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第二章

25.二つの月と二人の騎士様 1

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 見上げた闇夜には、青い月が二つ輝いていた。夜風が銀の髪を揺らし、虫の鳴き声が響いている。その虫の鳴き声に、目を閉じて聴き入る少女がいた。

「……ねぇ、知ってる? 日本人とポリネシア人だけは、虫の鳴き声を左脳で聞いてるんですって。左脳は言語を司るから、虫の鳴き声を『虫の声』として認識するの。だけど、そのほかの国の人々は右脳で虫の声を聞く為に、虫の声を『雑音ノイズ』として認識するんですって」

 高い塔の5階。開かれた窓から、頬にあたる風の心地良さを感じながら、アリシティアは存在そのものが無い国の事を思い出していた。

「へえ…」

 背後から聞こえる抑揚のない相槌の主は、本の文字を追うことに集中していて、アリシティアの話など聞いてはいないようだった。

「私ね、夜に聞く虫の声をとても心地よく感じるの。綺麗な音楽みたいに。私の脳って、今も日本人なのかしらね」

 窓枠に頬杖をついたまま、閉じていた目を開きアリシティアは呟いた。

「……そうかもね」

 短い返事の後、紙が擦れページをめくる音が微かに響いた。



 
 窓から見える夜空には、二つ目の月が空の彼方に浮かんできたばかりで、二つの青い月の光が美しく荘厳な王宮のシルエットを浮かびあがらせ、アリシティアの眼下には絵画のような幻想的な光景が広がっていた。

 春には薄紅色の花が咲き誇り、夏には高く青い空に大きな白い雲が姿を現す。秋の長夜には虫たちが愛を囁き合い、冬には白い綿のような雪が世界を銀色に染める。

 日本と似た四季のある国、リトリアン。
だけど、愛しく懐かしい日本とは違っていた。

「ねぇ、月が綺麗ね」

「……そうね」

「知ってる?日本のとても有名な作家はね、英語で『I love you』と告白するシーンを日本語に訳す時に、貴方を愛していますと訳さず、『月が綺麗ですね』と訳しておけば良いと言ったらしいの」

「……ふうん?」

 ぺらりと本のページをめくる音が、虫の鳴き声に混ざって微かに響いた。

「日本人はね、愛してるなんて直接的な表現は殆ど使わないの。だから、『月が綺麗ですね』って告白された方が、余計に愛おしく切なく聞こえるの」

「ふうん……」

「……でも、もうよく思い出せないわ。それに、よく考えたら愛の告白なんてした事もされた事もないから、そう思いたいだけかもしれない」

「さっきのは違うの?」

 背後でパタンと本を閉じる音がして、窓辺でぼんやりと月を眺めているアリシティアの背に、後ろから人影がかかった。

「さっきの?」

 振り返る事無く聞き返すアリシティアのすぐ後ろから、低くて心地の良い声が響いた。

「言ったじゃない、月が綺麗ねって」

「それは言葉どおりの意味よ」

「あらそう。確かに、この世界の月も綺麗だけど……なんだか物悲しいわね。なんでかしら?」

「二つあるからじゃない?」

「……そうね。そうかもね」

 窓辺に寄ってきて、ほんの数十秒だけ影絵のような王宮と二つの月を眺めていたベアトリーチェの気配が、アリシティアの背後から消えた。



「……ねぇ、ところでさぁ、人の部屋で勝手に物思いにふけるのやめてくれない?」

 再び椅子に座り、先程まで読みかけていた本を開いたベアトリーチェが、窓辺でセンチメンタルな気分に浸っているアリシティアに苦言を投げかける。

「なに、私がいたら迷惑なの?」

 その言葉に、アリシティアが不貞腐れたような声で反応するも、ベアトリーチェは呆れたように息を吐いた。

「別にいても良いけど、でも私はあんたには構ってあげたりしないわよ?」

「えー、女子会しよー。パジャマパーティーでも良いよ」

「嫌よ。何でこの私があんたとそんなくだらない事しなきゃならないのよ。だいたい、私のベッドはあんたには貸さないわよ? あんたは寝るんならソファーで寝なさい」

「えー、ジェントルマンなオネェさんは、『貴方がベッドを使ってね』って言うもんじゃないの? 唐揚げにマヨネーズまで作ってきてあげたじゃない」

「あんた、唐揚げとマヨネーズごときで私のベッドを強奪する気だったの? それに、それを言うなら私はジェントルマンじゃなくて、レディーよ」

「……へぇレディだったんだ……。てか、『ごとき』って言わないでよ。じゃがいもをひたすらすりおろして片栗粉作るの、腱鞘炎になるくらいすっごく大変だったんだから」

 振り返ったアリシティアの視線の先には、ゆったりとしたシャツのベアトリーチェがいた。胸元を多めにあけ、スラックス姿で、椅子に深く腰をかけて、本の文字を目で追っている。

 サラリとした黒髪は、左胸で緩く結ばれ、長い足を組んでいた。長いまつ毛の影が頬にかかり、切れ長の紫の目は宝石のようで、その造形の全てが完全な左右対象になっている。本のページをめくる、その指先の動き一つ一つまで美しく感じさせる。

 認めたくはない。認めたくは無かったが……

──── ああ、間違いなく、ウィルキウス様だわ。

 アリシティアは目の前に存在する圧倒的な、造形のクオリティを認めるしか無かった。

 小説の中の三人目のヒーローであり、前世のアリシティアの1番のお気に入りであったウィルキウス・ディ=ヴィドー 。現実世界では、ウィルキウス ・ルフス。
小説の中のウィルキウスは、エヴァンジェリンが王家の血を引かない『取替え姫』である事を知った上で、エヴァンジェリンを王位につけた。

 そして、アリシティアを殺した可能性が最も高い男。

 断言はできない。物語の中では、そんな風に匂わされていただけだったから。

 不思議な事に、第二王子エリアスが主役となる番外編では、彼の記憶の中で成長していくアリシティアの姿が出てくる。だが、アリシティアがエリアスの妹だと言う描写はなかった。当然ながら、アリシティアがルイスの婚約者だという事も一切書かれてはいなかったのだが……。

 だから前世のアリシティアは、番外編でエリアスの記憶の中に出てくる少女を、エリアスの初恋の君だと思っていた。

 だが、現実は(多分、高確率で)アリシティアはただの異母妹で、エリアスは単なるシスコンだった。何よりエリアスにはずっと想いを寄せている人がいる。とはいえ、目下その人はアルフレードを全力で追いかけ回しているが……。

 小説では、その人のターゲットはレオナルドだった筈だが、ここでも何故か物語は狂っていた。転生者であるアリシティアもベアトリーチェも関わってはいない筈なのに…。



「ねぇ、私ね、知り合いがとてつもなく少ないの」

「……知ってる」

「で、友達はさらに少ないのよ」

「それも知ってる。王子様と私しかいないわね」

「確かにその通りではあるんだけど、改めてベアトリーチェの口から言われると、凄く嫌な感じだわ。私、めちゃくちゃ寂しい子みたいじゃない」

 しかも、″王子様″ は兄であってお友達枠ではない気もする。
だが、兄とわかる前は、幼なじみの親友でもあったので、否定はしない事にした。

「あんた、基本的にボッチじゃない」

「なんかムカつくわね」

「はいはい。で、何が言いたいの?」

 また紙が擦れる音がした。
ベアトリーチェの綺麗な指が、ページをめくる。ルイスの指は関節が少し太くなっているが、ベアトリーチェの長い指はまっすぐで、爪先まで綺麗にケアされている事に気づく。

「それでね、私新しいお友達を作ろうと思った訳」

「へー、頑張って」

 ベアトリーチェは抑揚のない声で、とことん興味無さそうに答えた。

「もう、心がこもってない!! まあいいわ。そういう訳でメイド服に着替えるから、奥借りるわね」

 アリシティアはベアトリーチェの返事を待つことなく、手にうさぎのぬいぐるみが鎮座したカゴを持って、部屋の奥にある仕切りの向こう側に入っていく。
うさぎのぬいぐるみ『4代目因幡くん』の首にかかっている懐中時計の針は、9時半を指していた。

「意味がわからないわ……」

 既にアリシティアの姿が消えた室内で、視線を上げることなく完全に興味のない口調で、ベアトリーチェは呆れたように呟いていた。





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