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第一章

水神の子

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 突然荒れ始めた天候は、不思議なことに湖の周りだけを取り囲むように音を響かせていた。まるでこの辺りだけが、別の世界となってしまったかのようだ。
 怖くなった私は、信ちゃんの腕にしがみついた。なだめるように私の背中を支えた彼は、天を見据えて叫ぶ。

「とうさま!?」

 その言葉に応えるように、荒れた空が割れ、ひとすじの光が差し込んだ。光の中に何か大きなものが舞っている。目をこらしてよく見ると……。

「りゅ、龍?」

 それは一匹の龍だった。漫画やアニメでしか見たことがない姿がそこにあり、私達に向かって飛んでくる。
 あっという間に近くまで来ると、くるりとその身を回転させるように、別のものへと変化していく。
 現れたのは、ひとりの大人の男性だった。長い銀色の髪に、湖のように青い瞳。その姿は、信ちゃんとよく似ていた。男性は私を少し見つめた後、信ちゃんの前にふわりと降りたった。

「我が息子、信よ。久しいな」

 この人が、信ちゃんのお父さん……? 彼が人ではないことはその姿からわかっていたけど、まさか龍の子だとは思っていなかった。  

「信、遠き場所からおまえを見守っていた。なにゆえ人の子と、婚姻の約束を交わそうとしているのだ?」
「父様、ぼくは楓と共に生きていきたいのです。楓となら、父様と母様のような夫婦になれます、きっと」
「人は、同じ人としか共に生きられぬ。罪深き存在だからだ。それは信、おまえもよく知っているだろう? それとも父と母の悲劇を、また繰り返すつもりか?」

 信ちゃんの言葉が、ぴたりと止んだ。苦しそうに自分のお父さんを見上げている。

 悲劇? 何のことをだろう? 
 この時の私は、まだ知らなかったのだ。信ちゃんがどんな思いで生きてきたのか、その苦しみと孤独を。
 話の意味がわからない私は、彼の腕にしがみつくことしかできなかった。 

「我が息子よ。おまえは水神であるわたしの子として、いずれ跡を継がねばならぬ。しかし信の心の傷は深い。長き間、子どもの姿のままなのも、傷が深いゆえだ。だからわたしは待った。あやかしたちに世話を頼み、水神としての務めを果たしながら、おまえの心が癒えるのを待ったのだ。その娘との交流で心の傷が癒えたのなら、人と関わったことを責めはせぬ。だが婚姻までは認めぬ」
 
 自らを水神と名乗る信ちゃんのお父さんは、ちらりと私を見た。どうやら私にも、話を聞かせたいようだ。

 信ちゃんが水神の子? いずれ跡を継ぐ? では彼も龍になってしまうの?

 何もかもが驚きで、呆然と信ちゃんを見つめることしかできなかった。

「父様、いえ、父上! わたしは楓のおかげで、自分と向き合うことができるようになりました。成長できるようになったのも、彼女を守りたいと思ったからこそ。楓との絆を断ち切りたくはありません。彼女となら共に生きていけると信じています、どうかご理解ください!」

 信ちゃんは必死に、お父さんを説得しようとしている。状況は理解できなくとも、彼が私を守ろうとしてくれているのは、痛いほど理解できた。
 けれど、信ちゃんのお父さんは表情ひとつ変えることはない。

「何を根拠に信じるというのだ? わたしもかつて人を信じていた。その結果、何がおきた? おまえの母ハナは、人々の願いを背負って湖に身を投じた。そんな健気な娘をわたしは愛した。しかし人々は勝手な誤解でハナをその手にかけたのだそ。今のおまえなら理解できるだろう。人は信じるに値しない生き物だと」

 信ちゃんは何か言おうとするも、言葉が出てこないようだ。口をつぐみ、苦しそうに目をぎゅっと閉じた。

「し、信ちゃん……?」

 今まで「信ちゃん」と呼んでいたけれど、本当はそんなふうに気軽に呼べない、遠い存在だったのかもしれない。
 だけど私にとって、信ちゃんは信ちゃんだ。彼の全てを知っているわけでも、過去を知っているわけでもない。
 そして、私は知っている。泣き虫で意地っ張りで気が強くて、でも本当は誰より優しい彼のことを。
そんな信ちゃんを、私は大好きなんだ。

 信ちゃんを、守りたい──。

 気付けば、私は信ちゃんの腕から離れ、彼の前に歩み出ていた。

「信ちゃんのお父さん、私から話をさせてもらってもいいですか?」
「ほぅ……。人間の娘、わたしに何を話そうと言うのだ?」

 見下すように、ぎろりと私を見つめてくる。こんなに威厳あふれる存在を見たことがない。青い瞳は全てを見通しているかのようだ。嘘なんてすぐに気づかれてしまうだろう。足が、かくかくと震えて止まらない。でも伝えなきゃ。怖くて声が震えても伝えなければ。

「楓、無理するな。父とは話し合うから」

 信ちゃんの手が私にふれた。その冷たくも温かな手に勇気をもらえた気がした。

「大丈夫。ちゃんと私の気持ちを話すから。がんばるね!」

 信ちゃんに向かって、にこっと笑顔を見せる。少しひきつっていたかもしれないけれど、体の震えは止まった。

「わかった、ぼくはここで見守っているから」
「うん!」

 私に何ができるかわからない。何もできないかもしれない。それでも何もしないで見つめていることなんて、できない。彼を守るんだ。大切な人を、これ以上失いたくないもの。


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