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第三章 本当の招待客
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かねてより持病で入院していた父の様態が急変したという連絡が、病院から入った。
昨日の見舞いでは笑顔で会話をしていたのに一体どうしたのかと、私と母は最低限の荷物をひっつかんで、急いで病院へ向かった。
父の医療費に財産をつぎ込んでいた私たちに車はなく、バスを使って、病院の最寄りにあるバス停で降りた。
目の前の二車線道路を横断すれば、確実な近道になる。
わかっていたが、私も母も、当たり前のように歩道橋を渡るために歩き出した。こうしている間にも、父は死んでしまうかもしれない。そう思うと苦しくて、今にも涙が溢れそうだった。
このまま何事もなく病院へついていれば、私の未来は変わっていたかもしれない。
突然、肩に衝撃が走ったのは、歩道橋まであと十メートルといったところだった。どん、と突き飛ばされるような衝撃に驚いた私は、踏みとどまる余裕もなく、すぐ隣の道路へ倒れ込んだ。
信号は青。
交通は、決して少なくない通りだ。
そこへスピードを緩めず突進してくる普通乗用車。
私は悲鳴を上げる間もなく、ただ迫りくる車を見つめるしか出来なかった。死ぬ。直観的にそう感じたあとのことは、よく覚えていない。
気がつけば私は歩道へ引っ張り上げられ、私が倒れていた道路には、頭をつぶされた母がいた。タイヤのあとが黒い焼け跡として道路につき、普通乗用車は道路を隔てる中央分離帯に衝突してぺしゃんこになっていた。衝撃でひらいたドアから真っ赤な爪をした手がだらんと飛び出たかと思うと、手首がちぎれて、地面にボタッと落ちる。
母の手は車に敷かれて肉片となり、骨が飛び出ていた。そんな母は、あふれる泉のような深紅の液体の中央にいた。
母の手は肉片になったけれど、赤い爪の手は綺麗なまま落ちている。
ぼんやりとそんなことを考えた。
何も思考が回らなくて、何が起きたのか理解できないまま、私はやってきた救急車に搬送された先で、何が起きたのか説明を受けた。
道路へ飛び出した私の身代わりに、母が車にはねられたという。
それから半日が過ぎたころ、普通乗用車に乗っていた夫婦もまた、搬送先の病院で死亡した。
さらにその半日後には、危篤状態だった父も他界し、私は、現実を受け止めることができないまま、祖父とその友人だという作家先生の手配で、葬儀を行った。
祖父は母方の父で、唯一の身内だった。
私のせいで母が死んだ。私のせいで無実の夫婦が死んだ。
なのに私は夢見心地で、いまいち現実だという実感が持てないでいた。
これが現実であり私が大きな過ちを犯したということを理解したのは、葬儀が終えようとしたときだった。
私より若い、おそらく十歳くらいだろう少女が私の前にやってきて、叫んだのだ。
――『人殺し! わたしのおとうさんとおかあさんを、返して。返してよう!』
髪の綺麗な少女は、大きな目からぽろぽろと涙をこぼして、私を睨みつけた。
いつの間に目の前に来たのかさえ、私にはわからなかった。喪服姿だから、今日の葬儀のあいだ、ずっとここにいたのかもしれない。
――『あんたが死ねばよかったのよ。あんたがいるから、おとうさんとおかあさんは死んだんだわ!』
小さな身体から発する全力の叫びは、獣の咆哮にも似ていた。
周りが慌てて制止したが、幾人ものひとが、彼女の言葉に共感しているこがわかった。それはそうだ。私が道路へ飛び出したから、三人も死人が出たのだから。
葬儀が終えて、祖父の家に転がり込んでからは、本当にただ毎日を過ごすだけになった。罪の意識に苛まれながらも、母が命がけで守った私の命を粗末にはできず、私は漠然とした日々を過ごしたのだ。
大学へは、支払い済みだった大学費を消費するためだけに通った。苦心して自分で貯めた学費だったし、母が幾分か協力してくれたこともあって、無駄にすることができなかったのだ。
最初こそ慰めてくれた友人たちも、表情が抜け落ちた私に関わること自体が苦痛だったようで、ひとり、またひとり、傍からいなくなった。
コンパも、部活も、お洒落も、合コンも、それまで楽しいと思っていたすべてのことに興味を持てなくなった。
ある日、大学のベンチで時間をつぶしていた私に、小奈津が声をかけてくるまで、私の記憶は曖昧で、『存在している』だけの状態だったといえる。
――あんたも、リンコっていうんでしょ?
リンキコナツは、リンコ、と呼ばれることがあるという。確かに私の名前も、リンコと読めなくはないが、わざわざ声をかけてくるほどのことだろうかと、当時はただ迷惑だった。
でも、いつしか、私は小奈津と話すようになった。
連絡先を交換して、休みの日に一緒に出掛けたりもした。
私の自暴自棄は、小奈津との関わりのなかで徐々に弱まり、ついには大学を卒業して祖父の古書屋を継ぐ決意までさせたのだ。
うとうととしていた私は、ゆっくりと瞼をあげた。
すぐ隣には先生が天井を向いて寝ころんでいる。
「……私、寝てました?」
「十分ほどな」
「そうですか。……ねぇ、先生」
「一線を越える超えないの話ならもういい」
「いえ。あの、もしかしたら……四年前の事件が、今回のことに関係があるってことはないですか」
ぴく、と先生の視線が私にむく。
「緑川桜子が死んだのは八年前ですけど。でも」
「きみは、リンキコナツの代わりに来た。だから、きみに罪はない」
「聞いてください。だって、あの招待状に書いてありました。脅し文句で、四年間の秘密を知られたくなかったら、って。ずっと考えてたんです。四年前といえば、私が事故を起こした年です」
先生は、何か言いたそうだったが、結局何も言わなかった。
「招待状の名前こそ小奈津でしたが、内容は私に当てたものかもしれません。実際、招待状をもって島へ来たのは、私ですし」
「……あの遺体の傍にあった文面から察するに、罪を犯したものは裁かれる。そこにリンくんも含まれている、そう言いたいのか」
「はい」
先生は眉間に深すぎる皴を刻み、ぽつぽつと話し始める。
「仮にそうだとして、だからなんだというのだ。すでに犯人の『計画』は始まっており、ここへきたのはきみと私だ」
「でも、小奈津の身代わりじゃなくて、私自身を犯人が恨んでいるのなら……私は、その捌きを、身をもって受けることが必要かもしれません」
「人は誰しも罪を背負って生きている。多かれ少なかれ、とよくいうが、生きるということは罪を犯し続けるということだ」
先生の大きな手が、私の頭を撫でた。
戸惑いがちに、髪をすいてくれる。
「無知は罪だ。きみは己の存在に対する罪を自覚している。じゅうぶんだ」
「……なんだか、今日の先生は優しいですね」
何気なく、思ったままを口にした。
突然、頬をむにむにと摘ままれる。
「ふぇんふぇい!」
「ふん、とっとと風呂へ入って寝ろ」
先生がこうして憮然とちょっかいをかけてくるときは、大抵照れているのだ。私は先生の優しさに感謝して、先に風呂へ向かった。
夜着とタオルを持ってきたが、浴室には備え付けのバスローブとバスタオルがあった。まるでホテルのようである。
私は、バスローブとタオルを退けて、持参した着替えを取りやすい場所に置いた。
風呂とシャワー、トイレが一緒になった風呂場は、狭い。それでも、使うぶんには困らない。私は浴槽に湯をはりながらシャワーを浴びた。
「……リンくん」
「ひっ!」
大きく身体が跳ねた。
がばっと振り返れば、風呂場と脱衣所を仕切るモザイクガラスの向こう側に、先生の影があった。床に座っているようだ。
「び、びっくりさせないでくださいよ」
「一人にはできんからな。ここで待つ」
「……ありがとうございます」
私は手早く髪を洗って、タオルで髪を拭きながら湯船に浸かった。
疲労が、湯に溶けていくような錯覚をおぼえる。身体がじんわりとぬくともって、気を抜くと、意識を飛ばしそうだ。
「先生」
「む?」
「眠いときの瞼って、ロミオとジュリエットみたいですね」
「どういう意味だ」
「くっつきそうでくっつかない」
「……驚くほど面白くないんだが。よもや、きみが戯曲を知っているとは思わなかった。シェイクスピアが好きなのか?」
「まったく知りません。中学の頃の友達が、眠いときの表現に、ロミジュリみたい、って言ってたんです」
「受け売りか」
「先生は読書家ですもんね。本が好きだから、作家になったんですか?」
「読書が好きで文章を書き始めたが、プロとして出版を始めてからは、好き嫌い関係なくあらゆる分野を読む必要に迫られている」
そういえば以前、先生は「面白くない」とぶつぶつ言いながら、ナントカという新人賞で金賞をとったライトノベルを読んでいたことがあった。先生は推理小説作家だが、雑食にあらゆる分野の本を網羅しているのだ。少なくとも私はそう思っていたが、なるほど、プロになると書くだけではなく、読む必要性もあるのか。
「先生は、小説の、どんなところが好きですか?」
何気ない質問だった。とくに、先生に興味があったわけでもない。ただ沈黙をうめるのに、口を出ただけだった。
だが、言ってから、なんて難しい質問をしてしまったんだと後悔した。これを例えるならば、青色のどこが好きなの? と聞いているようなものだ。青いから、とか、青いところ、としか答えられない。
すぐさま質問を変えようとした私に、先生は驚くほどスムーズに返事をくれた。
「視点が固定されている点だろうか。勿論、様々な技法があるが、主人公と同じ目線で物語が進むものを私は好む。なぜだかわかるか? 語り部と同化すると、語り部の文句が読み手のなかに根付いてしまうからだ。物語の中盤になって、語り部とは違う視点を持つ人物が現れる場合が多々ある。そうすると、これまで語り部を通してみてきた情景や人物が、まったく別物のように見えるんだ」
饒舌に語った先生は、ふいに言葉を途切れさせた。
沈黙が下りて、先生を振り返る。間違いなく先生のシルエットがあったので、ほっと胸を撫で下ろした。
「どうかしました?」
「……つまり、すべての物事にはあらゆる側面がある」
先生は、うむ、と何かしら考え込んだようだった。
これが自宅ならば、先生の思考が沈むままに任せるが、なんとなく静まり返った風呂場が奇妙で、私は、先生に話しかけた。
「何を考えてるんです?」
「今回の一件についてだ」
私は視線だけを先生に向けた。
「正直、驚きました。推理作家の先生って、皆、先生みたいに、推理が得意なんですか? それに、最初に見たあの遺体を怖がらなかったのも、先生だけでしたよ」
「本当に怖いのは、生きた人間だからな。私はそれを、身をもって知っている。ただそれだけだ」
低く呟かれた声に、驚いて目を瞬いた。
一瞬、どういう意味かと聞こうとしたが、やめた。立ち入っていいとかよくない以前に、私には、先生の深い場所に関わろうという意志がないのだ。
「正直なところ、先生は、何かわかったんですか? 今回の犯人とか」
「犯人かどうかの核心はない。だが、怪しい者はいる」
私は益々驚いた。
先生は何を考えているかわからないように見えて、よく辺りを観察しているし、他者の感情の変化にも鋭い。そこへ自分自身が加わった途端に、鈍くなるのが難点だが、推理作家もとい探偵としては、十分すぎるほど推察力があるだろう。
「それって、誰か聞いても?」
「あくまで推測段階だ。確証がもてれば、そのときに話そう」
何度か言葉を変えて聞き出そうとしたけれど、先生は、その怪しい人物について教えてくれなかった。私が挙動不審になって勘づかれても困ると思ったのだろうか。なんだか、秘密にされたことに憮然とした私は、先生が風呂へ入っているあいだ、脱衣所で膝を抱えてだんまりを決め込んだ。
先生は何も言わずさっさと風呂を済ませると、持ってきていた着物に着替えて、大きく伸びをした。
お互いに何も言わないまま、ベッドにもぐりこむ。こつんと肩が当たる。仕方がないので、先生の陣地が広くなるように幅をあけてあげた。
「リンくん」
「なんです?」
「この館には、推理小説でいうところの『トリック』が仕込んである」
はっ、と私は先生を振り返った。
天井を見上げる先生の横顔は、いつもながら影のある男前で、髪は枕に広がっていた。
「あのランプとか、絵画のことですね」
「そうだ。ただの面白アイテムだと思うな。館にある品のなかには、小説のクライマックスに用いられる殺人道具もあった」
「えっ、ちょ、それって」
「食堂にあった椅子だな。あそこに座ると、背中から毒針が飛び出す仕掛けになっている。それに、メインディッシュのさらの淵に毒が塗ってあった」
「なんで言わないんですか! っていうか、毒なんてどうやってわかったんです⁉」
「匂いと変色具合だ。よくある青酸カリだな。素人が手に入れることのできる毒薬など限られているからか……いや、それよりも、あえて青酸カリを選んでいるのだろう。なぜならこれもまた、とある小説に出てくる殺人シーンの模倣だからだ」
私は思わず身体を起こした。
ふたりでシェアしていた掛け布団がめくれて、先生が酷く不機嫌な顔をして布団を引っ張る。
「半分は私の布団だ」
「それどころじゃないですっ。今、こうしているあいだにも、誰かが被害にあってるかもしれないんですよ」
先生は、食堂の仕掛けを、気づいていて言わなかった。先生の知識があるからこそ気づけるのだから、教えて貰えただけでも感謝しなければいけないのかもしれない。
けれど、もし、先生が見て見ぬふりをした『トリック』で誰かが被害にあえば、私はとてつもなく後悔するだろう。先生だって、後悔するはずだ。
「リンくん」
先生が私の目を見た。
先生は日ごろから、視線を合わせてこない。誰もいないように、人様の顔を見ないのだ。以前、人の名前と顔を覚えるのが不得手だから、極力他者と関わりたくないのだと言っていた。
そんな人見知りの先生は、私の顔さえまともに見ないのだ。
なのに、こんなときに
先生は、真っ直ぐに私の目を見てくる。
「私は、探偵ではない。しがないただの物書きだ。そして、ただの男でしかない。私は、見ず知らずの者たちを助けようとは思わない。さらにいうと、どうでもいい。誰が殺されようが、死のうが、苦しもうが、関係ない。だが」
先生は、一度大きく息を吸うと、静かに深く吐いた。
「だが、きみだけは守る。私の命に代えても、必ず」
「……え?」
「さっき、きみが話した推理は、概ね間違いではない。此度の事件と、四年前の事故は、おそらく繋がっている。そして、きみの友人が招待状を持ってきたことも偶然ではないだろう」
私は先生の身体に凭れるようにして、身体を乗り出した。
「どういうことですか」
「きみの友人宅へあの手紙が届き、その友人が中身を見て驚く。さて、その友人は、一体どうするだろうか」
「どうって。小奈津なら、真っ先に私に相談してくれます」
「そうだろうな。きみでさえそのくらい推察できることを、此度の犯人がわからないはずがない。リンくん、もしあの招待状が、友人を介してではなく、直接きみのもとへ届いたとしよう。きみは、どうした?」
「え? ……無視します。意味がわからないし」
答えてから、先生の言わんとすることを察した。
私はおおむね無気力に生きており、あらゆるものに興味を持てない。誰に脅されようが、命が危険にさらされようが、私個人のことならば、さして気にしないのだ。四年前に罪の人となった私は、いつ裁かれても仕方がない。いつ死んでもいいと思いながら、日々を過ごしているのだから。
けれど、招待状の受け取り主が私ではなく親友の小奈津だったなら、話しは変わってくる。彼女の悩みを解決するために、私はどんな苦心もいとわないだろう。
「……最初から、私をこの館へ呼び寄せることが、目的だったんですか」
先生は、目を眇めただけで返事はしなかった。それが答えだった。
「私も、ここにいる五人の人たちと同じように、犯人から恨まれた存在……ってことですね。小奈津の代わりに来たと思ってましたが、やっぱり、そうじゃなかった。私は、呼ばれるべくして、館へ来た……そう、ですよ」
「呼ばれるべくして来た、という点に関しては、おそらく、とだけ答えておく」
目の前がチカチカして、脳裏がフラッシュバックした。
母の遺体、父の死、祖父の病室、そして、館のエントランスにあった、バラバラ遺体。
ぞくりとしたものが背筋を駆け上って、思わず先生の胸にしがみつく。
小さく震える私に、先生の手が背中を撫でる。暖かい手だった。
「きみは、私が守る」
先生のその言葉に、私は頷いた。
言葉に隠された、本当の意味も知らずに。
昨日の見舞いでは笑顔で会話をしていたのに一体どうしたのかと、私と母は最低限の荷物をひっつかんで、急いで病院へ向かった。
父の医療費に財産をつぎ込んでいた私たちに車はなく、バスを使って、病院の最寄りにあるバス停で降りた。
目の前の二車線道路を横断すれば、確実な近道になる。
わかっていたが、私も母も、当たり前のように歩道橋を渡るために歩き出した。こうしている間にも、父は死んでしまうかもしれない。そう思うと苦しくて、今にも涙が溢れそうだった。
このまま何事もなく病院へついていれば、私の未来は変わっていたかもしれない。
突然、肩に衝撃が走ったのは、歩道橋まであと十メートルといったところだった。どん、と突き飛ばされるような衝撃に驚いた私は、踏みとどまる余裕もなく、すぐ隣の道路へ倒れ込んだ。
信号は青。
交通は、決して少なくない通りだ。
そこへスピードを緩めず突進してくる普通乗用車。
私は悲鳴を上げる間もなく、ただ迫りくる車を見つめるしか出来なかった。死ぬ。直観的にそう感じたあとのことは、よく覚えていない。
気がつけば私は歩道へ引っ張り上げられ、私が倒れていた道路には、頭をつぶされた母がいた。タイヤのあとが黒い焼け跡として道路につき、普通乗用車は道路を隔てる中央分離帯に衝突してぺしゃんこになっていた。衝撃でひらいたドアから真っ赤な爪をした手がだらんと飛び出たかと思うと、手首がちぎれて、地面にボタッと落ちる。
母の手は車に敷かれて肉片となり、骨が飛び出ていた。そんな母は、あふれる泉のような深紅の液体の中央にいた。
母の手は肉片になったけれど、赤い爪の手は綺麗なまま落ちている。
ぼんやりとそんなことを考えた。
何も思考が回らなくて、何が起きたのか理解できないまま、私はやってきた救急車に搬送された先で、何が起きたのか説明を受けた。
道路へ飛び出した私の身代わりに、母が車にはねられたという。
それから半日が過ぎたころ、普通乗用車に乗っていた夫婦もまた、搬送先の病院で死亡した。
さらにその半日後には、危篤状態だった父も他界し、私は、現実を受け止めることができないまま、祖父とその友人だという作家先生の手配で、葬儀を行った。
祖父は母方の父で、唯一の身内だった。
私のせいで母が死んだ。私のせいで無実の夫婦が死んだ。
なのに私は夢見心地で、いまいち現実だという実感が持てないでいた。
これが現実であり私が大きな過ちを犯したということを理解したのは、葬儀が終えようとしたときだった。
私より若い、おそらく十歳くらいだろう少女が私の前にやってきて、叫んだのだ。
――『人殺し! わたしのおとうさんとおかあさんを、返して。返してよう!』
髪の綺麗な少女は、大きな目からぽろぽろと涙をこぼして、私を睨みつけた。
いつの間に目の前に来たのかさえ、私にはわからなかった。喪服姿だから、今日の葬儀のあいだ、ずっとここにいたのかもしれない。
――『あんたが死ねばよかったのよ。あんたがいるから、おとうさんとおかあさんは死んだんだわ!』
小さな身体から発する全力の叫びは、獣の咆哮にも似ていた。
周りが慌てて制止したが、幾人ものひとが、彼女の言葉に共感しているこがわかった。それはそうだ。私が道路へ飛び出したから、三人も死人が出たのだから。
葬儀が終えて、祖父の家に転がり込んでからは、本当にただ毎日を過ごすだけになった。罪の意識に苛まれながらも、母が命がけで守った私の命を粗末にはできず、私は漠然とした日々を過ごしたのだ。
大学へは、支払い済みだった大学費を消費するためだけに通った。苦心して自分で貯めた学費だったし、母が幾分か協力してくれたこともあって、無駄にすることができなかったのだ。
最初こそ慰めてくれた友人たちも、表情が抜け落ちた私に関わること自体が苦痛だったようで、ひとり、またひとり、傍からいなくなった。
コンパも、部活も、お洒落も、合コンも、それまで楽しいと思っていたすべてのことに興味を持てなくなった。
ある日、大学のベンチで時間をつぶしていた私に、小奈津が声をかけてくるまで、私の記憶は曖昧で、『存在している』だけの状態だったといえる。
――あんたも、リンコっていうんでしょ?
リンキコナツは、リンコ、と呼ばれることがあるという。確かに私の名前も、リンコと読めなくはないが、わざわざ声をかけてくるほどのことだろうかと、当時はただ迷惑だった。
でも、いつしか、私は小奈津と話すようになった。
連絡先を交換して、休みの日に一緒に出掛けたりもした。
私の自暴自棄は、小奈津との関わりのなかで徐々に弱まり、ついには大学を卒業して祖父の古書屋を継ぐ決意までさせたのだ。
うとうととしていた私は、ゆっくりと瞼をあげた。
すぐ隣には先生が天井を向いて寝ころんでいる。
「……私、寝てました?」
「十分ほどな」
「そうですか。……ねぇ、先生」
「一線を越える超えないの話ならもういい」
「いえ。あの、もしかしたら……四年前の事件が、今回のことに関係があるってことはないですか」
ぴく、と先生の視線が私にむく。
「緑川桜子が死んだのは八年前ですけど。でも」
「きみは、リンキコナツの代わりに来た。だから、きみに罪はない」
「聞いてください。だって、あの招待状に書いてありました。脅し文句で、四年間の秘密を知られたくなかったら、って。ずっと考えてたんです。四年前といえば、私が事故を起こした年です」
先生は、何か言いたそうだったが、結局何も言わなかった。
「招待状の名前こそ小奈津でしたが、内容は私に当てたものかもしれません。実際、招待状をもって島へ来たのは、私ですし」
「……あの遺体の傍にあった文面から察するに、罪を犯したものは裁かれる。そこにリンくんも含まれている、そう言いたいのか」
「はい」
先生は眉間に深すぎる皴を刻み、ぽつぽつと話し始める。
「仮にそうだとして、だからなんだというのだ。すでに犯人の『計画』は始まっており、ここへきたのはきみと私だ」
「でも、小奈津の身代わりじゃなくて、私自身を犯人が恨んでいるのなら……私は、その捌きを、身をもって受けることが必要かもしれません」
「人は誰しも罪を背負って生きている。多かれ少なかれ、とよくいうが、生きるということは罪を犯し続けるということだ」
先生の大きな手が、私の頭を撫でた。
戸惑いがちに、髪をすいてくれる。
「無知は罪だ。きみは己の存在に対する罪を自覚している。じゅうぶんだ」
「……なんだか、今日の先生は優しいですね」
何気なく、思ったままを口にした。
突然、頬をむにむにと摘ままれる。
「ふぇんふぇい!」
「ふん、とっとと風呂へ入って寝ろ」
先生がこうして憮然とちょっかいをかけてくるときは、大抵照れているのだ。私は先生の優しさに感謝して、先に風呂へ向かった。
夜着とタオルを持ってきたが、浴室には備え付けのバスローブとバスタオルがあった。まるでホテルのようである。
私は、バスローブとタオルを退けて、持参した着替えを取りやすい場所に置いた。
風呂とシャワー、トイレが一緒になった風呂場は、狭い。それでも、使うぶんには困らない。私は浴槽に湯をはりながらシャワーを浴びた。
「……リンくん」
「ひっ!」
大きく身体が跳ねた。
がばっと振り返れば、風呂場と脱衣所を仕切るモザイクガラスの向こう側に、先生の影があった。床に座っているようだ。
「び、びっくりさせないでくださいよ」
「一人にはできんからな。ここで待つ」
「……ありがとうございます」
私は手早く髪を洗って、タオルで髪を拭きながら湯船に浸かった。
疲労が、湯に溶けていくような錯覚をおぼえる。身体がじんわりとぬくともって、気を抜くと、意識を飛ばしそうだ。
「先生」
「む?」
「眠いときの瞼って、ロミオとジュリエットみたいですね」
「どういう意味だ」
「くっつきそうでくっつかない」
「……驚くほど面白くないんだが。よもや、きみが戯曲を知っているとは思わなかった。シェイクスピアが好きなのか?」
「まったく知りません。中学の頃の友達が、眠いときの表現に、ロミジュリみたい、って言ってたんです」
「受け売りか」
「先生は読書家ですもんね。本が好きだから、作家になったんですか?」
「読書が好きで文章を書き始めたが、プロとして出版を始めてからは、好き嫌い関係なくあらゆる分野を読む必要に迫られている」
そういえば以前、先生は「面白くない」とぶつぶつ言いながら、ナントカという新人賞で金賞をとったライトノベルを読んでいたことがあった。先生は推理小説作家だが、雑食にあらゆる分野の本を網羅しているのだ。少なくとも私はそう思っていたが、なるほど、プロになると書くだけではなく、読む必要性もあるのか。
「先生は、小説の、どんなところが好きですか?」
何気ない質問だった。とくに、先生に興味があったわけでもない。ただ沈黙をうめるのに、口を出ただけだった。
だが、言ってから、なんて難しい質問をしてしまったんだと後悔した。これを例えるならば、青色のどこが好きなの? と聞いているようなものだ。青いから、とか、青いところ、としか答えられない。
すぐさま質問を変えようとした私に、先生は驚くほどスムーズに返事をくれた。
「視点が固定されている点だろうか。勿論、様々な技法があるが、主人公と同じ目線で物語が進むものを私は好む。なぜだかわかるか? 語り部と同化すると、語り部の文句が読み手のなかに根付いてしまうからだ。物語の中盤になって、語り部とは違う視点を持つ人物が現れる場合が多々ある。そうすると、これまで語り部を通してみてきた情景や人物が、まったく別物のように見えるんだ」
饒舌に語った先生は、ふいに言葉を途切れさせた。
沈黙が下りて、先生を振り返る。間違いなく先生のシルエットがあったので、ほっと胸を撫で下ろした。
「どうかしました?」
「……つまり、すべての物事にはあらゆる側面がある」
先生は、うむ、と何かしら考え込んだようだった。
これが自宅ならば、先生の思考が沈むままに任せるが、なんとなく静まり返った風呂場が奇妙で、私は、先生に話しかけた。
「何を考えてるんです?」
「今回の一件についてだ」
私は視線だけを先生に向けた。
「正直、驚きました。推理作家の先生って、皆、先生みたいに、推理が得意なんですか? それに、最初に見たあの遺体を怖がらなかったのも、先生だけでしたよ」
「本当に怖いのは、生きた人間だからな。私はそれを、身をもって知っている。ただそれだけだ」
低く呟かれた声に、驚いて目を瞬いた。
一瞬、どういう意味かと聞こうとしたが、やめた。立ち入っていいとかよくない以前に、私には、先生の深い場所に関わろうという意志がないのだ。
「正直なところ、先生は、何かわかったんですか? 今回の犯人とか」
「犯人かどうかの核心はない。だが、怪しい者はいる」
私は益々驚いた。
先生は何を考えているかわからないように見えて、よく辺りを観察しているし、他者の感情の変化にも鋭い。そこへ自分自身が加わった途端に、鈍くなるのが難点だが、推理作家もとい探偵としては、十分すぎるほど推察力があるだろう。
「それって、誰か聞いても?」
「あくまで推測段階だ。確証がもてれば、そのときに話そう」
何度か言葉を変えて聞き出そうとしたけれど、先生は、その怪しい人物について教えてくれなかった。私が挙動不審になって勘づかれても困ると思ったのだろうか。なんだか、秘密にされたことに憮然とした私は、先生が風呂へ入っているあいだ、脱衣所で膝を抱えてだんまりを決め込んだ。
先生は何も言わずさっさと風呂を済ませると、持ってきていた着物に着替えて、大きく伸びをした。
お互いに何も言わないまま、ベッドにもぐりこむ。こつんと肩が当たる。仕方がないので、先生の陣地が広くなるように幅をあけてあげた。
「リンくん」
「なんです?」
「この館には、推理小説でいうところの『トリック』が仕込んである」
はっ、と私は先生を振り返った。
天井を見上げる先生の横顔は、いつもながら影のある男前で、髪は枕に広がっていた。
「あのランプとか、絵画のことですね」
「そうだ。ただの面白アイテムだと思うな。館にある品のなかには、小説のクライマックスに用いられる殺人道具もあった」
「えっ、ちょ、それって」
「食堂にあった椅子だな。あそこに座ると、背中から毒針が飛び出す仕掛けになっている。それに、メインディッシュのさらの淵に毒が塗ってあった」
「なんで言わないんですか! っていうか、毒なんてどうやってわかったんです⁉」
「匂いと変色具合だ。よくある青酸カリだな。素人が手に入れることのできる毒薬など限られているからか……いや、それよりも、あえて青酸カリを選んでいるのだろう。なぜならこれもまた、とある小説に出てくる殺人シーンの模倣だからだ」
私は思わず身体を起こした。
ふたりでシェアしていた掛け布団がめくれて、先生が酷く不機嫌な顔をして布団を引っ張る。
「半分は私の布団だ」
「それどころじゃないですっ。今、こうしているあいだにも、誰かが被害にあってるかもしれないんですよ」
先生は、食堂の仕掛けを、気づいていて言わなかった。先生の知識があるからこそ気づけるのだから、教えて貰えただけでも感謝しなければいけないのかもしれない。
けれど、もし、先生が見て見ぬふりをした『トリック』で誰かが被害にあえば、私はとてつもなく後悔するだろう。先生だって、後悔するはずだ。
「リンくん」
先生が私の目を見た。
先生は日ごろから、視線を合わせてこない。誰もいないように、人様の顔を見ないのだ。以前、人の名前と顔を覚えるのが不得手だから、極力他者と関わりたくないのだと言っていた。
そんな人見知りの先生は、私の顔さえまともに見ないのだ。
なのに、こんなときに
先生は、真っ直ぐに私の目を見てくる。
「私は、探偵ではない。しがないただの物書きだ。そして、ただの男でしかない。私は、見ず知らずの者たちを助けようとは思わない。さらにいうと、どうでもいい。誰が殺されようが、死のうが、苦しもうが、関係ない。だが」
先生は、一度大きく息を吸うと、静かに深く吐いた。
「だが、きみだけは守る。私の命に代えても、必ず」
「……え?」
「さっき、きみが話した推理は、概ね間違いではない。此度の事件と、四年前の事故は、おそらく繋がっている。そして、きみの友人が招待状を持ってきたことも偶然ではないだろう」
私は先生の身体に凭れるようにして、身体を乗り出した。
「どういうことですか」
「きみの友人宅へあの手紙が届き、その友人が中身を見て驚く。さて、その友人は、一体どうするだろうか」
「どうって。小奈津なら、真っ先に私に相談してくれます」
「そうだろうな。きみでさえそのくらい推察できることを、此度の犯人がわからないはずがない。リンくん、もしあの招待状が、友人を介してではなく、直接きみのもとへ届いたとしよう。きみは、どうした?」
「え? ……無視します。意味がわからないし」
答えてから、先生の言わんとすることを察した。
私はおおむね無気力に生きており、あらゆるものに興味を持てない。誰に脅されようが、命が危険にさらされようが、私個人のことならば、さして気にしないのだ。四年前に罪の人となった私は、いつ裁かれても仕方がない。いつ死んでもいいと思いながら、日々を過ごしているのだから。
けれど、招待状の受け取り主が私ではなく親友の小奈津だったなら、話しは変わってくる。彼女の悩みを解決するために、私はどんな苦心もいとわないだろう。
「……最初から、私をこの館へ呼び寄せることが、目的だったんですか」
先生は、目を眇めただけで返事はしなかった。それが答えだった。
「私も、ここにいる五人の人たちと同じように、犯人から恨まれた存在……ってことですね。小奈津の代わりに来たと思ってましたが、やっぱり、そうじゃなかった。私は、呼ばれるべくして、館へ来た……そう、ですよ」
「呼ばれるべくして来た、という点に関しては、おそらく、とだけ答えておく」
目の前がチカチカして、脳裏がフラッシュバックした。
母の遺体、父の死、祖父の病室、そして、館のエントランスにあった、バラバラ遺体。
ぞくりとしたものが背筋を駆け上って、思わず先生の胸にしがみつく。
小さく震える私に、先生の手が背中を撫でる。暖かい手だった。
「きみは、私が守る」
先生のその言葉に、私は頷いた。
言葉に隠された、本当の意味も知らずに。
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