愛のカタチ

如月あこ

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 カタン、という音で目が覚めた。
 酷く暑かった。汗でべたべたである。そういえば窓を全開にした状態で眠ったので、エアコンを入れていなかったことに思い至った。
重たい瞼を押し上げ、そっと辺りを確認する。
 スーツ姿の奈良先生が、エアコンのスイッチを握りしめていた。先ほど聞こえた、カタン、という音はエアコンが起動した音らしい。
「おかえりなさい」
「蒸し風呂みたいな部屋で寝るな、干からびるぞ」
 奈良先生は全開だった窓を閉め、ネクタイを緩める。
 時計を見れば、九時を過ぎたところだった。
「……ごめんなさい、また寝てたみたいです」
「そのようだな」
「あ、夕食は食べてきましたか? まだなら一緒に食べませんか?」
「まだだが……五木はどうした」
「彼女の調子が悪いみたいで、そっちに行きました。たぶん、今夜は帰ってこないと思いますよ」
「そうか。とりあえず着替えてくる」
「じゃあ、準備しておきますね」
 奈良先生がリビングを出ていくと、私は大きく伸びをして夕食の支度に取り掛かった。夏野菜のソテーに鶏肉の蒸し焼き、海藻のサラダ、カボチャのスープ……我ながら、結構本格的に頑張ったと褒めたい。
 それらを食卓に並べ、ご飯をよそう。
 そのころになって、奈良先生はいつものラフな恰好で戻ってきた。
 夏休みになってから頻繁にこの新居を訪れているが、こうして奈良先生と二人きりになるのは、EDをカミングアウトされたあの日以来だった。
 私がここに来る日は基本的にお姉ちゃんがいたし、そもそも奈良先生は帰宅が遅いので、そのころには私はすでに帰宅しているということが多いのだ。
 私は少し緊張しながら、奈良先生に言う。
「嫌いなものがあったら残していいですよ」
「とくにない。食うから、箸」
「はい」
 奈良先生専用の黒い箸を渡せば、この前のようにだらりと机に肘をついて食べ始めた。私もその向かい側に座って、夕食に舌つづみを打つ。
「もう夏休みか」
「そうなんです、羨ましいですか?」
「羨ましいっつか、昔が懐かしい。あの頃はよかった、馬鹿ばっかりやってたけどな」
「……やっぱり社会人はしんどいですか」
「まぁ、産婦人科はいろいろとメンタル面できついな」
「たとえば?」
 突っ込んで聞かれるとは思っていなかったらしく、奈良先生は苦い顔をした。
「……例えば、中絶とかな。道具で膣から子どもを引っ張り出すんだ。お前が言ってたように、流れ作業だとでも思わなければ、やってられない。まぁ、流れ作業だと思ったことはないけどな」
 タイムリーな言葉に、息を呑む。中絶とは子どもを下ろすことだとわかっていたけれど、道具で引っ張り出すなんて知らなかった。
 きっと、心身ともに痛くて苦しいことなのだろう。
 琴音はそれに耐えたのだと思うと、胸の奥が痛む。
 呆然とした私を見て、奈良先生は軽く笑った。
「まぁ、事情は人それぞれだ。中絶が必要な場合もある」
「……うん」
「ほかにも聞きたいか」
 私は慌てて首を横に振った。
奈良先生は心なしかほっとした顔をして、話題を変えた。
「そういや、明日は予定あるのか」
「明日? いえ、なにもないですよ。暇人なんです」
「俺も休みなんだ。ちょっと出かけないか」
「先生と一緒に? それってデートですか?」
 何気なく返した返事に、奈良先生は憮然とした。
「男女が二人で出かけることがデートって言うのなら、デートなんだろうな」
「お堅いですね。……なにか買いに行くんですか?」
「レンジだ。炊飯器は五木が買ってきたけど、レンジはまだだろう。キッチンは基本的にお前が使ってるわけだし、ほかに必要なものがあれば買えばいいと思ったんだ」
 なるほど、たしかに電子レンジはまだ購入していない。あったら便利だと思っていたので、奈良先生の申し出は嬉しかった。
「ぜひ一緒に買い出しに行かせてください!」
「ああ」
 夕食を食べ終えて食器を片づけると、私は食卓の椅子に座って肘をついた。奈良先生はソファでくつろいでいる。
 少し前なら、リビングに私がいるだけで、奈良先生はとっとと自室へ引き上げてしまっていただろう。けれど、今はこうして同じ部屋にいてくれる。
 そんなささやかなことが、嬉しかった。
「んふふー」
「どうした、気持ち悪い」
「なんか気を許されつつあるなぁって思ったんです」
「俺がか?」
「はいー」
 奈良先生は照れたように視線を落とすと、「まぁそうだな」と呟きながら頭を掻いた。その仕草が無性に可愛く見えて、思わず微笑んでしまう。
 そしたら目ざとく見つけられて、「なにがおかしい」と睨まれてしまった。
「そういや、帰りは何時だ?」
「終電までに帰れれば大丈夫です。義父、今日から長期出張でいないんで」
「なら、家には誰もいないんじゃないか? たしか、二人家族なんだよな。五木が言ってた」
「はい、私一人ですよ」
「だったら、ここに泊まっていけよ。どうせ明日買い出しに行くんだ、手間がはぶける」
 確かにそうだ。
 この新居には幸い私の部屋があり、帰宅が遅くなってしまったときに二度ほど泊まった経験がある。と言ってもベッドもエアコンもないので、窓を全開にしてお姉ちゃんから借りた布団に包まって眠ったのだが、起きたときは腰が痛かったっけ。
 そのとき使った布団が、まだ部屋にあるはずだ。
「じゃあ、泊まらせてもらいますね」
「ああ。着替えがないなら、また貸してやる」
「大丈夫です。実はこの前に泊まったとき、パジャマを持ってきたので。明日の分の着替えもありますよ」
 自慢げにそう告げれば、奈良先生は苦笑した。
「なら、とっとと風呂入ってこい。もう湧いてるだろ」
「あとで大丈夫です。やはりここは家主の先生からどうぞ」
「……俺のだし汁が湯船に充満するぞ」
「なんですかそれ、全然平気ですよ」
 表現がおかしくて、思わず笑ってしまう。
 結局奈良先生からお風呂に入り、続いて私もお風呂に入った。無地の桃色パジャマに着替え、洗面台で髪を乾かして、お風呂上りのすっきりとした状態でリビングに戻る。
 奈良先生はソファに凭れて携帯電話をいじっていた。
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