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過去:花はなぜ咲く
合歓を望む木 2/3
しおりを挟む自分が植物であることが受け入れられないのに、自分に個体名が無いことをおかしいと思いもしなかった。
森にいる生き物は、みんな名前が無かったから。
名前がなくても見分けがついたから。
ずっと、他のドライアドたちに馴染めなくて孤立していたから。
見落としていた事にすら、気づいていなかった。
彼には名前がある。
彼の仕事仲間にも、弟にもその奥さんにも、彼のご両親にも名前がある。
名前があるから特別なのに、この身には名前がない。
名前がないから、彼の特別になれない。
特別では無いってことは、授精させたいと思ってもらえない?
「……おい、どうした、なあ、なにが望みなんだ?」
彼が恐る恐る声をかけてくる。
気づかなかっただけで、彼はずっと我慢してくれていたのだと気がついた。
彼が教えてくれた物語に出てくるドライアドは、気に入らない生き物を肥料にしてしまう。
そう、彼が言っていたじゃないか。
本当にそうなのか?、と恐れている口調で聞かれて、返事ができなかった。
この身は生物を殺して肥料にしたことはなかったけれど、他のドライアドはどうかと聞かれると否定の言葉を口にできなかった。
恐怖の対象にまとわりつかれて、どれだけ恐ろしかっただろう。
彼は周りの人を守るためにこの身に優しくしてくれたのだ。
まるで、生贄みたいに。
「なんでも、ない」
「なんでもないって、本当にそうなのか、今のお前は何十年に一度とかの授精したい時期とかだったりするんじゃないのか?」
彼は花を咲かせる植物の知識を多く持っている。
だから、優しくしてくれたのかもしれない。
滅多に花を咲かせない木の存在は知っている。
でも、この身はそういう感じのものではなくて、一応季節は関係するけれど、その気になればいつでも受精をできそうかなって雰囲気で。
試した事がないから、返事に困った。
彼の精を中に注いでもらって授精したいなんて、どの面下げて言えば良いのか。
この身がここにいるだけで彼をひどく苦しませてしまうと、どうして今まで気が付かなかったんだろう。
彼の家族や同業者が顔を見せないのも。
町からくるマジュツシとか言う人を、彼が何度も追い返すのも。
彼に紹介された人が、この身からとれた蜜を〝樹精の愛蜜〟という商品名にしたいと言った時に、彼がすごく困った顔をするのも。
きっと、ドライアドだから。
人の中では生きられないんだ。
植物なら植物らしく、窓辺の鉢植えにでも収まっていれば良かったのに、動物のように動き回るなんて、さぞかし気持ち悪かっただろう。
「違うよ、ちょっと出てくるね」
「あ、おい、まてって」
すっきりしたと言えるくらい頭は冷えた、頭はないけど。
なにをしようとも、どこに行こうとも徹頭徹尾この身は名もなき植物でしかないのに、不相応にも彼の精が欲しいと願うなんて。
彼の優しさを陽光のように浴びて、図に乗ってしまった。
己が植物であることを受け入れられないのは事実で。
それを彼が認めてくれているような気がして、嬉しかった。
彼の側にいれば、ドライアドらしい生き方をしなくて良いと、思い込みたかった。
人になりたいと思うなんて、ばかだな。
彼が拠点と呼ぶ建物を後にして、木漏れ日の差し込む林に足を踏み入れる。
地の果てまで行けば彼を忘れられるだろうか、彼を忘れられる日が来るまでどうやって生きていこう。
取り止めもないそんな気持ちを抱えながら、何百回も考えた事を再度思う。
どうして、この身は植物なんだろう。
人でなくてもせめて動物だったら、ずっと彼の側にいられたんだろうか。
女々しくていやになる。
枯れ葉をさくさくと踏み進みながら一巡り以上続いた日々を思い返してみる。
幸せだった。
この世に生まれ落ちてから数えきれないほど季節は巡ったのに、初めて、自分以外の誰かのためになにかをしたい、と考えた。
花蜜や花粉が彼を喜ばせるなら植物で良かったと、少しずつ受け入れられそうな気がしていたのに。
結局は、ダメなんだ。
植物だから。
ああ、この身は植物なのに、生きるために生きられない。
ただ生きることが辛い。
枯れてしまいたい。
彼の側にいられないなら、咲いている理由なんて無い。
「ネム!」
彼の声がして、振り向く。
ぱらぱらと頭部からなにかが周囲に落ちた。
しおれてぼろぼろによれた、白い糸状のもの。
擬態した体の頭髪に似せた雄しべ。
走ってきた彼がこの身を見て真っ青になって、そして。
「やめろ、枯れないでくれ、頼むからずっとおれの側にいてくれ、なんでもするから!」
焼けそうに熱い腕で、初めて抱きしめられた。
彼からの抱擁は初めてで、現実味がない。
見下ろせば歩いていたはずの足が、ひからびていた。
持ち上げた腕が、水気を失って萎れた若葉のように黄茶色くなっていた。
立ち枯れする木のように。
「……ぇ」
声が出ない。
枯れてないよ、と言おうとしたのに、人の姿になれなかった頃のように、枝を擦り合わせたような、ぎしぎしと耳障りな音しか出せなかった。
「ネム、おれがなにかしちまったんなら謝るから、悪いところは絶対に治すから、頼むから枯れないでくれ」
恐怖と闘うように彼の胸が震える。
彼の声がひきつるように揺れ動く。
瞳からあふれた、塩分濃度の高すぎる体液が注がれる。
ぽたぽたと止まらないそれが、体にしみて痛い。
彼になにかを伝えなくてはいけないと感じているのにうまく考えられなくて、ああ、自分は枯れそうになっているんだな、とぼんやり思った。
ドライアドは、枯れる。
ある日、唐突に。
人の暦で何千年も存在してきたドライアドでも、前触れなく枯れることがある。
なぜ枯れるのかは同族でも理解できなくて、誰も知らなかったけれど、みんな自然と受け入れていた。
自分達はドライアドなんだから、環境が悪くなれば枯れるさと。
環境が理由では無かったのか、自由意志を持った植物だから、死にたいと思えば枯れてしまえるのか。
どんな理由であれ、生きる理由を失うと枯れてしまうんだ。
とんでもないことを知ってしまったのに、まったく怖くなかった。
「みず」
「すぐに用意するっ」
なんとか単語を絞り出すと、いつのまにか下履きをはいていた彼の両腕で抱き抱えられて、水場へ運ばれた。
丸太を抱えているようなものなのに軽々と運ばれることに驚きながら、彼の力強い毛深い腕は飾りではないんだっけ、と思い返した。
「飲めるか?」
到着した水場で優しく差し出されるカップ。
白とピンクの糸みたいな花の絵が描かれた華奢なそれ。
彼がこの身専用にと用意してくれた絵付きの陶器のカップは、生まれて初めてもらった贈り物だったことを思い出す。
嬉しくて、すごく嬉しくて、いつも使うけど壊さないようにと気をつけていた。
彼が与えてくれる全てが嬉しくて。
彼が向けてくれる全てが愛おしくて。
彼の表情や言葉や行動や体温や人らしい体臭が、ここは森の中ではない、孤独ではないと救いを与えてくれた。
無表情か、人真似の表情しか浮かべないドライアドとは違う。
人の形をしていても、動きが気持ち悪くて言葉だって真似しているだけ、季節が巡れば花を咲かせて勝手に受粉して種を残すだけ。
そんな生き方は嫌だと思うことが間違っているのかな、とずっと苦しかった。
「あり、が、と」
「礼なんていらねえから、飲めば元気になるのか、どうなんだよネム?」
本当に欲しいものは水ではないけれど、枯れかけている今この時に、なにを望めば良いのか分からなかった。
彼が、欲しているものが花蜜でも花粉でも構わない。
恐れられているにしても、まだこの身を望まれていると思って、良いのかな。
枯れかけているのは水不足が原因ではないけれど、彼が水を飲む姿を見たがっているような気がしたから、素直にカップを空にした。
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