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第三章
④
しおりを挟む──── 復讐。
その言葉が脳裏を掠めた時、アリシティアは息を呑んだ。
ずっと、考えていた事がある。
自死したとされたアリシティアの母は、本当は誰かに殺されたのではないだろうかと。
もしも、母と王の不貞を父が知っていたら、王家の姫に現れる『女神の瞳』を持つアリシティアを、国王の娘であると父は確信した事だろう。
最愛の妻が、よりにもよって他の男の子供を産んだと知った時、その怒りが向かう先は……
『出来損ないの人形』
たった一度だけ、父がアリシティアに吐き捨てた、彼の本音。
あの時、父がアリシティアに向けた言葉は、『リーベンデイルの生きた人形』を示唆するものではなく、父にとってアリシティアは『母の姿を模した人形』以外の何者でもないと、言いたかったのではないだろうか。
父は母だけを心から愛していた。父の微笑みはいつも母に向けられていた。
アリシティアを見る父は、目尻が下がり、穏やかに口角が上がっているのに、瞳の奥は冷たいままだった。
だが、母だけはアリシティアを愛してくれていた。愛しいと、アリシティアを見つめるその瞳が語っていた。
けれどその彼女は亡くなってしまった。 たった一人、幼いアリシティアを残して。
だからこそ、アリシティアは確信している。アリシティアを心から愛していた母が、アリシティアを残して自死などする訳がないと。
ならば、何故自死したように、母は死んだのか。
母を殺す動機があり、かつ、屋敷の中で彼女を自死に見せかけられる人物。それは、父以外には考えられない。
もし母への愛情よりも、憎しみの方が上回ってしまったのだとすれば……
父が最愛の母を殺し、母を奪った王への復讐を望んだのであれば、父は王本人を暗殺するのではなく、代償として父が奪われた大切な物と同じ位、王が大切にしてる物を王から奪い、父と同じ苦しみを王に与えようとしているのかもしれない。
王太子とエヴァンジェリンを暗殺し、それらの罪をエリアスにきせ、エリアスを冤罪で処刑させる事ができれば、王は愛する子供たちを失い、父の復讐は成立する。
父はエヴァンジェリンが、王家の血を引かない、『取り替え姫だ』とは知らないのだから。
これまでアリシティアは、王都のタウンハウスで、伯爵家には不相応な程に、望む物を全て与えられ、育てられた。
ただし、望んだ物しか、与えられることは無かった。
時折、アリヴェイル領の本邸に滞在しても、父と顔を合わせる事は殆どなく、アリシティアの毎年の誕生日も、母亡き後は、一度として祝われた事がなかった。
そして、本来であれば十六歳での社交界デビューですらも、アリシティアが何も望まなかった為に、デビューについての問い合わせすら、ありはしなかった。
だがまあ、そんな放置状態だからこそ、幼い時から王家の影として、王弟の元に入り浸り、貴族としての教育と影としての教育を受ける事ができたのだけど。
しかし、これでアリシティアに前世の記憶がなければ、貴族家の娘としての勉強すらまともにしていない、世界の全てが自分の思い通りになると勘違いした、無知な悪役令嬢が爆誕する所だったのではなかろうか。
まともに考える力すら持たない、父の傀儡となるような……
アリシティアは、自身が『愛されない娘』である事は自覚していた。
けれど『父に憎まれた娘』である事は、どうしても受け入れたくはなかった。
だから、父の行動の全てを、『変わり者の引きこもり貴族』であるが故だと、自分を納得させていた。
けれどいい加減、現実に向き合わなければならない。遅すぎる位だが。
何故なら、ルイスとアルフレードの命の期限である王太子暗殺事件まで、もう八ヶ月も残ってはいないのだから。
「はーー」
アルフレードの肩に顔を埋めたまま、アリシティアは深いため息を吐いた。
父は、アリシティアを自身の娘ではないと信じていて、裏切った母を自死に見せかけて殺した。これはあくまでも、可能性の一つでしかない。
それでも、アリシティアはずっと、それらの可能性から目を逸らしたくて、無意識のうちに父が王太子暗殺事件に関わっている可能性を排除していたのだ。
アリシティアが思考の沼に沈み、アルフレードの肩に顔を埋めている間にも、アルフレードとエドワードの会話は続いていた。
「それで、実際の所、国王と王太后はどうなんだ?」
エドワードの問いに、アルフレードは苦笑する。
「国内ですらそんな噂が出回っていないというのに、何故エディ叔父上だけではなく、ライリッヒ帝国にまでそんな噂が出回っているのか理由はわかりませんが、少なくとも、王太后陛下はとてもお元気です」
「では、国王は?」
「父は、少々体調を崩していますが、季節の変わり目に疲れが出たのだろうと王宮医師は言っていました。ただ、せっかく休みをとっている父上の元に、エヴァンジェリンが、滋養に良い飲み物だとか、活力がでる食べ物だとかを次々と持ち込み、休んでいるのか、エヴァンジェリンの遊び相手にされているのか……という状態ですね」
「それは、治る物も治らなさそうだ。相変わらず、姫らしくない姫だな」
エドワードは、リトリアンの現正妃の唯一の娘である、自由気ままな王女を思い出し、愉快げに笑った。
「今のままでは、他国に嫁がせる事もできませんよ。絶対外交問題を引き起こす」
アルフレードは深く嘆息する。そんな彼を見て、エドワードは不思議そうに問う。
「他国? 確か、第一王女は、お前の従弟であるラローヴェル侯爵に嫁ぐのではなかったか?」
瞬間、アルフレードの肩に顔を押し付けたままのアリシティアの身体が、ピクリと揺れた。同時にアルフレードの首元に巻き付けたアリシティアの両腕に力が籠る。
「どう、どう」
唐突にぎゅーぎゅーにしがみつかれたアルフレードは、小さな笑いを溢しながら、馬を宥めるように、アリシティアの腕をトントンと叩く。
「伯父上、ラローヴェル侯爵には、十歳の頃から婚約者がいますよ」
「ああ、知っている。この間ようやく社交界デビューをしたという、銀の髪に夜明け色の瞳の、女神リネスの生まれ変わりの如く美しい、女神の祝福の持ち主だろう?」
「リネスと同じ夜明け色の瞳だからと言って、祝福持ちだとは限りませんよ。女神の祝福なんて、ただの御伽話です」
「だが、少なくとも、近隣国や民は王太后が女神の祝福持ちだと信じているだろう?」
「そうかもしれませんが、事実、ライリッヒ神聖帝国に四十の雷を落としたのは、王太后ではありませんから」
「確か、大雨を降らせ雷を落としたのは、帝国兵たちに薬草畑を荒らされた、魔女の仕業だとか言っていたな。だが、我々他国の者からすれば、魔術師や魔女なんて存在の方が、余程御伽話のような、非現実的な存在だ。それよりは、女神の血族であるリトリアンの王族が、女神の瞳と祝福を持っていると言う方が、真実味がある」
「まあその噂で、他国が我が国に手を出さないのであれば、それはそれで良いんですがね。彼女は母方に王家の姫の血が入っている為に、たまたま王家に流れる女神リネスの特徴を持って生まれただけの、ごく普通の少女ですよ」
アルフレードは呆れたように嘆息し、足を組み替えた。そんな彼の瞳を、エドワードは面白がるように覗き込んだ。
「ごく普通? 我が国での噂では、女神リネスの再臨のような美姫だと言われているぞ」
「女神リネスの姿など、誰も知らないでしょうに」
いつも微笑を浮かべているアルフレードにしては珍しく、眉間に皺を寄せて不快げに答えた。
「まあ、その噂はどうでも良いのだが、その娘が単に夜明け色の瞳の持ち主であると言うだけなら、第一王女をお前の従弟と結婚させて、その娘、我が国にくれないか?」
エドワードがニヤリと口角を上げる。だが……
「伯父上、そのような事冗談でも口にしないでいただきたい」
「はあ? 何勝手な事言ってるのよ」
「絶対ダメに決まってるでしょ」
間髪入れず、アルフレード、アリシティア、ディノルフィーノの三人が、同時に口を開いた。さらには、
「ねぇ、王太子さま。このおじさん今すぐ帰ってもらおうよ」
不快げに口を尖らせたディノルフィーノが、どこから出したのか、カミソリのような薄い刃でできた円形の暗器“円月輪”の中央の穴に人差し指を通し、いつでも飛ばせるように、遠心力でクルクルと回している。
そんなディノルフィーノに、「ノル、流石に不敬だから。良い子にしていなさい」などと、アルフレードが窘める。
アリシティアはと言うと、さながらシャーシャーと威嚇する猫のように、アルフレードの背後から、敵意剥き出しでエドワードを睨みつけていた。
「はぁ。ドール、こっちむいて」
アルフレードの声につられて、アリシティアは横をむく。同時にアルフレードの手から、アリシティアの口の前に一口サイズの栗のタルトが差し出された。
アリシティアは幼い頃からの条件反射で無意識に口を開けて、タルトをもきゅもきゅと咀嚼する。
「美味しい?」
アルフレードに問われて、アリシティアはコクコク頷く。
いつのまにかテーブルの上のチェス盤は片付けられ、銀狐の仮面を被った館主によって、茶と軽食が運ばれてきていたようだった。
館主は銀狐の仮面で顔の上半分を隠していてなお、誰をも魅了するその美貌で、凍えるような笑みを浮かべ、エドワードを見すえている。
その姿に、アリシティアとディノルフィーノの背筋には、冷たい汗が伝った。
「怖っ。ねぇ、王太子さま。俺、帰ってもいい?」
ディノルフィーノが小声でアルフレードに問う。だが、返ってきた言葉は無情だった。
「今日のノルは、私の護衛だからね。ヴェルが切れた時には、君が止めてね」
「うぇ…」
顔を引き攣らせるディノルフィーノを見て、アルフレードはにっこりと微笑えんだ。
ちなみに、ヴェルとは、ラローヴェルのヴェル。影としてのルイスの呼び名である。
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