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魔法のことば
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「昌也さん、いい加減にしてよ!」
背中に赤ん坊の娘を背負い、妻の有美子が怒りをあらわにしていた。三歳になったばかりの息子達哉が、泣きそうな顔で有美子の体にしがみついている。
「なんだよ、突然どうしたんだ」
久しぶりの日曜休みの午後、新聞から顔をあげた昌也は、突如怒鳴り始めた妻に困惑していた。
「突然じゃないわよ。前から話してたわよね、会社の人たちと飲みに行くときは早めに連絡してって。昨日だって夕食作って待っていたのに、結局帰ってきたのは真夜中だった」
「仕方ないだろ、男にはいろいろ付き合いがあるんだ」
「そうやって、仕事をいいわけにするのね」
「だって実際そうだから……」
「今日だって達哉との約束を忘れてるわ。それも仕事のせいにするの?」
「達哉と約束なんてしたっけ? あっ……」
有美子にしがみつく達哉の顔をちらりと見た瞬間、昌也の脳裏に息子と話したことが思い浮かぶ。ほんの一週間ほど前のことだった。
食事の席で達哉と動物園に行く約束をしていたのだ。数日前までは確かに覚えていたのだが、昨夜遅くまで飲んでいたため、二日酔いもあって、すっかり忘れてしまった。
「そ、そういえば……」
ようやく約束を思い出してくれた父を、達哉は恨めしそうに見つめている。
「今から準備するよ。それならいいだろ?」
「もうじき三時よ。約束していた動物園の閉園は五時。間に合わないわ」
「そうか……すまん……」
「まったく、もう!」
いたたまれなくなった昌也が素直に謝ったため、有美子もそれ以上追及はしてこなかった。しかし妻が苛立っていることは、荒々しいその仕草から容易に想像できた。
(有美子のやつ、最近怒りっぽいんだよなぁ……。子育てで大変なのはわかるけど)
妻の有美子とは、お見合いを通じての結婚だった。穏やかに微笑む有美子に惹かれ、結婚を決めた。結婚してしばらくは円満な家庭を築いていたが、子どもが生まれた頃から少しずつ不協和音が生じ始めていた。有美子が小さなことで苛立つようになり、昌也に怒りをぶつけることが多くなっていたのだ。
(お見合いのとき、穏やかに微笑んでいたのは幻影だったのかな……)
苛つく妻から逃げるように、昌也は仕事に没頭した。営業活動に力を入れ、寒い冬でも暑い夏でも取引先やお客様へのあいさつ回りを欠かさなかった。勤めていた会社で昌也は少しずつ能力を評価されるようになっていった頃、とある印象的な人と出会った。
「野々原さん、来てくれてありがとう。暑かったろう?」
真夏のある日、昌也は取引先のひとつである、小さな町工場を訪問した。うす汚れた作業着姿の工場長が笑顔で挨拶をしてくれた。
「お世話になっております。山田社長」
いつ訪問しても汚れた作業着を着ている工場長の山田が、その町工場の社長だと知った時は少し驚いてしまった。社長の山田は相手が誰であれ、感謝の言葉と笑顔を欠かさない。工場に勤め始めた若い従業員にも、「ありがとう」と言っている姿を見たのが印象的だった。
取引先とはいえ、この町工場を訪れるのは昌也の小さな楽しみだった。お得意様だからと横柄な態度とる客も多い中、山田は昌也にも笑顔で接してくれるし、些細なことにも、「ありがとう」と言ってくれるからだ。
(でも山田社長はどうしてみんなに、「ありがとう」って言うんだろう?)
ささやかな疑問だったが、社長なら答えてくれそうな気がした。
山田との雑談中、昌也は気になっていたことを聞いてみた。
「あの山田社長、ちょっとお聞きしてもよろしいですか?」
「なんだい?」
「社長はいつも、『ありがとう』という言葉を欠かしませんよね。先ほどだって、わたしがこちらに訪問しただけで、『ありがとう』と仰ってくれましたし」
「うん、そうだね」
「社長の御立場なら、わたしごときに感謝の言葉を伝える必要なんて特にないと思うのですが……」
「『ありがとう』は魔法のことばだからね」
「魔法のことば?」
昌也が聞き返すと、山田はお茶をすすりながら教えてくれた。
「とある寺の坊さんが教えてくれたんだ。『ありがとう』という感謝の気持ちと言葉を忘れていませんか? 『ありがとう』は魔法のことばですよ、ってな。ハッとしたよ。その頃はこの工場を親父から引き継いだばかりでね。社長の立場は親から与えらえたものだし、感謝なんて全くしていなかった。周囲にあるものはあたりまえにあるものじゃない。親父だって俺に期待してくれたから、この工場を俺に継がせてくれたんだ。身内や工場の従業員に、「ありがとう」を伝え始めた頃から、だんだんとみんなの顔が笑顔になった。そしたら俺も笑顔になれた。まさに魔法のことばだったよ」
山田は昔を懐かしむように笑顔を見せる。
「魔法のことば、ですか……」
山田が嘘を言っているとは思えない。しかし、「ありがとう」という言葉ひとつでそれほど人生が変わるとは思えなかった。
「疑ってるだろ、野々原さん。顔に出てるよ」
「す、すみません……」
「かまわんさ。信じる、信じないは君の自由だからな」
穏やかな笑顔を見せた山田は怒ることもなく、お茶をすすっている。
(嘘か本当はともかく、僕の素朴な疑問に山田社長は丁寧に答えてくれた。そのことは感謝しないと)
「お答えいただき、ありがとうございます。山田社長」
「できたじゃないか」
「え?」
山田は湯のみをテーブルに置くと、にかっと笑った。
「君は今、『ありがとう』って俺に言ったろ? それは感謝の気持ちから出た言葉だ。それでいいんだよ」
「感謝の気持ち……なるほど。最初は身近なところからでいいんですね」
「人の人生には様々なことが起こる。でも『ありがとう』って感謝する気持ちだけは忘れないようにしたいよな」
「本当にそうですね。その御言葉、肝に銘じます」
「ははっ、そこまで堅苦しく考えんでもいいよ。野々原さんはまじめだなぁ」
「よく堅物って言われます」
「それだけまじめな人間ってことだよ。これからもよろしく頼むよ、野々原さん」
「はいっ!」
町工場の社長から聞いた言葉は、昌也の人生を少しずつ変えていくことになる。
背中に赤ん坊の娘を背負い、妻の有美子が怒りをあらわにしていた。三歳になったばかりの息子達哉が、泣きそうな顔で有美子の体にしがみついている。
「なんだよ、突然どうしたんだ」
久しぶりの日曜休みの午後、新聞から顔をあげた昌也は、突如怒鳴り始めた妻に困惑していた。
「突然じゃないわよ。前から話してたわよね、会社の人たちと飲みに行くときは早めに連絡してって。昨日だって夕食作って待っていたのに、結局帰ってきたのは真夜中だった」
「仕方ないだろ、男にはいろいろ付き合いがあるんだ」
「そうやって、仕事をいいわけにするのね」
「だって実際そうだから……」
「今日だって達哉との約束を忘れてるわ。それも仕事のせいにするの?」
「達哉と約束なんてしたっけ? あっ……」
有美子にしがみつく達哉の顔をちらりと見た瞬間、昌也の脳裏に息子と話したことが思い浮かぶ。ほんの一週間ほど前のことだった。
食事の席で達哉と動物園に行く約束をしていたのだ。数日前までは確かに覚えていたのだが、昨夜遅くまで飲んでいたため、二日酔いもあって、すっかり忘れてしまった。
「そ、そういえば……」
ようやく約束を思い出してくれた父を、達哉は恨めしそうに見つめている。
「今から準備するよ。それならいいだろ?」
「もうじき三時よ。約束していた動物園の閉園は五時。間に合わないわ」
「そうか……すまん……」
「まったく、もう!」
いたたまれなくなった昌也が素直に謝ったため、有美子もそれ以上追及はしてこなかった。しかし妻が苛立っていることは、荒々しいその仕草から容易に想像できた。
(有美子のやつ、最近怒りっぽいんだよなぁ……。子育てで大変なのはわかるけど)
妻の有美子とは、お見合いを通じての結婚だった。穏やかに微笑む有美子に惹かれ、結婚を決めた。結婚してしばらくは円満な家庭を築いていたが、子どもが生まれた頃から少しずつ不協和音が生じ始めていた。有美子が小さなことで苛立つようになり、昌也に怒りをぶつけることが多くなっていたのだ。
(お見合いのとき、穏やかに微笑んでいたのは幻影だったのかな……)
苛つく妻から逃げるように、昌也は仕事に没頭した。営業活動に力を入れ、寒い冬でも暑い夏でも取引先やお客様へのあいさつ回りを欠かさなかった。勤めていた会社で昌也は少しずつ能力を評価されるようになっていった頃、とある印象的な人と出会った。
「野々原さん、来てくれてありがとう。暑かったろう?」
真夏のある日、昌也は取引先のひとつである、小さな町工場を訪問した。うす汚れた作業着姿の工場長が笑顔で挨拶をしてくれた。
「お世話になっております。山田社長」
いつ訪問しても汚れた作業着を着ている工場長の山田が、その町工場の社長だと知った時は少し驚いてしまった。社長の山田は相手が誰であれ、感謝の言葉と笑顔を欠かさない。工場に勤め始めた若い従業員にも、「ありがとう」と言っている姿を見たのが印象的だった。
取引先とはいえ、この町工場を訪れるのは昌也の小さな楽しみだった。お得意様だからと横柄な態度とる客も多い中、山田は昌也にも笑顔で接してくれるし、些細なことにも、「ありがとう」と言ってくれるからだ。
(でも山田社長はどうしてみんなに、「ありがとう」って言うんだろう?)
ささやかな疑問だったが、社長なら答えてくれそうな気がした。
山田との雑談中、昌也は気になっていたことを聞いてみた。
「あの山田社長、ちょっとお聞きしてもよろしいですか?」
「なんだい?」
「社長はいつも、『ありがとう』という言葉を欠かしませんよね。先ほどだって、わたしがこちらに訪問しただけで、『ありがとう』と仰ってくれましたし」
「うん、そうだね」
「社長の御立場なら、わたしごときに感謝の言葉を伝える必要なんて特にないと思うのですが……」
「『ありがとう』は魔法のことばだからね」
「魔法のことば?」
昌也が聞き返すと、山田はお茶をすすりながら教えてくれた。
「とある寺の坊さんが教えてくれたんだ。『ありがとう』という感謝の気持ちと言葉を忘れていませんか? 『ありがとう』は魔法のことばですよ、ってな。ハッとしたよ。その頃はこの工場を親父から引き継いだばかりでね。社長の立場は親から与えらえたものだし、感謝なんて全くしていなかった。周囲にあるものはあたりまえにあるものじゃない。親父だって俺に期待してくれたから、この工場を俺に継がせてくれたんだ。身内や工場の従業員に、「ありがとう」を伝え始めた頃から、だんだんとみんなの顔が笑顔になった。そしたら俺も笑顔になれた。まさに魔法のことばだったよ」
山田は昔を懐かしむように笑顔を見せる。
「魔法のことば、ですか……」
山田が嘘を言っているとは思えない。しかし、「ありがとう」という言葉ひとつでそれほど人生が変わるとは思えなかった。
「疑ってるだろ、野々原さん。顔に出てるよ」
「す、すみません……」
「かまわんさ。信じる、信じないは君の自由だからな」
穏やかな笑顔を見せた山田は怒ることもなく、お茶をすすっている。
(嘘か本当はともかく、僕の素朴な疑問に山田社長は丁寧に答えてくれた。そのことは感謝しないと)
「お答えいただき、ありがとうございます。山田社長」
「できたじゃないか」
「え?」
山田は湯のみをテーブルに置くと、にかっと笑った。
「君は今、『ありがとう』って俺に言ったろ? それは感謝の気持ちから出た言葉だ。それでいいんだよ」
「感謝の気持ち……なるほど。最初は身近なところからでいいんですね」
「人の人生には様々なことが起こる。でも『ありがとう』って感謝する気持ちだけは忘れないようにしたいよな」
「本当にそうですね。その御言葉、肝に銘じます」
「ははっ、そこまで堅苦しく考えんでもいいよ。野々原さんはまじめだなぁ」
「よく堅物って言われます」
「それだけまじめな人間ってことだよ。これからもよろしく頼むよ、野々原さん」
「はいっ!」
町工場の社長から聞いた言葉は、昌也の人生を少しずつ変えていくことになる。
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