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極道恋浪漫 第二章
73 別離
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二十世紀半ば、香港九龍城砦地下街、秋――。
新しい体制で歩み出した遊郭街の経営も日を追うごとに軌道に乗り始めていた。そんな平穏な日常に翳りが差し始めたのは、焔邸の一角に遼二の事務所が完成し、ひと月が過ぎた頃だった。
「冰が出て行っただと?」
驚き顔で遼二が唖然状態でいる。
「ああ……つい昨日のことだ。黄の爺さん共々、元住んでいた居住区に帰ると言い出してな」
焔は何とも言いようのない表情で気難しそうにしていた。
「何でまた急に……。お前さんたち、何かあったのか?」
遊郭街を仕切っていた悪の根源、羅辰がいなくなり、憂いもなくなったばかりのこの時期だ。痴話喧嘩でもしたという年齢でもないだろうにと思う。実のところ、焔自身よりも遼二の方がムキになってしまうような事態といえた。
「理由は俺にも分からん。爺さんから突然ここを出て行きたいと聞かされたのがつい一昨日の晩だ」
それまではいつもと何ら変わりなく、冰も黄老人もここでの生活に馴染んでくれていると思っていたそうだ。むろんのこと、喧嘩をするような何かがあったわけでもなく、ある意味唐突な申し出だったという。
「理由は? 何でここを出て行きたいのか訊かなかったってのか?」
遼二は未だ信じられないといった顔つきでいる。だが、焔には彼なりの見当が浮かんでいたようだ。
「はっきりと二人の口から聞いたわけじゃねえが――ひとつには俺に対する遠慮という感情なのかも知れねえと思っている」
「遠慮?」
「そもそも冰をここに住まわせることになったのは遊郭街から救い出す為だった。その遊郭街から羅辰が消えたことで、いわば憂いが無くなったわけだ。今後は女衒によって無理矢理拉致されるような事案もそうそう起きん。そんな中で冰も爺さんも俺にこれ以上厄介になるのは申し訳ないと思ったのかも知れん」
「申し訳ないって……。まあ、その気持ちも分からねえでもねえが」
もしかしたら黄老人は、自分たちが厄介になっていることで焔の将来の足枷になるとでも考えたのだろうか。
「変な話だが、もう冰が俺に嫁いでくる必要もなくなったわけだ。元々は冰との婚約話とて羅辰を欺く為の一時凌ぎだったわけだしな」
このまま皇帝邸たるここで共に暮らしていれば、いずれ焔に本当の結婚話が持ち上がった際に自分たちが迷惑な存在になるとでも思ったのだろうか。人の好い黄老人の考えそうなことではある。
「だがな、カネ――。実際、それだけでもねえと俺は思っているんだ」
「それだけじゃねえってどういうことだ。他にも理由があるってのか?」
「――あるとすれば、逆の意味でだろうな」
「逆?」
「このまま冰が俺の元で暮らせば、将来あいつに本当に惚れた女ができた際に言い出しづらくなる。爺さんはそっちの方も気にかかっているんじゃねえかと――な」
つまり、まだ学生の今はいいとして、冰が社会人になり、恋をしたとする。当然、結婚云々という話に発展することもあるだろう。そうなった際に、今まで世話になっておきながらこの邸を出て行くというのは心苦しい。だから今の内に元の生活に戻った方が、お互いの為にも賢明だということなのだろう。焔はそう思っているようだった。
「世間一般的に考えても――冰とて俺のような男と結婚するよりは、普通に女を娶って爺さんに孫の顔でも見せてやった方が幸せだろう」
「孫の顔って……」
焔の言いたいことは理解できる。だが、遼二には心から納得できる気がしないのも実のところであった。
「黄の爺さんってのはそんなことを考えるお人じゃねえだろうが。それに――冰にしたってそうだ。ここでお前さんと暮らしている時のあいつは幸せそうに見えたがな」
二人が出て行った原因はもっと他にあるのではないか、遼二にはそう思えてならなかった。
新しい体制で歩み出した遊郭街の経営も日を追うごとに軌道に乗り始めていた。そんな平穏な日常に翳りが差し始めたのは、焔邸の一角に遼二の事務所が完成し、ひと月が過ぎた頃だった。
「冰が出て行っただと?」
驚き顔で遼二が唖然状態でいる。
「ああ……つい昨日のことだ。黄の爺さん共々、元住んでいた居住区に帰ると言い出してな」
焔は何とも言いようのない表情で気難しそうにしていた。
「何でまた急に……。お前さんたち、何かあったのか?」
遊郭街を仕切っていた悪の根源、羅辰がいなくなり、憂いもなくなったばかりのこの時期だ。痴話喧嘩でもしたという年齢でもないだろうにと思う。実のところ、焔自身よりも遼二の方がムキになってしまうような事態といえた。
「理由は俺にも分からん。爺さんから突然ここを出て行きたいと聞かされたのがつい一昨日の晩だ」
それまではいつもと何ら変わりなく、冰も黄老人もここでの生活に馴染んでくれていると思っていたそうだ。むろんのこと、喧嘩をするような何かがあったわけでもなく、ある意味唐突な申し出だったという。
「理由は? 何でここを出て行きたいのか訊かなかったってのか?」
遼二は未だ信じられないといった顔つきでいる。だが、焔には彼なりの見当が浮かんでいたようだ。
「はっきりと二人の口から聞いたわけじゃねえが――ひとつには俺に対する遠慮という感情なのかも知れねえと思っている」
「遠慮?」
「そもそも冰をここに住まわせることになったのは遊郭街から救い出す為だった。その遊郭街から羅辰が消えたことで、いわば憂いが無くなったわけだ。今後は女衒によって無理矢理拉致されるような事案もそうそう起きん。そんな中で冰も爺さんも俺にこれ以上厄介になるのは申し訳ないと思ったのかも知れん」
「申し訳ないって……。まあ、その気持ちも分からねえでもねえが」
もしかしたら黄老人は、自分たちが厄介になっていることで焔の将来の足枷になるとでも考えたのだろうか。
「変な話だが、もう冰が俺に嫁いでくる必要もなくなったわけだ。元々は冰との婚約話とて羅辰を欺く為の一時凌ぎだったわけだしな」
このまま皇帝邸たるここで共に暮らしていれば、いずれ焔に本当の結婚話が持ち上がった際に自分たちが迷惑な存在になるとでも思ったのだろうか。人の好い黄老人の考えそうなことではある。
「だがな、カネ――。実際、それだけでもねえと俺は思っているんだ」
「それだけじゃねえってどういうことだ。他にも理由があるってのか?」
「――あるとすれば、逆の意味でだろうな」
「逆?」
「このまま冰が俺の元で暮らせば、将来あいつに本当に惚れた女ができた際に言い出しづらくなる。爺さんはそっちの方も気にかかっているんじゃねえかと――な」
つまり、まだ学生の今はいいとして、冰が社会人になり、恋をしたとする。当然、結婚云々という話に発展することもあるだろう。そうなった際に、今まで世話になっておきながらこの邸を出て行くというのは心苦しい。だから今の内に元の生活に戻った方が、お互いの為にも賢明だということなのだろう。焔はそう思っているようだった。
「世間一般的に考えても――冰とて俺のような男と結婚するよりは、普通に女を娶って爺さんに孫の顔でも見せてやった方が幸せだろう」
「孫の顔って……」
焔の言いたいことは理解できる。だが、遼二には心から納得できる気がしないのも実のところであった。
「黄の爺さんってのはそんなことを考えるお人じゃねえだろうが。それに――冰にしたってそうだ。ここでお前さんと暮らしている時のあいつは幸せそうに見えたがな」
二人が出て行った原因はもっと他にあるのではないか、遼二にはそう思えてならなかった。
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