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1巻

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   ***


 簡易的な寝台の上から、ルイスはアリシティアを見下ろした。

「ねぇ。いい加減影の騎士団なんて、やめれば? 伯爵令嬢である君がそんなことをする必要なんて、何一つないんだから」

 普段の甘い雰囲気はかき消され、不機嫌そうな声と冷たい視線がアリシティアに注がれる。

「前にも言ったと思いますが、私が王家の影となったのは、王弟殿下と私が結んだ契約です。関係のない閣下は、私の行動に口出ししないでください」
「僕は君の婚約者だから、口を出す権利はある筈だよ」

 ルイスの言葉に、アリシティアはくすりと笑った。

「ふふっ、八年間完全に私をいないものとして扱い続けて、今もお姫様の前では私のことなど見えてもいらっしゃらないのに? そんなあなたが婚約者の権利を主張するなんて、おかしな話ですね」

 アリシティアの皮肉に答えることなく、ルイスは別の問いを口にした。

「……なぜ君は、叔父上と契約してまで、影の騎士団にいる必要があるの?」
「それに関しても、私個人の事情ですので、閣下には関係のないことです」

 きっぱりと拒絶するアリシティアに、ルイスはそれ以上の質問はしなかった。
 小さくため息を吐き、ポケットの中からピンク色の液体が入った小瓶を取り出す。

「魔女殿から貰った解毒剤だ。これを飲むと三十分程で、君が飲まされた妙な薬の効き目は消えるらしいよ」
「え、嫌です。何を材料にしているかわからない魔女の薬なんて、絶対飲みたくありません。イモリの目玉とか、蝙蝠こうもり睾丸こうがんとか入ってたらどうするんですか」
「効果があるなら、材料なんて気にしないよ。これにりたら、次からはわざと誘拐されるような真似はやめるんだね」

 小瓶の蓋を開けたルイスは中の液体を自らの口に含む。そして躊躇ためらうことなくアリシティアの唇に自分の唇を重ねた。
 閉じていたアリシティアの唇を、ルイスは舌先で優しく舐める。アリシティアの体から力が抜けた瞬間、ルイスの舌がぬるりと口内に侵入し、わずかに開いた唇の隙間から、甘ったるい液体がゆっくりと流し込まれた。
 コクリと数度喉が鳴り、アリシティアが薬を飲み込んだことを確認し、ルイスは唇を離した。 
 そのまま体を起こして、彼はアリシティアの姿を見下ろす。ルイスの瞳には、熱も情欲も、何も感じられなかった。

(強いて言えば、怒り……か)

 アリシティアが小さくため息を吐いた時、再び唇が重なった。
 ちゅっ、と音を立てて少し離れたかと思うと、すぐにまた唇が重なり、角度を変えてどんどん深くなっていく。わずかに開いた隙間から、舌がねじ込まれ、アリシティアの舌を絡め取る。
 くちゅりと水音が響き、ルイスの舌先が巧みにアリシティアの口内をもてあそんだ。舌が絡みついては舌先をくすぐり、唾液が絡まり合う。
 ゾクゾクとする感覚が、アリシティアの全身を駆け巡った。
 口内の粘膜を擦り合わせるだけの行為なのに、下腹部に得体の知れない熱が集まり、うずき出すのを自覚する。
 わずかに離れたアリシティアの唇から甘い吐息が漏れた時、ようやく唇が解放された。

「なんで……?」

 アリシティアの問いに答えは返ってこない。
 視線が絡まる。目を逸らしたくても逸らせない程に美しい瞳が、アリシティアを見つめていた。
 見つめ合っていたのはほんの一瞬なのか、それとももっと長い時間だったのか……
 角度を変えて、再びルイスの唇が合わせられ、差し入れられた舌が口蓋を舐めて歯列の裏をなぞる。

「ふっ……ん……」

 ルイスの手が、アリシティアの頬から首筋をなぞり、胸の膨らみをゆっくりと持ち上げるように揉みしだいていく。
 合わさった唇からは淫靡いんびな水音が絶えず響く。ルイスの指先がアリシティアのドレスの胸元を引きずり下ろした。
 コルセットに押さえられていた胸が勢いよく溢れ出し、薄く色づいた突起が存在を主張する。その突起を指先でつまんで押しつぶすように捏ねられ、アリシティアは目を見開いた。甘いうずきに狂いそうになる。

「ふっ、ああっ……」

 塞がれていた唇が解放された瞬間、小さな嬌声が室内に響く。ルイスはアリシティアの上唇をペロッと舐めた後、顔をずらして胸元にいくつものキスを落とし、胸の突起を舌先で突いた。

「ねえ、体の自由を奪われて、酷いことされたりしなかった?」 

 胸を揉んでいたルイスの右手が、いつの間にかスカートの中に入り込み、アリシティアの滑らかな太ももを撫で上げていく。

「んっ。酷いことは、今、あなたにされて……ます」

 オークションの目玉となる商品に手を出す馬鹿はいない。
 そう言いたかったが、鼻にかかる甘い嬌声にかき消されて、そこまで口に出すことはできなかった。

「うん、そうだよね。でも……」

 囁くように話しながら、ルイスは甘い笑みを浮かべ、長い指で下着の上から割れ目をなぞる。溢れ出した蜜が下着に染みて、布越しなのにくちゅりと音がした。
 アリシティアは恥ずかしさから耳を塞ぎたくなる。けれど、まだ薬が効いていて、腕すらも自由に動かすことはできなかった。

「んぁっ……。お願い、体が動かないの、辛いから……」

 動かない体がもどかしくて、思わず涙が溢れ出す。

「どうして?」
「……だって、……すごく怖いのに、あなたを抱きしめられない……」

 アリシティアの言葉に、彼女の胸の突起をもてあそんでいたルイスは甘い微笑みを浮かべた。そして一度体を離すと、アリシティアの体をぎゅっと強く抱きしめる。

「そうだね……」

 包み込まれた熱の心地よさに、アリシティアの体から、ふっと力が抜けた。
 けれどたったの数十秒で、アリシティアの体を覆っていた熱は呆気なく離れた。熱を失った体が寂しく感じる。
 ルイスの指は器用に下着を横にずらし、隠された部分をあらわにしていく。
 アリシティアの体内から溢れ出した蜜を長い指先に絡めて、ぬるりと割れ目に沿って滑らせる。やがて彼の指先はぷっくりと膨らんだ花芯を見つけ出し、親指の腹でくるくると愛で始めた。
 刺激を受けたアリシティアの腰が小さく震える。

「ふぁ、ああっ」

 ルイスは、体の動かないアリシティアの反応を確かめるように見つめている。やがて割れ目の周囲を何度も撫で上げていた指が、つぷりと中に差し込まれた。

「痛くない?」
「……い……たく……ない」

 小さな問いに掠れた声で答えると、優しかった手の動きが激しさを増す。
 ぐちゅぐちゅと指が何度も出入りして、彼女の中の感じる部分を強く擦り、官能を呼び覚ましていく。

「んっ、ああ……」

 アリシティアの唇からは、押し殺したような嬌声が零れた。

「ね、あと少しだけ声を我慢して? 扉の外には人がいるから」

 その言葉に、アリシティアの心臓が大きく脈打った。そんなことを言うならやめてほしいと切に願う。
 だが、そんな彼女の様子を気にすることもなく、ルイスの長い指はさらに奥へ押し進み、内壁を確かめるように、ゆっくりと中をかき回し始める。
 体が動かないせいか、アリシティアは敏感に指の動きを捉え、快楽を拾ってしまう。
 アリシティアの中に差し込まれた長い指は奥深くを抉り、彼女の感じるところを何度も擦る。
 その度にアリシティアの喉からは、殺しきれない甘く熱い声と吐息が零れていく。
 ルイスは再び、舌先で彼女の胸の先を刺激する。アリシティアの中に埋め込んだ指とは別の指に溢れ出た蜜をまとわせて、花芯をなぶるように刺激した。

「んぁ……」

 アリシティアの体はわずかに揺れるだけで、自由にならない。それが快楽と共に恐怖を呼び込んだ。いきすぎた快楽に、体が、脳が、犯されていく。
 溢れ出た愛液はルイスの手だけではなく、自分の足までぐっしょりと濡らしているだろう。考えただけで、羞恥で顔が朱に染まった。
 ルイスは少し顔を上げて、花芯をもてあそぶ指にぎゅっと力を入れた。瞬間、動かないはずの腰が反射的に大きく跳ねて、四肢が強張こわばっていく。
 何かにすがりたくても、手が動かない。涙が溢れ出す。そんなアリシティアの体をルイスが強く抱きしめた。

「大丈夫、抱きしめている」

 耳に唇が触れて、甘い声が響く。ぞくりと背中を快楽が駆け抜け、理性が壊れる。

「あああっ……」

 頭の中が真っ白にぜた。
 背中がって全身がぴくぴくと震え、やがて、固まっていた四肢が弛緩しかんした。
 詰めていた息を吐き出したアリシティアは、しばらくの間荒い呼吸を繰り返しながら、朦朧もうろうとした状態でルイスを見上げる。

った? 自分の意思で体は動かなくても、反射反応はあるし、声も普通に出せる。痛みもない。ただ、感覚がいつもより鋭く恐怖心があるのは、体が動かないせいなのか、それとも……」
(そっか、薬が体に与える影響を確認してただけなのね……)

 ルイスの独り言のような言葉を耳にして、アリシティアはルイスに期待した自分の愚かさを笑いそうになった。
 アリシティアの唾液に濡れた唇を、ルイスの綺麗な親指がなぞり、涙が溢れた目元にキスを落とす。
 ルイスはアリシティアの全身を軽く拭い、手早くドレスを整えた。
 体はルイスの熱に犯されたままで、離れていく熱にすがりつきたくなる。だが、未だ指先すら自由には動かなかった。

「部屋の入り口には護衛をつけておくね。目立たない馬車を用意しておくから、体が動くようになったら邸に帰って休んで。わかっているとは思うけど、人に顔を見られないように。あと、早急に叔父上に報告して」

 淡々と告げるルイスに文句を言いたかったが、反論するのをやめた。
 心の中で、自分は精神的にルイスなどより遥かに大人だと言い聞かせる。
 これ以上傷つかないように。
 肉体年齢に精神年齢が引っ張られることがないように。
 ……でなければ、復讐なのか、気まぐれなのかはわからないが、こんな、抱き人形をもてあそぶような扱いは、きっと耐えられないから。

「……わかりました」

 了承したアリシティアを見て、ルイスは彼女の両目を手のひらで覆う。

「少しだけ眠って」

 言われるがまま、アリシティアは目を閉じた。

「いい子」

 ルイスはアリシティアの額にキスして立ち上がり、扉の鍵を開けた。当然、薬が効くまでの三十分間だけでも付き添ってくれたりはしないらしい。

「閣下はこれからどこへ行かれるのですか?」

 徐々に薄れる意識の中で、言いようのない虚しさを感じる。それでも消えることのない小さな期待から、わかりきっていることを問いかける。

「王宮」

 短いルイスの答えに、アリシティアは胸に強い痛みを感じた。
 身動きの取れない婚約者を放置して、アリシティアの最愛で最悪の婚約者は、恋するお姫様のところへ行くのだろう。
 ありふれた恋愛小説では、婚約者に裏切られた女性は、即座に見切りをつけて、なんだったら復讐さえしてみせて、新しい生き方を見つけていく。
 彼女たちに、どうすればこの恋心を殺せるのか教えてもらいたい。
 叶わない恋などしたくない。
 報われない愛など捨ててしまいたい。
 なのに、体を重ねる度に淡い期待を抱いてしまう。ルイスの行為が、恋とは別のものだと知っているくせに。
 ゆっくりと沈みゆく意識の中、アリシティアは深く息を吐き出す。それは常よりも、どこか乾いて響いた。
 部屋から出て行くルイスが扉を閉める音を聞きながら、アリシティアは胸の痛みに蓋をする。

「大丈夫。まだ大丈夫」

 小さく呟き、アリシティアはそのまま意識を手放した。


 扉を閉める寸前、ルイスはわずかに振り返り「おやすみ、僕の眠り姫」と呟いていた。
 けれどその言葉が、彼女に届くことはなかった。


   ***


 控室を出て扉を閉めたルイスは、自身に付いている影の名前を呼ぶ。

「ノル、いる?」
「は~い。お呼びですか」

 通路の陰から姿をみせた黒髪の少年は、血に濡れた剣を手に、屈託なく微笑む。

「アリシティアの護衛を頼む。部屋には絶対に誰も入れないで。無理に入ろうとする奴がいたら殺していいよ」
「了解で~す。ねぇ、アリアリはぁ?」
「動けるようになるまで、眠らせた」
「薬でも盛ったの?」
「内緒。多分三十分くらいで目覚めると思うけど、一時間経っても中から出てこないようなら、扉を叩いて起こして。でも中は見るな。勝手に部屋に入ったりしたら、お前でも殺すよ?」

 ルイスの言葉に、ノルと呼ばれた少年はケラケラと笑い声をあげた。

「えー、相変わらず心狭すぎ~。そんなに心配なら連れて帰ればいいのに」
「うるさいな。そのまま邸に帰れるなら、僕だって連れて帰りたいよ。できないから言ってるの。頼んだからね」
「はいはーい」
「『はい』は一回。語尾は伸ばさない」
「はーい。ねぇ、今からどこ行くの?」
「王宮」
「あー、後始末かぁ。アリアリに意地悪したご令嬢のこと、殺しちゃだめだよ? 王弟殿下に怒られちゃうからね」
「善処するよ」 
「本当かなぁ。俺、とばっちりで怒られるのやだからね」
「わかってるよ。アリスをよろしく」

 黒髪の少年に軽く手を振って、ルイスは未だ悲鳴と剣戟けんげきの音が響く通路の奥へと姿を消した。


   ***


 使用人の姿もまばらな早朝の王宮。
 広い廊下を一人歩いていたアリシティアは、美しい彫刻が施された重厚な扉の前で足を止めた。
 冷えた空気を吸い込み、ノックをする。

「アリシティアです」

 アリシティアは中から返事が返ってこないことを祈るが、室内からは間を置くことなく「どうぞ」と返事が聞こえた。
 思わず舌打ちしたくなるが、ぐっと堪えて扉を開く。

「おはよう、アリス。薬を盛られたと聞いたけど、体調は?」

 まだ大半の文官が出勤していない時間帯だというのに、この執務室の主である王弟は、部屋の最奥で書類片手に優雅に珈琲コーヒーを飲んでいた。その隣には、秘書官の姿もある。
 国王の異母弟であり、王家の影を統べる王弟は、まだ三十四歳という若さだ。

「おはようございます、王弟殿下、フェデルタ様。体調は問題ありません。ご心配をおかけして、申し訳ございませんでした。それにしても、なぜこんな朝早くから仕事をしていらっしゃるのです? 平時であるのに始業時間を守らない上官は、部下に嫌われますよ」
「こんな朝早くから尋ねてきた君には、言われたくないね。それに、その部下っていうのは、君のことだろう?」

 わずか九歳で、自ら王家の影になることを望んだ少女の不遜な態度を咎めることなく、王弟はくすりと笑う。鮮やかな金髪にルイスと同じタンザナイトの瞳、どこか気怠けだるげな表情は妙に退廃的で、浮世離れした大人の色香をまとっていた。
 ただ、彼はその麗しい外見からは想像できない程、王族としての非情さと冷酷さを持ち合わせている。

「もちろんです。この執務室に王弟殿下がいらっしゃらなければ、私は殿下に叱られることなく、自邸に帰って眠れたのに」

 飄々ひょうひょうと答えるアリシティアに、王弟の隣に立つ秘書官のフェデルタは、呆れたような表情を浮かべた。

「嫌なことを先延ばしにしても、結果は何も変わらないでしょうに」

 秘書官の言葉に、アリシティアは肩をすくめてみせた。

「仕事であろうが義務であろうが、面倒なことや嫌なことは、可能な限り先延ばしにしたいじゃないですか。それに忘れたふりをしていたら、そのうちなかったことになるかもしれないし」
「それはないな」
「ないですね」

 カップを口に運ぶ王弟に続き、秘書官までもが、アリシティアの言葉を否定する。
 不満げに押し黙るアリシティアを横目に、王弟は書類を置き立ち上がった。

「影の騎士団の一員の言葉とは思えないな。だが、理想の上官である優しい私は、まずは部下の言い分を聞いてあげよう」

 視線でソファーを示されて、アリシティアはしぶしぶと腰を下ろした。

「それで? なぜ君は私の許可なくわざと誘拐なんてされたのかな? 私は君に、一連の令嬢誘拐事件について調べろとは言ったが、おとりになれとは一言も言っていないよ。君の勝手な行動のせいで、情報収集のために泳がせていた組織を一つ、早々に潰すことになってしまった。自分が何をしたか、わかっているよね? 君のせいで、この私が第三騎士団と警吏の長官から文句を言われるんだよ?」

 王弟は嫌みったらしく、アリシティアの失敗を強調する。

「……わざとではありません」

 アリシティアはうつむき、叱られた子供のように、モゴモゴと言い訳した。
 確かに王家の影として訓練されたアリシティアにとって、昨夜の誘拐犯程度であれば、自分の身を守り逃げることは容易たやすかっただろう。
 けれどアリシティアは逃げないことを選択した。令嬢誘拐事件について、ほんの少しでも手がかりがほしかったのだ。

「アリス、私は影として動く君の自由を許した。けれど、命の危険がある時は別だ。君は正体のわからない誘拐犯にあえてついて行ったばかりか、オークションでの奴隷売買のための薬まで飲んで、自分の身を危険に晒した。それだけじゃない。あの闇オークション会場には監視中の貴族も多くいた。君の不用意な行動で、予定外に彼らを捕らえることになり、多くの人間のこれまでの仕事が無駄になったんだ」

 口調こそ柔らかいが、王弟の声には底知れぬ冷たさと、威厳に満ちている。

「申し訳ございませんでした」

 アリシティアは、深く頭を下げた。
 令嬢誘拐事件は、ここ最近、王都の水面下で問題になっている事件だ。貴族令嬢が誘拐され、そして、多くの令嬢は数日後何もなかったかのように、解放される。
 だが被害にあった貴族たちは、娘の体面を守るため被害を訴え出ることはなく、事件は表沙汰にならない。王家はこの件を重く見て、影たちを使い事件を秘密裏に調べていた。

「謝罪より、理由が聞きたいね」
「私が連れ出された先の庭園に現れた誘拐犯たちが、私を見て、『これなら高く落札されるだろうな』と言ったからです」

 王弟はアリシティアの言葉を遮ることなく、視線だけで先を促す。

「王都で起こっている一連の誘拐事件で、誘拐された令嬢の結末は二つ。身代金が支払われた形跡もないのに、数日、長くとも一週間程で、何事もなく家に返されるか。もしくは……」
「闇オークションで売られるか」
「そうです。家に返されず、闇オークションにかけられた令嬢は三人。私は今まで、犯人たちが身代金以外のなんらかの取引を行うために、誘拐事件を起こしているのだと思っていました。だから、闇オークションにかけられたイレギュラーな令嬢たちは、家族がその取引を拒絶したのだろうと。けれど、私を誘拐しようとした男たちは、アリヴェイル伯爵家と取引する様子はなく、元々私を闇オークションにかける気でいました」

 アリシティアの説明に、王弟はふむと考え込む。

「庭園にいた誘拐犯たちと一連の誘拐事件の犯人を同じだと考えたなら、奇妙ではある。だが、君の事件はそれとは関係ないのでは? 昨夜の件はエヴァンジェリンが単純に君個人を排除しようとした、単独の事件と見るのが妥当だと思うが」
「確かに、昨夜の件はお姫様が私を排除しようとして起きたのだろうとは思います。ですが、お姫様が、私を『リーベンデイルの生きた人形』として、競売にかける理由は? 周到な計画を立ててまで私を誘拐させ、さらには私を闇オークションにかけるなんてことを、世間を知らないお姫様本人が考えつくとは思えないんです」
「入れ知恵した者がいると?」
「だって、普通なら、誘拐したとしても、殺すか、陵辱させるかではないでしょうか? 私なら殺します」

 アリシティアが淡々と言うと、王弟はわざとらしく肩をすくめた。

「君は時々恐ろしいことを言うね」
「そうでしょうか。そもそも、誘拐当日に闇オークションにかけることは、闇オークションに関わりが深い人間にしか無理でしょう? 組織側だって、オークションに深く関わっていない人間が誘拐してきた令嬢を、その場でオークションにかけたりはしないはず。それこそおとりかもしれないのだから。どう考えても、お姫様とは無縁の世界でしょう?」
「それで、君はあえて誘拐されてみた訳か」
「お姫様に入れ知恵をしている人間と、一連の令嬢誘拐事件に繋がる何かがあるなら、調べてみたかったんです」

 アリシティアは神妙な顔で答えた。
 令嬢誘拐事件はアリシティアが王家の影となった要因である。小説の中のルイスが命を落とす原因だからだ。
 アリシティアは、どんなことをしても、ルイスが王女を庇って死ぬ建国祭までに、この事件を解決したかった。
 原因を排除できれば、ルイスが殺されることはない筈だから。

「……エヴァンジェリンについては、こちらで調べてみよう。君はこの件に深入りしすぎている。それで、わざと誘拐されて、他に何かわかったことは?」
「あの書類に書いてあること以外は、何もわかりませんでした」

 王弟の執務机の上の書類を、アリシティアは視線で指し示す。それはアリシティアが昨夜、闇オークション会場で盗み出し、先程王弟が読んでいた書類だった。

「それでさらに深入りして、怪しげな薬を飲んでまで、愛玩奴隷として競売になんてかけられた訳か」
「申し訳ございません」

 再び頭を下げたアリシティアを見て、王弟はふっと短い息を吐く。それと共に、張り詰めていた室内の空気がやわらいだ。

「まあいい。君へのお説教はこれくらいで許してあげよう。だけどルイスにはしっかりと謝罪して、礼を言っておくように」
「は?」

 安堵したのは一瞬で、アリシティアの口からは、令嬢らしからぬ低い声が漏れた。

「わざと誘拐された愚かな君のために、最愛の婚約者が君を救いに行っただろう?」
「確かに、十億レプタで私を落札して、嫌みな説教をしたあげく、動けない私を放置して大切なお姫様のところに行ってしまわれた、最悪な婚約者ならきましたね」
「十億レプタか、すごいね。王都に大邸宅が建つ金額だ」

 王弟は組んだ足の上で頬杖をつき、意味深な笑みを浮かべた。

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