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第三章 父と娘、蓉子の正体

夜の部屋

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九桜院壱郎がさちをおいて去っていった夜、さちはほうじ茶をもって、ぬらりひょんの部屋を訪れた。とてもひとりで過ごせそうになかったからだ。



「あ、あの、ぬらりひょん様、入ってもよろしいでしょうか?」



 自分はぬらりひょんの妻だと堂々と父に宣言したにもかかわらず、部屋を訪問するときは、ひどく緊張してしまう。



「さちか、入るがいい」

「失礼致します」



 ぬらりひょんは今晩、巨大な頭をもつ老人のような姿となり、腕を組んで何事か考え込んでいた。



「あの、ぬらりひょん様……?」

「解せぬな」

「解せぬとは何のことでしょう?」

「おまえの父、壱郎のことよ。あやつは何かに、はっきりと怯えていた」

「怯える? 父がですか? いったい何にですか?」

「それがわからぬから、困っておるのよ。もっと追及したかったが、壱郎は固く口を閉ざしてしまった」



 壱郎はさちが淹れたほうじ茶をすすりながら、「ううむ」と唸り、考え込んでいる。



「あの、ぬらりひょん様。私も父のことでお話ししたいことがあって……」



 さちは父に一瞬だけ抱きしめられ、耳元でささやかれたことを話してみた。



「なるほど、そのようにささやいていたのか。それはおそらく、壱郎の本心であろうな」

「本心ですか? でも父は、私を娘として可愛がってくれたことは一度もないのですよ?」

「ふむ……。ところで、さち。九桜院家では、猫かなにかの動物を飼っていたか?」



 突然、話を切り替えられ、さちは不思議そうな顔で答える。



「猫ですか? そういえば、お姉様が猫を飼っていたと思います。とても気位の高い猫で、お姉様おひとりの時しか、姿を見せなかったと思います」

「猫は一匹だけだったか? 他に動物はいなかったか?」

「私が知る限りでは、他はいなかったと思いますが……」

「そうか……」



 ぬらりひょんは難しい顔で、なおも考え込んでいる。



「あの、ぬらりひょん様。どういう意味ですか? 動物がなにか関係あるのでえすか?」

「ああ、すまぬな。これは人間であるさちに話してもわからぬことだとは思うが……壱郎の体から、わずかな匂いを感じたのだ」

「匂い……? お香の香りはあったと思いますが……」



 父である壱郎と近くで接したことが少ないため、体から感じる匂いといわれても、さちには正直わからなかった。



「香の匂いではないのだ。いや、香の匂いで、うまく隠しているというべきか……」



 さちには、ますます意味がわからない。首を傾げ、きょとんとしているさちを見たぬらりひょんは、小さく笑った。



「これはすまん。さちにはわからぬ話をしてしまった。この話はまた今度にしよう。ところで、さち。壱郎に出した、あの『シチュー』とやら、あれもうまかった! また作ってくれるか?」



 さちの顔が、ぱっと輝いた。



「もちろんでございます! 材料さえ揃えば、またお作りします」

「そうか、楽しみにしておるぞ」

「はい。シチューは私も好きですから、近いうちにまた作ります」

「うむ」



 そこで一度、ぬらりひょんとさちの会話が途切れた。ぬらりひょんは、静かにほうじ茶をすすり、さちもほうじ茶を飲んだ。



(ど、どうしよう。また緊張してきちゃった……。でも言わないと……)



 さちは勇気をふり絞り、今一度、ぬらりひょんに声をかける。



「あの、ぬらりひょん様。今晩もこちらで過ごしてよろしいでしょうか……?」



 ほうじ茶をすすっていたぬらりひょんが、ふと手を止めた。



「今晩は、ひとりでは寝られそうもないか?」

「は、はい……。ひとりだと不安だし、いろいろと考え込んでしまって……」

「ふむ。そうか」



 ぬらりひょんは湯のみをお盆におくと、袂で顔を隠した。すると白くて長い髪がふわりと宙を舞い、整った顔立ちのぬらりひょんが姿を見せた。



「頭でっかちのままでは、さちを抱きしめてやれんからな。さち、こちらへおいで」

「は、はい……」



 さちがおすおずと体を寄せると、ぬらりひょんはさちの腕をとり、軽く引き寄せた。



「あっ」



 さちが軽い声を発した瞬間、さちの体はあぐらをかいたぬらりひょんの膝の上に、ちょこんと座らされてしまった。そのまま背後からさちを抱きしめる。



「あ、あの、ぬ、ぬらりひょん様、これは……」

「今晩寝られぬのはわしも同じだ。だから、おまえの温もりをしばし感じていたいのだ。さちが嫌でなければ、このままここにいておくれ」

「い、いやではございません! で、でもこれは、あの……」

「あの、なんだ?」



 ぬらりひょんの穏やかな声が、さちの耳元にささやいた。さちの胸は高鳴り、顔がどうしようもなく熱くなっていく。



「さちの体は小さいの。わしの腕の中に、すっぽりおさまってしまうではないか……」



 ぬらりひょんはさちの体を温めるように、しっかりと、けれど優しく抱き締めた。背中にぬらりひょんの長身な体を感じ、さちはもう胸から心臓が飛び出そうだ。



(どうしよう、どうしよう。どうしたら、いいの……?)



 さちの頭の中は、熱と混乱でおかしくなりそうだ。



「さち、じっとしておれ。動かれると、くすぐったい」

「は、はい! さちはうごきません」



 動かないように言われたさちは、背中から与えられる温もりに、だんだんと頭が蕩とろけていった。



(ぬらりひょん様の体、あったかい……まるで、お布団みたい……)



しばらくして、さちの口元から、すぅすぅと軽やかな寝息が聞こえてきた。ぬらりひょんの温もりを感じるうちに、本気で寝てしまったようだ。



「寝てしまったか。こういうところはまだ子どもよの」



 ぬらりひょんはさちを横抱きにすると、自らの布団に寝かせてやった。



「しっかり眠るがいい、さち。今日は疲れたであろうからな……」



 幸せそうに眠るさちの頭を撫でてやりながら、ぬらりひょんは再び、さちの父でる壱郎のことを考える。



「壱郎の体には、たしかに匂いがあった。わずかではあったが、獣の匂いがしていた……」



 ぬらりひょんが言う、『獣』とは、蓉子の飼い猫のことではない。猫とはちがう、もっと別の存在のことだ。



「ひょっとしたら、九桜院家は……」



 ぬらりひょんはさちの頭を撫でながら、またひとり、考え込み始めた。

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