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本編と補話
07 見とれた
しおりを挟む兄ちゃんの股間には、なにもなかった。
そんなわけがない。
一瞬だけ、股に挟んで隠してる?、と疑問を覚えたけれど、そんなことをする必要ないはず。
それに聞けない。
兄ちゃんは姉ちゃんだったのか、なんて。
おれがうんうん唸っている間に、下着の上に寝巻きをかぶせられて、転がされて、掛け布団をあごまで引き上げられた。
掛け布団の端に腰掛けた兄ちゃんが、おれを見る。
上半分が金属の顔。
よれよれではないけれど、神官服。
なにかが胸を満たして、息が苦しくなる。
嬉しいのに悲しくて、切ないような苦しいような、でも、楽しい気持ちもあって。
おれが幸せだった頃が、帰ってきたような錯覚をしてしまった。
「お利口に目を閉じたら、子守唄を歌ってあげます」
「それならあれ歌って、あの、熊のやつ!」
急いで目を閉じて、口も閉じる。
トリル兄ちゃんがいると、おれは子供の頃に戻ってしまう。
むしろ戻りたい。
恥ずかしい。
布団を引っ張り上げて顔を隠そうとするのに、息ができませんよ、と止められた。
「〝熊撃ちの歌〟ですか、そういえば好きでしたね、……本当なら子守唄にするような歌ではないのですが、当時のわたしは余裕がなさすぎです」
兄ちゃんが困ったようにつぶやくけれど、おれはこの歌が大好きだった。
勇猛果敢な山男たちが、人喰いの大熊をやっつける歌。
最前線帰りの兄ちゃんが声量を抑えて獣が唸るように歌ってくれると、すごく格好良くて、おれにとっては本物の英雄の歌に聞こえた。
しかも夢に出てきてくれる。
夢の中のトリル兄ちゃんは、店で行儀の悪い元軍人やあぶれ傭兵を殴り倒すように、熊も殴って従えてしまい、果物や木の実でお祝いをする。
すごく楽しそうで、おれも参加したいのに。
熊が怖くて、出られない。
もじもじしているおれを、兄ちゃんが片方の口角を歪めた笑顔で呼んでくれる。
皮肉そうな口元なのに、すごく優しい声で。
「ヘイディ、栗が焼けたから来い、食わねえとでかくなれねえぞ」って。
子供のおれは焼き栗の皮を自分でむけなくて。
兄ちゃんがむいてくれた。
熊もむいてくれた。
いつのまにか集まってきた、りすやうさぎもむいてくれる。
子供の頃の夢なのに、なぜか忘れられない。
とても大事な夢だった。
久しぶりにすっきりと目が覚めた。
しん、と静まり返った部屋。
でも。
「……けほっ、ゆめじゃなかったのか」
のどが痛い。
声が枯れてがさがさだ。
おれが寝る寝台の、掛け布団の上。
今にも落ちそうな端っこでトリル兄ちゃんが寝ていた。
叫びながら逃げ出したくなる。
昨夜、熊の歌を歌ってもらったおれは、泣いてしまったのだ。
うまく言葉にできない気持ちがあふれてしまった。
自分でもなぜ泣いているのか分からないまま、おれは泣いた。
子供のようにわんわんと大声を出して。
心の中にたまってしまったものまで、全部出す勢いで。
なぜ泣いているのか、自分でも理解できないんだから、涙を止めることも泣き止むこともできなかった。
そんなおれを、兄ちゃんは慰めてくれた。
子供の頃と同じように、頭を撫でてくれて、背中を優しく叩いてくれて。
おれが好きだった歌や話を、たくさん聞かせてくれた。
やめてほしくなくて、泣き止めなかったのかもしれない。
泣きすぎたからなのか、顔が腫れぼったい。
こんなに泣いたのは、生まれて初めてかもしれない。
子供の頃でも、疲れて眠るまで泣いた覚えなんてない。
のどはがさがさに乾いて声が出ない、頬はひりひりする。
まぶたがうまく開かなくて、呼吸をすると胸と腹が痛む。
でも、気持ちは落ちついていた。
寝息がきこえないほど静かに眠っている兄ちゃんは、精巧に作られた生き人形のように美しい。
日焼けを知らない、毛穴すら見えないなめらかな肌。
つやのあるまつ毛は、髪や眉と同じ薄い色。
つんと尖った鼻は形良くて、小ぶりでふっくらとした桃色の唇は、昔と違って歪んでいない。
ほっそりとした胴体が金属で覆われていることを知っているのに、どこからどう見ても、十四、五歳の少年にしか見えない。
おれよりも年上のはずだから、改造されると歳をとらなくなるのかもしれない。
そういえば、顔は本物同様と言ってた。
本物同様ってなんだろう。
本物ではないってことだよな。
これも古代の遺跡から発掘されたという、魔法の技術なんだろうか。
魔法は不自然な技術だから、世界から淘汰された。
そう、孤児院で習ったけれど。
それなら戦争で使われることもなかったはずだ。
世話になったのが数ヶ月だと、教えもほとんど覚えていない。
両親は神官のトリル兄ちゃんは信用していたようだったけれど、神殿に祈りに行くことはなかった。
母親によく言われた「悪いことすると怖い巨人が来る」を地で行っていた撲殺系神官のトリル兄ちゃんが、説教や説法をしている姿は、見たことがない。
兄ちゃんがきれいで、ぼんやりとその姿を見ていたら、外から扉を叩く音がした。
「はいれ」
なんの前動作もなく兄ちゃんが目を開けて、寝台の上に体を起こした。
おれは驚いてしまって、声も出せない。
「ここはヘイディの部屋でしたか」
「……起きてたの?」
「いいえ、一瞬で覚醒するのです」
その後になにか言葉が続きそうな気がしたけれど、兄ちゃんは何も言ってくれなかった。
兄ちゃんが返事をしたからか、使用人さんが扉を開いて入ってきた。
寝台の端に座る兄ちゃんを見て、おれを見て、もう一度兄ちゃんを見て、なぜか安心したような表情をしてから口を開く。
「失礼致します、旦那様、本神殿から使いが来ておられます」
「初動が遅い、ですね。
ヘイディ、夕食までには戻れますので一緒に食べませんか?」
「はい」
兄ちゃんは腫れて重たいおれの顔を両手で包んでくれた。
「『第一癒術〇六二式起動承認、部位固定区画〇一〇二から〇一〇八を二分間継続後、解除』の最上位権限執行を許可、執行します」
ふわん、と顔が暖かくなる。
うまく開かなかったまぶたが、すっと開くようになった。
何をしてくれたのかまったく分からなくても、兄ちゃんがすごいことだけは理解できる。
昔から兄ちゃんは変わってない。
優しくて強くて、すごくすごく、おれの大好きな人だ。
「いってきますね」
「いってらっしゃい」
「ヘイディ、日向ぼっこをしてくださいよ」
「え……はい」
今日の予定に日向ぼっこが入ったようだ。
手を振りながら兄ちゃんが出て行ってしまっても、使用人さんが残っていて、手に持っていた大きななにかを差し出される。
「こちらをどうぞ、お使いください」
「???」
ふっくらとした綿入りの……服?
「袖付きの布団になります、着たまま移動もお昼寝もできますよ」
「ありがとうございます?」
この好待遇はなんだろう。
ここの人たちはおれがぼんやりするのを、嫌がらない。
眠いとか疲れたとかではなく、ただ空を見上げて、太陽の日差しを浴びながらぼんやりしていても、良いんだろうか。
顔を洗って、腫れがひいていることに驚いた。
朝食を食べて、食後のお茶はこちらで、と吊り寝床に案内された。
前はなかった移動式の壁が置かれている。
屋根から庭にかけて、日差しを弱める布も張られている。
お昼寝しろ、ってことだよな。
なんとなく持ってきてしまった袖付き布団に腕を通した。
人よりも体の大きなおれにもぴったり。
吊り寝床の足元に丸められていた毛布もあるから、風が吹いてもぽかぽかだ。
横になると、眠ったまま起きているような。
ぼんやりと自分が庭の一部になっていくような、そんな気分になる。
すごく落ち着く。
動きたくなくなる。
太陽と風と土と水。
欲しいものは全部、ここにある。
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