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第二章

42.悪魔との誓約と記憶の中にしかない国1

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 嵐が去った翌日。
大気は限りなく澄み、爽やかな風が吹き抜けていく。木々の葉から零れ落ちた小さな水滴は、キラキラと陽光を反射していた。

 いつもよりも高く見える青い空の下、アリシティアは馬車を降りた。僅かに湿気を含む風に、青紫がかった銀糸の髪が揺れる。未だ雨に濡れた石畳を歩き、アリシティアが宮殿へ足を踏み入れると、廊下を行き交う人達の視線が彼女へと向かう。だが、そんな事は気にもとめず、彼女は王弟ガーフィールド公爵の執務室へと足を踏み入れた。



「閣下にお願いがあります」

 公爵の執務室に入ると同時に、挨拶すらせずアリシティアが本題を持ち出すのはいつもの事だ。
 白を基調とした、あまり飾り気のない王宮内の公爵の執務室は、その室内にある全ての物が、壁に飾られた幾枚かのソニア・ベルラルディーニの絵画を引き立てる事だけに留意されているかのようだった。ソニア本人はその絵画を「適当に描いた落書き」だと言っていたが、ソニアがその落書きを高額で公爵に売りつけているのをアリシティアは知っている。見た目は優しげでたおやかだが、公爵の侍女兼王家の影兼天才的な芸術家である彼女の性格は、なかなかにちゃっかりとしている。



「良いよ、何?」

 手に持ったペンを走らせながら、ガーフィールド公爵は、抑揚のない言葉を口にした。

「閣下、とりあえずは私の話を聞いてください」

「だから、良いよって言ってるんだけど?」

 公爵はペンを動かしていた手を止めて、アリシティアを見上げた。公爵と視線が合い、彼女は夜明け色の瞳に浮かんだ驚きを隠すように、数度瞬きした。長いまつ毛が目の下に影を落とす。


「え? 聞いて下さるの?」

「聞かないと言っても、君、いつも勝手に話し出す癖に」

「それはそうなのですが…。え?本当に? 何か企んでいらっしゃる?」

 思わずといった風に、アリシティアが警戒心を口にすれば、心外だとでも言うように、ガーフィールド公爵はわざと細めた目をさらに細めた。



「だって君、ヴェルの配下の影を使っただろう?」

 『ヴェル』は影としてのルイスを呼ぶ時の偽名だ。ルイス・エル・ラ=ローヴェルのヴェル。ちなみにアリシティアはアリシティア・リッテンドールのドール。

 王国と王家の影達に偽名を付けるのは、この目の前の王弟、ガーフィールド公爵だ。
偽名なのにそんなに分かりやすくていいのかとアリシティアは常々思っているが、公爵からすると、影の人数が多くて、いざと言うとき偽名をド忘れするよりはマシらしい。

 アリシティアがその話を公爵から聞いた時、自分につけられた『ドール』などという皮肉に満ちた偽名に苛立った。そのせいでつい、「あら、閣下はもう脳の劣化がはじまっているんですね。まあ、そういうお年頃ですから、仕方ありませんね」などと、憎まれ口を叩いてしまった。

 結果、近くでそれを聞いていて、こっそり笑った他の影達と共に、山賊が出没する冬の雪山に放り込まれた。目の前のこの魔王に。まさに口は災いの元というやつだ。

 あまりにも寒かったので、アリシティア達は早々に山賊を壊滅させて、そのアジトを乗っ取り、事なきを得た。
 けれどその時、アリシティアは足の指に霜焼けが出来て、痛くて痒くて大変だった。「絶対に許さない、いつか仕返ししてやる」と、心に誓ったものの、仕返しをするたびに魔王からの倍返しをくらうのだった。




「ルイス様からお聞きになったのですか?」

「いや、ノルからね」

「ああ。私がチューダー伯爵の裏カジノで見つけた男たちの足取りを追ってくれたの、ノルでしたね」

 アリシティアは納得した。ノルは主にルイスについている王家の影である少年だ。
代々王家の影の一族であるディノルフィーノ伯爵家の三男だが、影とは思えないほどに天真爛漫で、自由奔放。けれど敵と対峙したときは、誰よりも残虐な少年だった。

 ちなみにアリシティアが公爵を怒らせてお仕置きを受けるときは、毎回ノルも一緒に公爵からお仕置きを受けている。影につける偽名の件でアリシティアが公爵に嫌味を言ったとき、唯一、声を上げて笑ったのもノルだ。当然のようにノルもアリシティアと共に雪山に放り込まれた。そして、公爵にこっそり仕返しをしようとして、さらに痛い目に合うアリシティアの仲間でもあった。



 公爵は執務机の前から立ち上がり、来客用のソファーに腰を掛けた。それにならうように、アリシティアもその正面のソファーに座る。

「さてドール、こちらの情報を渡す前に、また勝手な事をした言い訳を聞こうか」

「その前に、私との約束を覚えているか、今一度確認させてください」

 アリシティアは真剣な面持ちで、目前の公爵を見た。

「約束? 」

「最も初期に売買された、少年と少女の双子のリーベンデイルの生きた人形の足取りを私が自由に追う許可。そして今後手に入るリーベンデイルの生きた人形に関する情報を私に渡す事」

「ふーん、つまりノルが追った男達は、令嬢誘拐だけではなく、リーベンデイルの生きた人形に関わっていると?」

「ええ。ですから、閣下。もう一度あの時の約束を守ると、私に誓約してください」

「いいだろう。制約魔法を使うか?」

 公爵は一切悩むこともなく同意した。

「いいえ、私は閣下の言葉を信用します」

 アリシティアから見た王弟ガーフィールド公爵は、腹黒で策士で意地悪。それでも公爵は、約束当時9歳のアリシティアの言葉を信じてくれた。そして、初めて出会った日からずっとアリシティアを守ってくれている。彼が何を考えているかはアリシティアにはわからない。それでも、アリシティアが彼を信じるには十分だった。



「いいだろう。あの時君と交わした約束を守ると、メフィストフィリス・テッサ・ベアルの名にかけて誓約しよう」

 彼自身の名前にかけて公爵は誓約した。この国の神殿の教えの中には、神の名にかけて誓ってはならないという約束事がある。

 神は神聖不可侵な存在で、勝手に人がその存在を対価に誓いをたてるなど、許される事ではないからだ。だから彼は自分の名にかけ誓約した。名前は存在そのもの。誓約をたがえるときは、彼自身を失うことを意味する。




「…なんだか誘惑の悪魔と契約してる気分」

 前世でアリシティアは、 “自由すぎて放置されている、魔王の片腕になりたい” と願ったが、女神様の与えてくれた転生特典チートには、その魔王の片腕という願いも含まれているのかもしれない。目の前には、部下に魔王と呼ばれる男がいる。

 不意に思い出した前世に、何となくではあるが、アリシティアはほろ苦い郷愁を漂わせた。彼女の口からぽろりと零れた本音に、公爵は不本意だと言わんばかりにアリシティアを睨んだ。


「君が望んだのに、どうしてそういうこと言うかなぁ」

 公爵がアリシティアに白い目を向けてきた。だが、メフィストフィリスという名が、ゲーテの詩劇にもなった錬金術師ファウスト博士と契約した悪魔を連想させるのだから仕方がない。と、思う。
アリシティアはよく覚えてはいないが、ベアルもソロモン王が率いる悪魔の中にいそうな名前だ。


「まあいいや。それで? 君は悪魔わたしとの契約に何を望む?」

 詳しい理由など興味は無いというかのように、公爵は先にアリシティアの要求を問う。その問いにアリシティアは苦笑した。

 誘惑の悪魔と契約したファウスト博士は、最後には魂を奪われ彼の体は四散したと云う。自分もいつか同じ目に合うのではないのか。そんな考えがアリシティアの脳裏をよぎった。


 
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