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人生最良の日
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「あなた、あなた……昌也さん……」
ソファーに座る昌也は、遠くから聞こえる有美子の声を聞いていた。
ゆっくりと目を開けると、すっかり頭髪が白くなった有美子が、心配そうに昌也を見ていた。
「有美子……? 自慢の黒髪はどうしたの?」
目の前にいる有美子は、確かに自分の妻だったが、その顔にはくっきりとした皺があり、髪の色も白かった。昌也の肩におく有美子の手も、皺がよっている。その顔は変わらず美しいと思ったが、今の有美子はどう見ても老婆だ。
「あなたこそ、髪の毛はもう真っ白よ。『夫婦仲良く共白髪で生きていこう』って言ったのは、昌也さんだもの」
「え……」
驚いた昌也は、自分の手を見てみた。その手は有美子と同じく皺がよっていて、老人の手そのものだった。皺とシミがある自らの手を見た昌也は、やっと気が付いた。
「ああ、僕はまた、定年退職した日に記憶が戻っていたんだね……」
有美子が哀しげな微笑みを浮かべた。
七十歳をとっくに超えた昌也は、少しずつ記憶が曖昧になり始めていた。昌也にとって定年退職した日は忘れることのできない人生最良の日。そのためか、時折記憶が退職した日に戻っていってしまっていた。
定年退職した日と同じように花束を抱え、「僕もこれでようやく定年退職だ」と笑いながら家の中に入ってくる。
抱えているものは、自分が買ってきた花束であったり、家の中にあった花瓶であったり、庭にある植木鉢だったりした。昌也にとっては、長年勤めていた会社からもらった花束にしか見えてなかった。
有美子は老いた夫の行動を責めることなく、できる範囲で夫の行動につき合った。
「あなた、長年のお勤め、お疲れ様でした」
その言葉を何度、夫に言ったかわからない有美子だった。
「認知症の僕に、付き合ってくれてありがとう、有美子」
白い髪を揺らしながら、妻が穏やかな微笑みを浮かべる。
「あなたはちょっとだけ記憶のお散歩に行ってたのよ。私だって、最近は物忘れが多くなってる。お互いさまよ」
「そうか……」
有美子と話すうちに、少しずつ現在のことを思い出してきた昌也だった。
成人した息子は海外勤務でなかなか日本に帰ってこれないし、娘は遠方に嫁いでいった。二人の子供を心配をかけないように、昌也と有美子は近いうちに住宅型の老人ホームに移り住むことになっていた。
認知症と診断された昌也は、少しずつ記憶が定まらなくなっていた。妻の有美子も足腰が弱くなりつつある。
「なぁ、有美子」
「なぁに? あなた」
有美子が昌也の隣に座り、穏やかな微笑みを浮かべる。
「僕と出会ってくれてありがとう。僕と共に生きてくれてありがとう。いつまで生きられるかわからないから、今ここで伝えておくよ」
「あなた……。私こそ、ありがとう。あなたに出会えて本当に幸せだったわ」
昌也は有美子の皺だらけの手を、ぎゅっと握りしめる。
最後の日も笑顔で、「ありがとう」と言えるなら、平凡でもきっと悪い人生ではないな、と思うのだった。
了
ソファーに座る昌也は、遠くから聞こえる有美子の声を聞いていた。
ゆっくりと目を開けると、すっかり頭髪が白くなった有美子が、心配そうに昌也を見ていた。
「有美子……? 自慢の黒髪はどうしたの?」
目の前にいる有美子は、確かに自分の妻だったが、その顔にはくっきりとした皺があり、髪の色も白かった。昌也の肩におく有美子の手も、皺がよっている。その顔は変わらず美しいと思ったが、今の有美子はどう見ても老婆だ。
「あなたこそ、髪の毛はもう真っ白よ。『夫婦仲良く共白髪で生きていこう』って言ったのは、昌也さんだもの」
「え……」
驚いた昌也は、自分の手を見てみた。その手は有美子と同じく皺がよっていて、老人の手そのものだった。皺とシミがある自らの手を見た昌也は、やっと気が付いた。
「ああ、僕はまた、定年退職した日に記憶が戻っていたんだね……」
有美子が哀しげな微笑みを浮かべた。
七十歳をとっくに超えた昌也は、少しずつ記憶が曖昧になり始めていた。昌也にとって定年退職した日は忘れることのできない人生最良の日。そのためか、時折記憶が退職した日に戻っていってしまっていた。
定年退職した日と同じように花束を抱え、「僕もこれでようやく定年退職だ」と笑いながら家の中に入ってくる。
抱えているものは、自分が買ってきた花束であったり、家の中にあった花瓶であったり、庭にある植木鉢だったりした。昌也にとっては、長年勤めていた会社からもらった花束にしか見えてなかった。
有美子は老いた夫の行動を責めることなく、できる範囲で夫の行動につき合った。
「あなた、長年のお勤め、お疲れ様でした」
その言葉を何度、夫に言ったかわからない有美子だった。
「認知症の僕に、付き合ってくれてありがとう、有美子」
白い髪を揺らしながら、妻が穏やかな微笑みを浮かべる。
「あなたはちょっとだけ記憶のお散歩に行ってたのよ。私だって、最近は物忘れが多くなってる。お互いさまよ」
「そうか……」
有美子と話すうちに、少しずつ現在のことを思い出してきた昌也だった。
成人した息子は海外勤務でなかなか日本に帰ってこれないし、娘は遠方に嫁いでいった。二人の子供を心配をかけないように、昌也と有美子は近いうちに住宅型の老人ホームに移り住むことになっていた。
認知症と診断された昌也は、少しずつ記憶が定まらなくなっていた。妻の有美子も足腰が弱くなりつつある。
「なぁ、有美子」
「なぁに? あなた」
有美子が昌也の隣に座り、穏やかな微笑みを浮かべる。
「僕と出会ってくれてありがとう。僕と共に生きてくれてありがとう。いつまで生きられるかわからないから、今ここで伝えておくよ」
「あなた……。私こそ、ありがとう。あなたに出会えて本当に幸せだったわ」
昌也は有美子の皺だらけの手を、ぎゅっと握りしめる。
最後の日も笑顔で、「ありがとう」と言えるなら、平凡でもきっと悪い人生ではないな、と思うのだった。
了
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