、能力を持っている者は、成長過程で発現等級が変わることが多い。
能力の等級変化が著しいのは、高校卒業程度の十八歳前後まで、上限は二十五歳程度とされていて、それ以上の年齢で能力の発現等級が変わることは、ほぼないという。
この時のわたしは、年齢としても資格取得上限ギリギリの二十五歳。
薬との相性が悪かっただけだ。
そう思って、あがいた。
諦められずにいくつか薬を変えてもらったけれど、資格を取得して働ける可能性が、消えただけだった。
何も持たないわたしにとって、唯一の望みだったのに。
さらに、薬を使い続けるうちに、嗅覚に異常が出始めた。
幻臭がして、いつも周囲で何かが腐っているような、そんな汚臭と悪臭にまみれている気がした。
最終的に、能力制御を司っている脳領域に、副作用的な負荷がかかっているのではないか、と言われ、服薬治療もやめるしかなかった。
自分では何もできない、どうしようもない。
もう、疲れた。
落ち込むわたしに、家族は優しくなかった。
甘やかして欲しいと思ったことはない、それでも、さらに踏みにじられるとは思わなかった。
「はじめから無理なんだよ」
「何を馬鹿な夢を見ているの」
「もっと働いて家に金を入れろ」
「育ててやった恩を返せ」
親兄弟に責め立てられて、追い詰められたわたしは逃げた。
行ったこともない居酒屋で、適当に頼んだ酒を呷るように飲んだ結果、急性アルコール中毒で病院に運び込まれ、不運なことに一命を取り留めてしまった。
死にたかったのに死ねなかった。
それでも、赤の他人に迷惑をかけてしまったことが申し訳なくて、二度としないようにしようと思った。
わたしが高等級の撹乱端末を着けていたことで、精神鑑定とカウンセリングを受けることになった。
それからは、何時間も何十時間も何百時間もかけて、多くの方々に助けてもらって、夢を諦めた。
落ち着くまでに休みすぎてしまったので、仕事も辞めるしかなかった。
病院経由で行政の人々に助けられて実家と縁を切り、全てを承知の上で雇ってくれる仕事を紹介してもらい、一人暮らしを始められた時の喜びは、言葉にできないほどに素晴らしいものだった。
けれども人は慣れるものだ。
あれほど素晴らしく思えた一人暮らしも、二年が過ぎる頃には寂しさしか覚えなくなっていた。
家を出られたとしても、わたしには家と職場の往復しか残っていなかった。
家族という名の毒で満たされた実家に戻ることはない。
結婚して家族を得ることも考えたけれど、これまで誰かに恋をしたことのないわたしには、恋愛感情がないのではないかと思っている。
わたしなんかに、付き合わせてしまう相手が哀れだ。
そう結論が出たので、ただ、一人で生きることを続けてきた。
好きでも嫌いでもない仕事を淡々とこなし、勤務年数で肩書きがつき、給料が少し上がった。
知らない人と接することの少ない仕事は、気持ちの上で楽だ。
それでもやる気の無さと適性の関係で、これ以上の昇進は見込めない。
離職は望んでいない。
このまま一人で死んでいくんだろうなと、何もかもを諦めかけていた時に、彼に出会った。
穢れを知らない、健全で普通の若者。
明るい未来を望み、歩みを進める少年。
わたしのような薄汚れた醜い生き物と違い、ただそこにいるだけで、周囲が暖かくて心地よい陽だまりに見えた。
そんな素晴らしい陽だまりを、わたしがめちゃくちゃにしてしまった。
彼を解放してあげたいのに、どうしたら良いのか分からない。
拒否したら殴られるかもしれないと思うと、怖くて家に入れてしまうし、怒鳴られるとびくりと過剰反応してしまう。
彼が苛立つ姿を見ると、恐怖で体がすくむ。
いつからこんなことになったのだろう、わたしは、どうして……。
目が覚めると、目の前にきれいに日焼けした健康的な若い顔があった。
安らかな寝顔は、起きている時の凛々しい雰囲気を持たずに、ひどくあどけなく見えた
あゝ、なんて無防備な子供の顔だろう。
そう思うのに、胸が痛い。
どうして、もっと早く晋矢さんに出会えなかったのだろう。
晋矢さんに助けを求めることができていたなら、きっと、わたしと彼がお互いに傷付けあっている、今の状況になっていなかったかもしれない。
わたしは彼を解放してあげたいと、ずっと思っているのだから。
違う、言い訳だ。
晋矢さんに頼りたいだけだ。
胸が痛い。
初めて晋矢さんの顔を見た、その時に感じてしまったのだ。
わたしはこの人が、好きだ、と。
彼に対しての気持ちに〝必然〟だなんて単語をあててごまかしてきたけれど、結局のところ自己憐憫混ざりの依存だと理解している。
誰でも良いから、ただ老いて死んでいく道しかない男の側にいて欲しいと、縋りついた。
彼がわたしを殴るのは、わたしがそうさせているのだろう。
優しい彼だから。
見ず知らずのサラリーマンが、階段から落ちそうになったのを助けてくれた、優しい彼だから。
彼を縛り付けて狂わせてしまった罪悪感を、晋矢さんに好意を覚えてしまうことを、後ろめたく思ってしまう。
わたしは、なんのために生きているんだろう。
誰にも望まれていないのに、自分でも望んでいないのに。
「……晋矢さん、あなたが好きです」
晋矢さんが眠っているから言える。
言葉にして、自分の気持ちを確認してしまえば、もう、戻れる気がしなかった。
好きだと思う気持ちが、こんなに辛いと知らなかった。
これが恋なのかは分からないのに。
アパートを引き払おう。
彼の前から姿を消そう。
職場の詳細は教えていないから、全て変えれば、探し出せないはずだ。
プライベートの連絡先なんて、どうせ誰にも教えていないのだから、住所からスマホまで全部変えても大して問題ではない。
会社には何があったのか説明を求められるかもしれないけれど。
身の振り方を決めてしまえば、昔、家を出る!と決めた時のように、ひどく楽になった。
誰にも縛られていないのに、わたし自身が自分を縛り付けていたのか。
彼にも晋矢さんにも、もう関わるべきではないんだ。
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