一途な執愛に囚われて

樋口萌

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家族

二話 

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二話


 


「兄さん…?」
「……?」
 酒が回っているせいか聞こえない。もしくは、周りの声がうるさいせいで聞こえなかったのか。どちらにしても、今の俺では判断に欠ける。
 蓮は酩酊めいていしており、意識が混濁こんだくしていた。ただ青年らしき人が何かを言っているのだけはわかった。フード越しでもわかる。彼は優しい人なんだろう。電柱に今すぐにでも眠りそうな奴に、俺は近寄らないし、話し掛けもしない。しかし、彼はどうやらそれがほっとけないタイプの人間らしい。
(いや待て、そんな都合のいい話じゃねぇだろ)
 蓮は今まで自分が体験してきた嫌な記憶がぼやけながら映像化される。時には、いいカモだと思い込まれ、声を掛けてくる野蛮人。泥酔でいすいをいいことに襲おうとする下衆野郎げすやろうたち。
 思い出すだけでも胸糞悪い話だ。
 しかし、あいにく俺は中学生の頃から荒れていて、喧嘩には強い方だった。ヤンキーだったのかと言われればそうなんだろう。当時の俺は、なにもかもが気に食わなかった。自分の性のことや周りからの意見、そして何より世間の大人が大嫌いだった。今だから思う。あれは、小さいながらも抵抗したのだろうと。だって俺は、それしか、やり方を知らなかった。
 そんなことがあったというのに、彼からは全く不快感がない。むしろなぜだかはわからないが、酷く懐かしむ高揚こうよう感がある。気が遠くなるほどの心地良さに、思わずおぼれかけていた。蓮は声を掛けて来た青年に見覚えがあったからだ。
 
 最後に見た顔は一生忘れられないだろう。あわれむような、けれど今にも泣き出しそうな戸惑ったあの顔。実際あの時はまだ子供だったのだから、無理もない。ただ、哀憐あいれんの情にほだされそうになった。それほどまでに愛おしい子だった。そんなものが、忘れられるはずもない。いつまでもそこにいるかのように今でも頭の隅で鮮明に覚えている。あの頃のままはもちろん、大人になった姿まで勝手に想像してしまうほどだ。なにせ水よりも濃い血に、深く、深く刻み込まれているのだから。
 ただあのときの表情とは真逆で慈悲じひに満ちた優しい顔つきだ。まるでその場に花が咲き、ふわりふわりと舞っているような。
 青年は目線を合わせようとしゃがみ込み、手を差し出してきた。片手にはハンカチまで用意している。
 蓮は顔を難しくする。警戒するのは当たり前だ。ましてや知らない男に簡単にすがるほど馬鹿ではない。けれど——。
 相当なお人好しだ。困っている人がほっとけない奴だ。
(いや…そうじゃないだろ、これ、は)
 蓮は差し伸ばされた手をゆっくりと取り、虚ろな瞳でその人を捉えた。キラキラと真夏の海辺ではしゃいでいるような眩しい光。あいつの笑った顔が一番綺麗だったのが、今も目に浮かぶようで涙が出てくる。
 あぁ、既視感あると思った。なんとなく似てるからだ。
 まともに見えない目で、あやふやな表情から読み取る。なぜ今になってこんなことを思い出すのだろうかと思っていた。身体は明らかに違うが、成長したら確かにこのぐらいで、俺より背は高くなっているだろう。なにより、大きくて温かい手。蓮は愛おしさで胸が締めつけられた。
 包み込むように優しく支えられ、突然心臓を鷲掴わしづかみされたみたいで痛い。
 逢いたくても、きっともうそれはできない。夢のまた夢なのだと覚悟を決めていた蓮はいつのまにか涙腺が緩んでいた。
 それでもきっとはかない。だったらいっそのこと壊してしまえばいいんじゃないか。蓮の頬に瑠璃色に光る涙がつたう。
 蓮は酔っていた。むしゃくしゃしていた日だった。だからこうなってしまったのは仕方がないことだった。
 蓮は泥のような深閑しんかんな瞳に映る、弟の顔に酷似こくじしている青年に抱きついた。
「えっ、あの! ちょっと」
「は…る」
「…ッ!」
 ここに居るはずのない弟の名を呼ぶ。きっと似ているだけの赤の他人。だってこんなところにはいないはずだからだ。そもそも両親がこんな場所には来させない。そう、あの両親が会わせるはずがないのだから。
 だって、新宿ここには俺が居る。それだけで十分な理由だ。
 無意識のうちに身体が勝手に求めてしまった。気持ちを押し殺すことはできても、身体まではそうはいかないようだ。
 抑えきれない蓮は青年の手を引っ張り、触れるだけの口づけをした。
 二度と会うことは無いと思っていた。
 蓮の深海の底のような寂しい瞳から一筋の涙がまた零れる。余計に視界がぼやけてしまい、顔をまともに見れなくなる。はらりと涙が次々と流れていく。止めようにも勝手に溢れ出てくるせいで、正確に彼の顔を認識できなくなった。蓮はそれでも夢中に、必死に唇を合わせた。
 本物とはきっとできない。一生できないんだ。この子には悪いけど、情けでもいいからせめて、なぐさめて貰うのもありだろ。
 酷い裏切りだ、と自分でもそう思った。俺だってできることなら好きな人と身体を合わせたい。激しいセックスをしたい。沢山愛されたい。堂々と愛してると叫びたい。けれど、そんな御伽噺おとぎばなしのような幸せなんて、俺には一生ない。そんなものがあるなら、とっくに報われている。綺麗事だけじゃやっていけない。幼くとも聡かった俺はそれに気づいてしまった。確かに、いつかはと恋する乙女のように純粋な献身を続けていたときもあった。しかし、壊れていくのは俺の心だけだった。自分だけだった。いっそのこと死んでしまおうかとも思った。それぐらい抱え込み過ぎて息ができなくなっていた。一方的な愛ほど痛いものはない。苦しくて、苦しくて、溺れていく日々。毎日、毎日それを永遠に繰り返し溺死できしする。でも、そんなことで負けたくなかった。なにもかも思い通りに動かされている人形みたいで嫌気がさした。だから、叫んでしまえばいいじゃないかと今に至る。まるで穴が開いた隙間にぴったりとピースが埋まったように、すとんとなにかがに落ちた。共感してくれとはいわない。せめて俺のような奴がいるのだと知ってくれさえすればいい。なにかのきっかけになれるはずだと信じて、俺は今もあの場所で叫び続けている。
 長い間合わせた唇を蓮は名残惜しそうに離した。彼の手をやらしく絡めとり、自らの頬に手を添えさせた。男の、太くてたくましいその手にちゅっと濡れた唇を寄せた。熱を帯びた目線を送れば、青年の喉が鳴った。
「家まで送ってくれたら、続きしてやってもいい。どうする?」
「……わかり、ました」
 青年は生娘きむすめのように首と耳だけを真っ赤に染め上げた。彼は蓮の色気にわかりやすく反応してみせた。その反応に蓮は目を見開いた。恥ずかしがる時の反応まで弟と一緒だったからだ。これはもしかしたら運命なのかもしれないとまで蓮は考えていた。
 この人が俺を救ってくれる魔女だったらいいなと本気で願ったくらいに。
 
 かつて美しい美声を持つ人魚姫がいた。ある日彼女は人間の王子に恋をしてしまった。王子が好きで、会いたくて、どうしても人間になりたかった。彼女は魔女との取引で脚を手に入れることができました。綺麗な声を犠牲に。しかし、声も出なければ話すことも愚か、その内なる愛を告げることもできない。結果的に恋も彼女自身も泡となって消えてしまった。
 蓮はまだ捨てきれていない淡い夢に自笑を零す。
 俺も泡になって消えるタイプだな。救ってくれるものは誰もいない。世間に利用するだけされて、淋しい死を迎え入れるだけの哀れな男だ。もし、音楽をしていなかったら、俺も人魚姫のように愛する人の幸せを願いながら海に身を投げていたかもしれない。だが、俺は女ではない。もしかしたらその時点で物語の舞台から降ろされていたのかもしれない。
 だったらもうやることは一つだ。
 自由に、歌い続けること。世間からいないものとして扱うなら、好き勝手に生きさせてもらうさ。
 蓮は家までの道のりを教えると、スマホをしまった。こんなに似ている人はどこにいってもいないだろう。悪い夢でもいい、壊れて動けなくなるよりはいい。そう自分に言い聞かせるように勢いのまま誘った。
  
  
  
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