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しおりを挟む夏独特のむっとした空気は、エアコンの作られた空気より遥かに優しい気がする。
幼いころ、汗をだらだら流しながらお姉ちゃんと一緒に公園で遊んだ記憶を思い出して、懐かしい気分になるのだ。
「でも、日中はさすがに暑いなぁ」
今日の昼間、買い出しに行ったときも暑かった。日差しからは、刺すような痛みさえ感じたほどである。
ひとりでごちながらマンションのドアを出た私は、マンションのエレベータ、その「下」というボタンを押した。
一階で点滅していた表示が、徐々に五階へ近づいてくる。
チン、とレンジのような軽やかな音をたてて、ドアがひらいた。
そこに乗っていた人物に、私は大きく目を見張る。
「みっちゃん……?」
美津子さんがいたことと、そして彼女が纏う壮絶な雰囲気の両方に驚いた。
清楚な印象があった美津子は今や、見る影もなかった。目は眼球が飛び出るほどに見開いて毛細血管が赤く染まっており、艶やかだった髪は痛んでぼさぼさである。
かろうじて美津子さんと判別できたのは、黒縁の眼鏡と右目のしたにある泣きボクロがあったからだ。
まるで、私にクッションを投げつけてきた琴音のよう。
心配になって、私はそっと距離をつめた。
「みっちゃん、久しぶり。最近調子が悪かったって聞いたけど、体調は大丈夫なの?」
エレベータの「開」ボタンを押しながら、私は問う。
美津子さんは、明らかに大丈夫ではなさそうだ。私は美津子さんを部屋まで送り届けることにして、踵を返した。
「お姉ちゃんに会いにきたんでしょ? こっちだよ。新居には初めてくるの?」
「……違う」
「ああ、前にも来たことあるんだ」
答えてから、ふと疑問に思って振り返る。
美津子さんはお姉ちゃんの彼女で、私もよく知っている。けれど、美津子さんはいつまでたっても私に丁寧な言葉を使うので、一線を引かれているところがあった。私も口では「みっちゃん」と呼んでいるけれど、実際心の中では美津子さんと呼ぶほどに。
そんな美津子さんが、丁寧ではない言葉を使うなんて珍しい。
美津子さんは、ふらついて壁にぶつかりながらエレベータを降りた。
「大丈夫? 歩ける?」
「見えたの」
「……見えた?」
「あの男が、帰宅するのを。だからあたし、追ってきたの」
追ってきた?
あの男というのは、雅さんのことだろう。
「雅さんに用?」
「玲奈を奪われる前に、私が殺してやるの」
虚空を見つめ、どこか熱に浮かされたように美津子さんが言う。
そのときになって、初めて私はヤバイものを感じて背筋に冷や汗をかいた。
「……なに、言ってるの」
「殺してやる。私の玲奈を奪ったやつを、玲奈に選ばれた男を、引き裂いてぐちゃぐちゃにしてやる」
「二人は愛し合ってるわけじゃないよ。お姉ちゃんの彼女はみっちゃんなんだよ」
「私は彼女でも、玲奈の夫はあの男なんだから!」
そう叫ぶと、美津子さんは鞄から包丁を取り出した。冷凍包丁なのか、刃の部分がぎざぎざとしている。
息を呑む私の前で、美津子さんは包丁を腹の前で握りしめた。
「私はどうやっても玲奈とは結婚できないのに、あの男は男だってだけで玲奈の隣を歩いていくの。私が欲しかったものを、簡単に手に入れたの。私は玲奈と結婚したい。傍にいるだけなんて嫌。許せない。絶対に許せない!」
いつも冷静な美津子さんが、こんなに取り乱すなんて。
どうしたらいいのか、私にはわからなかった。立ち尽くす私を避けて、美津子さんはマンションの部屋に向かおうとする。
「待って、駄目!」
とっさに美津子さんの肘を引いた。
振り切ろうとする美津子さんに、私はしがみついた。
このまま美津子さんを行かせては駄目だ。雅さんが、殺されてしまう。それだけは絶対に駄目だ。
「お願い、みっちゃん。やめて、考えなおして!」
「邪魔しないで!」
腕に痛みが走った。
包丁の歯が肘の辺りを掠ったのだと理解した刹那、下腹部に重い衝撃を受けて目を見張る。自分の下腹部に埋まる包丁が見えた。腕の傷など気にならなくなるくらいに、ずしりとした重みが下腹部から全身に伝わっていく。
痛い。痛いけれど、我慢できる痛みだった。現実が衝撃すぎて、脳が痛みを感じ取っていないのかもしれない。
私はこう考えていた。
このまま包丁を奪ってしまえば、美津子さんは雅さんを殺しにはいけない。
「あ、あ」
か細い声を出しながら、美津子さんが包丁の柄から手を放した。私は両手で柄を握りしめて、ふらつきながら後ろへとさがる。
美津子さんは大きく目を見張り、ぎょろりとした眼球で私を見ていた。
「……雅さんは、殺させない、から」
うまく言葉がしゃべれない。呼吸も苦しくて、自分の浅い呼吸がやけに大きく聞こえてくる。じんわりと額に暑さのせいではない汗がにじみ、あっというまに玉になって頬を滑り落ちた。
視界が反転した。
意識が強制的にシャットダウンされる。
私の意識は深い闇に吸い込まれていった。
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