118 / 187
第二章
3
しおりを挟むほんの数秒、時間がとまったように室内に静寂が満ちた。
「アリス」
ルイスがアリシティアを呼び、抱きしめる腕に力を込める。ピクリとアリシティアが反応した。一度目を閉じ、すっ…とアリシティアが息を吸う。彼女が再び目を開けた時、止まっていた世界が動き出した。
その姿はまるで、女神に命の息吹を吹き込まれた人形が、突如呼吸をはじめたようだった。
アリシティアは笑う。いつも通り、何もなかったかのように。
そして、彼女の大好きな幼なじみへの揶揄いを込めて、鈴を転がすように可憐で、透き通る声を響かせた。
「リアスはずっとレティシア様が大好きだったんだものね。何度も振られてるのにあきらめが悪いよね」
アリシティアはルイスの心情になど気付く事無く、エリアスに皮肉を向ける。
「振られてないし、レティシアは俺の事が好きなんだから、諦める必要はないんだよ」
咄嗟に反論するエリアスを見て、アリシティアはコロコロと可愛らしく笑う。
「毎回告白して、毎回拒絶されてるのよね? そういうのを振られたって言うのよ。モテモテの王子様はご存知ないようだけどね。世の中の全ての女が自分の物になるなどと思い上がらない事ね。あんまりしつこいと嫌われちゃうわよ?」
「だから、そもそもが好かれてるんだって」
「そう? でもレティシア様はアルフレードお兄様を狙ってるのよ?リアスに、アルフレードお兄様に勝てる要素があるとでも思っているの?」
「そうだとしても、兄上がレティシアを選ばなければ、俺にチャンスはあるだろ?」
「それは確かにあるかもね。でも、王太子がダメだったから、次は第二王子って言われて、あなたは自分が本当に愛されると思えるの? 後から本命やより良い条件の相手が出てきたらどうなるか、不安にならない? 一度捨てた相手を廃品利用しても、不要になればまた捨てられるだけじゃないかしら…」
「俺を廃品扱いするなよ。不要になんてさせない。俺がいなければ生きていけないと思うくらいに、惚れさせたらいいんだろう」
「あら素敵。まるで恋愛小説のヒーローみたい。けどね、リアスは現実を見るべきよ。生レティシア様はね、ものすごーく、高嶺の花なの。惚れさせる以前の問題じゃない。だって相手にされていないんだもの」
「生ってなんだ。だいたいレティシアは、貴族の娘の義務として、より良い相手を探しているだけだ。俺は彼女の生き方を尊重している」
「それなら彼女の選択を尊重するのも、愛の一つではない?」
「それは……」
言葉に詰まり、アリシティアを睨むようにエリアスは押し黙った。そんなエリアスを見て、アリシティアは勝ち誇るように嗤った。
恋愛に関しては、とことんまで現実主義のアリシティアと、恋愛に夢をみたいエリアスが言い争っているどこか滑稽な姿を、ただルイスは眺めていた。
会話の中に見え隠れしているアリシティアの想いが、ルイスがアリシティアに与えた傷が、剥き出しになっている。そんな彼女の心の傷を見て、全てがルイス自身のせいだとわかっているのに、哀しむ身勝手な自分がいる。
あの嵐の日のローヴェル邸で、幼すぎたルイスが彼女の心に突き刺した言葉の刃は、今も彼女の心に深く刺さったままだった。
間違いなく、ルイスはアリシティアに愛されてはいる。ずっと一緒にいた幼い日も、彼がアリシティアを拒絶し大嫌いだと叫んだ時も、6年間、彼女から目を逸らし続けた間でさえ、きっと彼女はただ一途にルイスを愛してくれていた。
けれど、そのひたむきで一途な愛情と同じ分、彼女は傷ついて、取り返しのつかない程に心は砕けていた。
──────ああそうか。
ルイスの頭の中が冷えていく。本当は心のどこかで、なんとなく気づいていたのかもしれない。それでも、彼女がいつも笑っているから、楽しそうにしているから、僅かに感じる違和感に真剣に向き合おうとしなかった。
それはルイス本人には決して直接向けられる事のない物。アリシティアの粉々に砕けた心の欠片が上げる悲鳴。
その中には今も、嵐の日にルイスが傷つけ拒絶した、傷だらけで泣いている少女がいる。
幼い彼女の泣き声を聞きたくなくて、傷だらけの今の彼女を見たくなくて、ルイスは無意識に彼女の心に向き合う事を、避け続けていたのかもしれない。
彼女の心は何があってもルイスをただ、愛し続ける。それは知っている。
それでも、彼女に愛を告げるのが怖い。きっと彼女は拒絶しない。けれど、その言葉を口にしてしまうと、嫌でも思い知る事になる。
昔のように、全てを受け入れてくれて、絶対的な信頼を寄せてくれた彼女を、愚かな自分が壊してしまったのだという事を。
ルイスが彼女を拒絶した後の6年の間に、彼女はルイスに何かを求める事を諦めた。希望も期待も、全てが彼女の中で崩れ落ちた。
そして、ルイスが人前では彼女から視線を逸らし続けていたのに、裏で彼女を抱いていたことが、彼女の中の彼女自身の価値を地に落とした。
ルイスはただ、彼女の体を他の誰にも触れさせたくはなかった。何よりも、彼女を抱いている間は、普段隠している彼女の心に触れる事ができた。だから何度も彼女の体に己を刻んだ。
けれど、そのせいだろうか。今こうして彼女を抱きしめていても、アリシティアはルイスとの永遠を求めようとすらしない。いや、ルイスだけではない。彼女は何の未来も望んではいない。
『本命やより良い条件の相手』
つまり、政治的な状況さえ許すなら、ルイスがエヴァンジェリンを選ぶと、アリシティアは確信している。いや、望んでいるのかもしれない。他ならぬルイスの為に。
────── だめだ…
ルイスしか愛せない彼女は、ルイスの望みを叶える為に何をする気なのか。
ふと浮かんだ一つの可能性に、ルイスは唐突にアリシティアの腕を掴み、扉に向かって歩き出した。
「えっ?閣下?」
急に腕を引かれて、アリシティアが戸惑った声を出す。そんな彼女に答える事なく、ルイスは振り返った。
「アルフレード兄上。おおよその話はわかりました。先にアリスと話をさせて下さい」
「……そうだね、その方がいいだろうね。叔父上の許可は貰っておいてあげるから、思うようにしなさい。私もその間に、後先考えずに思いついた事を口にする愚かな弟に、お仕置きをしておこうかな」
アルフレードがアルカイックスマイルを浮かべたのを見て、ルイスは笑った。
「僕の分までお願いします」
短く言い残し、アリシティアを連れたルイスは王太子の執務室を後にした。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
2,521
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。