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02 酒場
しおりを挟むそして、二百年が過ぎた。
凡庸な若造エルフだった私は、凡庸なおじさんエルフになった。
順当だ。
才気煥発でたくましい若者ドワーフだったブレーは、貫禄と威厳のある壮年ドワーフとなった。
順当である。
年を経て、なお日々素敵になっていく恋人を表す言葉が思いつかない。
いつか、言葉や文字に例えられる日が来るようになるだろうか。
二百年の間に、尻の穴を使った自慰で、達することができるようになった。
繁殖行為では一度も無理だった。
とはいえ、ブレーに抱きしめられるのは好きだ。
達する事ができないだけで、恋人の短くて力強くてたくましい腕に締め上げられると、胸が苦しいほど幸せだ。
だから、知らなかった。
恋人の腕の中で達する事が、他に類のない喜びだと。
◆
目の前に果実水の盃が置かれた。
「大丈夫ですか、エレデティさん」
「……ああ」
浮かれた気分で昨夜の感覚を思い出していたら、心配されてしまった。
いつもは薬草酒を納品しに来るだけの酒場に、初めて客として訪れたものの、寂しさが胸をしめつける。
昨夜の繁殖行為は、ブレーが十年に一度、故郷に里帰りする前に別れを惜しんでのものだ。
つまり、今夜から私はひとりぼっち。
昨夜はとても幸せだったのに。
酒場に足を向けたのは、昨夜の幸せを一人の部屋で思い出したくなかったから。
一人である事を思い知って、痛感して、きつくて、悲しくて、虚しくなる。
初めて腹の奥で快感を知った体がうずく、なんて事はないけれど、店の片隅で幸せな記憶を繰り返し思い返すくらいは許されるだろう。
店内のざわめきが、寂しさを薄れさせてくれる事を願いながら。
「無塩炒豆を頼む」
「はい、少々お待ちを」
酒を持ってきた時にやりとりする顔見知りで、十年近く顧客でいる店主との距離感はよく分からない。
人種族はすぐに距離を詰めようとしてくるから、私からは近づかない。
私はエルフの中では異端者で、他者との距離が近い事を好むけれど、人種族程ではない。
寿命が短い彼等の対人関係の詰めようは、性急すぎる。
出会った日に体を交わす、なんて、あり得ない。
普人族の国でエルフの常識を引きずる私が間違っているのだろう、でも、ブレー以外と触れ合うのは好きになれそうにない。
「こんばんは、良い夜ですね」
ごつごつ、と重たい足音の後に聞こえた朗らかな声は、私に向けられていた。
顔を向けたくない、億劫だ。
さっきから視線を向けられている事は感じていた。
私は人種族に紛れ込んだエルフ。
異端者だ。
目立っている事は知っている。
今は日除けの帽子をかぶっていないため、エルフの特徴である長い耳が見えているからだろう、と考えていたけれど、声をかけてくるとは。
私はこの街、ホーヴェスタッドに二百年住んでいる。
エルフは森から出ない。
出たとしても普人族の街には住まない。
異端の私はこの国で唯一のエルフで、それなりに知られている。
自意識過剰ではないぞ。
私をエルフと知りながら近づくのは愚か者で、知らずに近づくのは馬鹿者だ。
できれば五体満足で返してやってくれ。
とかなんとかそんな事を、冒険者組合のホーヴェスタッド支部長が言っていた。
私は人種族を傷つけた事などないのに。
とても失礼だ。
用があるなら話くらいは聞こう、と顔を上げる。
きらきらしい木漏れ日色の髪の男が、きらきらしい笑顔を私に向けているので、意図せず表情が抜け落ちたのを感じた。
「こんばんは、見知らぬ人」
「これは手厳しい、初めまして美しいエルフの君」
美しい、とか初対面で言われても困る。
私は平凡顔のおじさんエルフだ。
この国唯一とかいう付加価値で、目を曇らせるのはやめてもらいたい。
「なにか用か?」
「美しいエルフの君に声をかけたいと願う事に、理由など必要ありましょうか?」
なんだこいつ。
そう思いながらゆっくりと視線を動かして普人族らしい男の姿を探る。
……見慣れない装備だ。
副都周辺に出る魔物から剥ぎ取った素材ではない、としたら、どこかから流れてきた新参者か。
幸いというか、副都は広く人口が多い。
人の出入りは多く、物見遊山から出稼ぎまで多くの人種族がいる。
ほとんどの人種族は寿命が百年程度なので、顔見知りになった頃にはいなくなる事も珍しくない。
……ブレーと出会えた事に感謝しよう。
ころころりと死んでいく人種族の中に一人でいたら、孤独に耐えかねて森に逃げ帰っていたかもしれない。
「用が無くば立ち去れ」
私の口調は冷たく聞こえるらしい。
初対面の人種族は物怖じするが、慣れて遠慮がなくなってくるとよく言われる。
見た目と中身がずれていると。
とても失礼だ。
「……そのように仰らず、今夜の無聊の慰めにお側に侍る事を許して頂きたい。
せめて、酒の一杯だけでも」
男は慣れた様子で酒を注文し、あっという間に目の前に赤紫の液体が入った小さな酒盃と、大きな果実水の盃が置かれた。
「こちらは注文頂いた果実水です」
「……ありがとう」
店主の言葉に頼んでないよ、と思ったけれど礼を口にした。
男の頼んだ赤紫の酒を、私は知らない。
酒場に客として来る事がないので、人種族の酒にも当然詳しくない。
店主が果実水と共に出したのは、この酒は飲まないほうが良い、という事か?
ううむ、よく分からない。
それよりも無塩炒豆はまだだろうか。
私は、あまり酒に強くない。
比較対象がドワーフのブレーなので、参考にもならないが。
「乾杯!」
「……乾杯」
自分の盃を干そうと喉仏を上下させる男を見ながら、果実水に口をつけた。
甘酸っぱくて美味しい。
今の季節は新鮮な果実が採れるから、一年で一番美味しい果実水が安く飲める。
自分で作って飲むほどではないけれど、誰かが作ってくれたら美味しく頂くのは当たり前だ。
私は面倒くさがりなので。
「こちらも美味いですよ、どうぞ」
私が酒盃に口をつけていないと気づいた男がそう言うけれど、首を傾げて見上げると口を閉ざして見つめられた。
店主の善意を踏みにじるのは惜しいが、せっかく作ってくれた酒を手付かずで残すのも惜しい。
初めての経験はいつでも嵐で、記憶が残らない事が多いとしても。
飲まない方が良さそうな酒であっても。
さて、どうしようかと考えて、ふと思い立った。
「酒の礼に私の作った酒を馳走しよう、店主、出してくれ」
「よろしいのですか?」
「支払いは現物納品で良いか」
「分かりました」
こちらを伺っていた店主が立ち去り、瓶を手に戻ってくると、私に手を伸ばそうとしていた男がぎくりと体を強張らせた。
「エルフの薬酒、の名前を聞いた事があるなら、一度飲んでもらいたい」
「……エルフの」
正しくは薬草の成分を濃縮抽出した酒なので薬草酒と言うべきだが、酒で薬なので同じか。
男が頼んだ赤紫の酒盃からは、ひどく甘い香りがしている。
干し果実と砂糖を混ぜた酒?
飲みやすそうだが、酒精もきつそうだ。
あ、これが艶本にあった女を落とす酒という奴か。
……私は男だ、また間違えられているのか。
「乾杯」
少々苛立たしいので、性急に進める事にした。
あわせてあげているのだから、さあ、ぐいっといきたまえ。
この薬草酒は、本来、薄めて飲むものだ。
原液を飲んでも死んだりはしないが効能が強すぎて、ひっくり返るかもしれないな。
「か、かんぱいっ!」
どろりと黒い薬草酒に顔を引き攣らせる男が、ぐびりと飲みこむのを見届けてから、そっと盃を傾けた。
大変にあまくて、とても美味しい。
けれど思った以上に酒精がきつい。
これは、知らずに何倍も飲んだら腰が抜けるな。
どしゃ、と崩れるように男が倒れて、顔だけ知っている酒場の用心棒も引きずられていくのを見ながら、手を上げる。
「薬酒を私にも一杯」
「はい」
「それと、豆はまだかな」
「はいっ」
店主が困っているように見えるのは何故だろう。
嗚呼、早く帰ってきてくれ、ブレー。
酔った夜は愛しいドワーフが恋しい。
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