一途な執愛に囚われて

樋口萌

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救い

十三話 下

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十三話 下




 翌朝、チェックアウトを済ませて外でぐるぐる歩き始める。色んな店に入り、服を買っては、また店に入っていく。デパートに入ったトイレで、買った服に着替える。ウィッグと伊達だて眼鏡をつけて高級ホテルへ移動した。
 今度こそ万全だと思い込んでいた。
 新しいホテルにチェックインしたその日に晴から連絡がきて、『まだ来ないのか』と急かしてきた。『お土産を買って帰るから許してくれ』とホテル内で有名なスイーツを写真に撮って送った。『それならいいけど』とすぐに返事がきて蓮はその場で笑った。
 けれど、その翌日。紙袋が、また届けられた。
 今度は郵便物として部屋に運ばれていた。俺宛に届く郵便物なんてここに届くはずがない。送られてきたものは家の住所ではなく、ホテル名と止まった日付、俺の名前が書かれているということだ。本来なら家の方に真っ先に届く。つまり、この中身は写真だと開けなくてもわかった。
 ホテルを変えたところで意味がないと言わんばかりのおびただしい量の写真。
 蓮は結局、郵便物の中身を確認するため紙袋を開けた。写真には晴と俺が写っている。またよく行くバーの写真まであった。百枚近くあっただろうか。
 蓮は精神的疲労が大きすぎてしばらくベッドに横になっていた。
 場所がバレるのが早すぎる。誰か雇っているに違いない。そして多分、一緒のホテルに泊まっている。それぐらいその手にベテランの人でなければどうやって知るというんだ。
 考えれば考えるほど近くにいるんじゃないか。隣で息を潜めてるんじゃないかと戦慄せんりつする。もしくは向かいのホテルで写真を撮っているのだろうか、と来た時からずっとカーテンを閉め続けている窓を睨みつけた。
 怖い。得体が知れなくて、幽霊のような存在に怯えているようなものだ。
 けれども送ってきているのは間違いなく紙谷だ。どんな手を使ったかは知らないが、こうして今も俺を嘲笑っているんだろう。
 蓮はふつふつと沸騰してきた感情についに蓋ができず、爆発する。
「これ以上好き勝手するつもりなら俺も我慢する必要ねぇよな」
 枕を思いっきりベッドの上に叩きつけた。
 相手は人。何年も俺を苛ませる憎き紙谷喜章。盗撮したであろう大量の写真。インターホンの録画。今までの会話の録音機。証拠になるもの全て揃えて、パソコンにも移し、バックアップも完璧にしておいた。
 いい加減、終止符を打つべきだ。紙谷との因縁いんねんも、晴の恋にも。
 蓮はそっと枕を拾い、ぽんぽんと撫でて元の位置へと戻す。それから新曲作りへと机に向かった。また送られてきた郵便物に目もくれず、曲作りに没頭した。


 
 無心で作り続け、あっという間に週末の日になった。いつも通りライブをする蓮は終わりがけに声を上げた。
「新曲を今作っている最中なので楽しみに待っていてください」
 珍しく語ったことでライブハウスは悲鳴を上げる人や雄叫びを上げる人で耳がキーンとなった。
 待っていてくれる人がいる。楽しみに涙を流す人がいる。幸せそうに笑っている人がいる。それだけで蓮の足を動かす気力になる。
 ふと蓮はライブ中に見た晴に首を傾げる。今日の晴はどこか不機嫌そうだった。曲を聴いてるときは和やかそうだったが、目が合うとぐっとなにかを堪えるような表情をしていた。
 蓮は晴に対して心の整理がまだついておらず、目をすぐに逸らしてしまった。合ったのに。嬉しいはずなのに。今になって恥じらいを持つことが烏滸おこがましいように思えてならなかった。
 

 荷物を持って、スタッフに挨拶をしながら廊下を歩いていく。裏口で待っているであろう男と対決するため、帽子も被らず、眼鏡を取る。RENとして凛とその場に足を進めた。
「待ってました。今日は珍しくお喋りされたようで」
 相変わらず全身真っ黒な格好で待っていた。長身で細身な紙谷はまるで本物の死神に見えた。
御託ごたくはいい。俺はお前と一切関わらない」
「と、言いますと断るんですね。こんなにも熱心に口説いているのに」
「脅してるの違いだろう。それに熱心だと? これで待ち伏せて俺を脅しているのは今日で五回目だ。違うか」
「待ち伏せていたのは今日で四回目ですが、下調べでここに隠れてあなたを追ったことを追加で五回目ですか」
「そうじゃねぇかと思ったよ。あの時妙に見られている感覚があった。それに俺はいつもランダムで帰るから他のスタッフがお前に言ったとは思えない」
「私のことよくご存知で、嬉しいです」
 にんまりと半月のように口が歪む。ふふ、と上機嫌に喉を鳴らしながら満足そうにこちらを見ている。
 蓮はそんな紙谷の腹の底が見えず、ただずっと居心地が悪かった。
「郵便物の写真。脅しにしちゃ量が多すぎる。おまえ、なぜそんなに俺を恨む?」
「恨む? なぜ恨む必要があるんですか! あなたは私の、私だけの、天使さまなんです…!」
「は…?」
 一瞬だけ理解ができないまま、目の前の男がどんどん近づいて来る。蓮はこれまでの経緯にゾワっと総毛立つ。
 急いで後ずさるが、裏口の壁に背中をくっつけてしまう。しかもここは道が狭い。迫られればあっという間に捕まる。
「私はあなたを尊いものとして推しているんです。崇高な美しい歌声に、誰もが知ってもらいたい」
 紙谷は肘をついて俺に手を差し伸べるかのようにベラベラと語っているが、その心と行動は真逆で矛盾している。
「あぁ、けれども邪魔してしまうんです。私の邪な想いが。あなたの行く道を止めてしまったんです。けれども後悔はありません。あのままいけばけがらわしいものに弄ばれ、あなたは美しいままではいられなくなるところだったのです」
 息をすると同時に頭が痛くなる話だ。つまり己のエゴのために陥れたというわけだ。
「それで俺を芸能界から去らせた。俺のことが広まらないように、自分だけのものにしようとして?」
「そのような浅ましい考えだけではありません」
 まるで宗教のようだ。俺は教祖様になったことはないけれど、この対応と会話はまさにそれのようで吐き気がする。
「あれからあなたは私に頼ることなく去られてしまって、所在もわからなくなってしまった。けれど、あなたはまた歌い始めた! 私のために…!」
「は?」
「だってそうでしょう。私を忘れられなくて探させるために歌い始めたのでしょう?」
「……」
 蓮は呆れてものも言えなくなった。
 こいつは自分を中心に世界が回ってると勘違いしている。俺がこいつを好きで、そのために歌っていると本気で思っているんだ。探してほしくてまた歌を始めただなんて、冗談じゃない。
「ようやく探したというのに、あなたは蝶のようにひらりとひらりと逃げていく。私を揶揄っているんですか? あなたがどれだけ人を惑わせているのか写真を送ってわからせたというのに…」
「俺はおまえのことなんて眼中にない。失せろ」
 蓮はもう言葉すら交わしたくなかった。こいつのひとりの勝手な妄想でこれ以上振り回されるのはごめんだ。酷いこと言えば幻滅して消えてくれるだろうと思い込んでいた。しかし、それすら逆効果だったようだ。
「またそうやって消えて探させるんですか? そういう遊びが流行っているんですね。それともそういう趣味をお持ちで?」
「いい加減にしてくれ! 俺はおまえなんか興味なければ、存在すら知らない。頼むから消えてくれ。二度と俺の前に姿を現さないでくれ」
 はっきりと拒絶する。元から知らない奴だ。勝手に理想を掲げられ、相思相愛だと妄言を放つ。被害妄想にもほどがある。こいつは本当にありえないほど頭のネジが吹っ飛んだストーカー野郎だ。
「……誰ですか」
「なに?」
「あなたと私の間に入り込んで、あなたをたぶらかした奴はどこの誰だと聞いてるんです‼︎」
 突然声を荒げ、脚に縋りついてきた。蓮はとっさに避け、三歩ぐらい急いで離れた。紙谷は発狂したかのように頭を抱えて地面に擦りつけ始めた。
 蓮はそのヒステリックに近い激情に警察を呼んだ方がいいかもしれないと鞄からスマホを取り出した。
「あの男だ」
 蓮は震える手で番号を打っていくと引き笑うかのような声に顔が引きる。背筋が凍るほど恐ろしい。さらに震える手を押さえるように両手でスマホを構う。
「一ノ宮晴。その男に違いないですよね!」
 勢いよく起き上がってきた紙谷に腕を捕まれ、掛けようとしたスマホが落ちる。
「なんで名前を知ってやがる…」
 うなるように喉の奥から出てきた自分の声に驚いた。けれど、それどころじゃない。こいつ、晴にまで手を出そうとしている。
 紙谷が異常だとついさっき確信したのは、芸能界にいたときに馴れ馴れしく言い寄ってきた人がいた。けれど数週間後、週刊誌に撮られてそのまま姿を見なくなった。記憶を辿たどれば辿るほど不可解なことがあったことに、背中に氷石を置かれたように重く、身が凍るのを感じた。
 蓮はずっと怖ろしい男につき纏われていたことに寒慄かんりつする。
「あの男さえ消せば、またあなたは私の元へ戻ってきますよねぇ」
「ふざけんな! 晴に手なんか出してみろ。おまえを殺してでも許さない」
「あぁ、そんなに…そんなに、惑わされているのですね。あなたとあろう人が、そうなんですね! あぁ! なぜ教えてくださらなかったんですか。いえ、わざとそういう態度を取って惑わしてるんですね……。あなたはどこまで人をダメにすれば気が済むんですか!」
「勝手に勘違いしてんのは、おまえだけだ! いい加減、手を離せ! 晴に手は出させない…!」
「いい加減にするのはあなたの方です。目を覚まして下さい…。さぁ」
 そっと触れられて離さない手が不気味なほど冷たくひどい不快感に襲われる。握っている手がだんだん強まり、痕ができそうだ。
 蓮はずっと手を出すのはまずい、と握っている拳を耐えてさせていた。けれど、どこまで、いつまでこらえればいい。
 晴が触れてくれたままの身体でいたい。その願いは手から腐るように侵食されていく。
(いやだ…っ、身体に触れられるのだけは…!)
 ぐっと目を瞑り、血が出そうなほど心を止めていたときだった。
「兄さん…?」
 暗闇の先で光とともに目に映ったのは、困惑していた晴の姿だった。
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