ひだまりで苔むすもの

Cleyera

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本編と補話

11 生きている

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 兄ちゃんの人生には戦争しかなかった。

 戦争が終わっても、戦場以外での生活は思い出せない。
 焼け野原の故郷に戻り、がれきの山を供養で回っても、四十年以上も前の薄れた記憶は、切ない郷愁を掻き立てるだけだった。

 王都へ異動しても、虚しさしかなかった。

 兄ちゃんにとって良かったのは、兄ちゃんの所属が軍ではなく神殿にあったことだ。
 かつては何カ国もの国で国教として認められ、戦争初期には各国の人々を守護して補佐するために従軍神官の存在を許した神殿は、戦後に大陸中を焦土に変えたことで方針転換をした。

 神官としての基礎を持たない上に、人の姿を失ってしまった兄ちゃんを、神殿は扱いに困った末に内に匿うことにしたという。

 兄ちゃんはこの国の従軍神官の最上位ではあっても、神官としては見習い以下。
 外で説法をさせようと考えるなら、神の教えを学ぶ前に言葉遣いから矯正しなくてはいけない。

 本神殿で、見習いの助神官に混ざって経典を読み、教義を学び、訓話を聞き、いつかは説法を語る側になるために神官としての正しい姿を知る。

 けれど、全てがそらぞらしい。
 教義が正しいなら、どうして戦争は起きた。
 説法で人が救えるなら、どうして戦争は終わらなかった。

 戦場で散った命はあまりにも多くて。
 助けた人も、助けられなかった人々も、個別に思い出すことができなくて。

 兄ちゃんは自分が生きているのか、わからなくなった。

 悲鳴も苦痛のうめき声も戦闘音もない、静まりかえった夜が恐ろしい。
 穏やかな陽光降り注ぐ昼に、襲いくる敵の幻が見える。

 結局、厳かで静かな生活が受け入れられず、治安の悪い地区の小神殿への駐在を希望して、異動。

 その頃には神殿側も、兄ちゃんを普通の神官に育てることを諦めていたらしい。
 普通の神官ならできることは何一つできないくせに、傷ついた人を癒す術と、軍人を狂わせる力を持つ従軍特務神官長。

 手放すことはできないけれど、身の内に飼っておくのは恐ろしい。
 そう、考えた人がいたのだろうと。

 兄ちゃんは、放っといてほしいとしか考えていなかった。

 ぶらぶらと、駐在することになった小神殿の周囲を歩き、そして。
 偶然入った下町の食堂の雑踏が、戦場帰りの人々の持つ荒んだ空気が、死んだ弟を思い出させるおれの存在が、兄ちゃんを救った。

 救ったのだと。
 おれが、兄ちゃんを救った。
 それを信じて良いのか。

「ヘイディがいてくれると、生きていると感じられるのです」

 十二年前に貧民街を発端にした流行り病の対応に、兄ちゃんは駆り出されていたという。
 貴重かつ強力な癒術の担い手として、いざという時に備えねばならないと本神殿に呼び出されて、離れられなかったと。

 兄ちゃんは、下町も流行り病に飲まれていることを、収束するまで知らなかった。



 そうして十二年が過ぎて。
 兄ちゃん自身、再会したおれをどう扱えば良いか判断がつかなかったそうだ。

 もう一度、弟のように扱えば良いのか。
 一人前の男として、友として接すれば良いのか。
 神官として、見知らぬ他人でいれば良いのか。

 自分がトリル兄ちゃんだと言うかどうか悩んでいる間に、おれが花嫁に逃げられて、婚姻の儀式の尻拭いやらなんやらで、ゴタゴタに巻き込まれた。

 弟分を助けるくらいのつもりで、旧知のミーキルヴェイグ元帥に繋ぎをとって、ヘゴミ中佐をやりこめた。

 本当はそこで、別れるつもりだった。
 おれの人生を邪魔してしまうのは良くないと、兄ちゃんは考えてくれていた。

 でも、兄ちゃんは知ってしまったのだ。
 おれの肩書きを。
 職務として、なにをさせられていたのか、異動先でどうなるのか。

「兄ちゃんは、……おれを可哀想だと思ってくれたの?」
「違う!」

 知られていた。
 それがショックで、口から勝手にこぼれた言葉を、トリル兄ちゃんがきつい口調で否定した。

「それじゃ、なんで」

 なんで、おれみたいな無能な役立たずを、助けてくれたのか。

「寂れた下町を見て、初めて、ヘイディが死ぬことを考えていなかった自分に気がついたのです。
 閉まった食堂を見て、無人の町を見て、絶望しました。
 わたしは誰よりも、簡単に人が死ぬことを知っているのに、ヘイディがいなくなる可能性を考えたくなくて、逃げたのです!!」
「……兄ちゃん」

 だからもう逃げません。
 ヘイディを幸せにしたいのです。
 戦場しか知らない身では、穏やかで優しい包み込むような愛を与えることはできません。
 それでも、手放したくないと思ってしまったのです。
 失いたくないのです。
 手放して羽をもがれ苦しむ姿を見るくらいなら、籠の鳥にしてしまいたいと願うほどに。

 そう、兄ちゃんは、言った。
 その後に。
 けれど、閉じ込めたいわけではない、閉じ込めておけないのなら、と。

「ヘイディが軍人でいたいと望むなら推薦状を書きます、せめてもっと環境の良い場所にいてほしい、と思っています」
「ねえ、おれが、兄ちゃんに必要なの?」

 信じられない言葉だった。
 トリル兄ちゃんは豪邸に住んでいて、有能な使用人さんたちに囲まれている。
 大神殿で働く神官で、清廉潔白な生活を手に入れている。
 なにもかもを得ているように見えるのに、おれが必要だと言う。

「必要です」

 しっかりと向けられた瞳は、たしかに熱を持っていた。
 本当の瞳ではない、体のほとんどが古代遺跡から発掘した技術で作られた偽物に置き換えられているのに、その熱は本物に見えた。

 おれはずっとこれまで、独りだった。
 望まずに一人になって、二度と誰にも愛してもらえないのかな、と不安だった。
 好きになれる人もいなくて、優しくしてくれる人もいなくて。

 いつも、大事なところでつまずいて。
 これまで、割を食ってばかりだったのは、おれが周りの人々を苛立たせるからだ、と言われて。
 受け入れるしかないと思っていた。

「兄ちゃんは、おれがノロマでグズだと知ってるから平気なの?」
「ヘイディ、貴方にそんな失礼なことを言った奴ら全員に、十日間の懲罰を与えたいところですが、とりあえず。
 貴方は鈍間でも愚図でもありませんよ」

 自信たっぷりに言われて、兄ちゃんを信じられたら良いのに、と思った。
 兄ちゃんは嘘はつかない。
 でも、うまく誤魔化すから。

「……でも、おれ」
「寝る時に話をしてあげましょう、だからそんな言葉を信じないでください」
「分かった」
「食事にしましょう」
「うん」

 おれがぼんやりしている間、何度も腹が鳴っていた。
 腹が減っていたことを忘れていたのに、体は正直だ。



 食堂まで抱っこで運ばれて。

 抱き上げられない方がおかしな気がしてしまう。
 抱っこに慣れて良いのか、悩む。

 いつもと同じように、食卓には贅沢なほどおれ好みの食事が揃っていた。
 使用人さんたちも穏やかに微笑んでいる。
 でも、兄ちゃんの前には、ゴブレットと酒の瓶だけ。
 いつもは食事が並んでいたのに。

「必ずしも食べる必要はないのですよ、ああでも、味覚はあります」
「そうなんだ」

 おれが子供の頃、兄ちゃんが酒ばっかり飲んでいたのは、食べる必要がなかったから?
 それなら、食堂に通う必要もなかったのかもしれない

 もしかして。
 おれに会いに来てくれていた?
 うちの食堂が好きで来てくれていた?
 そう思ってしまう。

 おれが苦手な香草を食べてくれたのだって。
 腹が減った、は口実だったのか。

 楽しく話しながらだと、あっという間に食事は終わってしまった。

 兄ちゃんはずっとにこにことおれを見ていて。
 おれは恥ずかしいのに、兄ちゃんがいてくれるのが嬉しくて。
 使用人さんたちも、でしゃばらずに見守っていてくれるのが分かってしまった。

 
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