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第三章 本当の招待客

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 窓の外はとっくに陽が沈んでおり、廊下もまた、ぼんやりとした窓から差し込む月明かり以外に、照らすものはなかった。館へ入ったときに感じた冷気はとっくに霧散しており、私たちがいるのは、廃墟を改造したただの館でしかなく、非日常なことが起こりすぎて、ここが現実ではないような錯覚のなかにいた。
 もしや、これは悪い夢ではないのか。
 そんな考えがつぶさに浮かんだが、瞬きしても覚めない夢だと知ると、現実を受け止めざるを得なかった。

「あ、電気がある。つけるよ」

 壁にスイッチを見つけたシンジが、電気をつけた。
 ほの暗い廊下に、ぼんやりとした、温かみのある明かりがひろがった。
 私たちは今、皆そろって一階にある食堂へ向かっていた。エントランスから左手に折れた広間にいたが、右手側の突き当りが、食堂だということだ。なぜ間取りがわかったかというと、あくびを噛みしめながら起き上がった先生が、広間の壁にかかった上下さかさまの絵画の裏から、館の見取り図を発見したためだ。
 その件について、誰も先生を問い詰めなかったことに、私は心底安堵した。
 先ほどの、推理小説の小道具うんぬんの話を聞いていなければ、先生が犯人扱いされたかもしれないと思うと、私はぞっとせずにはいられなのだ。
 エントランスの死体は、シノザキ刑事と先生の二人がかりで、検視の際に別室へ移動したという。別室というのは、玄関ホール入ってすぐ右手にある、使用人が待機する小部屋だということだった。
 私たちは、あの惨殺遺体があったエントランスを横切るとき、顔を青くしたり目を伏せたりと、出来る限りあの死体を思い出さないよう苦心した。
 もしかしたら腐臭が残っているかもしれないと身構えてもいたが、使用人部屋は密閉されているようで、腐臭はほとんど残っていなかった。気を利かせて換気をしたのだろう、新緑と潮の匂いが広間より濃く感じられて、ほどよい芳香剤となっている。
 たどりついた食堂は、映画の世界でしか見たことがない、上流階級貴族が使用するような部屋だった。
白いテーブルクロスが敷かれた長方形の机が中央に一つ置かれ、八人分の椅子がある。それぞれの席には、白いプレートがたててあった。カタカナで、各招待客の名前が印字されている。
 メインディッシュの乳肉のソテーが各席に置かれている以外はビュッフェ形式らしく、複数の食べ物が、見目麗しく並んでいたが、どれも美味しそうとは思えない。食欲もわかなかった。

「この館には、シェフでもいるのかな」

 シンジがご馳走を目の前に、呆れたように言う。

「冷凍だ。取り寄せで購入できる」
 答えたのは、ゼンヤだ。シンジは「へぇ、詳しいんだね」と口ばかりの返事をしてから、テーブルに近づいて、料理の観察を始めた。シノザキ刑事も、同様だ。
 先生は欠伸をかみ殺しながら、散歩でもするかのように、軽い足取りでテーブルの周りをゆっくりと歩きだした。
 私は、見知らぬ部屋を歩き回る勇気がでずに、入ってすぐのところで立ち止まった。タクマも、私と同じように、身体を強張らせて立ち尽くしている。

「こ、こ、これって。た、食べたら、し、死ぬやつだ。い、いや、す、座ったら、矢が飛び出してきて、心臓にささる、やつかも」
「それも、推理小説にあるの?」
「お、王道だよ」

 タクマは勢いよく頷くと、私を振り返った。途端に顔を赤くして、俯いてしまう。

「ぼ、ぼくは、推理小説が、すきなんだ。さ、桜子も、好きだったんだよ」
「読書家なのね。館へ入ってきたとき、タクマくんも、小説の内容に似てるって、わかってたもの。私、推理小説について詳しくないんだけど、結構種類があるんでしょう?」

 ふいに、タクマが顔をあげる。
 その瞳は、これまでにないほどに、輝いていた。

「そ、そうだよ。僕は、本格推理小説が、好き、なんだ。探偵とか、トリックとか、そういうやつだよ。日本の名探偵といえば、明智小五郎と金田一耕助だけれど、有名になるのもわかるくらい、本当に本当に、面白いんだ。海外文学でいうと、シャーロックホームズやポアロが有名だけれど、僕はオーギュスト・デュパンがもっとも優れた探偵だと思う。シャーロックホームズの原型になった、いわゆる名探偵の先駆者さ。江戸川乱歩も、オーギュスト・デュパンの生みの親である、エドガー・アラン・ポーに影響を受けたことは有名だけれど、影響を受けるということはそれだけ優れた作家に違いないから、きみも、もし未読なら、読んでみると、いいよ」

 タクマの快活な物言いに、私は少なからず驚いた。
 今まで、私は正直、タクマに対していい印象を抱いていなかった。彼は常に小さくなって震えているし、顔色は悪いし、話すときは自信なさげにどもる。そんな彼の姿は見ている側としても、あまり心地よいものではない。
 だが、雄弁に話す彼からは卑屈さなど見られず、年相応の笑顔からは喜びが見てとれた。
 思わず笑みを浮かべた私に、タクマは頬を染めて俯いてしまった。

「ご、ごめん。押し付けがましくて」
「ううん、ありがとう読んでみる。タクマくんは、桜子の恋人だったんだよね」
「う、うん」

 桜子の名前を出した途端、タクマはまた、もとのおどおどしい様子に戻ってしまったが、私は構わず続けた。少しだけ、タクマと仲良くなれた気がしたのだ。

「年頃の中学生で家が隣、しかも二人とも本が好きってなると、当然の流れかもね。私、桜子とは小学校のころに離れたきりで、よく知らないの。中学生の桜子って、どんなだった?」

 私は、小奈津になりきって、さりげなくタクマへ聞く。特別に何かを探り出そうという意図はなく、ただ、こんなふうに皆を――「招待主」や「招待客」を動かす、緑川桜子という存在が、気になったのだ。
 タクマは逡巡したあと、「綺麗なひとだった」と答えた。

「可憐で、知的で、でもどこか影があって。よく本屋で推理小説を買ってたよ。彼女は学校帰りに、本屋と……例の、カンダさんのお弁当屋さんに寄って帰るのが、日課だったんだ」
「一緒に帰ってたの?」
「うん。いつもじゃないけどね。僕は私立の中学へ行ってたから」

 なるほど、だからタクマはシンジを知らないのか。シンジはたしか、桜子が通っていた中学――おそらく公立だろう――の、教師ということだ。

「あっ、おい!」

 ふいにあがった声は、シノザキ刑事のものだ。彼もまたテーブルを確認していた。
 見れば、シノザキ刑事が先生をぎょっとした目で見つめていた。先生は、もぐもぐと口を動かしている。まさかと青くなる私には気づかず、先生は、指先で唐揚げのようなものをひょいとつまんで、口の中へ入れた。

「うまし」
「何がうましだ。毒とか入ってたらどうする!」
「シノザキ刑事。彼は、もしかしたら毒が入っていないことを知っていたのかもしれませんよ。先ほどのランプや絵画の件もありますし」
「あ……そ、そうなのか。おい、作家先生」
「なんだ」
「その料理に毒が入ってないって、どうしてわかった」
「毒が入っていたらそのときはそのときだ、という気持ちで食べれば、毒にあたっても、心の衝撃を弱めることができる」
「適当じゃねぇか! つか、心の衝撃も何も、毒に当たったら死んじまうんだよ!」
「ふむ。とはいえ、さすがに指定席に置いてあるメインデッシュは危険だろうから、手をつけないほうがいい」

 いくつかの料理を味見した先生は、そのなかから複数の料理を皿に取り分けて、私のほうへ持ってきた。

「食べろ」
「お腹、減ってないんです」
「無理にでも押し込んでおけ。もし犯人が抜刀を持って追いかけてきたらどうする。体力がなければ、逃げ切ることができんだろう」

 抜刀をもって追いかけられるところを想像して、ぶるっと震えた(なぜか想像のなかの犯人は、武者鎧を着こんでいた)。
 そんなこと起こるはずがないと思いつつも、実際に起こりえないことが起きているのだから、何が起こっても不思議はない。
 私は促されるまま皿を受け取って、中央の長方形のテーブルではなく、壁際に置いてあった木製の椅子に座った。先生が、テーブルにはつくなと言ったためだ。
 私は、押し込むようにして、先生が取り分けてくれた夕食を食べた。
 やはり食欲はわかなかったが、無理やり飲み込んだ。昼も食べていないし、先生のいうように、体力面を考えて食事はとれるときにとったほうがいいだろう。
 ほどなくして、他の面々も、先生が味見をして無事だった食事だけを皿に取り分けて、食べ始めた。
 鞄には、念のために用意してきた二人分の食事が入っているが、簡易サポート食料なので、満腹感や心の安定といった面では心許ない。
 食べながら、何気なく先生を眺めた。
 先生はまたテーブルの周りをゆっくりと移動している。ふいに、先生がとある場所で足をとめた。誰かの指定席のようだ。
 長い指で、先生はその誰かのプレートを撫でて、にやりと笑った。
 その笑みが、妙に胸に引っかかったのだが、私は、さして気にする必要はないと判断した。先生は祖父の将棋仲間で、私が祖父の家に上がり込む前から、あの家で暮らしている。
 祖父の友人、という事実が、私の意識にフィルターをかけていた。
 先生は此度の「緑川桜子」の招待状とは無関係だ。
 そう、信じてしまっていたのだ。
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