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「あ」
「……お姉ちゃん?」
お姉ちゃんが、ドアを開いた状態で制止したのだ。新居なのにゴキブリでも出たのか、ゴキブリってどこにでも湧くよね。と後ろから覗き込むと、三枚タイプ引き戸の樹脂パネルに、ぼんやりと肌色の影が映っているのが見えた。男の人のよう――というか、間違いなく旦那さんだろう。
旦那さんも私たちに気づいているようで、唖然としているのか、動きが静止している。
「……えっと、ここに洗濯機を置くつもり。明後日には届くから。見てわかるようにここはお風呂場よ」
「う、うん」
「じゃあリビングに戻りましょうか」
見なかったことにしたお姉ちゃん。
私はさすがにそうもいかずに、風呂場から出るときに「すみませんでした!」と謝った。声が裏返るのは許してもらいたい。
リビングに戻ると、お姉ちゃんは鞄からチラシのようなものを取りだした。カラフルなそれは、どうやら宅配ピザのチラシのようだ。
さっきの旦那さんだよね? と問う前に、お姉ちゃんが口をひらいた。
「夕食どれにする?」
「え、私作るよ? すぐそこにスーパーあったし……あ」
キッチンを振り返った私は、自分の言葉の無力さに愕然とした。オール電化と思しきコンロはあるが、食器はもちろん包丁もまな板も、冷蔵庫さえない。
これでは何もかも一から買い物をしなければ、夕食は作れないだろう。
「まぁ、のちのち揃えていくつもりよ。さすがにガランドウだったらお客さんを呼んだときに怪しまれちゃうから」
「……そうなんだ」
「そしたらさ! またカルボナーラ作ってよ。愛花のアレすごく美味しいんだからぁ」
にへら、と笑み崩れるお姉ちゃんの言葉が嬉しくて、私は満面の笑みで頷いた。結局ピザを注文することになり、二人でどれにしようかと話し合う。
オーソフドックスなマルゲリータにしようと決めたところで、さっそくお姉ちゃんが携帯電話のボタンをプッシュしはじめた。
「あ、待って! 旦那さんのぶんは?」
「自分で勝手に食べるでしょ」
「でもせっかくピザ注文するんだから、一緒に食べればいいんじゃない?」
「だったら愛花、あいつにピザいるか聞いてきてよ」
「……え。私が? ……面識ないんだけど」
「大丈夫よ、きっと」
なにが大丈夫なのかよくわからないが、お姉ちゃんはソファから動く気がないようで、私は渋々風呂場へ引き返した。
ここで旦那さんの存在をなかったことにして姉妹でピザを堪能してもいいが、今後のことを考えると旦那さんとのあいだに無駄な壁を作りたくないのだ。
風呂場のドアの前で立ち止り、深呼吸をする。
まずノックして、そのあとなんて言おう……? 「ピザ注文するんですけど、一緒にどうですか」かな。あ、自己紹介もしなければ。だったら、「玲奈の妹ですけど、ピザ食べませんか?」がいいかな。
などと考えていると目の前のドアが開いて、上半身裸の男性が現れた。念のために告げておくと、下半身にはちゃんとズボンを穿いている。
まず視界に飛び込んできたのは、割れた腹筋だった。テレビに時折見かける、ボクシングや水泳などのスポーツ選手のようだ。そんな肉体美が、テレビやパソコンの画面を通してではなく、すぐ目の前にある。
頬を染めるのも忘れて、思わずぽかんとしてしまった。
そんな私の頭上から、低い声が降ってくる。
「お前、見覚えあるな」
その声で我に返り、私は慌てて顔をあげる。
「あの、私は玲奈の妹で――」
言葉を途切れさせた。
そこにあった見覚えのある男前な顔に、私のなかで記憶の引っ張り合いが始まる。「学校の先生じゃない? ほら、一年担当イケメンの」「違うって、あの先生顎ひげないじゃん。顎ひげと言えば、今朝買ったパン屋の店員さんかな」「コンビニのバイトくんじゃないの」「あっ、わかった。バスの運転手さんだ!」そんなごたごたしい会話が脳内で数秒繰り返されたのち、やっとのこと正しい記憶を引っ張り出した私は、思わず「あ!」と声をあげていた。
「もしかして、病院の先生、ですか」
この顎ひげには、見覚えがある。
間違いない、昨日琴音と行った産婦人科の医師だ。たしか、奈良先生といったはず。
「ああ。お前、あのときの流れ作業の子か」
どうやら相手も私のことを覚えていたようだ。あまりよろしくない覚え方をされていたのは、その一言から察することが出来た。
奈良先生は面倒くさげに後ろ手でドアをしめると、しかめっ面で私を見下ろしてきた。
「五木の妹か。妹がいるなんて、初耳だ」
五木というのは、お姉ちゃんの養子先に名字だ。
「い、いた、んです」
「そのようだな。それで、俺に挨拶か?」
「はい。あの、それから、ピザを食べないか伺いに……」
「ピザ? いらねぇ」
奈良先生はにこりとも笑みはなく、さっさと踵を返してリビングに入って行った。慌てて後を追うと、奈良先生のしかめっ面が益々持って厳しくなっていた。眉間のしわで紙がはさめそうだ。
「……お姉ちゃん?」
お姉ちゃんが、ドアを開いた状態で制止したのだ。新居なのにゴキブリでも出たのか、ゴキブリってどこにでも湧くよね。と後ろから覗き込むと、三枚タイプ引き戸の樹脂パネルに、ぼんやりと肌色の影が映っているのが見えた。男の人のよう――というか、間違いなく旦那さんだろう。
旦那さんも私たちに気づいているようで、唖然としているのか、動きが静止している。
「……えっと、ここに洗濯機を置くつもり。明後日には届くから。見てわかるようにここはお風呂場よ」
「う、うん」
「じゃあリビングに戻りましょうか」
見なかったことにしたお姉ちゃん。
私はさすがにそうもいかずに、風呂場から出るときに「すみませんでした!」と謝った。声が裏返るのは許してもらいたい。
リビングに戻ると、お姉ちゃんは鞄からチラシのようなものを取りだした。カラフルなそれは、どうやら宅配ピザのチラシのようだ。
さっきの旦那さんだよね? と問う前に、お姉ちゃんが口をひらいた。
「夕食どれにする?」
「え、私作るよ? すぐそこにスーパーあったし……あ」
キッチンを振り返った私は、自分の言葉の無力さに愕然とした。オール電化と思しきコンロはあるが、食器はもちろん包丁もまな板も、冷蔵庫さえない。
これでは何もかも一から買い物をしなければ、夕食は作れないだろう。
「まぁ、のちのち揃えていくつもりよ。さすがにガランドウだったらお客さんを呼んだときに怪しまれちゃうから」
「……そうなんだ」
「そしたらさ! またカルボナーラ作ってよ。愛花のアレすごく美味しいんだからぁ」
にへら、と笑み崩れるお姉ちゃんの言葉が嬉しくて、私は満面の笑みで頷いた。結局ピザを注文することになり、二人でどれにしようかと話し合う。
オーソフドックスなマルゲリータにしようと決めたところで、さっそくお姉ちゃんが携帯電話のボタンをプッシュしはじめた。
「あ、待って! 旦那さんのぶんは?」
「自分で勝手に食べるでしょ」
「でもせっかくピザ注文するんだから、一緒に食べればいいんじゃない?」
「だったら愛花、あいつにピザいるか聞いてきてよ」
「……え。私が? ……面識ないんだけど」
「大丈夫よ、きっと」
なにが大丈夫なのかよくわからないが、お姉ちゃんはソファから動く気がないようで、私は渋々風呂場へ引き返した。
ここで旦那さんの存在をなかったことにして姉妹でピザを堪能してもいいが、今後のことを考えると旦那さんとのあいだに無駄な壁を作りたくないのだ。
風呂場のドアの前で立ち止り、深呼吸をする。
まずノックして、そのあとなんて言おう……? 「ピザ注文するんですけど、一緒にどうですか」かな。あ、自己紹介もしなければ。だったら、「玲奈の妹ですけど、ピザ食べませんか?」がいいかな。
などと考えていると目の前のドアが開いて、上半身裸の男性が現れた。念のために告げておくと、下半身にはちゃんとズボンを穿いている。
まず視界に飛び込んできたのは、割れた腹筋だった。テレビに時折見かける、ボクシングや水泳などのスポーツ選手のようだ。そんな肉体美が、テレビやパソコンの画面を通してではなく、すぐ目の前にある。
頬を染めるのも忘れて、思わずぽかんとしてしまった。
そんな私の頭上から、低い声が降ってくる。
「お前、見覚えあるな」
その声で我に返り、私は慌てて顔をあげる。
「あの、私は玲奈の妹で――」
言葉を途切れさせた。
そこにあった見覚えのある男前な顔に、私のなかで記憶の引っ張り合いが始まる。「学校の先生じゃない? ほら、一年担当イケメンの」「違うって、あの先生顎ひげないじゃん。顎ひげと言えば、今朝買ったパン屋の店員さんかな」「コンビニのバイトくんじゃないの」「あっ、わかった。バスの運転手さんだ!」そんなごたごたしい会話が脳内で数秒繰り返されたのち、やっとのこと正しい記憶を引っ張り出した私は、思わず「あ!」と声をあげていた。
「もしかして、病院の先生、ですか」
この顎ひげには、見覚えがある。
間違いない、昨日琴音と行った産婦人科の医師だ。たしか、奈良先生といったはず。
「ああ。お前、あのときの流れ作業の子か」
どうやら相手も私のことを覚えていたようだ。あまりよろしくない覚え方をされていたのは、その一言から察することが出来た。
奈良先生は面倒くさげに後ろ手でドアをしめると、しかめっ面で私を見下ろしてきた。
「五木の妹か。妹がいるなんて、初耳だ」
五木というのは、お姉ちゃんの養子先に名字だ。
「い、いた、んです」
「そのようだな。それで、俺に挨拶か?」
「はい。あの、それから、ピザを食べないか伺いに……」
「ピザ? いらねぇ」
奈良先生はにこりとも笑みはなく、さっさと踵を返してリビングに入って行った。慌てて後を追うと、奈良先生のしかめっ面が益々持って厳しくなっていた。眉間のしわで紙がはさめそうだ。
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