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1 おれ
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しおりを挟むこの世界に迷い込んでからの日々は、ひどいもんだった。
人に会えば殺される。
獣に会えば殺される。
殺されなければ奪われる。
奪われなければ空気扱い。
空気扱いでなければ、ゴミ扱い。
なにがあっても、なにをされても、へらへら笑って流すしかできなくて。
痛くないから傷ついてない辛くない、そう自分に言い聞かせていたけれど、悲しい気持ちはあった。
この世界に一人ぼっちが寂しかった。
飯を食わなくても死なない。
けれど、腹は減る。
どうにかして稼ごうとしても金にならなくて、安い店で飯を食うと意識を失って、目が覚めると身包み剥がされてゴミ捨て場。
毎回、死んでんじゃないのかなーと思いたくなくて、目を逸らしてたけど。
スペリアトに出会ってからは、それがなかった。
寝る時は屋根も壁もある宿屋の中で、布団をかぶって寝る。
朝、起きた時には朝食が用意されてる。
昼、普通の人は一日二食らしいが、自然に軽食を用意されてる。
夜、すごい冒険者であるスペリアトがディナーを用意してる。
元の世界に比べたら不便で、なにもかも物足りないはずなのに満たされた。
下にも置かない扱いをされたのは、生まれて初めてだった。
なんでおれに貢ぐんだ?
それとなく聞いてみたら「ゼンさまと一緒に美味しいものが食べたいから」とはにかんだ笑顔で言われて撃沈した。
うん、やっぱり逃げられない。
逃げたくない。
どうせ今回も死なないだろ。
死んだって生き返る……スペリアトが悲しむかな。
「おれは逃げないよ、スペリアトくん」
「ニげ、て……さいっ、おそッテ、しまウッッッウウッッ」
襲うってなんかあれっぽいやつ?
腕とか目に封じられていた良くないものが出てくる、みたいな感じのあれ?
それとも怪物になって世界をどかーん?
苦しむスペリアトは必死に見えるけど、変わっていく姿がきらきらを内包したクラゲだと、危機感が持てない。
綺麗だよなー。
目の前で美青年がクラゲに変わっていく過程は、なんかこう、すごいCGの映画を見てるみたいだ。
「襲っても大丈夫だよ」
「ダめっだ、っタベてしまウッからぁっ」
なるほど、むしゃむしゃされるのか。
ゾンビとかサメ映画みたいに。
この世界に来てから数えきれないほど獣に食われたから、慣れてるぞー。
痛くない前提で。
スペリアトが楽になるなら、食われるの有りかな。
んーそうだな、平気かも。
「食べて良いから」
「そんナウあ!、おはsっヅファlkなsdfっっっ」
ついに口元が崩れて言葉が途切れた。
元はスペリアトで今は人の三倍くらいに増量した巨大クラゲが、室内をふわりと泳ぐように揺れた。
水がないのに泳いでるようで、すごく綺麗だ。
口腕がゆらゆらとおれに伸ばされる。
そういや、クラゲの口ってどこなんだろうな。
とか思っていたがここは異世界で、クラゲに似ていてもクラゲじゃないと考えつきもしないおれは、本当にこの世界で生きている実感がなかった。
元の世界の水族館でしかクラゲを知らず、一度も触れたことがない。
クラゲに刺されると痛い、場合によっては死ぬ、なんて知識だけはあるから、自分から触れにいく人は少ないと思う。
怯えているように小刻みに震えている元スペリアトを、指先で撫でてやった。
触れても大丈夫そうだから、手のひらもつけて。
びくんっと大げさに全身を震わせて、スペリアトだったクラゲが何本もある口腕を伸ばしてきた。
見た目は黒真珠光沢のあるゼリーに、とろみのあるあんをかけたような腕。
体全体を低くして、腕を高く掲げて。
少し濁った粘液をまとったフリルのような口腕が、おれの腕にまとわりつく。
力加減が絶妙で、柔らかい温もりは風呂に腕をつっこんだようだ。
土下座みたいに見えるんだが、クラゲだから気のせいだよな?
クラゲの体液があんかけみたいなだと思ったら、腹が減ってきた。
腕をつたっていくとろみが美味そうだ。
現実感が無いのに空腹だけは強烈に感じるから、数百年の間におれはなんでも口に入れるようになった。
たぶん毒食っても生き返ってるしー、とやさぐれて諦めて。
掴まれていない手ですくいとって舐めた粘液に味はなかった。
ぬるめの風呂くらいでとろみのある水、かな。
甘いかしょっぱければ良かったのに、残念だ。
黒銀の微細ラメ入りで光を受けて色を変える傘とは違って、口腕は黒真珠のきらめき。
口腕を動かすと柔らかく七色に揺らめく。
きれいだ。
きれいだけど、スペリアトはクラゲみたいな姿になって困っているだろうな。
体が崩れてびっくりしたけれど、クラゲになってしまったことで、一番困って、一番驚いているのはスペリアト本人に違いない。
慰めてやらないとな。
腕を伸ばして、ぽんぽんと傘をなだめるように押してみる。
怖がってないよと伝えたい。
逃げないよと分かってほしい。
「なんかさ、スペリアトくんの上に乗ったら気持ちよさそうだよな」
クラゲボディを怖がっていない、と伝わるかな。
口が無いから話せないかもしれないけれど、言葉は聞こえているかもしれない。
元イケメンで今はきれいなクラゲは鑑賞にちょうど良い。
一度くらい、つるつるでぷにぷにのクラゲの上に乗ってみたいって、誰だって考えたことあるだろ。
妹の見てたアニメ映画が、すごい楽しそうだった。
それくらいの軽いノリのつもりだった。
そのつもりだったのに。
「うわっ」
不意打ちのように、どぱぁっっ、とあふれ出した粘液を床に垂らしながら、何本もある口腕が両足と両腕にからみついてきた。
びっくりしたぁ。
なーんか必死さを感じるような?
掴まれていても痛くないけれど、ぬちゃあっと温かい粘液に濡れる感触はあるから、思わず出そうになった声を噛み殺して、考える。
会話が成立しないなら、考えるしかない。
なにをするつもりだろう?
スペリアトはどう言うだろう?
きっと「ゼンさまなら乗っても良い」と、少し照れた様子で神イケメン対応してくれるだろう。
乗った状態がおんぶなのかだっこなのか、分からないけど。
公園とかにある遊具に乗ってみたいなーみたいに、ゆるーく誤魔化せると助かるよな。
「えーっと、乗せてくれるのかい、スペリアトくん?」
直後、ぶるんっと揺れたクラゲボディに引っ張り込まれて、傘の内側にご招待された。
の、乗ってないよー?!
傘の内側には温かい液体が分泌されていて、勢い余って頭がそこに突っ込む。
体液なのかなんなのか、緩いあんかけみたいな感触で心地よい。
だが、慌ててもがくこと少々。
呼吸できないでしょ!
……あー、溺れるかと思った。
水のない宿の部屋で溺れたなんてミステリーすぎる。
ちなみに体勢はそのまま。
おれは、元スペリアトクラゲの傘に頭から突っ込んだままだ。
泥田にハマった時みたいに抜けだせなかった。
元スペリアトのラメきらきらクラゲボディ越しに部屋の中が歪んで見える。
傘が黒っぽいから一気に夕方になったみたいだ。
そうだよ、上半身だけでなく膝の辺りまで完璧にクラゲの中に埋もれてしまっている。
でも呼吸ができるんだよ、不思議だ、この世界不思議すぎないか?
肺に謎液体を満たしてガス交換がどうたらーってSFかな。
兄が語ってた。
おれ、クラゲの食事の仕方を知らないんだ。
これって、食われてるのかな?
捕食されてもやっぱり怖くない、痛くない。
なーんか服が溶けているような気がするけれど、体はなんともない。
ちくちくもひりひりもしない。
つまり、服から食ってるのか?
服なんか食って腹こわさなけりゃ良いけどな。
「ごぶっ!?、うごぼびばっぼごぼごっ!?」
突然、背中をぬるっと撫でられて出たおれ自身の声が、液体の中でごぼごぼと聞こえた。
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