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3 おれ
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しおりを挟む目が覚めた。
ここはどこで、おれはなにをしてたんだっけ。
あれ、体が、動かない。
目を開けて、木目の天井を確認した。
体を起こそうとして、重だるい疲労感に断念する。
おかしいな。
これまで意識を失ってから目覚めた時は、疲れてることなんてなかったのに。
動けないと思っても、それは疲労とは別の感覚だった。
「ゼンさまっ!」
ばっしゃんがらがらっ、と水を撒き散らした後に桶を落としたような音に視線だけを動かしてみる。
光を背負った、真っ白な長髪に白い真珠みたいな瞳をした青年がいた。
目を見開いてわなわな震えているのに、とても美人だ。
天使かな。
ああうん、たぶん、スペリアトだ。
覚えてる姿と色だけでなく顔も違う気がするけれど、おれを名前で呼ぶ人はスペリアトの他にいない。
おれがこっちに来てから名前を教えたのは、スペリアトだけだ。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさいっ」
スペリアトの頭が下がったと思ったら、べしゃっがつんっ!、と床を叩く音がした。
えーなに、ジャンピング土下座したの?
濡れちゃうよ。
謝罪なんてしなくて良いのに。
すっごく痛そうな音がしたなー、と思いながら、おれの意識は再びゆっくり閉じていった。
◆
◆
結論から言おう。
おれはスペリアトと結婚した。
結婚するしかなかったとも言える。
あのとんでも初体験は夢じゃなかった。
おれはクラゲのスペリアトに尻の処女を散らされたのだ。
尻でも処女って言うならな。
……うん、気持ちよかった記憶しかない。
相手がクラゲだったから、良い思い出かどうかは判断しづらい。
外から見たら捕食だったかもしれないけど。
スペリアトのクラゲ化事件の後、おれが目覚めるまで半年かかったそうだ。
よくそんだけ寝てたなと感心した。
今までに殺されたり食われた時も、リスポンにそれくらい時間がかかっていたのかもしれない。
目覚めた後は、ベッドと仲良くなった。
これまでは目覚めてすぐに動けたのに、感じたことのない強烈な倦怠感と疲労感で、全身をほとんど動かせなかったのが一週間近く。
その後も、うまく動かなくなってしまった手足のリハビリに時間がかかった。
寝ていたせいで筋肉が萎えて動かせなくなったというよりも、手足の動かし方が分からない、そんな感じだった。
間違いなく自分の手足なのに、新しくできたような違和感がひどかった。
リハビリ中は、文字通り排泄から流動食に近い食事の世話まで、スペリアトが面倒を見てくれた。
もちろんリハビリも同じで、仕事で数時間いない時以外は、ずっと一緒にいた。
どーゆー拷問だ第二弾は、羞恥心煽りだった。
セックスと介護、まったく違うのにどっちも恥ずかしかった。
飯と風呂とトイレは自分でやりたいよな。
意識がなかった時のことは考えない。
そんでやっと動ける様になって、言いたがらないスペリアトにしつこくしつっこく聞いて、言わないなら這ってでも出ていく、と脅迫して聞いた話がこんな感じ。
悪いクラゲになっちゃったスペリアトが、おれの体の中に良くないもの(精液のことか?)を注ぎまくった。
スペリアトはおれから良いもの(なにそれ?)を取り込んで、良いものに変化した。
結果、おれの体は良くないもので汚染されてしまい、スペリアトの体は良いものに近づいた。
おれは良くないものを取り込んで変わってしまった。
汚染されて死にかけた。
つまり……よくわからん。
んんーー考えてもさっぱりだ、どういうこと?
スペリアトがおれを「堕神にしてしまった」と泣きじゃくってうまく聞き取れなかった。
あと、知らない単語が多く出てきすぎた。
沈痛な面持ちで泣きながら話すスペリアトに、おれの中に注がれた〝らうたて=し=いんてんてぃえ=らう=いんてんしょなて〟とはなにか、おれから取り込んだ〝ぶなゔぉいんた=し=ぶなゔぉいんた〟とはなにか、って聞けない。
異世界だ、知らない言葉くらいあるだろ。
これまで言葉で困らなかったのは、会話が少なすぎたからなのか。
まあ、ぶななんちゃらが良いもので、らうなんとかが良くないものだってのは理解した。
細かく説明を求めるなら、おれの素性を言わないといけない。
最近では狂人の妄想疑惑になりつつある、おれはこの世界の住人じゃない、って事を。
スペリアトはこの世界の常識におれが疎いことは分かっていても、それが異世界人だからとは思ってないだろう。
半年間寝ていたからなのか、変化を感じた。
頬をつねったら痛い。
なんなら手を強く拍手するだけで痛い。
今までになかったことだ。
明確な痛みを感じたのは、何百年ぶりだろう。
こんなに痛かったのか。
痛いのはいやだな。
死ぬ時に痛いのは本当にいやだ。
現実感が、ある。
おれはこの世界で、生きている。
感じられる様になった痛みと共に、薄皮一枚分遠いと思っていた世界が、しっかりと踏みしめることのできるものになった。
怖い。
もしかしたら、おれは不老不死ではなくなったかもしれない。
目覚めに半年かかったのも、変わったから?
次に死んだら、本当に死ぬのかもしれない。
死ねるようになったと聞いても、複雑な気分だ。
嬉しいけど、嬉しくない。
やっぱり帰れない、のか。
次に死んだらリスポンしない、のか?
麻痺していたはずなのに怖い。
虚しくて、切なくて。
もう何百年もこの世界にいるから、家族の顔もとっくに思い出せない。
友人の名前も顔も忘れてしまった。
あっちにいた十九年より、こっちで過ごした数百年の方が長いから仕方ない。
覚えていることの方が少ないくらいだ。
日本語と自分の名前〝堂畝 禪〟だけは忘れたくないと願って、時々書いていたけれど。
「どうねぜう」とスペリアトがおれを呼ぶ。
似てるけれど発音が変だ。
発音できないんだろうなと思って、禪と呼んでほしいと頼んだ。
おれを唯一〝おれ〟と認識してくれるスペリアト。
この世界で繋がった唯一の縁。
おれがこの世界に生きている実感をもたらした男。
スペリアトがクラゲになった時は、一人になるくらいなら女扱いで良いと思えたのに。
いざこの世界で生きるしかないと知り、どうして悩むのか。
自分が分からない。
本当に、これから先の人生を、この世界で生きていくしか、ないのか。
何百年も経っているのに、考えたことのなかった現実が両肩に重い。
受け入れられなくて、時間ばかりが過ぎて、一人で宿の外に出ない約束を破った。
スペリアトに出会うまでずっと一人だったから、大丈夫だろうと。
死んだら本当に死んでしまうとしても、人目がある中で通りすがりに殺されたことはないから、大丈夫だろう。
そう思って。
久しぶり、いいや、初めて自分の足で踏んだと感じる大地。
これまでは気づかなかった、痛みと共に感じてしまう様になった悪臭のする、うるさくて薄汚れた道。
世界は、引きこもっていた間にすっかり姿を変えてしまった。
実感を伴ってみれば、この世界はひどく生々しい。
人の営みすら縁遠かったのに。
今では周囲を見知らぬものに囲まれ、聞きなれない喧騒は耳を塞ぎたくなる騒がしさだった。
物売りが張り上げる濁声、どこからかの聞き取れない怒号、どこかでげらげらと響く下品な笑い声。
以前は聞こえなかった。
人がいるのが見えていた、会話が聞こえていたのに、ノイズキャンセリングされていたようだ。
騒音、雑多な街並み、足の下の土の感触、濁った空気に含まれる砂の味、出所不明の悪臭に吐き気と涙が出る。
五感全てに多すぎる情報が一気に注ぎ込まれて、心が震えた。
この世界は、こんなに活力あふれていた。
やっと、それを感じて。
心の底から恐ろしいと思った。
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