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4 ボク
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しおりを挟む足首に絡みついた縄の感触に、ついに追いつかれたことを知る。
転倒を防ごうと踏み締めた足の下で、みしみしと板の割れる音が響いた。
「撃てぇ!」
遠く聞こえる声に、聞き馴染みはない。
けれど、どれだけ距離があっても感じられる嫌悪感を、ここ数ヶ月で覚えてしまった。
待ってくれ。
待て、やめろ。
やめろおおおっっ!!
言葉に出してゼンさまを怖がらせるわけにはいかない、と叫びそうな気持ちを抑え込む。
黒いもやが棚引くように飛び、背中に何本も突き刺さるのを感じた。
矢尻に毒が塗られているのを感じた。
なんとか腕の中に抱え込んでいるゼンさまは守れた。
けれど注ぎ込まれてもぐりこんでくる毒から生じる悪意が、空っぽの腹にどんよりと溜まり始める。
ひどく濃縮された〝もやもや〟だ。
みるみるうちに存在感を主張し始めた汚泥のような重み。
怒り。
苛立ち。
悲しみ。
罪悪感。
羞恥。
恐怖。
孤独。
腹の奥で存在感を増したそれに、踏ん張っていた足が崩れてしまった。
「うっっ」
「スペラっ?」
重たい。
どうやったら、こんなにもやもやを濃縮できるんだ。
ボクにもできないのに。
「ゼンにげ<`~#……」
腹の中で存在感を主張し始めたもやもやに反応して、体がシンシの姿に戻ってしまう。
言葉の途中で頭部が崩れて、途切れてしまう。
栓の壊れた水桶から注がれるように、腹の中のもやもやが量を増やしていく。
毒のせいでうまく動かない体のせいで、もやもやに溺れてしまいそうになる。
力の抜けた足はいつしかシンシの細いものになり、ずるずると滑って踏み外す寸前だ。
このままでは落ちる、と傷一つつけないように抱きかかえていたゼンさまをその場に残し、逃走していた屋根の上から転がり落ちた。
こんな高さから落ちたら、弱い体を持つゼンさまは長き眠りにつかれてしまう。
目覚めを待ち続けた苦痛が、過去の経験が手を離させてしまった。
ゼンさまを一人にする方が危ないのに。
この身が粉々になったとしても、離れるべきではなかったのに。
落ちながらしまったと思ったけれど、もう遅い。
自分の意志で変化した時と違い、唐突に体が変化したことで派手な音を立てながら地面に崩れた。
壁を駆け登ってゼンさまにむらがる、黒いもやを纏うやつら。
腕を伸ばそうにも、震えて動かない。
毒が回りきって、もやもやを押し付けられた体が重い。
全身に重石をくくりつけられたようだ。
この姿は悪いものを吸着しすぎる。
いつもならゼンさまと触れあうことで浄化して頂けるからこそ、単独で行動するには向かない。
周囲を漂っていた、見えない薄さのもやもやまで吸い込んでしまい、あっという間に体が黒く染まっていく。
毒のせいで気分が悪い。
シンシに効く毒とは、どんなものだろう。
ゼンさまに浄化してもらえることで、他人のもやもやを受け取ることの気持ち悪さを知ってしまったから。
このままゼンさまと離されてしまうと、人の姿に戻れなくなる予感がした。
悪いものに飲まれて、バケモノになってしまうのではないかという恐怖より、人の姿に戻れないと、ゼンさまのお側にいられなくなることが怖い。
「スペラっ、スペらぁっ……んんんーーーっっ」
いつのまにか手足を縛られて、頭に布袋をかぶせられたゼンさまが地面に降ろされ、もやで顔が見えないやつらの手で輿へ乗せられる。
体が動かない。
お守りすると誓ったのに。
離れないと約束したのに。
見たことのない青黒いもやもやで全身を覆い尽くしたやつらは、ゼンさまの正体を見抜いている。
そうでなければこれほどに執拗に追いかけてくるわけがない。
こいつらもサイシの血筋なのか。
ゼンさまに触れる他人の手を見て、半透明になった腹の中にぐるりともやもやが湧き上がる。
きっと嫉妬に狂った赤黒い色をしていることだろう。
周囲から吸っているだけでも辛いのに、自分の中で作ってどうする。
落ち着け、冷静になれ、怒りと恐れに飲まれるな。
黒いもやのように見える悪意、ボクはこれをどうにか飼い慣らせないかと努力している。
ゼンさまに全てを浄化して頂けると知っていても、少しでも自分でなんとかしたいと願っている。
だからいける。
大丈夫だ。
ぐるぐるとボクの腹の中で蠢くもやもやが、怒りのままにやつらを引き裂こうとする。
だめだ、ゼンさまにそんなもの見せられない。
ボクは人は殺さない。
どんな姿になっていても。
ゼンさまのシンシとして在り続けるための大切な誓いの一つだ。
「~~~~~っ」
誰かの声がして、輿の上で暴れていたゼンさまが動きを止める。
ぐったりと脱力した体には、ボクだけが触れられるのに。
やめろ、ゼンさまの肉体はひどく弱いんだ。
人の心に善を取り戻すために、とても弱い肉体しか用意できなくても地上に戻ってきて下さったのだ。
転ぶだけで肉が裂ける傷を負うのに、人のために世界を歩んでいる。
触れるな。
ゼンさまはボクのかみさまだ。
ボクの妻で、ボクの生きる意味で、ボクの人生の全てだ。
「薄汚い化獣の分際で神の御許に侍ろうとはなんと愚かな、片腹痛いな」
甘く歪んだ男の声と共に、ぐしゃりと体を押し潰されたのを感じる。
触れていないのに、大量のもやもやを押し付けられた。
「狂え、暴れろ、神のために世界を煉獄へと変える駒となるが良い」
無理やり注ぎ込まれるもやもやで、考えることも難しくなっていく。
いやだ、暴れたくない。
人を殺したくない。
ゼンさま。
……ごめんなサい。
ボクはやつぱりデキソこない、だつタ。
◆
◆
突然、意識が戻った。
「動くな」
目の前に子供がいた。
その姿に見覚えがあった。
見知らぬ子供だ、けれどその姿の作り方をボクは知っている。
子供の背後にも人がいた。
大勢の人がいる。
そいつらは普通の人のようだけれど、腹の中に溜め込んだもやは知らない色だ。
もやもやを溜め込んで固めたような、そんな違和感がある色。
こいつらは誰だ。
ゼンさまをさらった奴らの仲間か。
「一つだけ質問をする、答えろ」
答えるのならどんな方法でも構わない、答えなければ殺すと明確に示されて、自分がまだシンシの姿だと知る。
「お前はミツカいか?」
みつかい?
初めて聞いた言葉に首を傾げる。
今は首はないけれど、態度で分かってもらえたらと願って。
ゼンさまのお側にいる時はシンシの姿でも人の姿でも困らなかったけれど、今この時は人に戻れないことを呪いたくなった。
「知らぬのか分からんのかどちらだ、それならば、ケンゾク、シンシ、シンジュウ、……シンシ?、なるほど儀典祭司の血筋だろうとは聞いていたが知識が足りんのか」
子供のくせに、口調が歳をとった男のようだ。
こいつは誰だろう。
触れる寸前で鋭く光る刃が突きつけられているのに恐ろしくない。
敵意も殺意も無いからなのか。
「シンシであるなら問う、お前が仕えるは唯一つ星におわすヌー・テ・ウイタ・ラ・ドゥンネゼウか」
ああ、ゼンさま。
お守りできなかった、助けを求められたのにお側にいられなかった。
ざわめく心そのままに、黒く染まった体が暴れ出す。
傷つける意志もないのに、体が子供を殺そうとする。
人は殺さない。
こいつは、人じゃない。
ボクと同じものだ。
「世に、仕える神から離されたケモノほど扱いにくいものは他になし、と言うは真だな」
子供の腕の先から伸びるように刃が生える。
ぞろりと伸びて、数を増やす。
黒々としたその先端は、もやもやから作られたものだ。
もやもやを己の体の中に溜め込み、体を改造して得られる肉体。
聞きたかった。
お前もサイシの血筋なのかと。
「ぼくは武闘祭司の一族、名はディスプレ、大人しくしていればヌー・テ・ウイタ・ラ・ドゥンネゼウの元へ連れて行ってやるとも、名も知らぬ自称神使どの」
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