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episode2

黒猫タチバナからの逃亡

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 逃げなきゃ! 逃げないと。
 なぜ逃げないといけないのかわからないけど、体が訴えていた。あの女に捕まってはいけないと。恐ろしいことになると。それは本能だった。
 私は猫の姿で懸命に走る。自分でもこんなに早く走れるとは思わなかったけど、夢中で走った。ちらりと後ろを見ると、巨大な黒猫タチバナが私を執拗に追いかけていた。猫とは思えない恐ろしい形相で。なにあれ、怖すぎるっ!

「ミギャー!!」

 待て! と言わんばかりに叫んでいる。やだ、やだ、化け猫怖いっ! 私もある意味化け猫かもしれないけど、あんなに怖くないもん! マジカル・キャットなんだからね、奨さんが命名してくれたんだからっ! 自らを奮い立たせるように、力いっぱい駆け抜けた。タチバナも私に負けないぐらい早かった。しかもあちらのほうが体が大きいぶん、スタミナもパワーもケタ違いらしく、どんどん息切れしていく私とは逆に、タチバナの速度は増していく。どうしよう! このままじゃ追いつかれる、捕まってしまう!
 咄嗟の判断で、建物の隙間に自分の体をねじ込ませ、くぐり抜けた。そこは猫ならどうにか入れそうなわずかな隙間で、巨大な黒猫であるタチバナには無理かもしれないと考えたのだ。案の定、タチバナは隙間に頭は入るものの、逞しい体がアダとなり、胴体が挟まってしまった。

「ニギャ~! ウギャ~オオゥ!!」

 猫とは思えないぐらい、恐ろしい唸り声をあげている巨大な黒猫タチバナ。怖いよっ! あんなのに捕まったら、どんな目にあわせられるかわからない。この隙に逃げよう。
 少しでも遠くに逃げようと、木に飛び乗り、建物の上に乗った時だった。

「ウギャオゥ~ウギャ~」

 不気味な声をあげながら、タチバナが地面に爪を立て、ガリガリと自らの体を引っ張っていく。引っ掻かれた地面に、赤い血がしみ出している。爪が傷つくのも怖れず、必死に挟まった体を抜こうとしているのだ。恐ろしい……。なんて執念なんだろう。アイツが隙間から抜け出すのは時間の問題だ。一刻も早く逃げないと!
 建物の上を飛び越え、疲れた体にムチを打つように、必死に走った。帰るんだ、奨さんが待ってるあの家に。奨さんに抱きしめてもらって、ナデナデいっぱいしてもらうんだから! 大好きな人のところに帰ることだけを望みに、ひたすら走った。ハァハァと息を切らしながら走っていると、後ろから唸り声が聞こえる。

「ミギャー!」

 タチバナだ。もう追い付いてきたの? どうしよう、このままじゃ追いつかれる、捕まってしまう! 疲れきった体で必死に考え、ひとつのことを思いついた。そうだ、人間の姿に戻ろう。そうすれば、タチバナは混乱し、追うのを止めるかも。名案と思ったものの、その考えは間違いだとすぐに気付いた。だって私、着替えを持ってきてない。人間に戻ったら裸、すっぽんぽん、産まれたまんまの姿だよっ! 
 あれこれ考えながら走るうちに、タチバナにどんどん距離を縮められてきてしまった。ダメだ、裸がどうとか言ってる場合じゃない。幸い今は真夜中だ。夜の闇に紛れて、一時ならなんとかごまかせるかも。もはや後ろを振り返る余裕もなく、とあるビルとビルの隙間に降り立つと、首のチョーカーに触れた。疲れた体は熱を帯びて溶けてゆき、きしむように音をたてながら人間の姿に戻った。急いで戻ったから、これまでの変身の中で一番苦痛だった。近くにあったゴミ箱に体を寄せると、身を隠し、息を潜めた。猫の姿の時とは息遣いや気配が違うから、タチバナには追えないはず。どうかお願い、このままいなくなって。裸で夜道に飛び出すわけにもいかず、祈ることしかできなかった。

「ミャ~」

 背後から鳴き声がする。タチバナだ。これまでの恐ろしい唸り声ではなかったけど、不気味な気配で気付いてしまった。うそ、なんで? 私は人間なんだよ、猫じゃないのに、どうしてわかったの? おそるおそる後ろを振り返ると、そこにいたのはあの巨大な黒猫ではなかった。闇に浮かんでいるのは人の影。そのシルエットから長身で逞しい感じの男性だとわかる。闇に紛れているせいか、体のシルエットぐらいしかわからないけど、私と同じように裸みたいだ。

「おまえ、やっぱり人間だったんだな」

 混乱して硬直する私に、巨大な黒猫ではなく、シルエットの男が言ったのだ。え、今話しかけてきた……?

「今日のところは見逃してやる。あの女に猫は捕まえろと命令されたが、人間を捕まえてこいとは指示されてないからな。だか次はないと思え。あの女は蛇より執念深いからな」

 あの女って、大きな帽子を被った女性のこと? 

「早く家に戻れ。できれば2度と会わないことを祈る」

 言い残すように私に話すと、シルエットの男は身を翻し、闇に紛れて姿を消した。

「ミャオン」  

 今度は頭上から声。巨大な黒猫が私の様子を伺っている。ひょっとして、さっきのシルエットの男が黒猫タチバナなの? 呆然とする私の疑問に答えるように、タチバナは鳴いた。

「ニャオ」

 「そうだ」と答えているようだった。尻尾を振りながら、しばし私を眺める。やがて体の向きを変え、闇の中に姿を消した。怖くて、その場に留まることしかできなかった。
 私以外にも猫に変身する人間がいたの? なんで私は追われたの? 蛇より執念深い女って誰のこと? ダメだ、考えがまとまらない。

「助けて、奨さん……」

 そうだ、彼のところに帰ろう。奨さんなら私を受け止めてくれる、抱きしめてくれる。残った力をふり絞るように猫に変身すると、ふらふらしながら歩いた。走る体力は残っていなかった。
 奨さんの家の近くまで行くと、彼は門前で待っていた。

「まゆちゃん! あんまり遅いから心配したんだよ? 何かあったの?」

 ああ、奨さんだ。大好きな人だ。戻ってこれた、帰ってこれたんだ! 
 喜びの声をだそうとしたが、もはやその力さえもなく、私はその場に倒れた。

「まゆちゃん、どうしたの!」

 走り寄った奨さんに抱き上げられ、彼の手の温もりを感じながら、ゆっくりと意識を失った。
 
 
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