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5.ノアのぼやき
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「君の事情は理解したし、理不尽な仕打ちを受けたことには同情した。だから普段なら追い返すところを特別に屋敷に泊まらせている」
「はい、ありがとうございます」
「だがこちらにも人と関わりたくない事情というものがある。言われなくともそのくらいわかろうというものだ」
「はい、おっしゃるとおりです」
「それを、あんなところで寝ていた俺が悪いとはいえ、人の背中をまさぐりまわすとは何事だ」
「申し訳のしようもございません」
「反省しているのか?」
「反省しています」
「ではその手を離せ」
「嫌です」
「……」
「……」
ノアとウルリカのやりとりを、廊下に集まってきた執事や使用人たちが恐々と眺めている。
(……面倒くさいことになった)
ノアは隠す気のない長いため息をついた。
ウルリカ・シェルヴェンという侯爵令嬢が、護衛というには人相の悪い兵士たちに連れられてこの屋敷へやってきたのは一週間前のこと。
「〝白豚公爵〟にぴったりの花嫁だ。〝狼女〟を連れてきてやったぜ!」
階下の玄関ホールでそんなことを言っているのが聞こえ、ノアは心の中で彼らの平穏を祈っておいた。クロンヘイム公爵家の執事は一見おどおどとして気弱そうに見えるのだが、忠誠心がすこぶる高く、下卑た冗談が大嫌いである。
祈っておいてなんだが、おそらく彼らがクロンヘイム領を脱出できる日は一生こない。
突然の訪問の理由は、ウルリカから執事へ、執事からノアへと伝言ゲームで伝わったが、よく整理された報告で混乱することはなかった。
どうやら婚約破棄という大事件は彼女の心になんら影響を及ぼさなかったらしい。
ウルリカと対面してみて、ノアはその推測を確信に変えた。
ウルリカの挨拶はきちんとしたものであり、彼女は外部との連絡手段を求めた。自分で決着をつけ、迷惑のかからぬうちにこの屋敷を出て行こうとしているのだ。
なるほど〝狼女〟とはよく言ったものだと思う。
それならそれでいい、何かしらの沙汰があるまで、この屋敷に留まるくらいならば。
ノアはそう思った。
その印象が間違いだったかもしれないとノアが気づいたのは、同じ屋敷に暮らすようになったウルリカの様子が執事から報告されたときだった。
「坊ちゃまと同じく動物がお好きなようです。……ですが、猫を撫でながら遠い目をされていることが多く……」
「だからなんだ。放っておけ」
そう言えば執事はそれ以上口を出すことはなかったが、かわりにウルリカが視界に入るようになってしまった。
窓から外を眺めていると、ぼーっと庭を歩いているウルリカや、ベンチに座ってぼーっと猫を撫でているウルリカが目につく。
(たしかにいつも遠い目をしている)
だがリラックスしているようだ。緊張したり、怯えたりといった態度ではない。
風に髪をそよがせ、花の香りを楽しみ、ウルリカは時折目を細めて遠くを見つめるような表情になる。
(何をしているんだ)
そんなウルリカを見て思わず苦笑いをこぼしてしまった、そのとき。
――ウルリカは笑うことがないのだ、とノアは気づいた。
それでもノアはウルリカに近づく気はなかった。人には人の人生がある。変に踏み込んでどうするというのか。
(だいたい俺は――〝白豚公爵〟だ)
兵たちの言った渾名を思い出してみっちりとしたこぶしを握る。
あのときは笑って聞き流せたのに、今になって苛立ちが湧いてくるのはなぜだろう。
執事を呼び、あの兵たちがどうなったか尋ねると、「年季が明けるまでは鞭打たれて働くかと……」とサラッと言っていたのでそれでいいことにする。
「ウルリカ様のことも悪く言っておられましたからね。厳しめにしておきました」
「……心を読むな」
「顔に出ておられますからね」
ふと、ウルリカの内心も、この執事なら読めるのだろうかと思った。
「読めませんね」
「俺の心を読むな」
「悩んでおられるのはわかります」
それだけ言って、老獪な執事は去っていった。
庭に目をやれば、あいかわらずウルリカは遠い目をして猫を撫でている。
いつのまにか、庭のよく見える応接室ですごす時間が増えていた。
(俺は何がしたいんだ……?)
だから他人をテリトリーに入れるのは嫌だったのに、と自分もまた猫のようなことを考えながら、そよ風に誘われてノアの意識は眠りに沈んだ――。
次に起きたとき、ノアは背中を撫でさすられまくっていて、離せという至極真っ当な要求をしたら号泣された。
これまでの経緯を思い出し、ノアはもう一度長い長いため息をついた。
ウルリカはノアの左手を両手で包み込むと、細い指先でむっちりとした手のひらをぷにぷにぷにぷに押し続けている。
「いいかげんにその手を離せ」
「嫌です」
「……なぜ嫌なんだ」
「離したらこれっきりですから」
「そういえばそんなことを言っていたな」
「柔らかくて、癒やされるんです」
真顔で告げられるその一言にウルリカがこれまで背負ってきたものが垣間見えるような気がしてノアは目をつむる。
「また触らせてやるから、今は離せ。離さないならこれっきりだ」
ぱっとウルリカの手が離れた。
「はい、ありがとうございます」
「だがこちらにも人と関わりたくない事情というものがある。言われなくともそのくらいわかろうというものだ」
「はい、おっしゃるとおりです」
「それを、あんなところで寝ていた俺が悪いとはいえ、人の背中をまさぐりまわすとは何事だ」
「申し訳のしようもございません」
「反省しているのか?」
「反省しています」
「ではその手を離せ」
「嫌です」
「……」
「……」
ノアとウルリカのやりとりを、廊下に集まってきた執事や使用人たちが恐々と眺めている。
(……面倒くさいことになった)
ノアは隠す気のない長いため息をついた。
ウルリカ・シェルヴェンという侯爵令嬢が、護衛というには人相の悪い兵士たちに連れられてこの屋敷へやってきたのは一週間前のこと。
「〝白豚公爵〟にぴったりの花嫁だ。〝狼女〟を連れてきてやったぜ!」
階下の玄関ホールでそんなことを言っているのが聞こえ、ノアは心の中で彼らの平穏を祈っておいた。クロンヘイム公爵家の執事は一見おどおどとして気弱そうに見えるのだが、忠誠心がすこぶる高く、下卑た冗談が大嫌いである。
祈っておいてなんだが、おそらく彼らがクロンヘイム領を脱出できる日は一生こない。
突然の訪問の理由は、ウルリカから執事へ、執事からノアへと伝言ゲームで伝わったが、よく整理された報告で混乱することはなかった。
どうやら婚約破棄という大事件は彼女の心になんら影響を及ぼさなかったらしい。
ウルリカと対面してみて、ノアはその推測を確信に変えた。
ウルリカの挨拶はきちんとしたものであり、彼女は外部との連絡手段を求めた。自分で決着をつけ、迷惑のかからぬうちにこの屋敷を出て行こうとしているのだ。
なるほど〝狼女〟とはよく言ったものだと思う。
それならそれでいい、何かしらの沙汰があるまで、この屋敷に留まるくらいならば。
ノアはそう思った。
その印象が間違いだったかもしれないとノアが気づいたのは、同じ屋敷に暮らすようになったウルリカの様子が執事から報告されたときだった。
「坊ちゃまと同じく動物がお好きなようです。……ですが、猫を撫でながら遠い目をされていることが多く……」
「だからなんだ。放っておけ」
そう言えば執事はそれ以上口を出すことはなかったが、かわりにウルリカが視界に入るようになってしまった。
窓から外を眺めていると、ぼーっと庭を歩いているウルリカや、ベンチに座ってぼーっと猫を撫でているウルリカが目につく。
(たしかにいつも遠い目をしている)
だがリラックスしているようだ。緊張したり、怯えたりといった態度ではない。
風に髪をそよがせ、花の香りを楽しみ、ウルリカは時折目を細めて遠くを見つめるような表情になる。
(何をしているんだ)
そんなウルリカを見て思わず苦笑いをこぼしてしまった、そのとき。
――ウルリカは笑うことがないのだ、とノアは気づいた。
それでもノアはウルリカに近づく気はなかった。人には人の人生がある。変に踏み込んでどうするというのか。
(だいたい俺は――〝白豚公爵〟だ)
兵たちの言った渾名を思い出してみっちりとしたこぶしを握る。
あのときは笑って聞き流せたのに、今になって苛立ちが湧いてくるのはなぜだろう。
執事を呼び、あの兵たちがどうなったか尋ねると、「年季が明けるまでは鞭打たれて働くかと……」とサラッと言っていたのでそれでいいことにする。
「ウルリカ様のことも悪く言っておられましたからね。厳しめにしておきました」
「……心を読むな」
「顔に出ておられますからね」
ふと、ウルリカの内心も、この執事なら読めるのだろうかと思った。
「読めませんね」
「俺の心を読むな」
「悩んでおられるのはわかります」
それだけ言って、老獪な執事は去っていった。
庭に目をやれば、あいかわらずウルリカは遠い目をして猫を撫でている。
いつのまにか、庭のよく見える応接室ですごす時間が増えていた。
(俺は何がしたいんだ……?)
だから他人をテリトリーに入れるのは嫌だったのに、と自分もまた猫のようなことを考えながら、そよ風に誘われてノアの意識は眠りに沈んだ――。
次に起きたとき、ノアは背中を撫でさすられまくっていて、離せという至極真っ当な要求をしたら号泣された。
これまでの経緯を思い出し、ノアはもう一度長い長いため息をついた。
ウルリカはノアの左手を両手で包み込むと、細い指先でむっちりとした手のひらをぷにぷにぷにぷに押し続けている。
「いいかげんにその手を離せ」
「嫌です」
「……なぜ嫌なんだ」
「離したらこれっきりですから」
「そういえばそんなことを言っていたな」
「柔らかくて、癒やされるんです」
真顔で告げられるその一言にウルリカがこれまで背負ってきたものが垣間見えるような気がしてノアは目をつむる。
「また触らせてやるから、今は離せ。離さないならこれっきりだ」
ぱっとウルリカの手が離れた。
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