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第二章

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 ほんの数秒、時間がとまったように室内に静寂が満ちた。

「アリス」

 ルイスがアリシティアを呼び、抱きしめる腕に力を込める。ピクリとアリシティアが反応した。一度目を閉じ、すっ…とアリシティアが息を吸う。彼女が再び目を開けた時、止まっていた世界が動き出した。
 その姿はまるで、女神に命の息吹を吹き込まれた人形が、突如呼吸をはじめたようだった。


 アリシティアは笑う。いつも通り、何もなかったかのように。
 そして、彼女の大好きな幼なじみへの揶揄いを込めて、鈴を転がすように可憐で、透き通る声を響かせた。

「リアスはずっとレティシア様が大好きだったんだものね。何度も振られてるのにあきらめが悪いよね」

 アリシティアはルイスの心情になど気付く事無く、エリアスに皮肉を向ける。

「振られてないし、レティシアは俺の事が好きなんだから、諦める必要はないんだよ」

 咄嗟に反論するエリアスを見て、アリシティアはコロコロと可愛らしく笑う。

「毎回告白して、毎回拒絶されてるのよね? そういうのを振られたって言うのよ。モテモテの王子様はご存知ないようだけどね。世の中の全ての女が自分の物になるなどと思い上がらない事ね。あんまりしつこいと嫌われちゃうわよ?」

「だから、そもそもが好かれてるんだって」

「そう? でもレティシア様はアルフレードお兄様を狙ってるのよ?リアスに、アルフレードお兄様に勝てる要素があるとでも思っているの?」

「そうだとしても、兄上がレティシアを選ばなければ、俺にチャンスはあるだろ?」

「それは確かにあるかもね。でも、王太子がダメだったから、次は第二王子って言われて、あなたは自分が本当に愛されると思えるの? 後から本命やより良い条件の相手が出てきたらどうなるか、不安にならない? 一度捨てた相手を廃品利用しても、不要になればまた捨てられるだけじゃないかしら…」

「俺を廃品扱いするなよ。不要になんてさせない。俺がいなければ生きていけないと思うくらいに、惚れさせたらいいんだろう」

「あら素敵。まるで恋愛小説のヒーローみたい。けどね、リアスは現実を見るべきよ。生レティシア様はね、ものすごーく、高嶺の花なの。惚れさせる以前の問題じゃない。だって相手にされていないんだもの」

「生ってなんだ。だいたいレティシアは、貴族の娘の義務として、より良い相手を探しているだけだ。俺は彼女の生き方を尊重している」

「それなら彼女の選択を尊重するのも、愛の一つではない?」

「それは……」

 言葉に詰まり、アリシティアを睨むようにエリアスは押し黙った。そんなエリアスを見て、アリシティアは勝ち誇るように嗤った。

 恋愛に関しては、とことんまで現実主義のアリシティアと、恋愛に夢をみたいエリアスが言い争っているどこか滑稽な姿を、ただルイスは眺めていた。



 会話の中に見え隠れしているアリシティアの想いが、ルイスがアリシティアに与えた傷が、剥き出しになっている。そんな彼女の心の傷を見て、全てがルイス自身のせいだとわかっているのに、哀しむ身勝手な自分がいる。
 あの嵐の日のローヴェル邸で、幼すぎたルイスが彼女の心に突き刺した言葉の刃は、今も彼女の心に深く刺さったままだった。


 間違いなく、ルイスはアリシティアに愛されてはいる。ずっと一緒にいた幼い日も、彼がアリシティアを拒絶し大嫌いだと叫んだ時も、6年間、彼女から目を逸らし続けた間でさえ、きっと彼女はただ一途にルイスを愛してくれていた。
 けれど、そのひたむきで一途な愛情と同じ分、彼女は傷ついて、取り返しのつかない程に心は砕けていた。



──────ああそうか。



 ルイスの頭の中が冷えていく。本当は心のどこかで、なんとなく気づいていたのかもしれない。それでも、彼女がいつも笑っているから、楽しそうにしているから、僅かに感じる違和感に真剣に向き合おうとしなかった。
 それはルイス本人には決して直接向けられる事のない物。アリシティアの粉々に砕けた心の欠片が上げる悲鳴。
 その中には今も、嵐の日にルイスが傷つけ拒絶した、傷だらけで泣いている少女がいる。

 幼い彼女の泣き声を聞きたくなくて、傷だらけの今の彼女を見たくなくて、ルイスは無意識に彼女の心に向き合う事を、避け続けていたのかもしれない。

 彼女の心は何があってもルイスをただ、愛し続ける。それは知っている。
 それでも、彼女に愛を告げるのが怖い。きっと彼女は拒絶しない。けれど、その言葉を口にしてしまうと、嫌でも思い知る事になる。
 昔のように、全てを受け入れてくれて、絶対的な信頼を寄せてくれた彼女を、愚かな自分が壊してしまったのだという事を。


 ルイスが彼女を拒絶した後の6年の間に、彼女はルイスに何かを求める事を諦めた。希望も期待も、全てが彼女の中で崩れ落ちた。
 そして、ルイスが人前では彼女から視線を逸らし続けていたのに、裏で彼女を抱いていたことが、彼女の中の彼女自身の価値を地に落とした。

 ルイスはただ、彼女の体を他の誰にも触れさせたくはなかった。何よりも、彼女を抱いている間は、普段隠している彼女の心に触れる事ができた。だから何度も彼女の体に己を刻んだ。
 けれど、そのせいだろうか。今こうして彼女を抱きしめていても、アリシティアはルイスとの永遠を求めようとすらしない。いや、ルイスだけではない。彼女は何の未来も望んではいない。



『本命やより良い条件の相手』


 つまり、政治的な状況さえ許すなら、ルイスがエヴァンジェリンを選ぶと、アリシティアは確信している。いや、望んでいるのかもしれない。他ならぬルイスの為・・・・・に。



────── だめだ…



 ルイスしか愛せない彼女は、ルイスの望みを叶える為に何をする気なのか。
 ふと浮かんだ一つの可能性に、ルイスは唐突にアリシティアの腕を掴み、扉に向かって歩き出した。

「えっ?閣下?」

 急に腕を引かれて、アリシティアが戸惑った声を出す。そんな彼女に答える事なく、ルイスは振り返った。

「アルフレード兄上。おおよその話はわかりました。先にアリスと話をさせて下さい」

「……そうだね、その方がいいだろうね。叔父上の許可は貰っておいてあげるから、思うようにしなさい。私もその間に、後先考えずに思いついた事を口にする愚かな弟に、お仕置きをしておこうかな」


 アルフレードがアルカイックスマイルを浮かべたのを見て、ルイスは笑った。

「僕の分までお願いします」

 短く言い残し、アリシティアを連れたルイスは王太子の執務室を後にした。




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